『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』   作:パスカルDX

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第3話 四皇、魔導士と間違われる

第3話 四皇、魔導士と間違われる

 

 

 百獣のカイドウが《化猫の宿》へ墜落してから、三日が経った。

 

 たった三日。

 

 しかし、化猫の宿に暮らす者たちにとって、その三日間は普段の三か月分に匹敵するほど濃密な時間だった。

 

 まず、屋根が壊れた。

 

 壁も壊れた。

 

 寝台が壊れ、扉が壊れ、床が抜け、梁が折れた。

 

 薪は木屑になり、皿は二十三枚ほど減った。

 

 さらに、カイドウ専用として用意された特大の椅子も、使い始めて半日で脚が一本折れた。

 

 本人は何もしていないと主張していた。

 

 ただ普通に座っただけだ、と。

 

 だが、普通に座っただけで家具を破壊する人間を、普通の人間とは呼ばない。

 

「また壊れたわね」

 

 朝の食堂。

 

 シャルルは、脚が一本なくなった椅子を見下ろしながら呟いた。

 

 椅子の横では、カイドウが床へ胡坐をかき、大鍋いっぱいの煮込みを食べている。

 

「脆い椅子だ」

 

「昨日、特別に補強したばかりよ」

 

「補強が足りねェ」

 

「あなたが重すぎるの!」

 

「おれの体重を減らせってのか」

 

「せめて、ゆっくり座りなさい」

 

「ゆっくり座ったぞ」

 

「床が揺れたわよ!」

 

 シャルルの声が食堂へ響く。

 

 だが、もはや誰も驚かなかった。

 

 化猫の宿の者たちは、カイドウとシャルルが朝から口論する光景に慣れつつあった。

 

 食堂の一角では、ウェンディが薬草を煎じている。

 

 湯気を立てる小鍋から漂ってくるのは、いかにも苦そうな匂いだった。

 

 カイドウの鼻が動く。

 

 嫌そうに眉間へ皺を寄せる。

 

「おい、小娘」

 

「ウェンディです」

 

 背を向けたまま、ウェンディが答えた。

 

 もはや反射的な返事である。

 

「まさか、それをおれに飲ませる気じゃねェだろうな」

 

「そのまさかです」

 

「もう傷は治った」

 

「まだです」

 

「昨日も同じことを言ったぞ」

 

「昨日よりは治っています」

 

「なら今日は飲まなくていいだろ」

 

「完治するまで飲んでください」

 

「必要ねェ」

 

「あります」

 

 カイドウは鍋の中の肉を一つ口へ放り込みながら、ウェンディの背中を睨む。

 

 昨日までなら、その視線だけで一般人は震え上がっていただろう。

 

 しかし、ウェンディは振り返りもしない。

 

 小鍋へ蜂蜜を加え、木べらで丁寧に混ぜている。

 

「蜂蜜は多めに入れました」

 

「もっと入れろ」

 

「これ以上入れたら薬じゃなくなります」

 

「酒を入れろ」

 

「駄目です」

 

「少しくらい構わんだろ」

 

「駄目です」

 

「効き目が上がるかもしれん」

 

「下がります」

 

「試してみなけりゃ分からん」

 

「試しません」

 

 すべて即答だった。

 

 カイドウは不満そうに鼻を鳴らす。

 

 シャルルが呆れた顔で彼を見る。

 

「よく飽きないわね」

 

「何がだ」

 

「毎日、同じやり取りをしているでしょう」

 

「小娘が酒を許せば終わる話だ」

 

「あなたが酒を諦めれば、もっと早く終わるわ」

 

「それは無理だ」

 

「どうして、そこだけは即答なのよ」

 

 ウェンディは完成した薬を大きな杯へ注いだ。

 

 カイドウ用に用意された特大の杯である。

 

 以前使っていた普通の杯では、カイドウが一口で飲み干して味が分からないと騒ぐため、昨日、木製のものを新たに作った。

 

 ただし、持ち手には大きく《薬》と刻まれている。

 

 酒と間違えて飲まないようにするためだった。

 

「はい」

 

 ウェンディが杯を差し出す。

 

 カイドウは受け取らない。

 

「……」

 

「飲んでください」

 

「飯の後だ」

 

「もう食べ終わっています」

 

「まだ鍋に残ってる」

 

「それは他の人の分です」

 

「少なすぎる」

 

「三人分は食べました」

 

「おれは一人で三人分ある」

 

「体の大きさだけなら、そうかもしれませんけど」

 

「なら、あと二人分寄越せ」

 

「駄目です」

 

 ウェンディは一歩も引かなかった。

 

 カイドウはしばらく杯を睨みつけた後、面倒そうに受け取る。

 

 鼻を近づける。

 

 やはり苦そうな匂いがする。

 

「本当に蜂蜜を入れたのか」

 

「入れました」

 

「匂いが変わってねェ」

 

「蜂蜜を入れても、薬草の匂いは消えません」

 

「騙してねェだろうな」

 

「そんなことしません!」

 

 カイドウは、戦場へ赴くような表情で杯を傾けた。

 

 一気に飲み干す。

 

 そして、黙った。

 

 ウェンディが首を傾げる。

 

「どうですか?」

 

「……まずい」

 

「昨日よりは甘いでしょう?」

 

「まずいものを甘くしただけだ」

 

「それでも飲みやすくなったはずです」

 

「酒の方が飲みやすい」

 

「比べないでください!」

 

 毎朝恒例となった薬の攻防が終わる。

 

 カイドウは空になった杯を床へ置いた。

 

 少しだけ強く置いたため、床板にひびが入る。

 

 ウェンディの顔が固まった。

 

「カイドウさん」

 

「何だ」

 

「今、床にひびが入りました」

 

「元からだ」

 

「昨日、直したばかりです」

 

「直し方が悪かったんだろ」

 

「また修理代が増えますよ」

 

 カイドウの手が止まる。

 

 修理代。

 

 この言葉は、今のカイドウにとって数少ない弱点だった。

 

 元四皇でありながら、現在の彼には金がない。

 

 この世界の通貨も持っていない。

 

 宿を壊した借金は増え続け、働くたびに新たな被害を出すため、一向に減る気配がない。

 

 昨日など、庭の掃除を任されたにもかかわらず、箒を一度振っただけで砂埃を竜巻のように巻き上げ、洗濯物をすべて森へ飛ばしてしまった。

 

 その洗濯物を回収するため、ウェンディとシャルルは半日を費やした。

 

 しかも、カイドウ本人は「綺麗になっただろ」と満足していた。

 

「……直せばいいんだろ」

 

「自分で?」

 

「板を貼るくらい簡単だ」

 

「昨日、棚を直そうとして真っ二つにしましたよね」

 

「あれは木が悪い」

 

「今日は大工仕事は禁止です」

 

「なら、おれに何をさせる」

 

 カイドウが腕を組む。

 

 シャルルは少し離れた。

 

 彼が腕を組むと、きつい上着の縫い目が裂ける可能性があるからだ。

 

 幸い、今日は音がしなかった。

 

 もっとも、背中にはすでに昨日できた大きな裂け目があり、布で雑に縫われている。

 

「皿洗いなら、少し上達したでしょう」

 

 シャルルが言う。

 

「断る」

 

「どうしてよ」

 

「あれは神経を使う」

 

「当然でしょう。皿は壊れ物なのよ」

 

「敵より面倒だ」

 

「敵と比べないで」

 

「皿は、殴れば壊れる」

 

「敵も殴れば壊れるでしょう」

 

「だから同じだ」

 

「同じじゃないわよ!」

 

 二人の口論が始まりかけた、その時だった。

 

 化猫の宿の扉が勢いよく開いた。

 

「マスター!」

 

 慌てた声とともに、一人の男が駆け込んでくる。

 

 近隣の村に住む農夫だった。

 

 服は泥で汚れ、息を切らしている。

 

 食堂にいた者たちの表情が変わった。

 

 ウェンディもすぐに立ち上がる。

 

「どうしたんですか?」

 

「村の近くに魔物が出たんだ!」

 

 男は肩で息をしながら答えた。

 

「森の奥から、見たこともない大きな獣が降りてきて……畑を荒らしている! 追い払おうとした奴らも、何人か怪我をした!」

 

「怪我人がいるんですか!?」

 

「ああ。村の治療師だけじゃ手が足りない。頼む、ウェンディちゃん! 来てくれ!」

 

「すぐ行きます!」

 

 ウェンディは迷わず頷いた。

 

 薬草の入った鞄を掴む。

 

 シャルルも翼を出し、宙へ浮かんだ。

 

「魔物の討伐は?」

 

 シャルルが尋ねる。

 

「村の自警団が何とか引きつけている。でも、長くは持たない!」

 

 化猫の宿の魔導士たちが立ち上がる。

 

 討伐へ向かう者。

 

 怪我人の治療を手伝う者。

 

 ローバウルは静かに指示を出していった。

 

「ウェンディは怪我人を。魔物の方へは三人ほど向かうのじゃ」

 

「はい!」

 

 ギルドの魔導士たちが返事をする。

 

 その光景を、カイドウは床へ座ったまま眺めていた。

 

「魔物だと?」

 

 低い声で呟く。

 

 シャルルが振り返る。

 

「この世界には、人間を襲う危険な獣がいるのよ」

 

「強いのか」

 

「あなたが想像しているほどではないと思うわ」

 

「なら、つまらんな」

 

 カイドウは再び鍋へ手を伸ばそうとした。

 

 だが、ウェンディがその手を押さえる。

 

「それは、みんなの分です」

 

「細けェな」

 

「それより、カイドウさんはここにいてください」

 

「あ?」

 

「まだ怪我が治っていませんから」

 

「今の話を聞いてなかったのか。もう治った」

 

「治っていません」

 

「戦えねェほどじゃない」

 

「戦わないでください」

 

 ウェンディは真剣な顔だった。

 

「知らない場所ですし、魔物のことも分かりません。それに、カイドウさんが本気を出したら、村まで壊してしまいそうです」

 

 食堂が静まり返る。

 

 誰も反論できなかった。

 

 カイドウは、ゆっくりとウェンディを見下ろす。

 

「おれを何だと思ってやがる」

 

「力加減が苦手な人です」

 

 即答だった。

 

 シャルルが横で小さく頷く。

 

 カイドウのこめかみに青筋が浮かぶ。

 

「小娘」

 

「ウェンディです」

 

「おれはな、国を滅ぼせる力を持っていた男だぞ」

 

「だから心配しているんです!」

 

「国を滅ぼせる男が、村一つ壊さずに済ませられねェと思うのか」

 

「思います」

 

「おい」

 

「だって、薪割りで庭に亀裂を作りました」

 

「あれは薪が多かった」

 

「水汲みで入り口を壊しました」

 

「角が引っかかった」

 

「掃除で洗濯物を全部飛ばしました」

 

「綺麗になった」

 

「皿も割りました」

 

「皿が脆かった」

 

「椅子も壊しました」

 

「椅子が弱かった」

 

「床にもひびを入れました」

 

「床が悪い」

 

「全部、物のせいにしないでください!」

 

 ウェンディの声が響く。

 

 カイドウは口を閉じた。

 

 周囲の魔導士たちは、笑うべきか怯えるべきか迷っている。

 

 大柄で恐ろしい男が、幼い少女に言い負かされている。

 

 しかも、内容があまりにも情けない。

 

「とにかく、カイドウさんは留守番です」

 

「断る」

 

「駄目です」

 

「暇だ」

 

「宿の修理を……」

 

「大工仕事は禁止しただろうが」

 

「そうでした」

 

「なら、おれも行く」

 

「駄目です!」

 

「酒一樽」

 

「何ですか、急に」

 

「魔物を倒したら、酒一樽寄越せ」

 

「話が変わっています!」

 

「報酬だ」

 

「誰も頼んでいません!」

 

「なら、今頼め」

 

「頼みません!」

 

 ウェンディとカイドウが睨み合う。

 

 もっとも、身長差がありすぎるため、ウェンディは首が痛くなるほど見上げていた。

 

 その間に、村から来た農夫が恐る恐るカイドウを見た。

 

「その人は……新しい魔導士か?」

 

「違います!」

 

 ウェンディとシャルルが同時に否定した。

 

「おれは海賊だ」

 

 カイドウが答える。

 

 農夫は首を傾げた。

 

「海賊?」

 

「海の盗賊よ」

 

 シャルルが説明する。

 

「でも、この辺りに海はないぞ」

 

「だから今は無職です」

 

「白狸」

 

「事実でしょう」

 

 カイドウが立ち上がる。

 

 それだけで、農夫は一歩後ずさった。

 

 圧倒的な体格。

 

 鋭い目。

 

 二本の角。

 

 どう見ても、一般人ではない。

 

「魔物はどっちだ」

 

「あ、あっちの村だが……」

 

「カイドウさん!」

 

 ウェンディが彼の腕を掴む。

 

 だが、カイドウは止まらない。

 

 そのままウェンディを引きずりながら歩き始める。

 

「待ってください!」

 

「お前も行くんだろ」

 

「行きますけど、カイドウさんは駄目です!」

 

「お前だけ行かせる方が面倒だ」

 

 その言葉に、ウェンディの動きが止まる。

 

「え?」

 

「お前が死ねば、おれの治療をする奴がいなくなる」

 

 カイドウは振り返らずに言った。

 

「それだけだ」

 

 ウェンディは、しばらく黙った。

 

 シャルルが片目を細める。

 

「素直じゃないわね」

 

「何がだ」

 

「心配だからついていくと言えばいいでしょう」

 

「誰が心配してる」

 

「今の言い方で誤魔化せると思っているの?」

 

「うるせェ」

 

 カイドウは鼻を鳴らす。

 

 ローバウルは、その様子を静かに見ていた。

 

「行ってくるとよい」

 

「マスター!」

 

 ウェンディが振り返る。

 

「カイドウさんは怪我をしているんですよ」

 

「本人は行く気のようじゃ。それに、留守番をさせた方が宿が壊れそうじゃからのう」

 

「それは……」

 

 否定できなかった。

 

 カイドウを一人で残せば、酒蔵を探して建物を壊す可能性がある。

 

 実際、昨日もウェンディたちが買い出しへ出た間に、隠されていた酒を見つけようとして物置の壁を三枚剥がしていた。

 

「ただし」

 

 ローバウルがカイドウを見る。

 

「村を壊してはならんぞ」

 

「分かってる」

 

「畑もじゃ」

 

「分かってる」

 

「家もじゃ」

 

「分かってる」

 

「人もじゃ」

 

「分かってる!」

 

「本当に分かっているのかしら」

 

 シャルルが疑わしそうに呟く。

 

 カイドウは睨み返す。

 

「お前から先に壊してやろうか」

 

「発言の直後に約束を破らないで!」

 

          ◇◇◇

 

 化猫の宿から村までは、歩いて一時間ほどの距離だった。

 

 普段なら、ウェンディとシャルルは森の小道をゆっくり進む。

 

 だが、今日は怪我人がいる。

 

 ウェンディは走っていた。

 

 背中には薬草や治療道具の入った鞄。

 

 シャルルは翼を出し、その横を飛んでいる。

 

 カイドウは、二人の少し後ろを歩いていた。

 

 走ってはいない。

 

 それでも、一歩が大きいため、ウェンディたちの速度へ簡単についてくる。

 

「もっと急いでください!」

 

 ウェンディが振り返る。

 

「走る必要はねェ」

 

「怪我人がいるんですよ!」

 

「なら、お前が先に行け」

 

「カイドウさんも来るって言ったでしょう!」

 

「ついてきてる」

 

「歩いています!」

 

「走ると地面が壊れる」

 

 ウェンディの口が止まる。

 

 カイドウの体格と力を考えれば、全力で走った場合、森の道がどうなるか分からない。

 

「……では、少しだけ急いでください」

 

「面倒だ」

 

「その言葉は禁止です!」

 

 カイドウは大きく溜息を吐いた。

 

 そして、ウェンディの襟元を片手で掴む。

 

「きゃっ!」

 

「何をするのよ!」

 

 シャルルが叫ぶ。

 

「遅いから運ぶ」

 

「え?」

 

 カイドウはウェンディを自分の肩へ乗せた。

 

 突然高い位置へ移動させられ、ウェンディは目を丸くする。

 

「しっかり掴まれ」

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

「待たん」

 

 次の瞬間。

 

 カイドウが地面を蹴った。

 

 轟音と共に、地面が小さく陥没する。

 

 巨体が矢のように前へ飛び出した。

 

「きゃああああああっ!」

 

 ウェンディの悲鳴が森へ響く。

 

「速すぎます!」

 

「急げと言ったのはお前だ」

 

「限度があります!」

 

 カイドウは森の中を猛然と駆ける。

 

 木々の隙間を縫うというより、進路上にある細い木を肩で弾き飛ばしていた。

 

 シャルルは必死に翼を動かして追いかける。

 

「待ちなさい!」

 

「遅ェぞ、白狸!」

 

「誰が白狸よ!」

 

「シャルル、頑張って!」

 

「あなたは楽しそうにしないで、ウェンディ!」

 

 最初こそ悲鳴を上げていたウェンディだったが、次第に慣れてきたらしい。

 

 カイドウの角を両手で掴み、落ちないように体を支えている。

 

「角を引っ張るな」

 

「掴まる場所がないんです!」

 

「髪にしろ」

 

「痛くないんですか?」

 

「角の方が痛ェ」

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 ウェンディが慌てて手を離す。

 

 その瞬間、カイドウが大きな岩を飛び越えた。

 

「きゃっ!」

 

 ウェンディは再び角へ掴まった。

 

「結局、掴むのか」

 

「仕方ないです!」

 

 カイドウの口元がわずかに緩む。

 

 走り始めて十分も経たないうちに、村の屋根が見えてきた。

 

 しかし、その村の上空には黒い煙が上がっている。

 

 獣の咆哮。

 

 人々の悲鳴。

 

 地面を揺らす足音。

 

 ウェンディの表情が引き締まる。

 

「急いでください!」

 

「これ以上か」

 

「お願いします!」

 

「振り落とされるなよ」

 

 カイドウは、さらに速度を上げた。

 

「やっぱり今のままでいいですうううううっ!」

 

 ウェンディの叫びが、風の中へ消えていった。

 

          ◇◇◇

 

 村は混乱していた。

 

 森から現れた巨大な魔物が、畑を踏み荒らしている。

 

 熊に似た体。

 

 背中から生えた黒い棘。

 

 牛よりも太い四本の脚。

 

 体長は十メートルを超えていた。

 

 口からは紫色の煙を吐き、近づいた村人たちを威嚇している。

 

 村の自警団は槍や弓を使って応戦していたが、硬い毛皮に攻撃が通らない。

 

「近づけるな!」

 

「畑の向こうへ追い込め!」

 

「無理だ! 矢が効かない!」

 

 魔物が前脚を振るう。

 

 自警団の男たちが吹き飛ばされた。

 

 家の壁へ叩きつけられ、動かなくなる。

 

「お父さん!」

 

 村の少女が駆け寄ろうとする。

 

 その前へ、魔物の影が落ちた。

 

 巨大な前脚が持ち上がる。

 

 少女の顔が恐怖で固まった。

 

 その時だった。

 

 空から、大きな影が落ちてくる。

 

「どけ」

 

 低い声。

 

 次の瞬間。

 

 カイドウの拳が、魔物の頬へ叩き込まれた。

 

 爆発のような音が響く。

 

 巨大な魔物の体が横へ吹き飛び、畑を転がりながら村の外まで飛んでいった。

 

 土煙が舞い上がる。

 

 村人たちは声を失った。

 

 少女の前には、二本の角を持つ大男が立っている。

 

 肩には水色の髪の少女を乗せていた。

 

「着いたぞ」

 

「着いたぞ、じゃありません!」

 

 ウェンディはカイドウの肩から降りる。

 

 髪は風でぼさぼさになり、顔も少し青ざめている。

 

「速すぎます!」

 

「間に合っただろ」

 

「そうですけど!」

 

「怪我人を見ろ」

 

 カイドウが顎で示す。

 

 ウェンディは、はっとした。

 

「そうでした!」

 

 すぐに倒れている村人たちへ駆け寄る。

 

「大丈夫ですか! 今、治します!」

 

 青白い光が、怪我人たちを包む。

 

 遅れて追いついたシャルルも、息を切らしながら降りてきた。

 

「あなた……どれだけ速く走るのよ……」

 

「遅かったな」

 

「私が遅いんじゃないわ! あなたがおかしいの!」

 

 カイドウは返事をせず、吹き飛ばした魔物を見る。

 

 魔物は倒れていなかった。

 

 ゆっくりと立ち上がり、低く唸っている。

 

 頬は大きく腫れているが、致命傷にはなっていない。

 

「ほう」

 

 カイドウの目が少しだけ楽しそうに細められた。

 

「今ので立つか」

 

「油断しないで!」

 

 村の自警団の一人が叫ぶ。

 

「あいつの毛皮は魔法でも傷つかない! 背中の棘から毒も飛ばしてくる!」

 

「魔法でも傷つかねェ?」

 

 カイドウが笑う。

 

「なら、殴ればいい」

 

「話を聞いていたの!?」

 

 シャルルが叫ぶ。

 

 魔物が咆哮する。

 

 背中の棘が逆立ち、紫色の液体が先端へ集まっていく。

 

「カイドウさん!」

 

 治療を続けながら、ウェンディが声を上げる。

 

「毒です! 避けてください!」

 

 棘が一斉に放たれた。

 

 何十本もの毒棘が、カイドウへ向かって飛んでくる。

 

 村人たちが悲鳴を上げる。

 

 しかし、カイドウは動かなかった。

 

 毒棘が全身へ突き刺さる。

 

 いや。

 

 突き刺さらない。

 

 硬い皮膚へ当たり、甲高い音を立てて弾かれていく。

 

「……何?」

 

 自警団の男が呟く。

 

 一本も刺さっていない。

 

 服にはいくつか穴が開いたが、その下の肌には傷一つなかった。

 

 カイドウは自分の胸元を見下ろす。

 

「服が破れたじゃねェか」

 

 低い声だった。

 

 シャルルは思わず叫ぶ。

 

「怒るところはそこなの!?」

 

「この服は借金で作ったんだぞ」

 

「あなた、意外と気にしていたのね!」

 

 魔物が再び咆哮する。

 

 紫の煙が口の周りへ集まる。

 

 毒霧を吐くつもりだ。

 

「カイドウさん、下がってください!」

 

 ウェンディが言う。

 

「その霧を吸ったら危険です!」

 

「なら、吸わなきゃいい」

 

「どうするつもりですか?」

 

 カイドウは大きく息を吸い込んだ。

 

 胸が膨らむ。

 

 空気が震え、周囲の土や小石が浮き上がる。

 

 ウェンディの目が見開かれる。

 

 青い鱗が、カイドウの首元へ浮かび上がった。

 

 牙が伸びる。

 

 口の奥に、赤い光が灯る。

 

「カイドウさん、待ってください!」

 

 嫌な予感がした。

 

 昨日、カイドウは料理に炎を使えると言っていた。

 

 その時は止めた。

 

 だが、今は止める間がない。

 

「熱息!」

 

 灼熱の炎が放たれた。

 

 巨大な火柱が地面を這い、魔物を正面から飲み込む。

 

 魔物の毒霧は一瞬で焼き消えた。

 

 それどころか、魔物の体そのものが炎に包まれ、絶叫を上げながら吹き飛んでいく。

 

 炎は村の外にある岩山へ直撃した。

 

 轟音。

 

 岩山の上半分が爆発し、赤熱した岩が空へ舞い上がる。

 

 熱風が村を襲い、畑の作物が一斉に倒れた。

 

 静寂。

 

 村人たちは、口を開けたまま動かなかった。

 

 カイドウは炎の消えた先を見つめる。

 

 魔物は黒焦げになって倒れていた。

 

「終わったぞ」

 

「終わったぞ、じゃありません!」

 

 ウェンディの悲鳴に近い声が響く。

 

「岩山が半分なくなりました!」

 

「魔物は倒した」

 

「畑も焦げています!」

 

「少しだ」

 

「少しじゃありません!」

 

「村は壊してねェぞ」

 

 カイドウは得意げに言う。

 

「約束は守った」

 

「守っていません! 畑も壊すなって言われました!」

 

「畑は残ってる」

 

「作物が倒れています!」

 

「立てればいい」

 

「そんな簡単な話じゃありません!」

 

 シャルルは頭を抱えた。

 

「やっぱり連れてくるんじゃなかったわ……」

 

 村人たちは、恐る恐るカイドウへ近づいてくる。

 

 助かった。

 

 それは間違いない。

 

 あのまま魔物が暴れていれば、村にも大きな被害が出ていただろう。

 

 だが、目の前の男も魔物以上に危険な存在に見えた。

 

 先ほどの炎。

 

 あれほどの威力を持つ魔法を、人間が口から放つなど聞いたことがない。

 

「今のは……滅竜魔法か?」

 

 自警団の一人が呟く。

 

 ウェンディが振り返る。

 

「え?」

 

「あんたも、口から風を吐くことがあるだろう。あの男も、同じ魔法じゃないのか?」

 

「カイドウさんの力は、魔法ではないそうです」

 

「魔法じゃない?」

 

「悪魔の実というものの力だそうです」

 

 村人たちは首を傾げる。

 

 説明されても分からない。

 

 一方、カイドウは倒れた魔物へ近づいていた。

 

 黒焦げになった体を足先で軽く転がす。

 

「弱ェな」

 

「あなたの基準がおかしいんです!」

 

 ウェンディが言う。

 

「怪我人の治療が終わるまで、余計なことをしないでください!」

 

「余計なこと?」

 

「魔物を食べようとしないでください」

 

 カイドウの手が止まる。

 

 魔物の足を持ち上げかけていた。

 

「何で分かった」

 

「顔を見れば分かります!」

 

「肉だぞ」

 

「魔物です!」

 

「焼けてる」

 

「食べません!」

 

「毒を持っているかもしれないわ」

 

 シャルルも止める。

 

 カイドウは黒焦げの魔物を見下ろした。

 

「毒くらい平気だ」

 

「平気かどうかの問題じゃありません!」

 

「食料を粗末にするな」

 

「あなたが焼いたんでしょう!」

 

 村人たちは、先ほどまで恐怖で震えていたにもかかわらず、目の前のやり取りに困惑していた。

 

 この大男は強い。

 

 恐ろしいほど強い。

 

 だが、どこか妙だった。

 

 見た目は魔王のようなのに、幼い少女に叱られている。

 

 しかも、反論しながらも言うことは聞いている。

 

 カイドウは魔物の足を離した。

 

「なら、報酬を寄越せ」

 

「急に何を言っているんですか」

 

「おれが倒した」

 

「依頼を受けたのは化猫の宿です」

 

「おれも化猫の宿から来た」

 

「客です!」

 

「なら、客への礼が必要だろ」

 

「どういう理屈ですか!」

 

 そこへ、村長らしき老人が歩いてくる。

 

 腰を曲げた小柄な老人でありながら、カイドウを見上げても怯えた様子はなかった。

 

「助けてくださり、ありがとうございました」

 

 老人は深く頭を下げる。

 

「あなたがいなければ、村にもっと被害が出ていたでしょう」

 

「酒」

 

「はい?」

 

「礼なら酒を寄越せ」

 

「カイドウさん!」

 

 ウェンディが止めようとする。

 

 だが、村長は笑った。

 

「酒でよろしいのですかな」

 

「樽でだ」

 

「駄目です!」

 

「小娘は黙ってろ」

 

「怪我が治っていません!」

 

「今、魔物を殴っただろうが」

 

「戦えることと、お酒を飲んでいいことは別です!」

 

 村長は二人を交互に見た。

 

「その方は、化猫の宿の新しい魔導士なのですか?」

 

「違います」

 

 ウェンディが答える。

 

「違わねェ」

 

 同時にカイドウが答えた。

 

「え?」

 

 ウェンディが振り返る。

 

「カイドウさん、さっきまで海賊だと言っていたでしょう!」

 

「酒がもらえるなら魔導士でも構わん」

 

「そんな理由で決めないでください!」

 

「依頼を受ければ金や酒が手に入るんだろ」

 

「そうですけど……」

 

「なら魔導士だ」

 

「魔法を使う人が魔導士なんです!」

 

「さっきの炎を見ただろ」

 

「魔法じゃないって自分で言っていましたよね!?」

 

「似たようなもんだ」

 

「違います!」

 

 村長は、愉快そうに笑った。

 

「それでは、化猫の宿の魔導士殿ということで」

 

「違います!」

 

「そうだ」

 

「カイドウさん!」

 

 カイドウは村長へ手を差し出した。

 

「酒」

 

「はいはい。村にある一番大きな樽を用意しましょう」

 

「村長さん!」

 

 ウェンディが抗議する。

 

「けれど、本当に助けてもらったからのう。礼をしないわけにはいくまい」

 

「でも、カイドウさんは怪我人で……」

 

「一樽すべて飲ませなければよいじゃろう」

 

 村長は目を細めた。

 

「ウェンディちゃんが管理すればよい」

 

 カイドウの顔が固まる。

 

 ウェンディの目が輝いた。

 

「そうですね!」

 

「おい」

 

「一日に一杯ずつなら、問題ないと思います」

 

「おい、小娘」

 

「ウェンディです」

 

「一樽はおれの報酬だぞ」

 

「でも、治療中です」

 

「なら、隠さずに見える場所へ置け」

 

「見えると飲みたくなりますよ」

 

「見えなくても飲みたくなる」

 

「それは困ります」

 

「おれの酒だ」

 

「管理するだけです」

 

「管理するな」

 

「駄目です」

 

 またしても睨み合いが始まる。

 

 村人たちの間から、小さな笑い声が漏れた。

 

 先ほどまでの恐怖が、少しずつ和らいでいく。

 

 カイドウがどれほど恐ろしい力を持っていても、ウェンディがいれば何とかなる。

 

 なぜか、そんな気がした。

 

          ◇◇◇

 

 怪我人の治療が終わった頃には、日が傾き始めていた。

 

 幸い、命に関わるほどの重傷者はいなかった。

 

 ウェンディの天空魔法によって、ほとんどの者は歩けるまでに回復している。

 

 村人たちは感謝の印として、化猫の宿の魔導士たちへ食事を振る舞った。

 

 広場には長机が並べられ、焼いた肉や野菜、パンが次々と運ばれてくる。

 

 カイドウは一番大きな机の前に座っていた。

 

 正確には、椅子が壊れる可能性を考え、地面へ直接座らされている。

 

「おれだけ椅子がねェぞ」

 

「壊すからよ」

 

 シャルルが答える。

 

「地面の方が安全です」

 

 ウェンディも言う。

 

「客に対する扱いじゃねェ」

 

「自分で魔導士だと言ったでしょう」

 

「客で魔導士だ」

 

「都合よく使い分けないでください」

 

 カイドウの前には、大皿に山積みされた肉が置かれている。

 

 村人たちは彼の食べる量を知らなかったため、最初は十人分ほど用意した。

 

 それが一瞬で消えたため、さらに二十人分を追加している。

 

「すごい食欲じゃな」

 

 村長が感心したように言う。

 

「これで足りるかのう?」

 

「足りん」

 

「まだ食べるの!?」

 

 シャルルが驚く。

 

「今日は働いた」

 

「魔物を一発殴って、火を吐いただけでしょう」

 

「十分だ」

 

 カイドウは骨付き肉を豪快に食べる。

 

 その隣では、大きな酒樽が置かれていた。

 

 ただし、樽の上にはウェンディが座っている。

 

 カイドウが勝手に開けないようにするためだった。

 

「小娘」

 

「ウェンディです」

 

「そこをどけ」

 

「駄目です」

 

「おれの報酬だ」

 

「一杯なら飲んでいいと言いました」

 

「樽の蓋を杯にする」

 

「駄目です」

 

「大きい杯を用意しろ」

 

「普通の大きさです」

 

「おれの普通は、お前らの普通と違う」

 

「そういう時だけ体の大きさを理由にしないでください!」

 

 村人が、小さな木の杯を持ってきた。

 

 カイドウはそれを見る。

 

 自分の親指ほどしかない。

 

「ふざけてるのか」

 

「これが普通の杯です」

 

 ウェンディが酒を注ぐ。

 

 カイドウは杯を持つと、慎重に口へ運んだ。

 

 以前、一気に飲んで味が分からなかったため、今日はゆっくり飲もうとしている。

 

 ほんの一口。

 

 舌の上で味わう。

 

 カイドウの目がわずかに細くなる。

 

「……悪くねェ」

 

「おいしいですか?」

 

「ああ」

 

 ウェンディが笑顔になる。

 

「では、今日はこれで終わりです」

 

 カイドウの動きが止まった。

 

「待て」

 

「何ですか?」

 

「今のは一口だ」

 

「一杯飲みました」

 

「杯にはまだ残ってる」

 

「では、それをゆっくり飲んでください」

 

「飲み終わったら、もう一杯だ」

 

「駄目です」

 

「魔物を倒した」

 

「だから一杯です」

 

「岩山も壊した」

 

「それは褒められることじゃありません!」

 

「村を守った」

 

「守りましたけど!」

 

「畑は半分残した」

 

「半分倒したんです!」

 

 カイドウは不満そうに酒を飲み干した。

 

 そして、空の杯をウェンディへ差し出す。

 

「もう一杯」

 

「駄目です」

 

「半分」

 

「駄目です」

 

「一滴」

 

「そのまま増やしていくつもりでしょう」

 

「気づいたか」

 

「分かります!」

 

 シャルルは肉を食べながら、呆れたように溜息を吐く。

 

「魔物より、酒を我慢させる方が大変ね」

 

「本当だね」

 

「聞こえてるぞ」

 

「聞こえるように言ったのよ」

 

 その時、一人の少年がカイドウへ近づいてきた。

 

 先ほど魔物に襲われかけていた少女の兄らしい。

 

 手には、一枚の紙がある。

 

「あの……これ」

 

 少年は恐る恐る差し出した。

 

 紙には、大きな角を生やした人間と、巨大な魔物が描かれている。

 

 角のある人間が、拳で魔物を空へ飛ばしていた。

 

「おじさんが、魔物を倒したところ」

 

「誰がおじさんだ」

 

 カイドウの声が低くなる。

 

 少年の顔が青ざめる。

 

 ウェンディが慌てて口を挟む。

 

「カイドウさんは、見た目は若いですから!」

 

「若返ったんでしょう」

 

 シャルルが言う。

 

「元は何歳なのよ」

 

「数えてねェ」

 

「数えなさいよ」

 

 カイドウは少年から絵を受け取る。

 

 乱雑な線。

 

 大きさも形も正確ではない。

 

 それでも、自分が魔物を倒した姿だということは分かる。

 

「下手だな」

 

「カイドウさん!」

 

 ウェンディが咎める。

 

 少年は俯いた。

 

 カイドウはしばらく絵を見た後、乱暴に少年の頭へ手を置いた。

 

 大きな手のため、頭全体が隠れてしまう。

 

「だが、悪くねェ」

 

 少年が顔を上げる。

 

 カイドウは絵を折らずに、自分の服の内側へ入れた。

 

「もらってやる」

 

「本当?」

 

「ああ」

 

「ありがとう!」

 

 少年の顔が明るくなる。

 

 その様子を、ウェンディは少し驚いたように見ていた。

 

 カイドウが子供に向ける手は大きく、粗雑に見える。

 

 しかし、力はほとんど入っていない。

 

 皿を何枚も割った男とは思えないほど、優しい触れ方だった。

 

「何だ」

 

 視線に気づき、カイドウがウェンディを見る。

 

「いえ」

 

 ウェンディは微笑んだ。

 

「カイドウさん、子供には優しいんですね」

 

「どこがだ」

 

「頭を撫でていました」

 

「邪魔だったから押さえただけだ」

 

「絵ももらったでしょう」

 

「捨てるのが面倒だった」

 

「服の中に大切にしまいましたよね」

 

「破れたら、ガキが泣くだろうが」

 

「やっぱり優しいです」

 

「違う」

 

 カイドウはそっぽを向いた。

 

 シャルルがにやりと笑う。

 

「顔に似合わず、意外と面倒見がいいのね」

 

「白狸」

 

「何よ」

 

「一度本気で殴られたいらしいな」

 

「子供には優しいけど、私には容赦がないのね!」

 

「お前は狸だ」

 

「エクシードよ!」

 

 村の宴は、夜まで続いた。

 

          ◇◇◇

 

 化猫の宿へ戻った時には、すっかり暗くなっていた。

 

 カイドウは片手に酒樽を担いでいる。

 

 ただし、樽の栓には何重もの縄が巻かれ、その上からウェンディが魔法で風の封印を施していた。

 

「おい」

 

「何ですか?」

 

「ここまでやる必要があるのか」

 

「あります」

 

「おれの酒だぞ」

 

「治療が終わったら、少しずつ飲めます」

 

「今すぐ飲める」

 

「飲みません」

 

「お前が飲むわけじゃねェ」

 

「カイドウさんも駄目です」

 

 カイドウは不満そうに酒樽を睨む。

 

 ローバウルは、彼らの帰りを広間で待っていた。

 

「お帰り」

 

「ただいま戻りました!」

 

 ウェンディが元気よく答える。

 

「怪我人はどうじゃった?」

 

「全員、命に別状はありません。明日、もう一度様子を見に行きます」

 

「そうか。よくやったのう」

 

 ローバウルは優しく頷く。

 

 次に、カイドウを見る。

 

「魔物も倒したそうじゃな」

 

「弱かった」

 

「岩山を半分壊したそうね」

 

 先に戻っていた魔導士の一人が報告したらしい。

 

 シャルルがすぐに口を挟む。

 

「畑も半分倒したわ」

 

「村は壊してねェ」

 

「それは最低限の約束です!」

 

 ローバウルは髭を撫でる。

 

「じゃが、村人を助けたことは事実じゃ」

 

「ああ」

 

「それに、村長からお主を化猫の宿の魔導士として正式に依頼報告へ記載したいと言われた」

 

 ウェンディが目を丸くする。

 

「ええっ?」

 

「おれは魔導士だ」

 

 カイドウが言う。

 

「酒のために決めないでください!」

 

「依頼を受けて報酬をもらった。魔導士と同じだろ」

 

「ギルドに所属していません!」

 

「今、ここに住んでる」

 

「客としてです!」

 

「なら、所属させればよいのではないかのう」

 

 ローバウルが穏やかに言った。

 

 広間が静まり返る。

 

「マスター?」

 

 ウェンディが聞き返す。

 

「カイドウを、化猫の宿の魔導士として迎えるのじゃ」

 

「この男を!?」

 

 シャルルが大声を上げる。

 

「危険すぎるわ!」

 

「だが、村を助けた」

 

「岩山を壊したのよ!」

 

「村は無事じゃった」

 

「畑が!」

 

「半分は残ったそうじゃ」

 

「半分しか残らなかったのよ!」

 

 カイドウは酒樽を床へ置いた。

 

 今度はひびが入らないよう、珍しく静かに置く。

 

「魔導士になれば、酒が手に入るのか」

 

「依頼の報酬で買えるじゃろうな」

 

「なら、なる」

 

「そんな軽い理由で!」

 

 ウェンディが叫ぶ。

 

「別にいいだろ」

 

「よくありません! 魔導士は、人を助ける仕事なんですよ!」

 

「今日、助けた」

 

「そうですけど……」

 

「なら問題ねェ」

 

 ウェンディは言葉に詰まる。

 

 確かに、動機は酒だった。

 

 畑も岩山も壊した。

 

 だが、カイドウがいなければ、少女は魔物に踏み潰されていたかもしれない。

 

 怪我人も増えていただろう。

 

「お主が嫌なら、無理にとは言わん」

 

 ローバウルがカイドウへ言う。

 

「じゃが、ギルドに所属するなら、守らねばならん決まりもある」

 

「決まり?」

 

「依頼人を傷つけぬこと。町や村を必要以上に壊さぬこと。仲間を見捨てぬこと。そして、報酬を勝手に奪わぬことじゃ」

 

「最後のは余計だ」

 

「お主には必要じゃ」

 

 ローバウルは笑っていたが、目は真剣だった。

 

「できるかのう?」

 

 カイドウは黙った。

 

 誰かの下へつく。

 

 決まりに従う。

 

 元の世界の彼なら、鼻で笑っていただろう。

 

 百獣海賊団の総督だった男だ。

 

 他人から命令される立場ではない。

 

 だが、今のカイドウには戻る場所がない。

 

 部下も、城も、国もない。

 

 そして。

 

 隣には、自分の傷を治した少女がいる。

 

 うるさい白い獣もいる。

 

 何を考えているのか分からない老人もいる。

 

 見知らぬ場所。

 

 見知らぬ世界。

 

 それでも、この三日間。

 

 少なくとも、退屈はしなかった。

 

「ウォロロロ」

 

 カイドウは笑う。

 

「いいだろう」

 

「本当に?」

 

 ウェンディが見上げる。

 

「ああ。ただし、条件がある」

 

「酒なら駄目です」

 

「まだ言ってねェぞ!」

 

「絶対に酒でしょう!」

 

「依頼一つにつき、一樽」

 

「多すぎます!」

 

「半樽」

 

「駄目です!」

 

「なら、一瓶」

 

「報酬で自分で買ってください!」

 

「それでいい」

 

「え?」

 

「自分で稼いだ金で酒を買う。それなら文句ねェだろ」

 

 ウェンディは少し考える。

 

「飲む量は、私が決めます」

 

「なぜだ」

 

「治療を担当していますから」

 

「傷が治った後は」

 

「飲み過ぎは体に悪いです」

 

「おれは死なねェ」

 

「そういう問題ではありません!」

 

 また話が終わらなくなりそうだった。

 

 ローバウルが杖を床へ軽く当てる。

 

「それでは、紋章を刻むとしようかのう」

 

「紋章?」

 

「ギルドの一員である証じゃ」

 

 化猫の宿の紋章を刻むための道具が運ばれてくる。

 

 カイドウは、それを興味なさそうに見た。

 

「どこへ入れる?」

 

「好きな場所で構わん」

 

「背中だ」

 

 カイドウは上着を脱ぐ。

 

 服の背中はすでに大きく裂けているため、脱ぐというより剥がすに近かった。

 

 鍛え抜かれた巨大な背中が露わになる。

 

 無数の古傷。

 

 刀傷。

 

 刺し傷。

 

 火傷。

 

 どれも普通の人間なら命を落とすような傷ばかりだった。

 

 ウェンディは息を呑む。

 

 カイドウが、これまでどれほどの戦いを経験してきたのか。

 

 その背中を見れば、少しだけ分かった。

 

「色はどうするのじゃ?」

 

「黒だ」

 

「場所は?」

 

「中央だ」

 

 ローバウルは道具を押し当てる。

 

 光が灯り、カイドウの背中へ《化猫の宿》の紋章が刻まれた。

 

 それは大きな体に比べれば小さな印だった。

 

 だが、確かにそこにある。

 

「これで、お主も化猫の宿の一員じゃ」

 

「ウォロロロ」

 

 カイドウは肩越しに紋章を見る。

 

「悪くねェ」

 

 ウェンディが微笑む。

 

「よろしくお願いします、カイドウさん」

 

「ああ」

 

「これからは、勝手なことをしないでくださいね」

 

「それは無理だ」

 

「最初から諦めないでください!」

 

「依頼では、おれの好きにやる」

 

「駄目です!」

 

「敵は殴る」

 

「それはいいですけど、周りを壊さないでください!」

 

「難しいな」

 

「難しくありません!」

 

 シャルルは深い溜息を吐いた。

 

「とんでもない魔導士が入ったものね」

 

「お前も仲間だろうが、白狸」

 

「私はエクシードよ!」

 

「同じ宿の紋章があるなら、仲間だ」

 

 シャルルの口が止まった。

 

 カイドウは何気なく言っただけなのだろう。

 

 だが、シャルルは少しだけ驚いた表情を浮かべる。

 

「……そうね」

 

 小さく答える。

 

 カイドウは聞こえなかったのか、酒樽の縄を解こうとしていた。

 

「カイドウさん!」

 

 ウェンディが叫ぶ。

 

「紋章を入れてもらっている間に、何をしているんですか!」

 

「祝い酒だ」

 

「駄目です!」

 

「魔導士になった祝いだぞ」

 

「今日の分はもう飲みました!」

 

「過去のことだ」

 

「数時間前です!」

 

「昨日のおれと今日のおれは別人だ」

 

「同じ人です!」

 

 カイドウが酒樽を抱える。

 

 ウェンディが樽へしがみつく。

 

 シャルルも翼を出し、カイドウの顔の前へ飛ぶ。

 

「諦めなさい!」

 

「どけ、白狸!」

 

「エクシードよ!」

 

「おれの酒だ!」

 

「管理はウェンディよ!」

 

「勝手に決めるな!」

 

 広間の中で、最強生物と少女と白いエクシードによる酒樽争奪戦が始まる。

 

 他の魔導士たちは、少し離れた場所から笑いながら眺めていた。

 

 ローバウルは、静かに目を細める。

 

 化猫の宿へ突然落ちてきた、異世界の龍。

 

 恐ろしい力を持ちながら、どこか孤独な男。

 

 その背中へ、今は化猫の宿の紋章が刻まれている。

 

「賑やかになったのう」

 

 ローバウルが呟く。

 

 その直後。

 

「おい、小娘! 樽に乗るな!」

 

「開けさせません!」

 

「なら、樽ごと持ち上げる!」

 

「きゃあっ!」

 

「ウェンディを乗せたまま運ばないで!」

 

「離れろ、白狸!」

 

「エクシードよ!」

 

 カイドウが酒樽を持ち上げる。

 

 上にはウェンディ。

 

 横にはシャルル。

 

 そして、角が天井の梁へ引っかかった。

 

 みしり。

 

 全員の動きが止まる。

 

「カイドウさん」

 

 ウェンディが、樽の上から静かに言った。

 

「動かないでください」

 

「分かってる」

 

「ゆっくり下ろしてください」

 

「分かってる」

 

「絶対に力を入れ過ぎないでくださいね」

 

「しつこい」

 

 カイドウは慎重に屈もうとした。

 

 だが、酒樽を落とさないことへ意識を取られ、足元の割れた椅子に気づかなかった。

 

 ばきん。

 

 椅子を踏み潰す。

 

 体勢が崩れる。

 

 酒樽が傾く。

 

「きゃあああっ!」

 

「ウェンディ!」

 

 シャルルがウェンディを抱えて飛び上がる。

 

 カイドウは酒樽を守ろうと、両腕で強く抱きしめた。

 

 みしみし。

 

「あ」

 

 樽が潰れた。

 

 木の板が弾け、酒が勢いよく噴き出す。

 

 広間中へ酒が飛び散った。

 

 沈黙。

 

 カイドウは、腕の中で壊れた樽を見下ろす。

 

 床には、報酬としてもらった酒が広がっていく。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

 ウェンディも。

 

 シャルルも。

 

 ギルドの魔導士たちも。

 

 誰も何も言えなかった。

 

 カイドウの肩が震える。

 

「おれの……酒が……」

 

 低い声。

 

 戦場で敵に囲まれた時よりも、絶望に満ちた声だった。

 

「だから、触らないでって言ったでしょう!」

 

 ウェンディの怒声が響く。

 

「ウォロロロロ……」

 

 カイドウは笑おうとした。

 

 だが、笑い声には力がない。

 

「泣いているの?」

 

 シャルルが尋ねる。

 

「泣いてねェ」

 

「目が赤いわよ」

 

「酒が入っただけだ」

 

「顔にはかかっていないでしょう」

 

「うるせェ……」

 

 その夜。

 

 化猫の宿へ新しく加入した魔導士、百獣のカイドウは、自らの手で報酬の酒樽を破壊した。

 

 そして、生まれて初めて。

 

 割れた樽からこぼれた酒を、雑巾で拭く仕事を命じられた。

 

「なぜ、おれが……」

 

「カイドウさんが壊したからです」

 

「床に染み込む前に急ぎなさい」

 

「飲めば早い」

 

「床に口をつけないでください!」

 

「一滴も無駄にするな」

 

「雑巾で拭いてください!」

 

「この雑巾を絞れば飲めるか」

 

「絶対に駄目です!」

 

 こうして。

 

 最強生物は正式に魔導士となった。

 

 




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