『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第6話 最強生物、少女と買い物へ行く
ラクサスとの戦いから数日後。
化猫の宿には、久しぶりに穏やかな朝が訪れていた。
空は晴れ渡り、壊れた屋根の隙間から柔らかな光が差し込んでいる。
森から聞こえる鳥の声。
厨房から漂う焼きたてのパンの香り。
広間では、早起きした魔導士たちが静かに朝食を取っていた。
少なくとも。
「酒はどこだ」
その低い声が響くまでは、確かに穏やかだった。
広間の奥。
特別に補強された大きな椅子へ座ったカイドウが、腕を組んでいた。
黒い長髪は寝癖でところどころ跳ね、肩へ羽織っている上着も片方がずれている。
寝起きらしく目つきは普段以上に悪い。
何も知らない者が見れば、今からどこかの町を襲撃しに行く悪党の頭領だと思ったことだろう。
だが、本人が探しているのは武器でも財宝でもない。
昨日まで棚に置かれていた、治療後の一杯分の酒だった。
「酒なら移しました」
食堂の端で薬草を整理していたウェンディが、振り返らずに答えた。
カイドウの眉が動く。
「どこへだ」
「秘密です」
「なぜ隠す」
「カイドウさんが、夜中に勝手に飲もうとしたからです」
「飲んでねェ」
「栓へ手をかけていました」
「中身を確認しようとしただけだ」
「夜中に?」
「ああ」
「杯を持って?」
「確認には必要だろ」
「必要ありません!」
ウェンディが振り返る。
水色の長い髪は綺麗に整えられ、朝からきちんとした身なりをしている。
小さな体の前で腕を組み、じっとカイドウを見つめていた。
「治療中は一日一杯です。約束しましたよね」
「約束した覚えはねェ」
「毎日しています」
「毎日変わる約束かもしれん」
「変わりません!」
カイドウは不満そうに椅子へ深く座った。
みしり、と木が鳴る。
周囲の者たちが一斉に椅子を見る。
カイドウも視線を下へ向ける。
補強された脚は、どうにか耐えていた。
「……壊れてねェぞ」
「自慢しないでください」
シャルルが机の上から冷たく言う。
「椅子へ座っただけでしょう」
「昨日までは壊れた」
「それは座り方が悪かったのよ」
「今日は優しく座った」
「やればできるじゃない」
「面倒だがな」
「その言葉は禁止よ」
シャルルはパンを小さくちぎり、口へ運んだ。
「それより、朝食を食べたら薬でしょう」
「お前まで言うな」
「ウェンディが作っているのを見れば分かるわ」
広間の一角では、小さな鍋から緑色の湯気が上がっていた。
カイドウの治療薬である。
薬草へ蜂蜜を加えたものだが、独特の苦い匂いはまったく消えていない。
カイドウは匂いが漂ってきただけで露骨に顔をしかめた。
「今日は飲まん」
「飲んでもらいます」
ウェンディが即答する。
「傷はほとんど治った」
「ラクサスさんと戦って、また開きました」
「あれから何日経ったと思ってる」
「三日です」
「三日も経った」
「三日しか経っていません」
「おれなら十分だ」
「駄目です」
「話が通じねェな」
「それは私の台詞です!」
いつものやり取り。
いつもの朝。
化猫の宿の者たちは、もう誰も驚かなかった。
カイドウが空から落ちてきた初日。
広間に座っているだけで全員が緊張していた。
いつ暴れ出すか分からない。
気分一つで宿を壊されるのではないか。
そのように警戒していた者たちも、今ではカイドウが薬を嫌がり、ウェンディに叱られている姿を見ながら普通に朝食を取っている。
恐ろしい存在であることに変わりはない。
だが、少なくとも理由もなく仲間を傷つける男ではないことは分かっていた。
むしろ、ウェンディが少し咳をしただけで、誰より先に顔を向けるような男である。
本人は絶対に認めないだろうが。
「はい」
ウェンディが大きな木の杯を差し出す。
「薬です」
「朝飯が先だ」
「もう食べました」
「肉が足りん」
「大皿二枚分食べました」
「体がでかい」
「昨日より一枚多いです」
「昨日のおれと今日のおれは別人だ」
「同じ人です!」
ウェンディは杯を差し出したまま動かない。
カイドウはしばらく睨んでいたが、やがて諦めたように受け取った。
「蜂蜜は」
「入れました」
「昨日より多いか」
「同じです」
「増やせと言った」
「これ以上入れると甘すぎます」
「酒は」
「入れていません」
「使えねェな」
「薬へ酒を入れないだけで、毎朝失礼です!」
カイドウは薬を一気に飲み干した。
その顔が歪む。
「まずい」
「はい。今日も元気ですね」
「それを言うな」
ウェンディは空になった杯を受け取る。
カイドウは机の上にあった水差しを掴み、そのまま中身をすべて飲み干した。
「水まで全部飲まないでください」
「口直しだ」
「ほかの人の分もあったのよ」
シャルルが呆れる。
「また汲めばいい」
「誰が?」
「白狸」
「エクシードよ!」
シャルルの怒声が広間へ響く。
カイドウは鼻で笑い、椅子の背へ体を預けた。
今日は依頼がない。
正確には、カイドウが受けられそうな依頼がなかった。
薬草採取は力加減の問題で却下。
料理の手伝いは厨房が消える可能性があるため却下。
家の修理は壊す物が増えるため却下。
子供たちの護衛は顔が怖すぎるという理由で、依頼人側から断られた。
そのため、カイドウにとっては久しぶりの休日だった。
「暇だな」
カイドウが呟く。
「宿の掃除ならありますよ」
ウェンディが答える。
「断る」
「暇なんでしょう?」
「掃除は暇より面倒だ」
「また洗濯物を飛ばさないなら、手伝ってもらってもいいわ」
シャルルが言う。
「あれは綺麗になった」
「森の木へ洗濯物を全部引っかけることを、掃除とは言わないのよ」
「風を使っただけだ」
「風が強すぎるの!」
「なら、他の仕事を寄越せ」
「皿洗い」
「断る」
「水汲み」
「入り口に角が引っかかる」
「屈みなさい」
「面倒だ」
「薪割り」
「木屑になる」
「自覚はあるのね」
カイドウは腕を組み、広間を見回した。
本当に暇だった。
元の世界では、戦いがあった。
敵がいた。
宴があり、酒があり、部下たちが騒いでいた。
何もない時間など、ほとんどなかった。
だが、この世界での生活は違う。
戦いのない日がある。
誰も命を狙ってこない。
空から砲弾が飛んでくることもなければ、裏切りを警戒する必要もない。
その代わり。
薬を飲まされる。
皿を洗わされる。
酒を管理される。
それが平和というものなのかもしれないが、カイドウにはまだ慣れなかった。
「ウェンディ」
広間の入り口から、ローバウルが声をかける。
「はい、マスター」
「頼んでいた薬草が届かなかったようじゃ」
「そうなんですか?」
「町の店で在庫が切れておるらしい。悪いが、買いに行ってきてくれるかのう」
「分かりました」
ウェンディは机に広げていた薬草を片づけ始める。
「ほかにも必要なものがあれば、買ってきますね」
「では、小麦粉と蜂蜜、それから包帯も頼む」
「はい」
「酒」
カイドウが口を挟む。
「頼んでおらん」
ローバウルが答える。
「切れてるだろ」
「まだある」
「少ない」
「お主が飲むからじゃ」
「なら買え」
「自分で稼いだ金で買うんじゃな」
カイドウの顔が険しくなる。
先日の依頼で得た報酬は、山道と岩壁の修理代に消えた。
手元に残っている金はほとんどない。
「ジジイ」
「何じゃ?」
「貸せ」
「借金を増やす気かのう」
「酒代は別だ」
「同じじゃ」
「細けェな」
「経営者は金に細かいものじゃ」
ローバウルは笑いながら去っていく。
カイドウは舌打ちした。
ウェンディは買い物用の籠を用意しながら、そんなカイドウを見た。
「カイドウさんも一緒に来ますか?」
「あ?」
「暇なんですよね」
「町へか」
「はい。歩いて一時間くらいです」
「何をする」
「買い物です」
「敵はいるのか」
「いません」
「魔物は」
「たぶん、いません」
「盗賊は」
「普通の道なので、いないと思います」
「つまらんな」
「戦うために買い物へ行くんじゃありません」
ウェンディは困ったように笑う。
「町を見たことがないでしょう?」
カイドウは少し黙った。
確かに、フィオーレ王国へ来てから訪れたのは、依頼先の村や山道ばかりだった。
普通の町を歩いたことはない。
この世界で、人々がどのように暮らしているのか。
どのような物が売られているのか。
多少の興味はあった。
「酒屋もありますよ」
ウェンディが付け加える。
カイドウが立ち上がった。
「行くぞ」
「そこだけで決めたでしょう」
シャルルが呆れる。
「見学だ」
「何の見学よ」
「町のだ」
「酒屋の場所を覚えるつもりでしょう」
「そんなことはねェ」
カイドウは目を逸らした。
「図星ね」
◇◇◇
化猫の宿から最寄りの町までは、森を抜けた先の街道を歩いて一時間ほどかかる。
空はよく晴れていた。
道の両側には草原が広がり、遠くには山々が見える。
ウェンディは大きな籠を両手で持ち、楽しそうに歩いていた。
その隣では、カイドウがゆっくりと歩いている。
シャルルは用事があると言い、宿へ残った。
そのため今日は、ウェンディとカイドウの二人だけだった。
「いい天気ですね」
ウェンディが空を見上げる。
「ああ」
「雨じゃなくてよかったです」
「雨でも同じだ」
「濡れちゃいますよ」
「乾かせばいい」
「どうやって?」
「炎を吐く」
「服まで燃えます!」
「加減する」
「信用できません」
即答され、カイドウは不満そうに鼻を鳴らした。
しばらく、二人は無言で歩いた。
ウェンディは草原を渡る風を気持ちよさそうに受けている。
カイドウは周囲を警戒するように見回していた。
敵を探しているというより、長年の習慣なのだろう。
どれほど平和な道であっても、完全に気を抜くことはない。
「カイドウさん」
「何だ」
「疲れていませんか?」
「誰に言ってる」
「でも、怪我が治ったばかりですから」
「お前こそ遅い」
「普通に歩いています」
「もっと早く歩け」
「町まで走るんですか?」
「肩に乗せてやる」
カイドウが言う。
ウェンディは、以前カイドウの肩へ乗せられて村まで運ばれた時のことを思い出した。
森の中を猛烈な速度で走り、角へしがみつきながら悲鳴を上げた記憶。
町へ着く頃には髪が完全に乱れていた。
「遠慮します」
「なぜだ」
「速すぎます」
「急いでねェぞ」
「あれでですか?」
「ああ」
「絶対に乗りません」
「なら歩け」
「最初から歩いています!」
ウェンディは頬を膨らませる。
カイドウは小さく笑った。
「ウォロロロ」
「笑わないでください」
「お前も少しは強く言うようになったな」
「誰のせいだと思っているんですか?」
「白狸か」
「カイドウさんです!」
ウェンディは、少し前を歩く。
だが、小さな足ではカイドウとの距離はほとんど開かない。
カイドウは一歩で、ウェンディの数歩分を進む。
やがて道の端に、小さな花畑が見えてきた。
黄色や白の花が、風に揺れている。
「綺麗ですね」
ウェンディが足を止める。
カイドウも仕方なく止まった。
「花か」
「はい」
「食えるのか」
「見るものです!」
「見るだけで何が面白い」
「綺麗でしょう?」
「分からん」
カイドウは花畑を見下ろす。
元の世界にも花はあった。
ワノ国にも、美しい花は咲いていた。
だが、カイドウがそれを気にしたことはない。
戦場を彩る物。
宴の飾り。
その程度の認識だった。
ウェンディは道端へしゃがみ、一輪の小さな白い花を見つめている。
摘むことはせず、ただ微笑んでいた。
「どうして取らねェ」
「ここに咲いている方が綺麗だからです」
「持って帰らないのか」
「ほかの人も見られるでしょう?」
カイドウは黙った。
奪うことが当たり前だった男には、少し理解しにくい考えだった。
欲しければ取る。
気に入ったなら、自分の物にする。
そのように生きてきた。
だが、ウェンディは気に入った物を、その場へ残した。
誰か知らない人間のために。
「妙な奴だな」
「そうですか?」
「ああ」
ウェンディは立ち上がる。
「行きましょう」
歩き出そうとした時。
小さな風が吹き、白い花びらが一枚、ウェンディの髪へ引っかかった。
カイドウは、それを見つめた。
「動くな」
「え?」
大きな手が伸びる。
ウェンディは驚いて目を閉じた。
だが、カイドウは髪へ触れることなく、指先で花びらだけを摘んだ。
「花がついてた」
「あ……ありがとうございます」
カイドウは花びらを見る。
小さすぎて、巨大な指の上では埃のように見えた。
「捨てますか?」
「いや」
ウェンディは花びらを受け取る。
手のひらへ大切そうに載せ、籠の内側へしまった。
「持って帰ります」
「さっきは取らなかっただろ」
「これは自然に飛んできたものですから」
「違いが分からん」
「気持ちの問題です」
「面倒だな」
「そういう言い方をしないでください」
それでも、カイドウは捨てろとは言わなかった。
◇◇◇
町へ着くと、カイドウは一気に注目を集めた。
当然だった。
二本の角を持つ、二メートルを超える大男。
背中には化猫の宿の紋章。
顔は悪党そのもの。
隣には水色の髪の小さな少女。
どう見ても普通の組み合わせではない。
道を歩く人々は、カイドウを見て少し避ける。
母親は子供の手を引き、商人は店先の商品を無意識に守る。
町の警備兵も、遠くから様子を窺っていた。
「見られてますね」
ウェンディが小声で言う。
「好きに見せとけ」
「もう少し、怖くない顔はできませんか?」
「生まれつきだ」
「笑ってみるとか」
「前にもやっただろ」
カイドウが口角を上げる。
鋭い牙が見え、目つきがさらに凶悪になる。
近くを歩いていた男が悲鳴を上げ、反対側の道へ逃げた。
「やっぱりやめてください!」
「お前が言ったんだろ」
「普通の笑顔です!」
「これが普通だ」
「笑わない方がましです」
ウェンディは頭を抱えた。
そこへ、一人の小さな少年が走ってくる。
手には木で作られた剣を持っていた。
「おじさん!」
「誰がおじさんだ」
カイドウの声が低くなる。
少年は少し怯えたが、逃げなかった。
「角、触っていい?」
「断る」
「どうして?」
「引っ張る奴がいるからだ」
カイドウはウェンディを見る。
「仕方ないでしょう。肩に乗せたまま走るからです」
「角は取っ手じゃねェ」
「では、髪につかまります」
「髪も引っ張るな」
少年は二人の会話を聞き、不思議そうな顔をする。
「おじさん、この子のお父さん?」
「違います!」
ウェンディが真っ赤になって否定した。
カイドウも眉を寄せる。
「誰が父親だ」
「でも一緒にいる」
「宿の仲間です」
ウェンディが説明する。
「カイドウさんは化猫の宿の魔導士なんです」
「魔導士なの?」
少年の目が輝く。
「どんな魔法を使うの?」
「龍になる」
「すごい!」
「炎も吐く」
「見たい!」
「いいぞ」
「駄目です!」
ウェンディがすぐに止める。
「町中で炎を吐かないでください!」
「小さくする」
「以前もそう言って、岩山を壊しました!」
「今度は本当に小さくだ」
「絶対に駄目です!」
少年は残念そうにする。
カイドウは少し考え、片手を持ち上げた。
指先に、小さな青い鱗が現れる。
「これで我慢しろ」
「すごい!」
少年が近づき、鱗を眺める。
触れようとした手が、一度止まった。
「触っていい?」
「好きにしろ」
少年は恐る恐る鱗へ触れた。
「硬い!」
「ああ」
「おじさん、本当に龍なんだ!」
「おじさんじゃねェ」
カイドウは不満そうだったが、手を引かなかった。
やがて少年の母親が走ってきて、何度も頭を下げながら連れていく。
「すみません! この子が勝手に!」
「構わん」
母親は驚いたようにカイドウを見る。
それから、少しだけ安心した顔になって去っていった。
ウェンディは横からカイドウを見上げる。
「何だ」
「やっぱり、子供には優しいですね」
「違う」
「鱗を触らせていました」
「うるさかったからだ」
「嫌なら断ればよかったでしょう」
「泣かれる方が面倒だ」
「それを優しいって言うんです」
「違う」
カイドウはそっぽを向く。
ウェンディは楽しそうに笑った。
「何がおかしい」
「秘密です」
「最近、そればかりだな」
「カイドウさんが何でも聞くからです」
「気になるだろ」
「それなら、優しく聞いてください」
「どうやってだ」
「普通にです」
「普通が分からん」
「そうでしたね」
ウェンディは、また笑った。
◇◇◇
最初に向かったのは、薬草を扱う店だった。
店内には、乾燥させた草や根、瓶に入った薬液が所狭しと並べられている。
独特な匂いが充満していた。
カイドウは店へ入った瞬間、顔をしかめた。
「薬の匂いだ」
「薬草屋さんですから」
「外で待つ」
「荷物を持ってもらおうと思ったのに」
「おれは荷物運びか」
「一緒に来たんですから、少しくらい手伝ってください」
「酒屋へ行くためだ」
「まだ行きません」
「なぜだ」
「最後です」
「先にしろ」
「酒を持ったまま買い物すると、飲むでしょう」
「飲まん」
「本当ですか?」
「……少ししか」
「飲むんですね!」
ウェンディはカイドウの上着の裾を掴み、店の中へ引っ張った。
もちろん、カイドウの巨体を本当に動かせるはずはない。
それでも、カイドウは抵抗せずについていった。
店主の老婆は、入ってきたカイドウを見て目を丸くした。
「ずいぶん大きなお客さんだね」
「客じゃねェ」
「付き添いです」
ウェンディが答える。
「化猫の宿のカイドウさんです」
「ああ、噂の」
「噂?」
カイドウが眉を寄せる。
「最近、あちこちで聞くよ。魔物を拳一つで吹き飛ばしたとか、盗賊団を全員働かせたとか」
「働かせたわけじゃねェ」
「街道を直させたそうじゃないか」
「壊したのは、あいつらじゃねェ」
「あなたです!」
ウェンディが横から訂正する。
老婆は笑った。
「それに、雷の魔導士と山を半分壊したとも聞いたよ」
「半分はあいつだ」
「そういう問題じゃありません!」
町へ来るまでに、噂はかなり広がっているらしい。
カイドウは面倒そうに鼻を鳴らした。
ウェンディは依頼された薬草の名前を伝え、棚から必要な物を選んでいく。
乾燥した葉。
小さな赤い実。
痛みを抑える根。
包帯へ塗るための薬液。
カイドウは、その様子を後ろから見ていた。
「まだ薬を買うのか」
「カイドウさんの分だけじゃありません」
「誰のだ」
「村の人や、依頼で怪我をした方のためです」
「お前は毎日、そんなことをしてるのか」
「はい」
「面倒じゃねェのか」
「大変な時もあります」
ウェンディは薬草の袋を持ち上げる。
「でも、治って笑ってもらえると嬉しいです」
「それだけか」
「はい」
「金は」
「依頼なら報酬をもらいます。でも、困っている人からはもらわないこともあります」
「損だな」
「そうかもしれません」
「なら、なぜやる」
ウェンディは少し考えた。
「私にできるからです」
短い答えだった。
カイドウは何も言わなかった。
できるからやる。
守る力があるから守る。
ウェンディにとっては、それだけなのだろう。
偉くなりたいわけでもない。
名を広めたいわけでもない。
誰かに感謝されたいわけですらない。
目の前に傷ついた人がいるから治す。
その考え方は、カイドウが知る強者とはあまりにも違った。
「はい。これを持ってください」
ウェンディが袋を差し出す。
カイドウは片手で受け取る。
「軽い」
「まだあります」
二つ目。
三つ目。
包帯の束。
薬瓶。
最後には、カイドウの両腕へいくつもの荷物が載せられた。
「おい」
「何ですか?」
「おれを荷物置きにしてねェか」
「一緒に来てくれたので、助かります」
「自分で持てるだろ」
「カイドウさんが持った方が楽です」
「当然のように言うな」
「嫌ですか?」
ウェンディが見上げる。
カイドウは答えなかった。
嫌なら、すべて置けばいい。
誰もカイドウを止められない。
それでも、彼は荷物を下ろさなかった。
「次へ行くぞ」
「はい!」
ウェンディが嬉しそうに返事をする。
老婆は二人の背中を見ながら、微笑んでいた。
◇◇◇
次は食料品店だった。
小麦粉。
蜂蜜。
野菜。
肉。
宿で必要な物を、ウェンディは一つずつ選んでいく。
カイドウの荷物はさらに増えた。
肩には小麦粉の袋。
片腕には野菜の籠。
もう片方の手には薬草と包帯。
背中には大きな肉の包み。
最強生物というより、買い出し帰りの運搬人だった。
「似合っていますよ」
ウェンディが言う。
「何がだ」
「たくさん持ってくれて、頼もしいです」
「おれを誰だと思ってやがる」
「化猫の宿の魔導士です」
「元は四皇だぞ」
「よんこう?」
ウェンディが首を傾げる。
そういえば、詳しく話したことはなかった。
「海の皇帝だ」
「王様みたいなものですか?」
「似たようなもんだ」
「王様が荷物を持ってくれるんですね」
「お前が持たせたんだろうが」
「でも、持ってくれています」
「……」
カイドウは言い返さなかった。
途中、肉屋の前を通ると、カイドウの足が止まった。
店頭には、大きな骨付き肉が並んでいる。
香辛料をまぶし、炭火で焼かれた肉。
香ばしい匂いが通りへ広がっていた。
「食うぞ」
「買い物が終わってからです」
「今だ」
「荷物があります」
「持ったまま食える」
「お金は?」
「お前が持ってる」
「これは宿のお金です」
「一つくらい構わんだろ」
「駄目です」
ウェンディは財布を両手で守る。
カイドウは肉を見る。
次にウェンディを見る。
「一口だけだ」
「一口で全部食べるでしょう」
「分かってきたな」
「褒めていません!」
肉屋の主人が、二人のやり取りを見て笑った。
「嬢ちゃん。試食ならあるぞ」
小さく切った肉を串へ刺し、二本差し出す。
「ありがとうございます!」
ウェンディが一本受け取る。
もう一本をカイドウへ渡す。
カイドウは串を見た。
肉は小さい。
彼にとっては一口どころか、舌の上へ載せれば消えてしまう量だ。
「少なすぎる」
「試食ですから」
「これは匂いを嗅ぐための物か」
「食べる物です」
カイドウは肉を口へ入れた。
ほんの一瞬でなくなる。
「どうですか?」
「分からん」
「ゆっくり食べてください!」
「小さすぎる」
肉屋の主人が笑いながら、少し大きな肉を切ってくれた。
「これならどうだ」
「話が分かるな」
カイドウは受け取る。
今度は、ウェンディに言われる前にゆっくり噛んだ。
「……うまい」
「よかったですね」
ウェンディも自分の串を口へ運ぶ。
「おいしいです」
二人は店先へ並び、少しの間、何も言わずに肉を食べた。
町の人々は、遠くからその姿を見ていた。
恐ろしい顔をした大男と、小さな少女。
だが、並んで同じ物を食べている姿は、不思議と穏やかに見えた。
「もう一つ」
カイドウが手を出す。
「駄目です」
「なぜだ」
「試食です」
「うまいと言っただろ」
「買ってください」
「金がねェ」
「次の依頼を頑張りましょう」
「今、貸せ」
「借金が増えますよ」
「肉の借金は別だ」
「同じです!」
◇◇◇
買い物は、昼過ぎまで続いた。
最後に向かったのは、カイドウが待ち望んでいた酒屋だった。
店の前へ着いた瞬間。
カイドウの歩く速度が明らかに上がった。
「急に元気になりましたね」
「気のせいだ」
「さっきまで荷物が重いって言っていたのに」
「言ってねェ」
「顔に出ていました」
「出てねェ」
酒屋の扉を開ける。
中には、大小さまざまな瓶や樽が並べられていた。
甘い香り。
樽の木の匂い。
熟成された酒の濃い香り。
カイドウの目が、これまでで一番輝いた。
「天国か」
「酒屋さんです」
「全部買うぞ」
「お金がありません」
「お前が持ってる」
「宿のお金です!」
店主は、入ってきた大男を見て少し怯えた。
だが、カイドウが棚を眺める目があまりにも真剣だったため、恐る恐る話しかける。
「何をお探しで?」
「一番強い酒だ」
「強い、というのは度数ですか?」
「ああ」
「駄目です」
ウェンディが横から口を挟む。
「カイドウさんは怪我が治ったばかりなので、弱いお酒にしてください」
「お前が飲むんじゃねェ」
「治療を担当しています」
「もう治った」
「今朝も薬を飲みました」
「あれは念のためだ」
「私が飲ませました」
「話をややこしくするな」
店主は困った顔で二人を見る。
「どちらの希望を聞けば?」
「おれだ」
「私です」
二人の声が重なった。
店主は、少し考える。
「では、香りがよくて飲みやすい酒はどうでしょう。度数もそれほど高くありません」
「弱い」
「カイドウさん」
「酒は強い方がいい」
「飲み過ぎるでしょう」
「一杯しか許さねェのはお前だ」
「なら弱い物で十分です」
「一杯だから強い物がいい」
「逆です!」
言い争いが始まる。
店主は笑いを堪えながら、棚から一本の瓶を取り出した。
「これは、この町で作られた果実酒です。甘みがありますが、香りは豊かですよ」
ウェンディが瓶を見る。
「これなら、一杯だけ飲んでも大丈夫ですか?」
「食後なら問題ないでしょう」
「おい」
カイドウが低い声を出す。
「誰の酒だ」
「カイドウさんのです」
「なぜ、お前が決める」
「飲む量を管理する約束です」
「約束した覚えはねェ」
「毎日言っています!」
ウェンディは瓶の値段を見る。
宿から預かった金で買える範囲だった。
「これを一本ください」
「勝手に決めるな」
「嫌ですか?」
「……」
カイドウは瓶を見る。
弱い酒。
甘い果実酒。
元の世界なら、選ぶことはなかっただろう。
だが、ウェンディが一生懸命選んでいる。
「試飲はあるか」
カイドウが店主へ尋ねる。
「ありますよ」
小さな杯へ少量が注がれる。
カイドウは受け取り、香りを嗅ぐ。
果実の甘い匂い。
次に、一口だけ飲む。
「どうですか?」
ウェンディが尋ねる。
「……悪くねェ」
「では、これにしましょう」
「もう一杯、試す」
「試飲は一杯です!」
「味を忘れた」
「今飲んだばかりです!」
結局、果実酒を一本買うことになった。
カイドウは瓶を自分で持とうとしたが、ウェンディが受け取った。
「何でお前が持つ」
「帰る途中で飲まないようにです」
「飲まん」
「本当ですか?」
「……少ししか」
「やっぱり飲むんですね!」
ウェンディは瓶を籠の一番奥へ入れ、薬草と包帯で隠した。
カイドウは、その場所をしっかり見ていた。
「見ても駄目です」
「見てねェ」
「ずっと籠を見ています」
「薬草を見てた」
「一番嫌いな物でしょう!」
◇◇◇
町を出る前。
二人は広場の噴水近くで休憩することにした。
ウェンディは石の縁へ座り、足をぶらぶらさせる。
カイドウは荷物を地面へ置き、噴水の横へ胡坐をかいた。
長時間持っていたにもかかわらず、疲れた様子はない。
「今日は、ありがとうございました」
ウェンディが言う。
「何がだ」
「荷物を持ってくれて」
「軽かった」
「でも、助かりました」
「お前が持たせたんだろ」
「それでもです」
ウェンディは小さな紙袋を取り出す。
食料品店で買った菓子だった。
丸い焼き菓子が二つ入っている。
「一つどうぞ」
「甘いのか」
「はい」
「肉は」
「ありません」
「いらん」
「本当に?」
ウェンディが一つ食べる。
さく、と軽い音がした。
「おいしいです」
カイドウは焼き菓子を見る。
「一つだけか」
「二つあります」
「なら一つ寄越せ」
「いらないって言いましたよね」
「気が変わった」
ウェンディは笑いながら、もう一つを渡した。
カイドウは大きな指で摘む。
小さな菓子は、彼の手の中でさらに小さく見える。
「一口で食べないでくださいね」
「分かってる」
カイドウは半分だけ齧った。
甘い香りが口の中へ広がる。
外側は少し硬く、中は柔らかい。
「どうですか?」
「甘い」
「甘いお菓子ですから」
「悪くねェ」
「カイドウさん、甘い物が好きなんですね」
「違う」
「おいしいって顔をしています」
「してねェ」
「もう半分も食べています」
「腐るからだ」
「買ったばかりです!」
カイドウは残りを口へ入れた。
ウェンディは楽しそうに笑う。
しばらく、二人は噴水の水音を聞いていた。
町の人々が行き交う。
子供たちが走り。
商人たちが声を上げ。
どこかの店から料理の香りが漂ってくる。
カイドウは、その光景を静かに眺めていた。
「カイドウさん」
「何だ」
「元の世界にも、こういう町はありましたか?」
「ああ」
「どんなところだったんですか?」
カイドウは少し考える。
ワノ国。
鬼ヶ島。
花の都。
百獣海賊団の支配する土地。
町はあった。
人々も暮らしていた。
だが、目の前の町とは違う。
自分が歩けば、人々は恐怖で道を空けた。
笑い声は消え。
頭を下げ。
視線を合わせる者すらほとんどいなかった。
今も、この町の者たちはカイドウを警戒している。
だが、先ほどの少年は近づいてきた。
肉屋は試食を渡した。
酒屋の店主も笑っていた。
隣では、ウェンディが普通に菓子を食べている。
「似てるようで、違ェな」
カイドウが答える。
「違う?」
「おれがいた場所では、誰もおれの近くで笑わなかった」
ウェンディは菓子を食べる手を止めた。
「怖がられていたんですか?」
「ああ」
「カイドウさんは、強かったから?」
「それだけじゃねェ」
カイドウは噴水へ視線を向ける。
「おれが、そうさせた」
短い言葉。
だが、その中には多くのものが含まれていた。
奪い。
支配し。
恐怖を与え。
逆らう者を潰してきた。
誰も近づかないのは当然だった。
ウェンディは、すぐには何も言わなかった。
「後悔しているんですか?」
やがて、静かに尋ねる。
「知らん」
カイドウは答える。
「後悔したところで、消えるもんじゃねェ」
「そうですね」
ウェンディは否定しなかった。
無理に慰めることもしない。
「でも、今は違います」
「あ?」
「化猫の宿では、みんなカイドウさんの近くで笑っています」
「おれを笑ってるだけだろ」
「それでも笑っています」
「白狸は毎日怒鳴ってるぞ」
「シャルルは、カイドウさんを心配しているんです」
「どこがだ」
「昨日、夜中に毛布を掛け直していましたよ」
「……」
カイドウは黙った。
夜中、目を覚ました時。
確かに毛布が肩まで掛けられていた。
ウェンディだと思っていたが、シャルルだったらしい。
「マスターも、宿のみんなも、カイドウさんが帰ってくると安心しています」
「なぜだ」
「仲間だからです」
ウェンディは微笑んだ。
「カイドウさんが強いからだけじゃありません」
その言葉に、カイドウは答えなかった。
強さ以外の理由で必要とされる。
その感覚を、彼は知らなかった。
百獣海賊団の者たちは、カイドウの力へ集まった。
敵を恐れさせる圧倒的な力。
国を支配し、世界と戦える力。
それがなくなれば、どれほどの者が残っただろう。
だが、化猫の宿では。
薬を嫌がる。
皿を割る。
椅子を壊す。
酒を勝手に飲もうとする。
そんなカイドウを、ウェンディたちは追い出さなかった。
「カイドウさん」
「何だ」
「化猫の宿は、嫌いですか?」
カイドウは目を細める。
「面倒な場所だ」
「はい」
「酒は自由に飲めねェ」
「飲み過ぎるからです」
「薬はまずい」
「体にいいです」
「皿を洗わされる」
「割らなくなってきましたね」
「白狸はうるせェ」
「シャルルです」
「ジジイは借金ばかり増やす」
「壊すからです」
「お前は細けェ」
「カイドウさんが大雑把なんです」
ウェンディは笑う。
「それで、嫌いですか?」
カイドウは少し黙った後。
小さく鼻を鳴らした。
「嫌いなら、とっくに出てる」
それだけだった。
だが、ウェンディの表情は明るくなった。
「よかったです」
「何がだ」
「秘密です」
「またか」
カイドウは不満そうに言った。
だが、その口元はわずかに緩んでいた。
◇◇◇
化猫の宿へ戻る頃には、夕方になっていた。
ウェンディは歩きながら何度もカイドウを見上げる。
カイドウは大量の荷物を持っている。
それでも足取りは変わらない。
「疲れましたか?」
「誰に聞いてる」
「私は少し疲れました」
「なら肩に乗れ」
「走りませんか?」
「今日は走らん」
「本当ですか?」
「ああ」
ウェンディは少し迷った後。
「お願いします」
カイドウは荷物を一度地面へ置く。
大きな手でウェンディを持ち上げ、自分の肩へ座らせた。
以前のように襟元を掴むのではなく、今日は丁寧だった。
「落ちるなよ」
「ゆっくり歩いてくださいね」
「ああ」
カイドウは荷物を持ち直し、歩き始める。
ウェンディは、念のため片手をカイドウの角へ添えた。
「引っ張るな」
「添えているだけです」
「髪でもいい」
「痛いでしょう?」
「角よりはましだ」
「では、肩につかまります」
ウェンディはカイドウの頭の後ろへ手を置く。
高い場所から見る夕暮れの草原は、行きとは違って見えた。
「高いですね」
「そうか」
「遠くまで見えます」
「お前が小さいだけだ」
「まだ成長します!」
「どのくらいだ」
「カイドウさんよりは小さいと思いますけど」
「なら、ずっと小娘だな」
「ウェンディです!」
カイドウが笑う。
「ウォロロロ」
ウェンディは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
風が吹く。
水色の髪が揺れ、カイドウの頬へ触れる。
「カイドウさん」
「何だ」
「今日は楽しかったです」
「買い物だけだぞ」
「はい」
「敵もいなかった」
「平和でよかったです」
「退屈だった」
「お菓子はおいしかったでしょう?」
「まあな」
「町の人とも話せました」
「勝手に話しかけてきた」
「子供に鱗を触らせていました」
「うるさかったからだ」
「酒も買えました」
「一杯しか飲ませねェんだろ」
「夕食の後に一杯です」
「二杯」
「一杯です」
「今日は荷物を全部持った」
「ありがとうございます」
「なら二杯だ」
「お礼と飲酒量は別です」
「細けェな」
いつもの言い争い。
だが、声はどこか穏やかだった。
「明日も買い物に行くか」
カイドウが言う。
「必要な物は買いましたよ」
「何かなくせ」
「わざとですか!?」
「酒を買う理由がいる」
「理由がなくても、報酬で買えます」
「金がねェ」
「依頼を頑張りましょう」
「面倒だ」
「その言葉は禁止です!」
ウェンディの声が草原へ響く。
鳥たちが驚き、空へ飛び立った。
カイドウは、肩に乗る少女を落とさないよう、いつもよりずっとゆっくり歩いていた。
◇◇◇
宿へ戻ると、シャルルが入り口で待っていた。
「遅かったわね」
「ただいま、シャルル」
「買い物だけで、どうしてこんな時間になるのよ」
「町で少し休憩していました」
ウェンディはカイドウの肩から降りる。
シャルルは大量の荷物を見る。
「全部カイドウが持ったの?」
「はい」
「意外ね」
「何がだ、白狸」
「途中で投げ出すと思っていたわ」
「軽かった」
「カイドウさん、とても助かりました」
ウェンディが言う。
シャルルは少し驚いたようにカイドウを見る。
「そう」
「何だ」
「別に」
「言いたいことがあるなら言え」
「少しは役に立つようになったと思っただけよ」
「おれは最初から役に立ってる」
「壊した物の方が多いでしょう」
「今日は何も壊してねェ」
カイドウが胸を張る。
その瞬間。
肩に載せていた小麦粉の袋が、入り口の梁へ引っかかった。
袋が破れる。
白い粉が、カイドウの頭上から降り注いだ。
黒い髪。
肩。
上着。
顔。
全身が真っ白になる。
ウェンディとシャルルは固まった。
カイドウは、しばらく動かなかった。
「……」
頭の上から、小麦粉がさらさらと落ちる。
シャルルの肩が震え始めた。
「笑うな」
「わ、笑ってないわ」
「顔を見ろ」
ウェンディが言う。
「カイドウさん、真っ白です」
「見りゃ分かる」
「白龍みたいです」
「おれは青龍だ」
ウェンディは我慢できず、笑い出した。
「ご、ごめんなさい」
「笑ってるじゃねェか」
「だって、髪まで真っ白で……」
シャルルもついに吹き出した。
「白狸が一人増えたわね」
「誰が白狸だ!」
「あなたでしょう!」
「お前だ!」
「私はエクシードよ!」
二人が言い争う。
そこへ、ローバウルが広間から出てきた。
真っ白になったカイドウを見て、目を丸くする。
「何があったのじゃ?」
「梁が悪い」
カイドウが答える。
「屈まなかったあなたが悪いのよ」
シャルルが言う。
「荷物が多かった」
「だから、ゆっくり入ればよかったでしょう」
ウェンディも続ける。
ローバウルは破れた小麦粉の袋を見る。
「小麦粉代は、カイドウの借金へ追加じゃな」
「待て、ジジイ」
「何じゃ?」
「今日は全部持って帰った」
「最後にこぼした」
「半分は残ってる」
「では半額じゃな」
「なぜ借金になる!」
「壊したからじゃ」
いつものやり取りが始まる。
化猫の宿の者たちが広間から集まり、真っ白なカイドウを見て笑った。
以前のカイドウなら、笑われた瞬間に怒りを見せたかもしれない。
だが今は。
「ウォロロロロ!」
自分も笑った。
大きな笑い声が宿へ響く。
ウェンディは、その横で楽しそうに笑っていた。
◇◇◇
夕食後。
カイドウは広間の床へ座り、約束の果実酒を飲んでいた。
ウェンディが選んだ、甘く香りのよい酒。
大きな杯へ一杯だけ。
「どうですか?」
ウェンディが隣へ座る。
「悪くねェ」
「町で飲んだ時も、そう言っていました」
「弱いがな」
「飲み過ぎなくていいでしょう」
「もう一杯」
「駄目です」
「今日は荷物を持った」
「ありがとうございます」
「小麦粉も半分残した」
「半分こぼしました」
「お前を肩に乗せた」
「それも、ありがとうございます」
「なら二杯だ」
「全部、お酒とは関係ありません」
「お前は礼を言うだけか」
「では、代わりに肩を揉みましょうか?」
「肩を?」
「荷物をたくさん持って、疲れたでしょう?」
「疲れてねェ」
「でも、少しくらい」
ウェンディはカイドウの後ろへ回る。
巨大な背中。
肩も、ウェンディの両手では覆えないほど広い。
小さな手で、ゆっくり押してみる。
「硬いです」
「鍛えてるからな」
「もう少し力を入れますね」
ウェンディは両手へ力を込める。
だが、カイドウにはほとんど感じない。
「弱ェ」
「頑張っています!」
「その程度じゃ、虫が乗ったのと同じだ」
「失礼です!」
ウェンディは頬を膨らませ、天空魔法で風をまとわせる。
手のひらに柔らかな風を集め、肩へ押し当てた。
「これはどうですか?」
温かな風が筋肉をほぐしていく。
カイドウは少し目を細めた。
「……悪くねェ」
「本当ですか?」
「ああ」
「では、もう少し続けますね」
ウェンディは嬉しそうに笑った。
カイドウは酒を少しずつ飲みながら、黙って肩を揉まれていた。
広間は静かだった。
暖炉の火。
夜風。
遠くから聞こえる森の音。
「カイドウさん」
「何だ」
「また、一緒に買い物へ行きましょうね」
「酒を買うならな」
「ほかの物もです」
「酒が先だ」
「薬草が先です」
「面倒だな」
「その言葉は禁止です」
「なら、酒の次に薬草だ」
「逆です」
「細けェ」
「カイドウさんが大雑把なんです」
ウェンディは笑う。
カイドウも、小さく笑った。
「ウォロロ」
最強生物と呼ばれた男。
天空の滅竜魔導士の少女。
元の世界なら、決して出会うことのなかった二人。
その一日は、戦いもなく。
魔物も現れず。
町が壊れることもなかった。
ただ買い物をして。
菓子を食べ。
同じ道を歩き。
帰りには肩へ乗せて帰っただけ。
カイドウにとっては、あまりにも小さな一日。
だが。
戦いばかりだった彼の人生の中では、何よりも珍しい一日だった。
「おい、ウェンディ」
「はい?」
「酒、もう一杯」
「駄目です」
「肩を貸した」
「肩を揉んでいます」
「荷物も持った」
「感謝しています」
「なら、一口だけ」
「駄目です」
「半口」
「どうやって飲むんですか?」
「少しだ」
「駄目です」
「……細けェな」
「明日も薬ですからね」
「なぜだ!」
「今日、小麦粉をかぶって冷えたでしょう?」
「それで薬を飲むのか!」
「念のためです」
「酒の方が温まる!」
「駄目です!」
穏やかだったはずの夜。
最後はやはり、酒と薬を巡る言い争いで終わった。
それでも。
化猫の宿の窓から漏れる光は、どこか温かかった。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!