『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第7話 最強生物、親バカになる
化猫の宿へ百獣のカイドウが落ちてきてから、すでに幾日かが過ぎていた。
最初の頃。
宿の者たちは、広間の中央に座るカイドウへ近づくだけでも緊張していた。
巨大な体。
二本の角。
鋭い眼光。
全身に刻まれた無数の傷。
少し機嫌を損ねただけで、建物ごと吹き飛ばされるのではないか。
誰もが、そう思っていた。
事実、建物は何度も壊れていた。
だが、そのほとんどは怒ったからではない。
椅子へ少し強く座った。
扉を開ける時に力を入れ過ぎた。
角が梁へ引っかかった。
薪をまとめて割ろうとした。
皿を優しく握ったつもりだった。
本人に悪意はない。
悪意がないからこそ、余計に始末が悪かった。
しかし今では、宿の者たちもすっかり慣れている。
カイドウが朝から酒を要求しても。
ウェンディに薬を飲まされて顔を歪めても。
シャルルと白狸だ、エクシードだと言い争っても。
それらはすべて、化猫の宿の日常になっていた。
そしてその日。
化猫の宿では、いつもより少し慌ただしい朝を迎えていた。
「ウェンディ、動くな」
「え?」
広間の中央。
食事を終えて席を立とうとしたウェンディの前へ、カイドウの巨大な手が伸びた。
ウェンディは驚いて目を閉じる。
だが、カイドウの指が触れたのは、彼女の頬だった。
正確には、頬についていたパン屑である。
「ついてたぞ」
カイドウは指先のパン屑を見せた。
ウェンディは、自分の頬へ手を当てる。
「あ……ありがとうございます」
「口の周りを汚すな。ガキじゃあるめェし」
「まだ子供です!」
シャルルが机の上から指摘した。
「それに、あなたも昨日、髪に肉の骨を引っかけていたでしょう」
「あれは骨が勝手に飛んできた」
「あなたが肉へかぶりついたからよ!」
カイドウはシャルルを無視し、ウェンディの服装を見た。
首元。
袖。
靴。
何か問題がないか確認するような目だった。
「上着が薄いな」
「今日は暖かいですよ」
「朝は冷える」
「大丈夫です」
「風邪を引くぞ」
「カイドウさんこそ、胸元を開けていますよね」
カイドウは自分の服を見る。
いつもの黒い上着は、胸元が大きく開いていた。
そもそも彼の体に合う服が少ないため、前を完全に閉じることができない。
「おれは引かん」
「私も引きません」
「お前とおれは違う」
「どう違うんですか?」
「体が小せェ」
「小さいからって、すぐに風邪を引くとは限りません!」
ウェンディが頬を膨らませる。
カイドウは少し考えた後、自分が肩へ掛けていた大きな外套を取った。
それをウェンディの頭から被せる。
「きゃっ!」
大きすぎる外套が、ウェンディの全身を包み込んだ。
裾は床へ広がり、袖の中へ腕が完全に隠れてしまう。
水色の髪と顔だけが、黒い布の間から覗いていた。
「これでいい」
「よくありません!」
ウェンディが外套の中でもがく。
「前が見えません!」
「顔は出てるだろ」
「大きすぎます!」
「暖かいぞ」
「歩けません!」
ウェンディが一歩踏み出そうとする。
裾を自分で踏み、前へ倒れかけた。
カイドウの手が即座に伸びる。
外套ごと持ち上げられたウェンディは、まるで黒い布に包まれた人形のようになった。
「危ねェな」
「カイドウさんのせいです!」
ウェンディが外套から顔を出し、抗議する。
広間にいた魔導士たちから、小さな笑い声が漏れた。
「何だ」
カイドウが周囲を睨む。
笑っていた者たちは一瞬で口を閉じた。
だが、その中にいた一人の女性魔導士が、微笑みながら言った。
「親子みたいだと思って」
「親子?」
ウェンディが首を傾げる。
「ええ。カイドウさんが、娘を心配するお父さんみたいで」
「誰がお父さんだ!」
カイドウの怒声が広間を揺らした。
窓がびりびりと震える。
ウェンディは驚いて肩を跳ねさせた。
「大声を出さないでください!」
「おれは父親じゃねェ!」
「そんなに強く否定しなくてもいいでしょう」
シャルルが呆れたように言う。
「町でも親子に間違われていたじゃない」
「あれはガキが勝手に言っただけだ」
「一緒に買い物へ行って、荷物を持って、帰りにはウェンディを肩へ乗せていたのでしょう?」
「疲れたと言うからだ」
「夜は肩を揉んでもらったそうね」
「荷物を持った礼だ」
「今朝は頬のパン屑を取って、寒くないように外套を着せた」
「小娘が風邪を引くと面倒だからだ」
「十分、お父さんみたいじゃない」
「違ェ!」
カイドウは再び否定した。
だが、先ほどよりも声は小さかった。
父親。
その言葉が、胸の奥へ引っかかったからだ。
カイドウはウェンディを床へ下ろし、外套を乱暴に剥ぎ取った。
「好きにしろ」
「急にどうしたんですか?」
「何でもねェ」
外套を肩へ掛け直す。
そして食堂の奥へ向かおうとした。
「カイドウさん」
「何だ」
「怒っていますか?」
「怒ってねェ」
「でも……」
「薬でも作ってろ」
「今日の分は、もう飲みましたよね」
「なら皿でも洗ってろ」
「今日はカイドウさんの当番です」
カイドウの足が止まる。
「……忘れてた」
「忘れたふりですよね?」
広間へ笑い声が広がった。
カイドウは面倒そうに舌打ちしながら、厨房へ向かった。
だが。
その背中からは、普段とは違う重い気配が漂っていた。
◇◇◇
父親。
カイドウに、その言葉を名乗る資格があるのか。
皿洗い場の前に立ちながら、カイドウは無言で一枚の皿を握っていた。
「カイドウさん」
「……」
「カイドウさん?」
「……」
「力が入っています!」
ウェンディの声に、カイドウは我に返った。
手の中の皿を見る。
木製の皿は大きく歪み、中央にひびが走っていた。
「割れてねェ」
「割れる直前です!」
ウェンディが慌てて皿を受け取る。
「どうしたんですか? 今日はぼんやりしていますよ」
「何でもねェ」
「何でもない人は、洗っている途中で皿を握り潰しません」
「潰してねェ」
「潰れかけています!」
ウェンディは皿を流し台へ置いた。
カイドウは大きな布を持ち、別の皿を洗い始める。
以前と比べれば、かなり上達していた。
最初は二十三枚も割った男が、今では何枚も続けて洗えるようになっている。
もっとも、考え事をすれば、すぐに力が入る。
「さっきのことを気にしているんですか?」
ウェンディが尋ねた。
「あ?」
「親子みたいって言われたことです」
「気にしてねェ」
「では、どうして急に黙ったんですか?」
「皿洗いに集中してる」
「さっき、皿を壊しかけました」
「この皿が脆い」
「また物のせいにするんですか?」
ウェンディはカイドウの横顔を見上げる。
普段なら、言い返す。
白狸へ向けるような悪態を吐き、話を終わらせる。
だが、今日は違った。
カイドウは黙って皿を洗い続けている。
「カイドウさんには、お子さんがいるんですか?」
その一言で。
カイドウの手が完全に止まった。
水の流れる音だけが聞こえる。
ウェンディは、自分が聞いてはいけないことを聞いたのではないかと不安になった。
「ご、ごめんなさい。話したくないなら――」
「いる」
低い声だった。
「一人な」
「そうなんですか?」
「ああ」
「男の子ですか? 女の子ですか?」
「娘だ」
カイドウは皿を水の中へ置く。
水面へ、自分の顔がぼんやり映る。
「ヤマトって名だ」
久しぶりに口にした名。
鬼ヶ島で、自分へ反抗し続けた実の子。
自らを光月おでんと名乗り。
父親であるカイドウを憎み。
鬼ヶ島から出ようとし続けた娘。
カイドウの脳裏へ、昔の光景が蘇る。
◇◇◇
幼いヤマトは、いつも騒がしかった。
傷だらけになっても立ち上がり。
腹を空かせても頭を下げず。
鎖をつけられても、自由を諦めなかった。
『ボクは光月おでんになる!』
あの言葉を、何度聞いたか分からない。
カイドウにとって、光月おでんは敵だった。
強者として認めた男。
自分の体へ、消えない傷を残した侍。
そして、最も納得できない形で敗北した相手。
その名を、自分の子が名乗った。
腹が立った。
許せなかった。
自分の後を継ぐべき子が、敵へ憧れた。
だから殴った。
何度も。
鬼ヶ島を出られないよう、爆発する手枷をつけた。
自分へ逆らうなら、力で従わせればいい。
それがカイドウの知る親のあり方だった。
百獣のカイドウにとって、強さこそがすべてだった。
弱ければ奪われる。
従わなければ死ぬ。
自分の子なら、誰よりも強くならなければならない。
そのためなら、何をしても構わない。
そう思っていた。
だが。
それは本当に、子を思う父親の行いだったのか。
今さら考えたところで。
答えは、とうに分かっていた。
◇◇◇
「ヤマトさん」
ウェンディの声が、カイドウを現在へ引き戻す。
「ああ」
「どんな人ですか?」
「馬鹿だ」
「最初にそれを言うんですか?」
「人の話を聞かねェ。勝手に敵へ憧れる。何度殴っても考えを変えねェ」
「……カイドウさんが殴ったんですか?」
ウェンディの表情が曇る。
カイドウは誤魔化さなかった。
「ああ」
「どうして?」
「おれに逆らったからだ」
「それだけで?」
「それだけじゃねェ。おれの敵を名乗った」
「でも、娘さんですよね」
「ああ」
「娘さんなら、話を聞いてあげればよかったのに」
ウェンディは責めるような口調ではなかった。
ただ、純粋に分からないという顔をしている。
それが、カイドウには余計に堪えた。
「おれの世界じゃ、話し合いで何もかも決まるわけじゃねェ」
「だから、殴ったんですか?」
「ああ」
「娘さんは痛かったと思います」
「……」
「悲しかったと思います」
カイドウは答えなかった。
ヤマトがどのような顔をしていたか。
覚えている。
怒り。
憎しみ。
それでも折れない意志。
父親を父親とも思わない目。
「今、ヤマトさんに会いたいですか?」
ウェンディが尋ねた。
カイドウはしばらく黙っていた。
「分からん」
ようやく出た答えは、曖昧なものだった。
「会って、何を言えばいい」
「謝ればいいと思います」
簡単に言われ、カイドウは眉を寄せる。
「おれがか?」
「はい」
「誰に頭を下げろと言ってやがる」
「娘さんにです」
「おれは百獣のカイドウだぞ」
「お父さんでもあるんですよね?」
「……」
カイドウは言葉を失った。
ウェンディは少し考え、続ける。
「謝ったからって、すぐに許してもらえるとは限りません」
「ああ」
「でも、言わないと伝わらないと思います」
「お前は簡単に言うな」
「簡単じゃないです」
ウェンディは、カイドウの大きな手へ自分の手を重ねた。
皿を洗っていたため、少し濡れている。
「私も、グランディーネに言いたいことがたくさんあります」
「グランディーネ?」
「私を育ててくれたドラゴンです」
ウェンディの表情に、寂しさが浮かぶ。
「ある日、突然いなくなってしまいました」
「死んだのか」
「分かりません」
「そうか」
「どうしていなくなったのか。私のことが嫌いになったのか。聞きたいことがたくさんあります」
ウェンディは小さく笑った。
「もし、また会えたら。寂しかったって言いたいです。でも、会えて嬉しいとも言いたいです」
「恨んでねェのか」
「少しだけ怒るかもしれません」
「怒るのか」
「当然です」
ウェンディは頬を膨らませる。
「何も言わずにいなくなったんですから」
その姿に、カイドウはわずかに口元を緩めた。
「お前でも怒るんだな」
「怒ります!」
「怖くねェな」
「カイドウさんには言われたくありません!」
ウェンディは手を離し、洗い終わった皿を重ねる。
「ヤマトさんも、カイドウさんへ言いたいことがあると思います」
「罵声しか出てこねェだろうな」
「それでも聞いてあげてください」
「……会えたらな」
カイドウは小さく答えた。
その時。
「ウェンディ!」
厨房の外から、魔導士の一人が駆け込んできた。
「村から急患だ! 森で魔物に襲われた子供が運ばれてきた!」
「すぐ行きます!」
ウェンディの表情が一変する。
濡れた手を拭き、治療道具を取りに走り出した。
カイドウも皿洗いを止める。
「おれも行く」
「カイドウさんは皿を――」
「後だ」
低い声。
先ほどまでとは違う。
敵へ向けるような鋭い目だった。
「小娘一人に何かあったら面倒だ」
「宿の中ですよ?」
「魔物が追ってくるかもしれん」
「たぶん来ません」
「念のためだ」
カイドウはウェンディの後を追った。
洗いかけの皿を残したまま。
それが後でシャルルに怒られる原因になるとは、この時はまだ誰も気にしていなかった。
◇◇◇
運び込まれたのは、十歳ほどの少年だった。
森の中で薬草を集めていたところ、小型の魔物に襲われたらしい。
右腕には爪で切り裂かれた傷。
足首も大きく腫れている。
少年は痛みに顔を歪め、何度も母親の名を呼んでいた。
「大丈夫です」
ウェンディは少年の横へ座る。
「すぐに治しますから」
青白い光が、両手から溢れ出す。
柔らかな風が少年の傷を包み込む。
出血が止まり、切り裂かれた皮膚が少しずつ塞がっていく。
カイドウは、部屋の入り口に立っていた。
大きな体が邪魔になり、中へ入ると治療の妨げになるためだ。
「カイドウさん」
ウェンディが振り返る。
「そこに立っていると、患者さんが怖がります」
少年は涙目でカイドウを見ていた。
確かに、怖がっている。
「おれは何もしてねェ」
「顔が怖いんです」
「生まれつきだ」
「外で待っていてください」
「断る」
「どうしてですか?」
「危険がある」
「ここは化猫の宿です」
「窓から敵が来るかもしれん」
「来ません」
「天井から落ちてくるかもしれん」
「カイドウさんじゃないんですから!」
周囲の者たちが笑いを堪える。
カイドウは納得していない様子だったが、扉から一歩だけ離れた。
それでも、少年から目を離さない。
正確には、少年を治療するウェンディから。
ウェンディが魔力を使うたび。
少し息を吐くたび。
カイドウの眉間の皺が深くなる。
「おい」
「何ですか?」
「魔力を使い過ぎるな」
「大丈夫です」
「顔が白いぞ」
「いつも通りです」
「汗が出てる」
「治療中ですから」
「休め」
「まだ終わっていません」
「他の奴にやらせろ」
「私が一番得意です」
「無理をするな」
「していません!」
ウェンディは治療を続ける。
だが、カイドウは落ち着かない。
部屋の前を何度も歩き。
窓の外を確認し。
屋根を見上げ。
不審者がいないか気配を探る。
「何をしているの?」
遅れてやってきたシャルルが尋ねる。
「見張りだ」
「何の?」
「敵が来る」
「ここは宿よ」
「だから油断する」
「誰が襲ってくるのよ」
「知らん」
「知らない相手を警戒しているの?」
「ああ」
シャルルは、部屋の中のウェンディを見る。
次に、落ち着きなく歩くカイドウを見る。
そして、すべてを理解した。
「親バカね」
カイドウの足が止まった。
「誰がだ」
「あなたよ」
「違ェ」
「ウェンディが少し汗をかいただけで、さっきから何度休めと言ったの?」
「魔力を使い過ぎると倒れる」
「ウェンディは治癒魔導士よ」
「小せェ体で無理をしてる」
「いつものことよ」
「いつも無理をしてるのか!」
カイドウの声が大きくなる。
治療中の少年が驚き、体を震わせた。
「大声を出さないでください!」
ウェンディが振り返る。
「患者さんが怖がっています!」
「おれは、お前が――」
「静かにしてください!」
「……」
カイドウは黙った。
シャルルは片目を細める。
「完全に親バカじゃない」
「違ェ」
「では、なぜそんなに心配しているの?」
「こいつが倒れたら、おれの薬を作る奴がいなくなる」
「薬を嫌がっているでしょう」
「それとこれとは別だ」
「言い訳が苦しくなっているわよ」
「うるせェ白狸だな」
「エクシードよ!」
少年の治療は、無事に終わった。
傷は塞がり、腫れていた足首も動かせるようになっている。
「痛くない!」
少年が嬉しそうに声を上げる。
「よかったです」
ウェンディは額の汗を拭い、優しく微笑んだ。
その瞬間。
カイドウの大きな手が、ウェンディの脇へ入った。
「え?」
ウェンディの体が持ち上がる。
そのままカイドウの腕の上へ座らされた。
「カイドウさん?」
「休め」
「治療は終わりました」
「だから休め」
「自分で歩けます」
「魔力を使った」
「いつものことです!」
「今日はもう何もするな」
「まだ薬草の整理が――」
「おれがやる」
その場にいた全員が固まった。
シャルルが聞き返す。
「あなたが?」
「ああ」
「薬草の違いも分からないでしょう」
「全部同じ場所へ置けばいい」
「絶対に触らないで!」
ウェンディがカイドウの腕の上で叫ぶ。
「薬草によって効能が違うんです!」
「なら、白狸にやらせる」
「私はエクシードよ! それに、私へ押しつけないで!」
「おれは小娘を休ませる」
「ウェンディです!」
カイドウはウェンディを抱えたまま、広間へ向かった。
「下ろしてください!」
「駄目だ」
「どうしてですか?」
「疲れてる」
「疲れていません!」
「さっき汗をかいてた」
「治療したからです!」
「顔色も悪い」
「いつも通りです!」
「体が軽い」
「それは元からです!」
カイドウは聞く耳を持たない。
ウェンディを広間の大きな椅子へ座らせる。
背中へクッションを置き。
膝へ毛布を掛け。
水差しを机の上へ置いた。
「ここから動くな」
「病人じゃありません!」
「薬を飲め」
「カイドウさんにだけは言われたくありません!」
「蜂蜜を入れる」
「薬は必要ありません!」
「果物を食え」
「さっき朝ご飯を食べました!」
「肉は」
「いりません!」
「なら菓子だ」
「どうして、次々と食べさせようとするんですか!」
カイドウは困ったように眉を寄せる。
「ガキは食えば育つ」
「考え方が大雑把すぎます!」
シャルルが追いつき、呆れた表情で二人を見る。
「もう認めなさい」
「何をだ」
「親バカが発動しているわ」
「発動してねェ」
「ウェンディを抱えて運び、毛布を掛け、水を用意して、食べ物を与えようとしているのよ」
「弱ェから守ってるだけだ」
「私は弱くありません!」
ウェンディが抗議する。
カイドウの目が細くなる。
「弱い」
「天空の滅竜魔導士です!」
「小せェ」
「大きさは関係ありません!」
「細い」
「普通です!」
「軽い」
「カイドウさんが大きすぎるんです!」
「風が吹けば飛ぶ」
「飛びません!」
「前に吹き飛んだ」
「カイドウさんとラクサスさんが戦った時です!」
「あの雷の小僧……」
カイドウの顔が険しくなる。
「次に会ったら、ウェンディを吹き飛ばした分まで殴る」
「やめてください!」
「やっぱり親バカね」
シャルルが言う。
「違ェ!」
否定する声だけが、広間へ大きく響いた。
◇◇◇
その日から。
カイドウの親バカは、急速に悪化した。
本人は一切認めていない。
だが、行動は誰が見ても明らかだった。
ウェンディが水桶を持とうとすれば。
「置け」
「これくらい持てます」
「腰を痛める」
「そんなに重くありません!」
カイドウが代わりに持った。
ただし、両手に水桶を持ったまま入り口を通り、角を梁へ引っかけて水をすべてこぼした。
ウェンディが厨房で包丁を握れば。
「何をしてる」
「野菜を切っています」
「危ねェ」
「毎日やっています!」
「手を切るぞ」
「気をつけます」
「おれがやる」
「絶対に駄目です!」
止める間もなく、カイドウが包丁を握った。
人参を一本切ろうとしただけで、まな板ごと真っ二つになった。
「ほら、切れたぞ」
「まな板までです!」
ウェンディが外へ出ようとすれば。
「どこへ行く」
「薬草を採りに、森まで」
「危険だ」
「いつも行っています」
「魔物がいる」
「小さな魔物しかいません」
「毒虫もいる」
「気をつけます」
「崖から落ちる」
「崖の近くには行きません!」
「おれも行く」
「カイドウさんが来ると、薬草まで踏み潰します!」
「浮けばいい」
「龍にならないでください!」
カイドウは結局、人獣型の尻尾を出し、ウェンディの後ろをついて歩いた。
魔物が現れれば、ウェンディが気づくより早く睨みつける。
小さな兎に似た魔物でさえ、覇気に当てられて気絶した。
「かわいそうです!」
「お前を狙ってた」
「木の実を食べていただけです!」
「油断させる作戦だ」
「そんなわけありません!」
薬草を摘む間も。
カイドウは、ウェンディの周囲を見張り続けた。
風が少し強く吹けば、自分の体で風を遮る。
枝が頭上から落ちれば、指先で弾く。
泥があれば、ウェンディが踏む前に岩を置く。
その岩が大きすぎて、逆に道を塞いだ。
「カイドウさん」
「何だ」
「もう少し離れて歩いてください」
「なぜだ」
「近すぎて薬草に日が当たりません」
カイドウの巨体が、ウェンディと薬草を完全に影へ入れていた。
「日焼けするぞ」
「少しくらい大丈夫です!」
「体に悪い」
「そんなに心配しなくても平気です!」
「心配してねェ」
「では、どうしてずっと後ろにいるんですか?」
「見張りだ」
「何の?」
「全部だ」
「やっぱり心配しているじゃないですか!」
ウェンディの声が森へ響く。
少し離れた場所から様子を見ていたシャルルは、深い溜息を吐いた。
「重症ね」
◇◇◇
昼過ぎ。
化猫の宿へ戻ると、一通の依頼書が届いていた。
近くの村に住む老人からの依頼。
内容は、山道に生えている希少な薬草の採取だった。
危険度は低い。
魔物もほとんど出ない。
距離も近い。
「私が行きます」
ウェンディが依頼書を受け取った。
カイドウの顔が険しくなる。
「駄目だ」
「どうしてですか?」
「山道は危険だ」
「さっき森へ行ったばかりです」
「山と森は違う」
「危険度の低い依頼ですよ」
「崖がある」
「依頼書には、なだらかな道だと書いてあります」
「雨が降るかもしれん」
「今日は晴れです」
「雷が落ちるかもしれん」
「雲一つありません」
「雷の小僧が来るかもしれん」
「ラクサスさんは関係ないでしょう!」
カイドウは依頼書をウェンディから取り上げた。
「おれが行く」
「薬草の見分けがつかないですよね?」
「全部取る」
「希少な薬草だけです!」
「山ごと持ってくる」
「絶対にやめてください!」
ウェンディが依頼書を取り返そうとする。
カイドウは片手を高く上げた。
身長差がありすぎて、ウェンディの手は届かない。
「返してください!」
「断る」
「私の依頼です!」
「おれが行く」
「カイドウさんが行ったら、山がなくなります!」
「なくならん」
「これまで何度も山を壊しました!」
「半分は雷の小僧だ」
「残り半分はカイドウさんです!」
ウェンディは何度も跳び上がる。
だが、依頼書には届かない。
カイドウは無表情で見下ろしていた。
その目には、明らかな心配が浮かんでいる。
「カイドウさん」
ウェンディは跳ぶのをやめた。
「私は魔導士です」
「知ってる」
「自分で依頼を受けられます」
「弱い」
「弱くありません」
「おれよりは弱い」
「それは、ほとんどの人がそうです!」
「なら、おれが行く」
「それでは、私はいつまでも一人で何もできません」
ウェンディの声が少しだけ強くなる。
カイドウの眉が動いた。
「守ってくれるのは嬉しいです」
「守ってねェ」
「見張りでも、何でもいいです」
ウェンディはカイドウを真っ直ぐ見上げる。
「でも、何もさせてもらえないのは嫌です」
「……」
「失敗するかもしれません。怪我をするかもしれません。でも、自分でやってみたいんです」
その言葉が。
カイドウの胸へ、深く突き刺さった。
『ボクは海へ出る!』
ヤマトも、同じように言っていた。
鬼ヶ島から出たい。
自由に海を見たい。
おでんのように生きたい。
だが、カイドウは認めなかった。
外へ出れば敵がいる。
弱ければ殺される。
自分の後を継がせるため。
自分の考える正しい道を歩かせるため。
娘の自由を奪った。
「……ヤマトも」
カイドウが小さく呟く。
「え?」
「同じようなことを言ってた」
ウェンディは黙って待つ。
「海へ出たいとな」
「カイドウさんは、止めたんですか?」
「ああ」
「どうして?」
「危険だからだ」
「心配だったんですね」
「違う」
「でも、危険だから止めたんでしょう?」
「……あいつには、別の道を歩かせるつもりだった」
「カイドウさんが決めた道ですか?」
「ああ」
「ヤマトさんが望んだ道ではなく?」
カイドウは答えられなかった。
ウェンディは、自分の言葉がカイドウを傷つけたのではないかと心配した。
だが、目を逸らさなかった。
「私は、ヤマトさんではありません」
「ああ」
「でも、たぶん。何もさせてもらえないのは、寂しいと思います」
「……」
「心配してくれるのは嬉しいです。でも、信じてほしいです」
信じる。
それは、カイドウが最も苦手としてきたものだった。
部下には力で従わせる。
裏切る可能性があれば潰す。
子供にも、自分の価値観を押しつける。
信じて自由を与えることなど、考えたこともなかった。
カイドウは、手に持っていた依頼書を見た。
それから、ウェンディを見る。
小さな体。
細い腕。
だが、その目には確かな意志がある。
ヤマトと同じ。
何度殴られても消えなかった、あの目と。
「……分かった」
カイドウは依頼書を下ろした。
「本当ですか?」
「ああ」
ウェンディが嬉しそうに手を伸ばす。
だが、依頼書を渡す直前。
カイドウの手が止まった。
「ただし、おれも行く」
「一人で行けます」
「後ろから見るだけだ」
「本当に手を出しませんか?」
「お前が死にそうになったら出す」
「その時はお願いします」
「転びそうになっても出す」
「自分で立ちます」
「雨が降ったら帰る」
「雨具を使います」
「腹が減ったら休む」
「それは分かりました」
「一時間ごとに水を飲め」
「細かすぎませんか?」
「薬草は素手で触るな」
「普段から触っています!」
「毒があるかもしれん」
「見分けられます!」
「崖には近づくな」
「崖はありません!」
「知らねェ男に話しかけるな」
「どうしてですか!?」
「怪しい」
「全員を疑わないでください!」
話が終わらない。
シャルルは机へ額をつけた。
「信じるまでに、相当時間がかかりそうね」
◇◇◇
山道での薬草採取は、問題なく進んだ。
ウェンディが前。
カイドウが、その三歩後ろ。
シャルルは同行を断った。
カイドウの親バカを一日中見ていたら疲れる、という理由である。
「近いです」
ウェンディが振り返る。
「三歩離れてる」
「三歩では近いです」
「五歩か」
「せめて十歩」
「遠すぎる」
「見えていますよね?」
「見える」
「では十歩です」
「五歩だ」
「八歩」
「六歩」
「七歩」
「……分かった」
謎の交渉の末。
カイドウはウェンディの七歩後ろを歩くことになった。
ウェンディは、道端に生える草を一つずつ確認する。
目的の薬草は、青い葉に白い斑点がある。
似た草も多いため、慎重に見分けなければならない。
「これですね」
ウェンディが一株を見つける。
しゃがみ、根元へ手を伸ばす。
「待て」
「何ですか?」
「虫がいる」
葉の裏に、小さな芋虫がいた。
「毒はありません」
「本当か」
「ただの芋虫です」
「噛むかもしれん」
「噛みません」
ウェンディは芋虫を指先へ乗せ、近くの木の枝へ移動させた。
カイドウは、不審そうに芋虫を睨む。
「そんなに見ないでください。怖がっています」
「虫がか」
「生き物ですから」
「小さすぎる」
「カイドウさんが大きすぎるんです」
ウェンディは薬草を丁寧に摘み、籠へ入れる。
「一つ目です」
「まだ一つか」
「必要なのは五株です」
「まとめて引き抜くか」
「周りの草まで抜けます!」
「面倒だな」
「採取は丁寧にするんです」
その後も、ウェンディは一人で薬草を探した。
カイドウは手を出さない。
ただ、後ろから見ている。
時折。
石につまずきそうになると手が動きかけ。
枝が揺れると身構え。
鳥が飛び立つだけで睨みつける。
それでも、ウェンディに止められた通り、手は出さなかった。
四株目を見つけた時。
ウェンディの足元の土が、わずかに崩れた。
「きゃっ」
小さな声。
カイドウの姿が消えた。
一瞬でウェンディの横へ移動し、腕を掴む。
「大丈夫か!」
怒鳴るような声だった。
ウェンディは目を丸くする。
崩れたのは、足元の土が少しだけ。
転んでもいない。
「大丈夫です」
「足を見せろ」
「何ともありません」
「捻ったかもしれん」
「捻っていません」
「骨が――」
「折れていません!」
ウェンディは、カイドウの手を見た。
自分の腕を掴むその手は、驚くほど優しい。
力を入れれば簡単に折れてしまうと分かっているから。
慎重に。
大切な物を扱うように触れている。
「カイドウさん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「……」
「心配してくれて」
「心配してねェ」
「では、どうしてそんな顔をしているんですか?」
「どんな顔だ」
「すごく怖い顔です」
「いつもだ」
「いつもより怖いです」
ウェンディは笑う。
「でも、大丈夫です」
自分の足で立ち、軽く跳んでみせる。
「ほら」
「跳ぶな。今度こそ転ぶ」
「転びません!」
カイドウは納得していない様子だったが、手を離した。
「残り一株です」
「ああ」
「今度は七歩離れてください」
「三歩だ」
「どうして縮むんですか?」
「今、転びかけた」
「転んでいません!」
「三歩だ」
「六歩」
「四歩」
「五歩」
「……分かった」
またしても交渉が行われた。
最終的に五歩。
先ほどより二歩近くなっていた。
◇◇◇
五株の薬草を集め終わり。
二人は山の中腹で休憩することにした。
ウェンディは大きな岩へ腰を下ろす。
カイドウは隣の地面へ胡坐をかいた。
ウェンディが持ってきた小さな包みから、パンと果物を取り出す。
「一つどうぞ」
リンゴを差し出す。
カイドウは受け取り、一口で半分を食べた。
「ゆっくり食べてください」
「分かってる」
「もう半分ありません」
「半分は残した」
「そういう意味ではありません!」
ウェンディも小さなリンゴへかじりつく。
しばらく、二人は黙って山の景色を眺めた。
「カイドウさん」
「何だ」
「ヤマトさんも、こういう景色を見たかったんでしょうか」
カイドウの手が止まる。
眼下には森が広がり。
その先には小さな町。
遠くには、空と大地の境が見える。
「鬼ヶ島からは、ほとんど出したことがねェ」
「どうしてですか?」
「逃げるからだ」
「逃げたかったんだと思います」
「……」
その通りだった。
ヤマトは逃げようとした。
父親から。
鬼ヶ島から。
カイドウが用意した未来から。
「お前なら、どうする」
カイドウが尋ねる。
「何をですか?」
「育てたガキが、自分の敵になりたいと言ったら」
ウェンディはすぐに答えなかった。
真剣に考える。
「まず、理由を聞きます」
「理由?」
「どうして、その人になりたいのか」
「敵だぞ」
「それでもです」
「おれを倒したいと言ってもか」
「悲しいですけど、聞きます」
「その後は」
「私が悪いなら謝ります」
「自分が正しいと思っていたら」
「話し合います」
「話し合っても変わらなかったら」
「その人が本当に決めたことなら……応援できるように頑張ります」
「自分を倒そうとする相手をか」
「家族だからです」
カイドウは、リンゴを見つめた。
家族だから従わせる。
自分の後を継がせる。
自分の思う強さを押しつける。
それが当然だと思っていた。
だが、ウェンディは違う。
家族だから、相手の道を認める。
「甘ェな」
「そうかもしれません」
「そんな考えじゃ、ガキは弱くなる」
「でも、嫌われません」
カイドウの目がわずかに見開かれる。
ウェンディは慌てた。
「ご、ごめんなさい!」
「いや」
カイドウは、残っていたリンゴを口へ入れる。
咀嚼しながら、遠くを見る。
「事実だ」
「カイドウさん……」
「ヤマトは、おれを嫌ってる」
淡々とした声。
だが、その奥には僅かな痛みがあった。
「本当に嫌いなら、怒ったりしないかもしれません」
「あ?」
「何も思わなくなったら、怒ることもないでしょう?」
「……」
「怒っているなら、まだ言いたいことがあるんだと思います」
ウェンディは笑った。
「だから、会えたら聞いてあげてください」
「お前は、何でも簡単に言うな」
「カイドウさんが難しく考えすぎるんです」
「おれに説教するとは、いい度胸だ」
「毎日、お酒のことで叱っています」
「それとこれとは別だ」
「同じです」
カイドウは鼻を鳴らす。
だが、怒ってはいなかった。
「ウェンディ」
「はい?」
「お前は、おれが父親だったらどうする」
ウェンディは目を丸くした。
少し考える。
「毎日、お酒を減らします」
「最初にそれか」
「薬も飲んでもらいます」
「嫌だ」
「皿を割ったら一緒に片づけます」
「お前がやれ」
「人の話を聞いてください」
「面倒だ」
「その言葉は禁止です」
「それから?」
カイドウが尋ねる。
ウェンディは微笑んだ。
「一緒にご飯を食べます」
「ああ」
「買い物にも行きます」
「ああ」
「依頼から帰ったら、お帰りなさいって言います」
「……」
「それから、危ないことをしたら叱ります」
「今と変わらねェじゃねェか」
「そうですね」
ウェンディは楽しそうに笑った。
「今も親子みたいですから」
「違ェ!」
カイドウの声が山中へ響く。
鳥たちが一斉に飛び立った。
「大声を出さないでください!」
「誰が親子だ!」
「私は嫌じゃありませんよ?」
「……」
カイドウが黙る。
ウェンディは首を傾げた。
「カイドウさんは嫌ですか?」
「……知らん」
「またそれですか?」
「嫌なら、とっくに一人で歩いてる」
どこかで聞いたような答えだった。
ウェンディは、その意味を理解して笑った。
「では、これからもよろしくお願いします」
「何をだ」
「お父さん」
カイドウの体が固まった。
「……」
ウェンディは一秒。
二秒。
そして我慢できずに笑い出す。
「冗談です!」
「小娘」
「ウェンディです!」
「逃げるな」
カイドウが立ち上がる。
ウェンディは笑いながら走り出した。
「待て!」
「嫌です!」
「捕まえたら、薬草を全部持たせるぞ!」
「それはカイドウさんの役目です!」
「誰が決めた!」
山道に、二人の声が響く。
ウェンディは楽しそうに走り。
カイドウは、決して本気では追わなかった。
小さな少女が転ばないよう。
遠くへ離れすぎないよう。
ゆっくりと。
その背中を追いかけていた。
◇◇◇
化猫の宿へ戻ると。
シャルルとローバウルが、入り口で待っていた。
「遅かったわね」
「薬草は集まったのかのう?」
「はい!」
ウェンディは籠を見せる。
「必要な分を、全部集めました」
「カイドウは手を出さなかった?」
シャルルが尋ねる。
「少しだけ」
「何をしたの?」
「転びそうになった時に、助けてくれました」
「転んでねェ」
カイドウが訂正する。
「土が崩れただけだ」
「それで、ウェンディを抱えて帰ってきたの?」
シャルルが指摘する。
ウェンディは、現在カイドウの片腕へ座っていた。
「帰りに少し疲れてしまって」
「歩けると言っただろ」
「でも、乗せてくれました」
「遅かったからだ」
「親バカね」
「違ェ!」
カイドウの否定が響く。
ローバウルは楽しそうに髭を撫でた。
「親子のようで、よいではないか」
「ジジイまで言うな」
「ウェンディも、嫌ではなさそうじゃ」
「はい」
ウェンディが素直に頷いた。
カイドウが腕の上の少女を見る。
「お前も否定しろ」
「どうしてですか?」
「おれは父親じゃねェ」
「でも、今日ずっと心配してくれました」
「見張りだ」
「転びそうになったら助けてくれました」
「依頼が失敗すると困る」
「荷物も全部持ってくれました」
「軽かった」
「帰りは抱えてくれました」
「歩くのが遅い」
「やっぱり、お父さんみたいです」
「違ェ!」
ウェンディが笑う。
宿の者たちも笑った。
カイドウは不満そうに眉間へ皺を寄せる。
だが、ウェンディを床へ乱暴に下ろすことはしなかった。
ゆっくりと。
足がきちんと床へつくよう、慎重に下ろす。
その行動が、さらに笑いを呼んだ。
「何がおかしい!」
「何でもないわ」
シャルルが笑いながら言う。
「ただ、本当に親バカだと思っただけよ」
「白狸!」
「エクシードよ!」
◇◇◇
夕食後。
カイドウは広間の床へ座り、酒の入った杯を持っていた。
一日一杯。
ウェンディとの約束である。
隣には、ウェンディが座っている。
薬草採取で少し疲れたのか、いつもより眠そうだった。
小さな欠伸を一つする。
カイドウの視線が向く。
「眠いなら寝ろ」
「まだ片づけが残っています」
「白狸にやらせろ」
「私は聞こえているわよ!」
少し離れた机から、シャルルが叫ぶ。
「今日の片づけ当番はカイドウでしょう!」
「忘れてた」
「わざとでしょう!」
カイドウは酒を一口飲む。
隣から返事がない。
見ると、ウェンディは椅子へ座ったまま目を閉じていた。
静かな寝息。
よほど疲れていたのだろう。
「ウェンディ?」
カイドウが名前を呼ぶ。
起きない。
肩が小さく上下している。
「寝たのね」
シャルルが近づいてくる。
「部屋へ運ぶわ」
「おれがやる」
「あなたが?」
「ああ」
「天井へ頭をぶつけないようにしなさいよ」
「誰がぶつけるか」
「自分じゃなくて、ウェンディの頭よ」
カイドウは慎重に腕を伸ばした。
片手を背中へ。
もう片方を膝の下へ。
壊れ物を持つように、ゆっくりと抱き上げる。
ウェンディの体は軽い。
あまりにも軽い。
自分の腕の中で眠るその姿を見て。
カイドウは、遠い昔を思い出した。
まだ幼かったヤマト。
小さな体。
自分へ恐怖を見せながらも、決して目を逸らさなかった子供。
カイドウは、ヤマトをこうして抱いたことがあっただろうか。
思い出せない。
泣いた時。
怪我をした時。
眠った時。
自分が何をしていたのか。
思い出せるのは、鍛えろと命じたこと。
弱さを責めたこと。
逆らえば殴ったこと。
「……ヤマト」
小さな声。
シャルルの耳が動く。
だが、何も言わなかった。
カイドウは眠るウェンディを見る。
「お前は、あいつとは違う」
分かっている。
ウェンディはヤマトではない。
ヤマトの代わりでもない。
だが。
今度は、間違えたくない。
小さな子供が自分の前で笑っている。
それを力で押さえつけるのではなく。
笑ったまま、歩かせてやりたい。
危険から守るだけではない。
本人が選んだ道を、見届ける。
それが父親というものなのか。
カイドウには、まだ分からなかった。
「カイドウ」
シャルルが静かに呼ぶ。
「あ?」
「ウェンディは、強いわ」
「知ってる」
「だから、守りすぎる必要はない」
「分かってる」
「本当に?」
「……努力する」
シャルルの目がわずかに見開かれる。
カイドウが自分の非を完全に認めることなど、ほとんどない。
「でも、危険な時は守る」
「それは当然よ」
「怪我をしたら、敵を潰す」
「必要以上に潰さないで」
「泣かせた奴も潰す」
「理由を聞いてからにしなさい」
「酒を勝手に飲ませた奴も潰す」
「それは止めなさい」
「知らねェ男が近づいたら――」
「どこまで過保護になるつもりよ!」
シャルルの声が大きくなる。
眠っていたウェンディが、少し身じろぎした。
「ん……カイドウさん……」
寝言だった。
カイドウとシャルルが黙る。
「お酒は……一杯だけです……」
「寝てまで言うのか」
カイドウの顔が険しくなる。
シャルルは笑いを堪えた。
「あなたの教育が大変なのよ」
「おれが教育されてるのか」
「当然でしょう」
カイドウはウェンディを抱えたまま、彼女の部屋へ向かう。
今度は入り口の梁へ角を引っかけないよう、深く体を屈めた。
寝台へウェンディを下ろす。
毛布を肩まで掛ける。
その手つきは、初めて皿を洗った時よりも遥かに慎重だった。
ウェンディの水色の髪が、頬へかかっている。
カイドウは指先で、それをそっと払った。
「……ヤマト」
もう一度だけ、娘の名を呟く。
「次に会えたら、話くらいは聞いてやる」
謝れるかは分からない。
許されるとも思っていない。
だが。
逃げずに向き合うことなら、できるかもしれない。
「カイドウ」
扉の前から、シャルルが言う。
「その顔は、間違いなく父親の顔よ」
「うるせェ」
「否定しないの?」
「起きるだろうが」
カイドウは小声で答えた。
そして、ウェンディの部屋を出る。
扉を静かに閉めた。
◇◇◇
その翌朝。
ウェンディが目を覚ますと。
部屋の前に、カイドウが座っていた。
「おはようございます」
「ああ」
「どうして、ここに?」
「見張りだ」
「一晩中ですか?」
「寝た」
「どこで?」
「ここで」
「床で!?」
「問題ねェ」
ウェンディは扉の前へ座る大男を見る。
腕を組み。
壁へ背を預け。
部屋を守るように眠っていたらしい。
「カイドウさん」
「何だ」
「やっぱり親バカです」
「違ェ!」
朝一番の怒声が、化猫の宿へ響いた。
シャルルが別の部屋から顔を出す。
「朝からうるさいわよ!」
「白狸! こいつに余計なことを教えたのはお前か!」
「私はエクシードよ! それに事実でしょう!」
「違ェ!」
「カイドウさん」
ウェンディが笑う。
「何だ!」
「今日の薬、少し蜂蜜を多くしますね」
カイドウの怒りが一瞬で止まった。
「本当か」
「はい」
「酒も」
「それは駄目です」
「なぜだ!」
「親でも子供でも、飲み過ぎは駄目です」
「誰が親だ!」
「はいはい。朝ご飯にしましょう」
ウェンディはカイドウの大きな手を取る。
そのまま広間へ向かって歩き始めた。
カイドウは手を振りほどかなかった。
小さな歩幅に合わせ。
いつもよりゆっくりと歩く。
実の娘との関係を間違えた男。
父親であることから、力によって逃げ続けた男。
その男は今。
異世界の小さな少女から。
誰かを大切にすることを、少しずつ教えられていた。
「おい、ウェンディ」
「はい?」
「今日は森へ行くな」
「どうしてですか?」
「昨日行った」
「毎日行っても大丈夫です」
「危険だ」
「また始まったわね」
シャルルが呆れる。
「おれが薬草を取ってくる」
「全部引き抜くでしょう!」
「山ごと持ってくる」
「絶対に駄目です!」
「なら、一緒に行く」
「七歩離れてくださいね」
「三歩だ」
「六歩」
「四歩」
「五歩です」
「……分かった」
親バカは、まだ治る気配がなかった。
むしろ。
この日を境に、さらに悪化していくことになる。
ウェンディへ依頼書が届けば、内容を誰より先に確認し。
食事が少なければ、自分の肉を勝手に皿へ置き。
寒そうに見えれば、巨大な外套で全身を包み。
知らない男が話しかければ、後ろから威圧する。
そのたびにウェンディから叱られ。
シャルルから親バカと笑われ。
ローバウルから穏やかに見守られる。
「おれは父親じゃねェ!」
カイドウは、最後までそう言い張った。
だが。
化猫の宿の誰も、その言葉を信じてはいなかった。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!