『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第8話 最強生物、娘の一日を監視する
化猫の宿に、朝日が差し込んでいた。
森の木々を抜けた柔らかな光が、修理途中の窓から広間へ入り、床の上に長い影を落としている。
厨房では朝食の支度が進み、焼けたパンと肉の香ばしい匂いが漂っていた。
食卓を囲む魔導士たちの声。
食器が触れ合う音。
鳥たちのさえずり。
今日も、化猫の宿には穏やかな朝が訪れている。
ただし。
「少ねェ」
大皿に盛られた朝食を見下ろし、カイドウが不満そうに呟くまでは。
彼の前には、焼いた肉が山のように積まれていた。
普通の人間なら十人でも食べ切れない量である。
パンも籠いっぱいに用意され、野菜のスープは小さな鍋ごと置かれている。
それでも、百獣のカイドウにとっては少ないらしい。
「昨日より増えていますよ」
向かいの席に座っていたウェンディが言った。
「肉が二枚減ってる」
「気のせいです」
「数えた」
「朝から数えていたんですか?」
「おれの飯だぞ」
「一枚、私のお皿に移しました」
ウェンディの皿には、小さく切り分けられた肉が載っている。
カイドウの大皿から見れば、ほんの一欠片にしか見えない。
しかし、カイドウの目は誤魔化せなかった。
「何で勝手に取った」
「カイドウさんが置いたんですよ」
「あ?」
「さっき、自分の分から私のお皿へ載せたでしょう」
「……覚えてねェ」
「みんな見ていましたよ」
ウェンディが周囲を見る。
近くで食事をしていた魔導士たちは、一斉に頷いた。
シャルルも机の上で腕を組んでいる。
「ウェンディの皿に肉が少ないと言って、あなたが置いたのよ」
「そうだったか」
「自分で分けた肉を見て、自分の分が減ったと文句を言っているの?」
「朝は記憶が曖昧だ」
「都合のいい記憶ね」
シャルルは呆れたように息を吐いた。
カイドウは肉を一枚掴み、豪快にかじりつく。
その一方で、ウェンディの皿をじっと見ていた。
「食え」
「食べています」
「遅い」
「普通の速さです」
「冷めるぞ」
「まだ温かいです」
「肉を残すな」
「残しません」
「野菜も食え」
「食べます」
「スープも飲め」
「今から飲みます!」
ウェンディが両手で器を持ち上げた。
一口飲む。
カイドウの視線は、まだ外れない。
ウェンディは器を置き、頬を少し膨らませた。
「カイドウさん」
「何だ」
「見られていると食べにくいです」
「見てねェ」
「ずっと見ています」
「お前の後ろを見てる」
ウェンディが振り返る。
後ろには、修理されたばかりの壁しかない。
「壁しかありませんよ?」
「壁が崩れねェか見てる」
「カイドウさんが触らなければ崩れません!」
広間に笑い声が広がった。
カイドウは周囲を睨む。
「何がおかしい」
「完全に、娘の食事を気にする父親じゃ」
ローバウルが穏やかに言った。
カイドウの眉間へ深い皺が刻まれる。
「誰が父親だ」
「昨日はウェンディの部屋の前で一晩中見張っていたそうじゃな」
「敵が来るかもしれん」
「宿の二階へ?」
シャルルが尋ねる。
「窓から来る」
「ウェンディの部屋の窓は閉まっていたわ」
「壁を破るかもしれん」
「あなたじゃあるまいし、誰が壁を破って入ってくるのよ」
「用心に越したことはねェ」
「親バカね」
「違ェ!」
朝一番の怒声が、宿全体を震わせた。
天井から小さな木屑が落ちる。
カイドウは頭上を見上げ、何事もなかったように肉を食べ始めた。
「今の声で天井が壊れたら、修理代はカイドウじゃぞ」
ローバウルが帳面を取り出す。
「待て、ジジイ。まだ壊れてねェ」
「予防のための点検代じゃ」
「そんな金まで取るのか」
「建物を守るためじゃ」
「おれはウェンディを守ってる」
言ってから、カイドウの手が止まる。
広間が静かになった。
ウェンディが目を瞬かせる。
シャルルの口元が、ゆっくりと上がった。
「自分で認めたわね」
「何をだ」
「ウェンディを守っているって」
「魔導士仲間だからだ」
「ほかの魔導士が食事をしていても、皿の中まで確認しないでしょう?」
「こいつは小せェ」
「またそれですか!」
ウェンディが抗議する。
「私はちゃんと成長しています!」
「昨日、柱に印をつけた」
「え?」
「身長を測った」
広間の隅にある柱。
そこには、小さな線と日付が刻まれていた。
ウェンディは席を立ち、柱へ近づく。
「いつの間に……」
「寝る前だ」
「どうして、私の身長を勝手に記録しているんですか!」
「成長してるか確認する」
「やっぱり父親じゃない!」
シャルルの指摘に、宿の者たちが頷く。
「違ェ!」
カイドウは再び怒鳴った。
「おれは、こいつがちゃんと飯を食ってるか確認してるだけだ!」
「それを親バカと言うのよ!」
「言わねェ!」
「言います!」
ウェンディまでシャルルに加わった。
「毎日、私のお皿にお肉を載せますよね!」
「余ってるからだ」
「カイドウさんのお皿から取っています!」
「野菜だけじゃ育たん」
「野菜だけじゃありません!」
「腕も細い」
「普通です!」
「もっと食え」
「これ以上は食べられません!」
カイドウはウェンディの皿へ、もう一枚肉を置こうとする。
ウェンディは皿を両手で守った。
「いりません!」
「食え」
「お腹いっぱいです!」
「菓子なら入るだろ」
「別のお腹はありません!」
「町で食ってた」
「あれはお昼です!」
「なら、昼に食え」
「何をですか?」
「肉だ」
「話が戻っています!」
騒がしい朝だった。
しかし。
宿の者たちは皆、笑っていた。
百獣のカイドウが、本気でウェンディの成長を気にしている。
それが分かるからこそ、誰も止めようとはしなかった。
少なくとも、朝食をもう一枚増やそうとする程度なら。
◇◇◇
「ウェンディ。今日は町の診療所を手伝ってもらえるかのう」
朝食が終わった後。
ローバウルが一枚の依頼書を差し出した。
町にある小さな診療所からの依頼だった。
季節の変わり目で体調を崩す子供が増えており、治癒魔法を使える者に手伝ってほしいという。
危険度は低い。
魔物との戦闘もない。
町までは、化猫の宿から歩いて一時間ほど。
「はい。行ってきます」
ウェンディは笑顔で依頼書を受け取った。
その瞬間。
大きな手が、依頼書の反対側を掴んだ。
「おれも行く」
カイドウだった。
ウェンディは依頼書を引く。
カイドウも離さない。
「診療所のお手伝いですよ?」
「知ってる」
「戦いはありません」
「知ってる」
「カイドウさんが行っても、することがありません」
「護衛だ」
「町まで普通の道です」
「何があるか分からん」
「何もありません」
「盗賊がいるかもしれん」
「この前、カイドウさんが捕まえたので、もういません」
「新しい奴が来る」
「来ません」
「魔物が出る」
「街道にはほとんど出ません」
「雷の小僧が来るかもしれん」
「ラクサスさんは毎日現れません!」
「知らねェ男が、お前に話しかけるかもしれん」
ウェンディの動きが止まる。
「それの何が危険なんですか?」
「危険だ」
「普通に話すだけですよ?」
「知らねェ男だぞ」
「診療所には先生も患者さんもいます!」
「男か」
「女の人もいます」
「男もいるんだな」
「いますけど……」
カイドウの顔が険しくなる。
シャルルが額を押さえた。
「親バカを通り越して、過保護になっているわね」
「違ェ」
「ウェンディが男性と話すだけで警戒するつもり?」
「相手による」
「どういう相手ならいいんですか?」
ウェンディが尋ねる。
カイドウは少し考えた。
「弱そうな奴」
「どうしてですか?」
「何かしたらすぐ潰せる」
「潰さないでください!」
「強い男なら?」
シャルルが試すように尋ねる。
「先に殴る」
「もっと駄目よ!」
「何もしない人を殴らないでください!」
ウェンディは依頼書を引っ張った。
カイドウはまだ離さない。
「一人で行けます」
「駄目だ」
「どうしてですか?」
「昨日、山道で転びかけた」
「転んでいません!」
「土が崩れた」
「少しだけです!」
「今日は町で転ぶかもしれん」
「平らな道です!」
「馬車にぶつかる」
「道の端を歩きます!」
「人混みで迷う」
「何度も行った町です!」
「誘拐される」
「魔導士です!」
「おれより弱い」
「それを言ったら、ほとんどの人が一人で外出できません!」
ウェンディが精いっぱい依頼書を引く。
カイドウは指二本で持っているだけだ。
当然、びくともしない。
「カイドウさん」
ウェンディは、依頼書から手を離した。
真正面からカイドウを見上げる。
「昨日、信じてほしいって言いましたよね」
「……」
「私一人でも、ちゃんと依頼をできます」
「診療所までの護衛は別だ」
「同じです」
「違う」
「どう違うんですか?」
「昨日は山だった」
「今日は町です」
「町の方が人が多い」
「だから安全です」
「悪党も多い」
「カイドウさんより悪そうな人は、なかなかいません!」
周囲から笑い声が漏れた。
カイドウの眉が動く。
「おれは、お前の心配をしてやってるんだぞ」
ウェンディが目を丸くする。
また。
カイドウが自分で認めてしまった。
シャルルは、にやりと笑った。
「心配しているのね」
「……」
「親バカね」
「うるせェ!」
カイドウの怒声に、ローバウルは楽しそうに笑った。
「カイドウも同行してはどうじゃ?」
「マスター!」
ウェンディが振り返る。
「診療所に、カイドウさんができることはありません!」
「荷物運びならできるじゃろう」
「何を運ぶんですか?」
「患者さんへの食料や薬草があるそうじゃ」
ローバウルは依頼書の裏側を指差した。
診療所では薬草だけでなく、栄養のある食事を子供たちへ配る予定らしい。
その材料の運搬も依頼に含まれていた。
「力仕事なら、カイドウにもできる」
「おれは荷物運びじゃねェ」
「嫌なら残っていてください」
ウェンディが言う。
カイドウはすぐに答えた。
「行く」
「結局、行くんですね」
「荷物を守る」
「私じゃなく?」
「両方だ」
広間が静かになる。
カイドウは、自分が口にした言葉へ気づいた。
「……魔導士の仕事だからな」
「はいはい」
シャルルは、もう追及しなかった。
その顔は笑っていた。
◇◇◇
町へ出発する前。
カイドウの過保護は、さらに悪化した。
「上着を着ろ」
「今日は暖かいです」
「朝は冷える」
「お昼には暑くなります」
「脱げばいい」
「荷物になります」
「おれが持つ」
「では薄い上着を着ます」
「厚い方だ」
「どうしてですか?」
「風を通さねェ」
「暑いです!」
「汗をかいたら拭け」
「風邪を引くのは、汗をかいた後です!」
「なら汗をかくな」
「どうやって止めるんですか!」
カイドウは、自分の大きな外套を持ってきた。
ウェンディの顔が引きつる。
「それは着ません」
「暖かいぞ」
「大きすぎて歩けません!」
「おれが運ぶ」
「最初から歩かせる気がありませんよね!?」
ウェンディは自分の薄い上着を選び、しっかりと身につけた。
次は靴だった。
カイドウは、ウェンディの靴底を見ている。
「減ってる」
「少しだけです」
「滑るぞ」
「滑りません」
「新しい物に替えろ」
「まだ使えます」
「買う」
「カイドウさん、お金がありませんよね?」
「ジジイに借りる」
「借金が増えます!」
「靴代は別だ」
「酒代の時も同じことを言っていました!」
次は鞄。
カイドウが持ち上げる。
「重い」
「薬草が入っていますから」
「おれが持つ」
「自分で持てます」
「肩を痛める」
「このくらいで痛めません!」
「おれが持つ」
「自分で持ちます!」
ウェンディが鞄を抱える。
カイドウが片手で掴む。
またしても引っ張り合いになった。
もちろん、カイドウが本気を出せば一瞬で終わる。
だが、彼はウェンディの腕を痛めないよう、ほとんど力を入れていなかった。
「離してください」
「重い」
「持てます」
「駄目だ」
「私は魔導士です!」
「知ってる」
「依頼の道具くらい自分で持ちます!」
「なら半分だ」
「半分?」
「薬草だけ、おれが持つ」
ウェンディは少し考えた。
「分かりました」
鞄の中から、薬草の袋を半分取り出す。
カイドウへ渡す。
カイドウは指先で受け取った。
あまりにも軽く、持っているように見えない。
「これでいいですか?」
「ああ」
「残りは私が持ちます」
「ああ」
「途中で全部取り上げないでくださいね」
「約束はできん」
「してください!」
シャルルは二人のやり取りを、入り口から眺めていた。
「昨日より、さらに悪化しているわ」
「何がだ」
「親バカよ」
「違ェ」
「では、どうしてウェンディの靴底まで確認したの?」
「転ぶからだ」
「普通の父親でも、そこまで毎朝確認しないわよ」
「なら、おれは普通じゃねェ」
「親バカであることは否定しないのね」
「……」
カイドウは答えず、入り口を出た。
ただし。
ウェンディが出る前に外へ立ち、周囲に危険がないか確認してから。
◇◇◇
町への街道。
ウェンディは道の中央を歩いていた。
その右側にはカイドウ。
左側にはシャルル。
シャルルは診療所でウェンディを手伝うため、今日は同行している。
だが、普段とは歩き方が違った。
カイドウは、常にウェンディより半歩前を歩いている。
対向してくる馬車があれば、自分の体でウェンディとの間を遮る。
道端から鳥が飛び出せば、一瞬でそちらへ顔を向ける。
遠くに旅人が見えれば、敵意がないか睨みつける。
そのせいで、旅人たちはカイドウと目が合うたびに道の端へ逃げていった。
「カイドウさん」
「何だ」
「普通に歩いてください」
「普通だ」
「みんな、避けています」
「道が広くて歩きやすいだろ」
「カイドウさんが怖いからです!」
「なら安全だ」
「そういう安全はいりません!」
前方から、一台の荷馬車がやってきた。
荷台には野菜が積まれている。
御者はカイドウを見ると、顔を青くした。
慌てて手綱を引き、道の外へ寄せる。
「どうぞ!」
御者が大声で言う。
「先にお通りください!」
「ありがとうございます」
ウェンディが頭を下げる。
カイドウは何も言わずに通り過ぎようとした。
「カイドウさんも、お礼を言ってください」
「なぜだ」
「道を譲ってくれました」
「勝手に避けた」
「怖がらせたのはカイドウさんです!」
カイドウは足を止めた。
御者を見る。
御者の肩が震える。
「……悪かったな」
「い、いえ! 滅相もありません!」
御者は何度も頭を下げた。
カイドウはウェンディを見る。
「言ったぞ」
「顔を怖くしないでください」
「生まれつきだ」
「もう少し優しい声で」
「難しい注文が多いな」
「普通にすればいいんです」
「その普通が分からん」
「前にも同じことを言っていたわね」
シャルルが溜息を吐く。
歩き始めてしばらくすると。
道端に小さな水たまりが現れた。
昨夜の雨が残っていたらしい。
ウェンディは、何も気にせず横を通ろうとする。
だが。
カイドウが腕を伸ばし、ウェンディの進路を塞いだ。
「何ですか?」
「水だ」
「水たまりですね」
「滑る」
「横を歩きます」
「泥が跳ねる」
「避けます」
「靴が汚れる」
「帰ったら洗います」
「飛び越えろ」
「小さい水たまりですよ?」
カイドウはウェンディの脇へ手を入れた。
「きゃっ!」
そのまま持ち上げる。
水たまりの向こうへ、ゆっくり下ろした。
「これでいい」
「自分で歩けました!」
「靴が汚れてねェ」
「子供扱いしないでください!」
「子供だろ」
「魔導士です!」
「子供の魔導士だ」
「それはそうですけど!」
シャルルは空中へ浮き、水たまりを越える。
「過保護というより、孫を甘やかすお爺さんみたいね」
カイドウの顔が険しくなる。
「誰がジジイだ」
「年齢は、かなり上でしょう?」
「数えてねェ」
「本当に何歳なのよ」
「お前よりは上だ」
「それは見れば分かるわ」
ウェンディは、少し前を歩きながら頬を膨らませていた。
「もう、勝手に持ち上げないでください」
「水たまりがあった」
「次は自分で避けます」
「転んだらどうする」
「転びません」
「転んだら泣くぞ」
「泣きません!」
「昨日、薬草の根に虫がいて少し驚いてた」
「泣いていません!」
「雷の小僧に吹き飛ばされた時は泣きそうだった」
「痛かったからです!」
「あいつ……」
カイドウの目が険しくなる。
「次に会ったら三発は殴る」
「戦う理由を増やさないでください!」
◇◇◇
町へ着く頃には、ウェンディは少し疲れていた。
歩いたからではない。
カイドウの過保護を止め続けたからである。
町の門を通る。
警備兵たちは、カイドウの顔を見ると緊張したが、ウェンディと化猫の宿の紋章を見て道を空けた。
「今日は何の依頼だ?」
一人の警備兵が尋ねる。
「診療所のお手伝いです」
ウェンディが答える。
「子供たちの診察をします」
「そうか。それは助かる」
警備兵は笑顔を浮かべる。
若い男だった。
ウェンディへ親しげに話しかけている。
「ウェンディちゃんの治癒魔法は評判だからな。うちの妹も前に世話になったよ」
「妹さん、元気ですか?」
「ああ。今じゃ毎日走り回ってる」
「よかったです」
二人が笑い合う。
その背後。
カイドウの顔が、少しずつ険しくなっていた。
若い警備兵は気づかない。
「帰りは夕方か?」
「その予定です」
「暗くなるようなら、門まで送ろうか?」
カイドウの眉が動いた。
「必要ねェ」
地を這うような低い声。
警備兵が固まった。
ゆっくり、ウェンディの背後を見る。
巨大な角の男が、自分を睨んでいた。
「カ、カイドウさん?」
ウェンディが振り返る。
「おれがいる」
「帰りも一緒ですけど……」
「なら、こいつはいらん」
「親切に言ってくれただけです!」
「暗い道で、お前を送ると言った」
「警備兵さんですから!」
「男だ」
「だから何ですか!」
警備兵は、完全に顔を青くしている。
「し、失礼しました!」
「謝らなくていいです!」
「もう二度と送るなんて言いません!」
「そこまで怖がらなくても大丈夫です!」
「おい」
カイドウが警備兵へ一歩近づく。
警備兵は槍を落としかける。
「妹は何歳だ」
「え?」
「ウェンディに治してもらったんだろ」
「は、はい。九歳です」
「そうか」
カイドウは少しだけ表情を緩めた。
「なら、礼を忘れるな」
「もちろんです!」
「元気になったなら、飯を食わせろ」
「毎日、食べさせています!」
「野菜もだ」
「はい!」
「薬を嫌がっても飲ませろ」
「はい!」
ウェンディは横で目を瞬かせた。
「どうして急に、妹さんの食事指導を始めたんですか?」
「子供は食わねェと育たん」
「カイドウさんの中で、子供は全員ウェンディと同じ扱いなのね」
シャルルが呟く。
「違ェ」
カイドウは否定した。
しかし。
ウェンディ以外の子供まで気にし始めている時点で、親バカの影響は確実に広がっていた。
◇◇◇
町の診療所は、広場の近くに建つ二階建ての建物だった。
白い壁。
大きな窓。
入口の横には、薬草を育てる小さな花壇がある。
中へ入ると、すでに多くの親子が待っていた。
咳をする子。
熱を出した子。
転んで膝を擦りむいた子。
体調を崩しているとはいえ、重症者はいない。
ウェンディの姿を見ると、子供たちの表情が少し明るくなった。
「ウェンディちゃんだ!」
「空の魔法を使う人!」
「この前、お兄ちゃんを治した人だ!」
子供たちが集まってくる。
ウェンディは笑顔で一人ずつ声をかけた。
「こんにちは。今日はどうしたんですか?」
「喉が痛い!」
「ぼくはお腹!」
「わたし、転んだ!」
「順番に診ますから、待っていてくださいね」
穏やかな光景。
だが。
子供たちの後ろには、診療所の入口を塞ぐほど巨大なカイドウが立っていた。
親たちは緊張し。
診療所の医師は、手にしていた記録板を落としかけている。
「ウェンディ君」
白衣を着た中年の医師が、恐る恐る尋ねた。
「そちらの方は?」
「化猫の宿のカイドウさんです」
「おれは護衛だ」
カイドウが答える。
「診療所に護衛は頼んでいないのだが」
「勝手に来ました」
ウェンディが正直に言う。
「勝手じゃねェ。荷物運びだ」
カイドウの肩には、薬草と食料の袋が載っている。
「なるほど」
医師は納得しようとした。
だが、カイドウの顔を見るたび、納得が遠のいていく。
「荷物を運ぶ方には、少々見えないな」
「元は海賊です」
「ウェンディ君?」
「今は魔導士です!」
「おれは海賊でもある」
「ややこしくしないでください!」
カイドウは荷物を床へ置いた。
今度は力加減を間違えず、静かに。
床は壊れなかった。
「壊れてねェぞ」
「荷物を置いただけで自慢しないでください」
ウェンディが言う。
診療所の医師は、二人のやり取りを見て少しだけ緊張を解いた。
「では、荷物はこちらへ」
「ああ」
「それから……」
医師は診療室を見回す。
カイドウの巨体では、どう考えても邪魔になる。
「カイドウさんは、待合室で待っていてもらえるかな」
「断る」
「即答ですか」
「ウェンディの近くにいる」
「カイドウさん」
ウェンディが振り返る。
「診療中に後ろへ立たれると、患者さんが怖がります」
「おれは何もしねェ」
「顔が怖いんです」
「生まれつきだ」
「外で待っていてください」
「危険だ」
「診療所ですよ?」
「薬を間違えるかもしれん」
「先生が確認します」
「患者が暴れる」
「子供です!」
「魔物が入ってくる」
「町中です!」
「雷の小僧が窓から――」
「ラクサスさんを何だと思っているんですか!」
カイドウは一歩も引かない。
ウェンディも引かない。
やがて。
診察を待っていた少女が、母親の袖を引いた。
「お母さん」
「なあに?」
「あの大きなおじさん、ウェンディちゃんのお父さん?」
室内が静まり返った。
カイドウの顔が固まる。
ウェンディも固まった。
シャルルだけが、ゆっくりと笑った。
「違ェ!」
カイドウの否定が診療所中へ響いた。
窓ガラスが震える。
泣いていなかった赤ん坊が、驚いて泣き出した。
「大声を出さないでください!」
ウェンディが叫ぶ。
「子供が泣いちゃいました!」
「おれのせいか」
「カイドウさんのせいです!」
「赤ん坊はよく泣く」
「今、驚いて泣いたんです!」
カイドウは泣き出した赤ん坊を見る。
母親の腕の中で、顔を真っ赤にして声を上げている。
カイドウの動きが止まった。
「どうしたら止まる」
「え?」
母親が驚く。
「泣いてる」
「驚いただけなので、すぐに落ち着きます」
「何か食わせるか」
「まだ赤ちゃんです」
「肉は」
「食べられません!」
「酒は」
「もっと駄目です!」
ウェンディが怒鳴る。
カイドウは困ったように赤ん坊を見る。
戦場で何万人を相手にしても動じない男が、泣く赤ん坊を前に完全に固まっていた。
「おい」
カイドウは赤ん坊へ低い声で言う。
「泣くな」
赤ん坊は、さらに大きな声で泣いた。
「脅してどうするんですか!」
「脅してねェ」
「顔が怖いです!」
「なら、どうしろ」
「優しくしてください!」
「普通が分からん」
「笑ってみるとか」
「それはやめた方がいいわ」
シャルルが即座に止めた。
カイドウの笑顔は、子供をさらに泣かせる可能性が高い。
ウェンディは赤ん坊の前へ近づき、優しい風を起こした。
暖かく柔らかな風が、赤ん坊の頬を撫でる。
泣き声が少しずつ小さくなり。
やがて、赤ん坊はウェンディを見て笑った。
「ほら。大丈夫ですよ」
ウェンディも笑う。
カイドウは、その光景を黙って見ていた。
「すげェな」
「何がですか?」
「泣き止ませた」
「赤ちゃんを落ち着かせただけです」
「おれには無理だ」
「カイドウさんも、優しくすればできますよ」
「どうやってだ」
「今みたいに、怖がらせないように話すんです」
カイドウは赤ん坊を見る。
もう泣いてはいない。
大きなカイドウの角へ興味を持ったのか、小さな手を伸ばしている。
「触りたいみたいですね」
ウェンディが言う。
「落とすぞ」
「角は落ちません」
「引っ張る」
「赤ちゃんの力なら大丈夫です」
カイドウは、ゆっくり腰を下ろした。
診療所の床が少し軋んだが、壊れなかった。
赤ん坊へ顔を近づける。
母親が恐る恐る、赤ん坊の手を角へ届かせた。
小さな指が、カイドウの角へ触れる。
ぺちぺちと叩く。
「……」
カイドウは動かない。
「痛くないんですか?」
「何も感じねェ」
「引っ張っているわよ」
シャルルが言う。
「赤ん坊だから構わん」
ウェンディの顔が明るくなる。
「カイドウさん、子供には本当に優しいですね」
「違う」
「今、構わないって言いました」
「弱すぎて相手にならんだけだ」
「それを優しいと言うんです」
「違ェ」
赤ん坊は楽しそうに笑っている。
カイドウは、角を触らせたまま鼻を鳴らした。
その姿を見た診療所の親たちから、緊張が少しずつ消えていった。
「あの人、怖そうだけど悪い人ではないみたい」
「ウェンディちゃんのお父さんなのかしら」
「違ェ!」
今度は声を抑えて否定した。
赤ん坊を再び泣かせないためだった。
シャルルは、笑いを堪え切れなかった。
◇◇◇
診察が始まる。
ウェンディは診療室へ入り、子供たちを一人ずつ診ていった。
カイドウは。
結局、部屋の中には入れなかった。
ウェンディから強く言われ、廊下で待つことになった。
ただし。
扉のすぐ横。
少しでも中の声が聞こえる場所に、腕を組んで座っている。
「次の方、どうぞ」
ウェンディの声。
扉が開く。
母親と少年が中へ入る。
カイドウは少年をじっと見る。
咳をしている。
顔色。
歩き方。
不審な物を持っていないか。
すべて確認していた。
少年が怖がり、母親の後ろへ隠れる。
「カイドウ」
シャルルが横へ座った。
「子供を睨まないで」
「見てるだけだ」
「完全に睨んでいるわ」
「病気が重いか確認してる」
「あなたは医者じゃないでしょう」
「咳が出てる」
「だから診察を受けに来たのよ」
扉が閉まる。
中からウェンディの声が聞こえる。
「喉を見せてくださいね」
「口を開けて」
「怖くないですよ」
カイドウは、扉へ耳を近づけた。
シャルルの片目が引きつる。
「盗み聞きしないで」
「何かあったら困る」
「診察しているだけよ」
「ガキが噛むかもしれん」
「ウェンディを?」
「ああ」
「なぜ患者が治療師を噛むのよ」
「怖がったら噛む」
「あなたじゃあるまいし」
診療室の中。
「少し風を当てますね」
青白い光が扉の隙間から漏れる。
カイドウが立ち上がった。
「魔力を使ってる」
「治療中だからよ」
「朝飯が少なかった」
「あなたが肉を二枚も追加したでしょう」
「足りん」
「どれだけ食べさせるつもり?」
「魔力を使った分だ」
「ウェンディの食欲には限界があるのよ」
数分後。
少年が元気な顔で診療室から出てきた。
「楽になった!」
母親がウェンディへ何度も頭を下げている。
「ありがとうございました」
「今日は暖かくして、ゆっくり休ませてあげてください」
「はい」
カイドウは少年を見下ろす。
「飯を食え」
「え?」
「肉だ」
「カイドウさん」
ウェンディが診療室から顔を出す。
「風邪の時は消化にいい物です!」
「肉は体にいい」
「脂の多い物は駄目です!」
「なら赤身だ」
「今はスープやお粥です!」
「弱くなるぞ」
「治ってから食べればいいんです!」
母親は困りながら笑う。
「参考にします」
「カイドウさんの意見は参考にしなくていいです!」
次の患者。
膝を擦りむいた少女だった。
ウェンディが傷を洗い、治癒魔法をかける。
少女が少し泣くと。
廊下にいたカイドウの顔が険しくなった。
「何で泣いてる」
「消毒が少し染みただけです」
「誰がやった」
「私です!」
「小娘を泣かせるな」
「患者さんです!」
「ウェンディも小娘だ」
「ウェンディは泣いていません!」
少女は、涙を拭きながらカイドウを見る。
「おじさんも、痛いの嫌い?」
「誰がおじさんだ」
「薬が苦いと騒ぎます」
ウェンディが答えた。
「おい」
「毎朝です」
「余計なことを言うな」
「私も薬、苦手」
少女が言う。
カイドウは黙る。
「でも、飲んだら治るから頑張る」
「……そうか」
「おじさんも頑張ってね」
「おじさんじゃねェ」
それでも、カイドウは怒鳴らなかった。
少女が診療室から出た後。
シャルルが笑う。
「子供に励まされたわね」
「うるせェ」
「明日から薬を嫌がれないわね」
「嫌がる」
「子供以下よ」
「白狸」
「エクシードよ」
◇◇◇
午前の診察が終わった頃。
ウェンディは椅子へ座り、少し息を吐いた。
大きな怪我人はいない。
それでも、何人もの患者へ魔法を使えば疲労は溜まる。
額には薄く汗が浮かんでいた。
「ウェンディちゃん」
診療所の若い助手が、水を持ってきた。
茶色い髪をした、十六歳ほどの少年だった。
「大丈夫? 少し休んだ方がいいよ」
「ありがとうございます」
ウェンディは笑顔で水を受け取る。
「少し休んだら、午後も頑張ります」
「無理しないでね。君が倒れたら大変だから」
「はい」
少年も笑う。
その時。
診療室の入り口が暗くなった。
二人が振り返る。
カイドウが立っていた。
両腕を組み。
少年を見下ろしている。
「誰だ」
低い声。
少年の顔が青ざめる。
「し、診療所の助手です」
「名は」
「ミ、ミロです」
「歳は」
「十六です」
「家は」
「町の北側です」
「家族は」
「両親と姉が――」
「カイドウさん!」
ウェンディが椅子から立ち上がる。
「何で取り調べをしているんですか!」
「こいつが、お前に近づいた」
「お水を持ってきてくれたんです!」
「自分で持てる」
「親切でしてくれたんです!」
「お前に馴れ馴れしい」
「普通に話していただけです!」
「笑ってた」
「会話をすれば笑うこともあります!」
カイドウの目がさらに細くなる。
「こいつは、お前より歳が上だ」
「それが何ですか?」
「男だ」
「知っています!」
「危険だ」
「どこがですか!」
助手のミロは、完全に怯えていた。
「ぼ、僕は何もしていません!」
「本当か」
「はい!」
「ウェンディに変なことを考えてねェだろうな」
「考えてません!」
「カイドウさん!」
ウェンディの顔が赤くなる。
「変なことって何ですか!」
「知らなくていい」
「自分から言ったんでしょう!」
「ガキは知らなくていい」
「子供扱いしないでください!」
シャルルが廊下から飛んでくる。
「カイドウ」
「何だ」
「いくら何でも、やりすぎよ」
「こいつが怪しい」
「水を持ってきただけでしょう」
「それが始まりだ」
「何の始まりよ!」
「知らん」
「自分でも分かっていないじゃない!」
ミロはウェンディへ水を渡すと、逃げるように診療室を出ていった。
「し、仕事へ戻ります!」
「ミロさん、ごめんなさい!」
ウェンディが声をかける。
返事はなかった。
すでに廊下の角を曲がっている。
ウェンディは頬を膨らませ、カイドウを見上げた。
「謝ってください」
「なぜだ」
「怖がらせました」
「勝手に怖がった」
「カイドウさんが睨んだからです!」
「お前へ近づくからだ」
「診療所の人です!」
「男だ」
「男の人と話しちゃ駄目なんですか?」
「必要な時だけにしろ」
「そんなことできません!」
「知らねェ男に笑うな」
「どうしてですか!」
「勘違いする」
「何をですか!」
カイドウは口を閉じた。
恋愛について説明する気はないらしい。
ウェンディも何を勘違いするのか分からず、さらに詰め寄る。
「ちゃんと説明してください!」
「面倒だ」
「その言葉は禁止です!」
「とにかく、あいつには近づくな」
「嫌です」
「あ?」
「ミロさんは診療所の助手です。午後も一緒に働きます」
「おれが代わる」
「治療の知識はあるんですか?」
「敵を殴って黙らせる」
「患者さんです!」
「薬草を運ぶ」
「それはできますけど」
「水も運ぶ」
「入り口を壊さないでくださいね」
「角はぶつけねェ」
「患者さんを怖がらせないでください」
「努力する」
「ミロさんに謝ってください」
「……」
カイドウの顔が険しくなる。
強敵と対峙する時よりも悩んでいる。
「一言でいいです」
「何と言う」
「怖がらせて悪かった、と」
「おれが?」
「はい」
「小僧に?」
「はい」
「百獣のカイドウが?」
「今は化猫の宿の魔導士です!」
長い沈黙の後。
カイドウは廊下へ向かった。
ミロは薬草棚の前にいた。
カイドウが近づくと、体を硬直させる。
「おい」
「はい!」
「……」
カイドウは、横にいるウェンディを見る。
ウェンディは黙って頷く。
「さっきは」
カイドウが言葉を止める。
ミロは震えながら待つ。
「……悪かった」
非常に小さな声だった。
「え?」
「聞こえなかったのか」
「き、聞こえました!」
「ならいい」
カイドウは背を向ける。
ウェンディが笑顔になる。
「ありがとうございます」
「二度と言わん」
「次も悪いことをしたら言ってもらいます」
「面倒だ」
「その言葉は禁止です!」
ミロは、二人の背中を見た。
そして、恐る恐るシャルルへ尋ねる。
「あの人は、ウェンディちゃんのお父さんですか?」
「本人は違うと言っているわ」
「でも……」
「誰が見ても父親よ」
シャルルは、迷いなく答えた。
◇◇◇
昼食の時間。
診療所の庭へ長い机が出され、子供たちへ温かい食事が配られた。
野菜のスープ。
柔らかなパン。
蒸した鶏肉。
果物。
体調の悪い子供でも食べやすい献立だった。
カイドウは食事の入った大鍋を運ぶ役目を任された。
「鍋を傾けないでくださいね」
ウェンディが念を押す。
「分かってる」
「強く置かないでください」
「分かってる」
「途中で味見しないでください」
「分かってる」
「お肉だけ取らないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「しつこい」
カイドウは大鍋を両手で持ち上げる。
一般人が四人で運ぶほどの大きさだ。
だが、カイドウにとっては軽い。
慎重に歩き。
入り口では角をぶつけないよう屈み。
庭の机へ、音を立てずに鍋を置いた。
床も。
机も。
鍋も壊れていない。
「できたぞ」
「すごいです!」
ウェンディが嬉しそうに言う。
「今日は何も壊しませんでしたね!」
「おれを何だと思ってる」
「力加減が苦手な人です」
「まだ言うか」
カイドウは不満そうだったが。
ウェンディに褒められたため、少しだけ胸を張っていた。
食事が配られる。
ウェンディも、子供たちと同じ机へ座った。
自分の皿へスープとパンを載せる。
カイドウは、その横へ立った。
「肉が少ない」
「これで十分です」
「魔力を使った」
「午後もあるので、食べすぎないようにします」
「食わねェと持たん」
「ちゃんと食べます」
カイドウは配膳台を見る。
蒸した鶏肉を一枚取り、ウェンディの皿へ載せた。
「食え」
「多いです」
「二枚目だ」
「いりません!」
「食え」
「残してしまいます!」
「おれが食う」
「それなら最初からカイドウさんのお皿に載せてください!」
「お前が食えなかったらだ」
「食べさせる気ですよね?」
「成長期だ」
「朝も聞きました!」
周囲の子供たちが、二人を見て笑っている。
一人の少年が言った。
「やっぱり、お父さんだ」
「違ェ」
カイドウが低い声で否定する。
「でも、ぼくのお父さんも肉を食べろって言う」
「うちのお母さんも野菜を食べろって言うよ」
「ウェンディちゃんのお父さん、大きいね」
「お父さんじゃありません!」
ウェンディが赤くなって否定する。
「宿の仲間です!」
「でも、一緒に住んでるんでしょ?」
「はい」
「ご飯も一緒?」
「はい」
「買い物も?」
「行きました」
「帰りは肩に乗せてもらった?」
「どうして知っているんですか!?」
「町で見た人が言ってた」
噂は、すでに子供たちの間にまで広まっていた。
異世界から落ちてきた龍の大男。
小さな天空の少女を肩へ乗せ。
荷物をすべて持ち。
悪い奴が近づけば睨みつけ。
薬を嫌がって少女に叱られる。
町の人々から見れば、完全に不器用な父親としっかり者の娘だった。
「お父さん」
一人の少女が、カイドウを呼ぶ。
「誰がお父さんだ」
「ウェンディちゃんに、もっとお肉をあげるの?」
「ああ」
「いりません!」
ウェンディが叫ぶ。
「じゃあ、私が食べる!」
「好きにしろ」
カイドウは少女の皿へ肉を一枚載せた。
別の子供も手を上げる。
「ぼくも!」
「私も!」
「野菜も食え」
「えー!」
「肉だけ食うな」
「お父さんみたい!」
「違ェ!」
カイドウは否定しながらも、子供たちの皿へ食事を配っていく。
量が少ない子には肉を増やし。
野菜を残している子には食べるよう言い。
スープをこぼしそうな子の器を支える。
いつの間にか、診療所の親たちまで手を止めて見ていた。
「意外と面倒見がいいのね」
「顔は怖いけど」
「子供が相手だと声も少し小さいわ」
カイドウは聞こえていたが、何も言わなかった。
赤ん坊を泣かせたことを気にしているらしい。
「カイドウさん」
ウェンディが横から話しかける。
「何だ」
「ありがとうございます」
「何がだ」
「みんなの食事を手伝ってくれて」
「仕事だ」
「子供たちにも優しくしてくれました」
「うるせェからだ」
「それでもです」
ウェンディは笑う。
カイドウは、その顔から目を逸らした。
「お前も食え」
「またそれですか?」
「冷めるぞ」
「はい」
ウェンディは、追加された肉を一口食べる。
カイドウは、満足そうに頷いた。
その表情を見て。
シャルルは確信した。
もはや親バカではないと言い逃れることは、不可能だった。
◇◇◇
午後の診察も順調に進んだ。
カイドウは診療室へ入らず。
廊下で待ち。
荷物を運び。
水を汲み。
時折、子供たちの遊び相手になった。
もっとも。
遊び方が分からないため、最初は広場の隅へ腕を組んで立っていただけだった。
「おじさん、鬼ごっこしよう!」
一人の少年が言う。
「誰がおじさんだ」
「じゃあ、龍のお兄ちゃん」
「……好きに呼べ」
「カイドウさん」
ウェンディが診療室から顔を出す。
「子供たちが遊んでほしいそうです」
「おれにか」
「はい」
「なぜだ」
「強そうだから、鬼役にぴったりだそうです」
カイドウの顔が険しくなる。
「おれを鬼扱いするのか」
「角がありますから」
子供が言う。
カイドウは自分の角へ触れる。
否定できない。
「鬼は、みんなを捕まえるんだよ!」
「捕まえればいいのか」
「うん!」
「簡単だ」
カイドウが一歩踏み出した。
地面が僅かに揺れる。
子供たちが悲鳴を上げながら逃げ出す。
「カイドウさん!」
ウェンディが叫ぶ。
「絶対に本気で走らないでください!」
「分かってる」
「覇気も魔法も禁止です!」
「使わん」
「捕まえる時は優しく!」
「分かってる」
「転ばせないでください!」
「しつこい」
鬼ごっこが始まった。
カイドウは、驚くほどゆっくり走っていた。
普段の一歩よりも小さな歩幅。
子供たちが追いつかれそうになれば、わざと速度を落とす。
転びそうな子がいれば、先に腕を伸ばして支える。
「遅いよ!」
「もっと速く!」
「本気を出せ!」
子供たちが笑う。
カイドウの眉が動く。
「おれに本気を出せと言ったな」
「カイドウさん!」
ウェンディの声が飛ぶ。
「出しません!」
「……分かってる」
カイドウは渋々頷く。
子供の一人が、カイドウの背後へ回り込む。
「今だ!」
腰に巻かれた太い縄へ触れる。
「カイドウ、捕まえた!」
「鬼を捕まえてどうする」
「ぼくの勝ち!」
「ルールが違うだろ」
「勝ちは勝ち!」
カイドウは、少年を見下ろす。
少年は笑っている。
「ウォロロロ」
カイドウも笑った。
「面白ェ。もう一度だ」
「カイドウさんが遊ぶ気になっていますね」
ウェンディが嬉しそうに言う。
「子供相手に本気にならないでね」
シャルルが忠告する。
「分かってる」
次の鬼ごっこでは。
カイドウはさらに力を抜いた。
それでも、子供たちを簡単に捕まえられる。
ただし。
ウェンディが診療室から庭へ出てきた瞬間。
カイドウの意識がそちらへ向いた。
「ウェンディ!」
子供たちが一斉にウェンディへ駆け寄る。
「遊ぼう!」
「今は休憩中なので、少しだけなら」
ウェンディが笑う。
子供たちが手を引く。
カイドウが止めた。
「休め」
「少しだけです」
「魔力を使った」
「もう回復しています」
「顔が疲れてる」
「いつも通りです!」
「座れ」
「遊びます!」
「駄目だ」
「カイドウさん」
ウェンディが頬を膨らませる。
子供たちも、カイドウを見上げる。
「ウェンディちゃんも遊びたいって」
「休ませろ」
「お父さん、厳しい!」
「誰がお父さんだ!」
「ウェンディちゃんがかわいそう!」
「何だと?」
「遊ばせてあげて!」
「少しだけ!」
「お父さん、お願い!」
子供たちに囲まれる。
カイドウは困ったように眉を寄せた。
敵に囲まれることには慣れている。
数万の兵を相手にしても、笑って戦える。
だが。
子供たちのお願いには、どう対応していいか分からない。
「……十分だけだ」
「やった!」
歓声が上がる。
ウェンディも笑った。
「ありがとうございます」
「疲れたら、すぐやめろ」
「はい」
「走るな」
「鬼ごっこですよ?」
「早歩きにしろ」
「それでは鬼ごっこになりません!」
「転ぶ」
「転びません!」
「おれが後ろから見てる」
「それなら、カイドウさんも一緒に遊びましょう」
「なぜだ」
「見ているだけなら、鬼をしてください」
カイドウは、また鬼役になった。
ウェンディと子供たちが逃げる。
水色の髪が風に揺れ。
楽しそうな笑い声が庭へ響く。
カイドウは、その姿を追いかけた。
決して捕まえない。
転ばせない。
離れすぎない。
ウェンディが笑ったまま走れる距離を保つ。
まるで。
自由に走る娘を、後ろから見守る父親のように。
◇◇◇
日が傾き。
診療所の依頼は無事に終わった。
最後の患者を見送り。
ウェンディは診療室の道具を片づける。
「今日は助かったよ」
医師が言った。
「君のおかげで、全員を診ることができた」
「いえ。私にできることをしただけです」
「本当に立派だ」
医師はウェンディの頭へ手を伸ばそうとした。
その手が止まる。
背後。
カイドウが見ていた。
鋭い目で。
医師は、そっと手を引いた。
「頭を撫でようとしただけだよ」
「必要ねェ」
「カイドウさん!」
「褒めるなら口で言え」
「先生は悪くありません!」
医師は苦笑する。
「本当に過保護だな」
「違ェ」
「今日一日、ウェンディ君の周囲を離れなかったそうじゃないか」
「護衛だ」
「診療所の中でも?」
「危険はどこにでもある」
「診察中も、扉へ耳をつけていたと聞いたよ」
「何かあったら困る」
「食事の量も確認していたね」
「魔力を使った」
「助手の少年を尋問したとも聞いた」
「あいつが怪しかった」
「水を渡しただけです!」
ウェンディが訂正する。
医師は声を上げて笑った。
「ここまで大切にされて、ウェンディ君も幸せだな」
「私は少し困っています」
ウェンディは正直に答えた。
カイドウの顔が僅かに曇る。
それを見て。
ウェンディは言葉を続けた。
「でも、嬉しくもあります」
「あ?」
「心配してくれるのは、嬉しいです」
カイドウは黙る。
「ただし」
ウェンディは人差し指を立てた。
「やりすぎは駄目です」
「やりすぎてねェ」
「男の人と話すだけで睨まないでください」
「相手による」
「全員です!」
「怪しい奴は駄目だ」
「カイドウさんの基準では、全員怪しくなります!」
「お前が分かってねェだけだ」
「何がですか?」
「男は――」
カイドウは言葉を止めた。
説明する気はないらしい。
「とにかく、駄目だ」
「理由になっていません!」
シャルルが横で溜息を吐く。
「ウェンディ」
「何?」
「諦めた方がいいわ」
「どうして?」
「この男の親バカは、今日一日でさらに悪化したもの」
「違ェ」
「診療所の若い助手へ、家族構成まで聞いたでしょう?」
「必要な確認だ」
「何に必要なのよ」
「知らん」
「やっぱり分かっていないじゃない!」
医師は笑いながら、依頼の報酬を渡した。
「これが今日の報酬だ」
「ありがとうございます」
ウェンディが受け取ろうとする。
その前に、カイドウが袋を取った。
「おれが持つ」
「重くありません」
「落とす」
「落としません!」
「奪われる」
「町の中です!」
「おれが持つ」
「自分で持ちます!」
引っ張り合いが始まる。
医師は、その光景を微笑ましそうに眺めていた。
「本当に親子だな」
「違ェ!」
「違います!」
二人の声が、同時に響いた。
シャルルは笑った。
「そこだけは息が合うのね」
◇◇◇
町を出る前。
ウェンディたちは、朝に会った警備兵の前を通った。
「お疲れさま」
若い警備兵がウェンディへ声をかける。
「依頼は終わったのか?」
「はい。無事に終わりました」
「よかった。暗くなる前で安心したよ」
警備兵は、カイドウをちらりと見る。
朝のことを思い出し、すぐに視線を逸らした。
「き、気をつけて帰ってくれ」
「ありがとうございます」
「何かあったら、町の警備隊を呼んで」
「おれがいる」
カイドウが言う。
「分かっています!」
警備兵は直立した。
「あなたがいれば、盗賊も魔物も町ごと逃げるでしょう!」
「町は逃げねェ」
「そういう意味ではありません!」
ウェンディが叫ぶ。
警備兵は苦笑した。
「今日は大変だったな」
「カイドウさんが、ずっと心配していました」
「いいお父さんじゃないか」
「違ェ!」
カイドウが怒鳴りかけ。
途中で声を抑えた。
近くに赤ん坊を連れた母親がいたからだ。
「……父親じゃねェ」
小さな声。
警備兵は驚く。
「声を抑えられるようになったんだな」
「成長しました」
ウェンディが嬉しそうに言う。
「お前に言われたくねェ」
「どうしてですか?」
「お前の身長は、昨日と変わってねェ」
「一日で伸びません!」
「毎日、柱で測れば分かる」
「もう測らなくていいです!」
「成長を確認する」
「やっぱり父親だな」
警備兵が笑う。
カイドウは睨んだ。
だが。
朝ほど強い威圧は出さなかった。
ウェンディが嫌がると分かったからだ。
「帰るぞ」
カイドウが歩き出す。
「待ってください」
ウェンディが追いかける。
カイドウは歩調を落とした。
ウェンディが隣へ並ぶまで。
◇◇◇
帰り道。
空は茜色に染まっていた。
草原を渡る風は、昼間より少し冷たい。
ウェンディは朝に選んだ薄い上着を着ている。
風が吹くたび、裾が揺れた。
カイドウは何度も横を見る。
「寒いか」
「大丈夫です」
「本当か」
「はい」
「手が冷えてる」
「触っていませんよね?」
「見れば分かる」
「分かりません!」
「鼻が赤い」
「夕日の色です!」
「外套を着ろ」
「大きすぎます!」
「おれが抱えて運ぶ」
「自分で歩きます!」
ウェンディは少し歩く速度を上げた。
だが、朝から診療所で魔力を使い、子供たちと遊んだため、疲労は隠せない。
数分後。
小さな欠伸が漏れた。
カイドウの目が細くなる。
「眠いんだろ」
「少しだけです」
「肩に乗れ」
「歩けます」
「遅い」
「普通です」
「朝より遅い」
「疲れただけです」
「なら乗れ」
「大丈夫です!」
ウェンディは拒否して歩き続ける。
しかし。
足元の小石に、靴先が僅かに触れた。
「きゃっ」
転ぶほどではない。
ほんの少し、体勢を崩しただけ。
それでも。
カイドウの腕が一瞬で伸びた。
ウェンディの体を抱き上げる。
「危ねェ!」
「転んでいません!」
「転びかけた」
「自分で立てました!」
「疲れてる」
「少しだけです!」
「もう歩くな」
「どうして、すぐに抱えるんですか!」
カイドウはウェンディを片腕へ座らせる。
もう片方の手には、薬草と報酬の袋。
歩く速度を落とす。
「下ろしてください」
「断る」
「歩けます」
「知ってる」
「では、どうして?」
「今日は働いた」
「はい」
「魔力も使った」
「はい」
「ガキどもとも走った」
「はい」
「なら休め」
ウェンディは、少し黙った。
カイドウの腕は大きく、安定している。
落ちる心配はない。
夕方の冷たい風も、カイドウの体が遮っていた。
「……ありがとうございます」
「最初から素直に乗れ」
「でも、子供扱いはしないでください」
「子供だろ」
「魔導士です」
「両方だ」
ウェンディの目が少し大きくなる。
カイドウは前を見たまま続ける。
「魔導士でも、疲れる時はある」
「カイドウさんでも?」
「おれは疲れん」
「では、説得力がありません!」
「昔は疲れた」
「本当ですか?」
「ああ」
「どんな時です?」
「酒が切れた時だ」
「それは疲れじゃありません!」
ウェンディは頬を膨らませる。
カイドウが笑う。
「ウォロロロ」
「また笑いましたね」
「お前が変なことを言うからだ」
「カイドウさんが先に言ったんです!」
しばらくして。
ウェンディは、カイドウの胸へ少しだけ背を預けた。
眠いのだろう。
瞼が重そうに閉じかけている。
「寝ていいぞ」
「寝ません」
「なぜだ」
「カイドウさんが走るかもしれません」
「今日は走らん」
「本当ですか?」
「ああ」
「宿へ着いたら起こしてください」
「分かった」
「酒屋へ寄り道しないでください」
「道にねェ」
「あっても駄目です」
「分かってる」
「勝手に一杯増やさないでください」
「寝ろ」
「約束してください」
「しつこい」
「約束は?」
「……一杯だ」
「はい」
ウェンディは安心したように目を閉じた。
やがて。
小さな寝息が聞こえ始める。
カイドウは、自分の歩く振動で起こさないよう、さらに速度を落とした。
足元の石を避け。
段差を静かに越え。
風が強く吹けば、自分の外套をウェンディへ掛ける。
その姿を見ながら。
シャルルが隣を飛んでいた。
「認めたらどう?」
小さな声で言う。
「何をだ」
「親バカだって」
「違ェ」
「ウェンディが眠ったら、歩く速度が半分になったわ」
「起こすと面倒だ」
「風が吹いたら外套を掛けた」
「風邪を引く」
「今日一日、知らない男を全員睨んでいた」
「怪しかった」
「子供たちの食事まで気にしていた」
「食わねェと育たん」
「診療所の前で、一度もウェンディから目を離さなかった」
「護衛だ」
「それを親バカと言うのよ」
「言わねェ」
シャルルは微笑む。
「ヤマトにも、こうしてあげればよかったと思っている?」
カイドウの足が、僅かに止まった。
腕の中では、ウェンディが眠っている。
起こさないよう、再び歩き出す。
「分からん」
「そう」
「あいつは、こんなに大人しくなかった」
「ウェンディも、あなたには十分うるさいでしょう?」
「酒を隠す」
「飲みすぎるからよ」
「薬を飲ませる」
「体のためよ」
「依頼に勝手についてくるなと言う」
「過保護だからよ」
「ヤマトも、似たようなことを言ってた」
カイドウの声は低かった。
「ついてくるな。閉じ込めるな。自分で決めるとな」
「あなたは聞かなかった」
「ああ」
「今は?」
カイドウは眠るウェンディを見る。
「こいつには、好きに歩かせる」
「本当に?」
「……見える場所でならな」
「まだ過保護ね」
「危険から守るのは当然だ」
「でも、全部を止めたりはしない?」
「ああ」
「少し成長したじゃない」
「おれを誰だと思ってる」
「親バカな龍」
「白狸」
「エクシードよ」
言い争う声は小さい。
ウェンディを起こさないため。
その事実が。
カイドウの言葉以上に、すべてを表していた。
◇◇◇
化猫の宿へ戻った時。
ウェンディは、まだ眠っていた。
ローバウルと宿の者たちが、入り口へ集まってくる。
「お帰り」
ローバウルが言う。
「依頼は無事に終わったかのう?」
「ああ」
カイドウが小声で答える。
ローバウルは目を丸くする。
「ずいぶん声が小さいのう」
「起きる」
腕の中のウェンディを、顎で示す。
「なるほど」
ローバウルは穏やかに笑った。
「ずいぶん大切に抱えておるな」
「疲れて寝ただけだ」
「肩へ乗せるのではなく、抱いて帰ってきたのね」
シャルルが言う。
「肩だと落ちる」
「しっかり支えれば落ちないでしょう」
「眠ってる」
「だから抱いたの?」
「ああ」
「親バカね」
「違ェ」
否定する声まで小さい。
宿の者たちが笑う。
「カイドウさん、完全にお父さんですね」
「娘を起こさないように静かに帰ってくるとは」
「初日の暴れ方からは考えられないな」
カイドウが睨む。
だが。
声は出さない。
ウェンディを起こしてしまうから。
「部屋へ運んでやるとよい」
ローバウルが言う。
「ああ」
カイドウは入り口で深く体を屈めた。
角を梁へぶつけない。
腕の中のウェンディの頭も、壁へ当てない。
一歩ずつ慎重に階段を上がる。
宿の者たちは、その背中を見送った。
「マスター」
シャルルが尋ねる。
「何じゃ?」
「カイドウの親バカ、治ると思う?」
「治す必要があるのかのう」
「このままだと、ウェンディに男が近づくだけで町が消えるわ」
「それは困るのう」
「今日、診療所の助手を尋問していたわ」
「何を聞いたんじゃ?」
「名前、歳、家、家族構成」
「完全に父親じゃな」
「本人だけが認めないのよ」
ローバウルは笑った。
「認める日は来るかもしれん」
「本当に?」
「ヤマトという娘のことを話し始めたのじゃろう?」
「ええ」
「過去を思い返し、間違いを知った。ならば、今度は同じ間違いをせぬよう学ぶはずじゃ」
「学び方が極端すぎるけれど」
「カイドウじゃからのう」
ローバウルの一言で、シャルルも納得した。
◇◇◇
ウェンディの部屋。
カイドウは寝台の横へ立っていた。
ウェンディをゆっくり下ろす。
靴を脱がせ。
頭を枕へ載せ。
外套を外し。
毛布を肩まで掛ける。
その手つきは、皿を洗う時よりも。
酒瓶を持つ時よりも。
遥かに慎重だった。
「……ん」
ウェンディが身じろぎする。
カイドウの手が止まる。
「カイドウさん……」
寝言。
目は閉じたまま。
「何だ」
カイドウは、小さな声で返事をした。
「お酒は……一杯……」
「またそれか」
「薬も……飲んで……」
「寝てまで命令するな」
「男の人を……睨んじゃ……駄目……」
カイドウの顔が険しくなる。
「それは約束できん」
「仲良く……して……」
「……」
「お父さん……」
カイドウの体が完全に固まった。
静寂。
ウェンディは眠っている。
ただの寝言だ。
昼間、何度も父親だと言われたため、夢の中で口にしただけかもしれない。
それでも。
カイドウは、しばらく動けなかった。
「誰が父親だ」
小さな呟き。
いつものような強い否定ではない。
ウェンディの髪へ、そっと手を伸ばす。
乱れていた水色の髪を、指先で直す。
大きな手。
国を壊し。
敵を潰し。
実の娘を殴った手。
その手が今。
一人の少女を起こさないよう、僅かな力で髪を撫でている。
「ヤマト」
カイドウは、また実の娘の名を口にした。
「おれは、お前にもこうすりゃよかったのか」
答えはない。
遠い世界。
鬼ヶ島に残した娘。
今、どうしているのかすら分からない。
ルフィたちと共にいるのか。
海へ出たのか。
自分が消えた後、自由を手にしたのか。
「……お前は喜ばねェか」
幼いヤマトなら。
頭を撫でられることを喜んだかもしれない。
だが、自分はそれをしなかった。
強くなれ。
泣くな。
従え。
そればかりを求めた。
「次に会えたら」
カイドウの声は、さらに低くなる。
「好きに歩けと言ってやる」
謝る。
その言葉は、まだ口にできない。
百獣のカイドウにとって、謝罪はあまりにも遠いものだった。
だが。
ヤマトの話を聞く。
自由を認める。
それだけでも、以前の自分とは違う。
ウェンディが、寝返りを打つ。
毛布が少しずれた。
カイドウは、すぐに掛け直す。
「お前は」
眠るウェンディを見る。
「好きに歩け」
ただし。
「おれの見える場所でな」
結局。
過保護は、まだ治っていなかった。
◇◇◇
翌朝。
ウェンディが目を覚ますと。
部屋の前には、またカイドウが座っていた。
腕を組み。
壁へ背を預け。
扉を守るように眠っている。
「カイドウさん」
ウェンディが呼ぶ。
カイドウの目が開く。
「ああ」
「おはようございます」
「ああ」
「また、ここで寝たんですか?」
「見張りだ」
「一晩中?」
「途中で寝た」
「自分の寝床で寝てください」
「何かあったら困る」
「何もありませんでした」
「だから、見張った意味があった」
「逆ですよ!」
ウェンディは、部屋から出る。
その服装を見た瞬間。
カイドウの目が細くなる。
「上着は」
「部屋に置いてきました」
「朝は冷える」
「今日は暖かいです」
「着ろ」
「いりません」
「風邪を引く」
「引きません」
「靴底も減ってる」
「昨日も言いました!」
「新しい靴を買う」
「お金は?」
「今日、依頼を受ける」
「酒代は?」
カイドウの動きが止まる。
靴。
酒。
二つを同時に買うだけの金はない。
深刻な表情になる。
ウェンディは、少し笑った。
「お酒を買ってください」
「あ?」
「靴はまだ使えますから」
「駄目だ」
「どうしてですか?」
「転ぶ」
「転びません」
「酒は我慢する」
ウェンディの目が大きく見開かれる。
シャルルが、廊下の奥から顔を出した。
「今、酒を我慢するって言った?」
「聞いてたのか、白狸」
「エクシードよ! それより、本当に?」
「靴が先だ」
「カイドウさん……」
ウェンディは、少し感動したような顔をする。
カイドウは目を逸らした。
「別に、お前のためじゃねェ」
「私の靴ですよね?」
「宿の魔導士が、ボロい靴を履いてると格好がつかん」
「靴底が少し減っただけです」
「新しくする」
「親バカね」
シャルルが言う。
「違ェ!」
朝の怒声が響く。
だが。
その日の午後。
カイドウは本当に依頼を一つ受けた。
近くの農場で、巨大な岩を運ぶ仕事。
本来なら一日かかる作業を、わずか一時間で終わらせた。
岩を置く時に少し地面を陥没させたため、修理代は引かれた。
それでも。
残った報酬を握り。
酒屋の前で何度も足を止めながら。
最終的には靴屋へ向かった。
「これだ」
カイドウが選んだのは、厚い革で作られた頑丈な靴だった。
ウェンディの足には大きすぎる。
「大きいです」
「成長する」
「今履けません!」
「中へ布を詰めろ」
「歩きにくいです!」
「なら、こっちだ」
次は鉄板の入った重い靴。
「重すぎます!」
「足を守る」
「走れません!」
「走らなくていい」
「依頼で走ることもあります!」
靴屋の店主が苦笑しながら、ウェンディに合う軽くて丈夫な靴を選んだ。
カイドウは何度も靴底を押し。
縫い目を確認し。
水へ強いか尋ね。
滑りにくさを調べ。
最後には店主を疲れさせた。
「これなら問題ない」
カイドウが頷く。
「普通の靴を買うだけで、どうして一時間もかかるのよ」
シャルルが呆れる。
ウェンディは新しい靴を履き、その場で軽く歩いた。
「歩きやすいです」
「走るな」
「少しくらい試さないと」
「転ぶ」
「転びません!」
ウェンディは店の前を小さく走る。
振り返り。
笑顔を見せた。
「ありがとうございます、カイドウさん!」
カイドウは、何も言わなかった。
ただ。
満足そうに鼻を鳴らす。
「酒は、今度だな」
「今日は私が一杯分だけ買います」
ウェンディが言う。
「あ?」
「靴のお礼です」
「お前の金か」
「昨日の依頼の報酬からです」
「なら、二杯だ」
「一杯です」
「靴代は高かった」
「だから一杯です」
「計算が合わん」
「合っています!」
いつもの言い争い。
シャルルは笑った。
町の人々も、遠くから微笑ましそうに見ている。
酒を我慢して。
娘のような少女へ靴を買い。
その礼に一杯の酒をねだる、巨大な龍。
百獣のカイドウは。
今日も親バカではないと言い張りながら。
誰よりも分かりやすく。
ウェンディを大切にしていた。
「カイドウさん」
「何だ」
「新しい靴で、明日は一緒に森へ行きましょう」
「おれも行く」
「十歩離れてください」
「三歩だ」
「八歩」
「四歩」
「六歩」
「五歩」
「……分かりました」
交渉は成立した。
前回と同じ、五歩。
だが。
実際に森へ行けば。
カイドウは三歩まで近づくに違いなかった。
そしてウェンディも。
最後には呆れながら、それを許すのだろう。
最強生物の親バカは。
もはや悪化する一方だった。
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