『百獣のカイドウ、化猫の宿で居候になる 』 作:パスカルDX
第9話 最強生物、妖精の尻尾へ手紙を届ける
化猫の宿へ、朝の光が差し込んでいた。
窓の外では小鳥が鳴き、森から吹き込む涼しい風が、修理を終えたばかりのカーテンを静かに揺らしている。
厨房から漂ってくるのは、焼きたてのパンと野菜のスープの香り。
広間では魔導士たちが朝食を囲み、それぞれ今日の予定について話していた。
どこにでもある、穏やかな朝。
もっとも。
「肉が足りねェ」
大皿を覗き込みながら、カイドウが低く呟くまでは。
彼の目の前には、すでに大量の肉が盛られていた。
牛一頭とは言わないまでも、普通の人間なら十人ほどで食べる量はある。
それでも、百獣のカイドウにとっては不足らしい。
「昨日より多いですよ」
向かい側に座るウェンディが、パンをちぎりながら答えた。
「昨日は昨日だ」
「今日のカイドウさんも同じ人です」
「体がでかくなった」
「一日でですか?」
「ああ」
「どこが大きくなったんです?」
「全部だ」
「絶対に気のせいです!」
ウェンディは、カイドウの前にある大皿を指差した。
「それだけ食べたら十分です」
「お前の分が少ねェ」
「私の話ではありません」
ウェンディの皿には、パンとスープ、それに小さく切られた肉が二枚載っていた。
以前なら一枚だった。
だが、カイドウが毎朝勝手に追加するため、最近では厨房の者たちも最初から二枚載せるようになっている。
カイドウはウェンディの皿を見つめた。
「野菜が多い」
「野菜も食べないと駄目です」
「肉を食え」
「食べています」
「もう一枚だ」
「いりません!」
カイドウが自分の皿から肉を一枚取る。
ウェンディは両手で皿を守った。
「載せないでください!」
「成長期だろ」
「お腹いっぱいになります!」
「食えねェなら、後でおれが食う」
「それなら、最初から自分のお皿に置いてください!」
「お前が食えるかもしれん」
「食べられません!」
ウェンディとカイドウの間で、肉を載せるか載せないかという争いが始まる。
机の端では、シャルルが優雅にミルクを飲んでいた。
「毎朝、よく飽きないわね」
「白狸は黙ってろ」
「エクシードよ」
「シャルルも、カイドウさんを止めてください!」
「無理よ。完全に親バカになっているもの」
「誰が親バカだ!」
カイドウの怒声が広間を揺らす。
修理されたばかりの窓が、びりびりと震えた。
ローバウルが奥の机で帳面を開く。
「窓の点検代を追加しておこうかのう」
「まだ壊れてねェ!」
「壊れてからでは遅い」
「ジジイ、最近何でも借金にしてねェか」
「壊す可能性があるのは、お主だけじゃからのう」
「おれは今日は何も壊してねェ」
「まだ朝よ」
シャルルの言葉に、広間の者たちが笑った。
カイドウは不満そうに鼻を鳴らし、肉へかぶりつく。
その一方で、ウェンディがスープを飲んでいるかどうかを横目で確認していた。
「全部飲め」
「飲んでいます」
「冷めるぞ」
「まだ温かいです」
「パンも残すな」
「残しません」
「今日は薬も飲め」
「それはカイドウさんです!」
ウェンディが即座に言い返す。
カイドウの動きが止まった。
食卓の横。
小さな鍋から、緑色の湯気が上がっている。
カイドウ用の薬だった。
「傷は治った」
「念のためです」
「昨日も飲んだ」
「今日の分があります」
「今日は依頼があるかもしれん」
「薬を飲んでも依頼はできます」
「酒で流し込む」
「駄目です」
「一滴だけ」
「駄目です!」
いつもの朝。
いつもの騒がしさ。
だが、その日はいつもと違い、ローバウルが一通の封筒を手に持っていた。
古い羊皮紙で作られた、厚みのある封筒。
赤い封蝋には、《化猫の宿》の紋章が刻まれている。
「ウェンディ」
ローバウルが名前を呼んだ。
「はい、マスター」
ウェンディは食事の手を止める。
「朝食が終わったら、少し頼みたいことがある」
「依頼ですか?」
「いや。お使いじゃ」
「お使い?」
ウェンディは首を傾げる。
カイドウも肉を食べる手を止め、ローバウルの持つ封筒を見た。
「何だ、それは」
「手紙じゃよ」
「誰にだ」
「お主に聞かせる必要はない」
ローバウルが穏やかに答える。
カイドウの眉が動いた。
「ウェンディに持たせるんだろ」
「そうじゃ」
「なら、おれにも関係ある」
「どうしてですか?」
ウェンディが尋ねる。
「お前がどこへ行くか確認する」
「またついてくるつもりですか?」
「内容による」
「どんな内容でも来るでしょう」
シャルルが指摘する。
カイドウは答えない。
その沈黙が、肯定だった。
◇◇◇
朝食を終え。
カイドウが苦い薬を飲まされて大声で騒ぎ。
口直しの水を水差しごと飲み干し。
シャルルから他の者の分も考えろと叱られた後。
ウェンディたちはローバウルの部屋へ呼ばれた。
部屋の中には、長年使われてきた木製の机。
古い本が並ぶ棚。
壁にはフィオーレ王国の地図が掛けられている。
ローバウルは机の前へ座り、先ほどの手紙をウェンディへ差し出した。
「これを届けてほしい」
「どこへですか?」
「マグノリアの町じゃ」
ウェンディの目が僅かに大きくなる。
「マグノリア……」
フィオーレ王国でも有名な町。
花が多く、運河が流れ、商業も盛んな美しい場所。
そして何より。
国内でも特に有名な魔導士ギルドが存在している。
「妖精の尻尾へ、この手紙を届けてほしい」
「妖精の尻尾……」
ウェンディは手紙を両手で受け取る。
以前、山で出会った雷の滅竜魔導士ラクサス。
彼もまた、《妖精の尻尾》に所属する魔導士だった。
「宛先は、妖精の尻尾のマスターじゃ」
「マスターのお名前は?」
「マカロフ・ドレアー」
カイドウが反応する。
「ドレアー?」
「ああ。以前、お主が戦ったラクサスの祖父じゃよ」
「雷の小僧のジジイか」
「その呼び方はやめてください」
ウェンディが注意する。
「ラクサスさんは、カイドウさんより若いかもしれませんけど、小僧ではありません」
「おれから見れば小僧だ」
「それなら、私なんてどうなるんですか?」
「小娘だ」
「ウェンディです!」
反射的に言い返した後、ウェンディは手紙を見た。
「マカロフさんへ、直接渡せばいいんですね?」
「そうじゃ」
「手紙の内容は?」
「マスター同士の話じゃ」
ローバウルは、静かな笑みを浮かべていた。
「ウェンディが読む必要はない」
「分かりました」
ウェンディは素直に頷き、封筒を大切に鞄へしまおうとする。
その直前。
カイドウの大きな手が、手紙を横から取った。
「カイドウさん!」
「本当に手紙か確認する」
「見れば分かるでしょう!」
「罠かもしれん」
「マスターから渡されたんですよ?」
「ジジイが騙されてるかもしれん」
「失礼なことを言わないでください!」
カイドウは封筒を裏返す。
封蝋。
宛名。
何か魔法が仕掛けられていないか、匂いまで嗅いでいる。
「何をしているのよ」
シャルルが呆れたように尋ねた。
「毒が塗られてねェか確認してる」
「手紙へ毒を塗る人なんて、そうそういないわ」
「おれの世界にはいた」
「どんな世界だったのよ……」
「毒だけじゃねェ。開けたら爆発する物もある」
「それを先に言ってください!」
ウェンディが手紙から距離を取った。
カイドウは鼻で笑う。
「これは大丈夫だ」
「怖がらせないでください!」
「用心だ」
ローバウルは、二人を眺めながら髭を撫でる。
「その手紙へ危険な仕掛けはない。安心して持っていくとよい」
「はい」
「カイドウさん、返してください」
ウェンディが両手を伸ばす。
カイドウは封筒を持ったまま、少し考えた。
「おれが持つ」
「私がお使いを頼まれたんです」
「なくす」
「なくしません!」
「落とす」
「落としません!」
「雨で濡らす」
「鞄に入れます!」
「盗まれる」
「魔導士です!」
「おれより弱い」
「またそれですか!」
ウェンディが手紙を取り返そうとする。
カイドウは腕を高く上げた。
身長差がありすぎる。
ウェンディが跳んでも届かない。
「返してください!」
「おれが持つ」
「駄目です!」
「なぜだ」
「カイドウさんに持たせたら、妖精の尻尾へ着く前に中身を読もうとするでしょう!」
「読まん」
「本当ですか?」
「……少ししか」
「読むんですね!」
シャルルが空へ飛び、カイドウの手から封筒を奪った。
「油断しすぎよ」
「あ?」
シャルルは手紙をウェンディへ渡す。
「鞄の奥へ入れておきなさい」
「ありがとう、シャルル」
「白狸、返せ」
「もうウェンディへ返したわ。私はエクシードよ」
ウェンディは封筒を鞄へ入れ、留め具をしっかり閉めた。
その上から両手で守る。
「これで大丈夫です」
「おれが持つ」
「駄目です!」
「鞄ごと持つ」
「それでは私が何も持てません!」
「軽くなる」
「お使いくらい自分でできます!」
ローバウルは笑いながら、壁の地図を指差した。
「マグノリアまでは、ここから少し距離がある。町の駅から列車へ乗るとよい」
「列車?」
カイドウが聞き慣れない言葉を繰り返す。
「人や荷物を運ぶ乗り物じゃ」
「船か」
「陸の上を走る」
「馬車か」
「魔導車の大きなものと思えばよい」
カイドウは眉を寄せる。
「速いのか」
「徒歩よりは遥かに速いぞ」
「面白そうだな」
カイドウの口元が上がる。
ウェンディが嫌な予感を覚えた。
「壊さないでくださいね」
「まだ見てもいねェぞ」
「カイドウさんは、興味を持つと触るでしょう」
「触るだけだ」
「触った物が壊れるんです!」
「列車は丈夫じゃろう」
ローバウルが言う。
ウェンディとシャルルは、同時に彼を見た。
「マスター」
「何じゃ?」
「そういうことを言うと、本当に壊れます」
「わしのせいかのう?」
「前も平和だと言った直後に、カイドウが空から落ちてきたわ」
「昔の話じゃ」
「まだ十日も経っていません!」
ウェンディの声が部屋へ響く。
「それで」
カイドウが腕を組む。
「おれも行く」
「まだ誰も頼んでいません」
「列車へ乗る」
「目的が変わっています!」
「ウェンディを護衛する」
「今、列車へ乗るって言いましたよね?」
「両方だ」
「お使いですよ!」
「マグノリアには妖精の尻尾がある」
「ああ」
ローバウルが頷く。
「雷の小僧もいるかもしれん」
カイドウの笑みが深くなる。
「決着をつける」
「それが本当の目的ですよね!?」
ウェンディが叫ぶ。
「駄目です! ラクサスさんと戦うために行くんじゃありません!」
「向こうから殴ってきたら仕方ねェ」
「挑発しないでください!」
「顔を見ただけで向こうが殴ってくるかもしれん」
「カイドウさんが笑うからです!」
「普通に笑ってる」
「悪党の笑い方です!」
ローバウルは、少しだけ真剣な顔になった。
「カイドウ」
「あ?」
「妖精の尻尾で暴れてはならん」
「向こうが先に手を出したら?」
「暴れてはならん」
「雷の小僧がいたら?」
「暴れてはならん」
「酒を出さなかったら?」
「暴れてはならん」
「何をしてもか」
「何をしてもじゃ」
カイドウの顔が不満で歪む。
「つまらん」
「戦いに行くのではないからです」
ウェンディが手紙の入った鞄を抱え直す。
「マカロフさんへ手紙を届けたら、すぐに帰ります」
「妖精の尻尾を見学する」
「少しだけですよ」
「酒場はあるか」
「ギルドなら、たぶんあります」
「なら一杯飲む」
「駄目です」
「なぜだ!」
「カイドウさんに飲ませたら、手紙を渡す前に宴会を始めるでしょう!」
「一杯だけだ」
「約束を守ったことがありますか?」
「ある」
「いつですか?」
「昨日」
「勝手に瓶の匂いを嗅いでいました!」
「飲んでねェ」
「栓を半分開けていました!」
「確認だ」
「それを守ったとは言いません!」
結局。
カイドウ。
ウェンディ。
シャルル。
三人でマグノリアへ向かうことになった。
ローバウルは最初から、そのつもりだったのかもしれない。
カイドウを宿へ残した場合。
ウェンディが遠くへ出かけたことを心配し、結局後から追いかける可能性が高い。
それなら最初から一緒に行かせた方が、まだ被害は少ない。
そう判断したのだろう。
「明日の朝、出発じゃ」
ローバウルが言う。
「今日は準備をしておくとよい」
「はい!」
「酒を買う」
カイドウが言う。
「必要ありません」
「旅には酒だ」
「水です!」
「肉もいる」
「それは用意します」
「樽一つ」
「多すぎます!」
「お前も食え」
「カイドウさんの量に合わせないでください!」
出発前から、すでに騒がしかった。
◇◇◇
翌朝。
化猫の宿の入り口には、旅支度を整えた三人が立っていた。
ウェンディは白と青を基調にした服の上へ、薄手の外套を羽織っている。
背中には手紙と薬草、水筒を入れた小さな鞄。
足元には、カイドウが依頼の報酬を使って買った新しい靴。
シャルルは小さな鞄を肩へ掛けていた。
そしてカイドウは。
両肩に巨大な荷物袋を担ぎ。
背中にも大きな包みを背負い。
腰には、果実酒の瓶を一本ぶら下げていた。
「多すぎます!」
ウェンディが叫ぶ。
「何がだ」
「荷物です!」
「三人分だ」
「ほとんどカイドウさんの食べ物ですよね!?」
右肩の袋には肉。
左肩の袋にはパン。
背中の包みには干し肉。
腰の酒瓶。
そのほかに、なぜか巨大な木製の杯まで括りつけられている。
「マグノリアまで何日かかると思っているんですか?」
「二日くらいか」
「列車なら今日中に着きます!」
「列車が止まるかもしれん」
「どうして止まるんですか?」
「壊れる」
「カイドウさんが壊さなければ大丈夫です!」
「腹が減った時のためだ」
「駅で食べ物を買えます!」
「高い」
「宿の食料を持っていく方が問題です!」
ローバウルが、荷物の山を眺める。
「肉代は、カイドウの報酬から引いておくぞい」
「待て」
「宿の食料じゃからのう」
「旅費だ」
「今回のお使いに、そこまでの食料は必要ない」
「肉が足りなくなったらどうする」
「我慢してください」
ウェンディが言う。
カイドウの顔が険しくなる。
「旅の途中で肉を我慢しろと言うのか」
「数時間です!」
「酒は」
「一日一杯です」
「列車の中で飲む」
「駄目です!」
「なぜだ」
「ほかのお客さんがいます!」
「静かに飲む」
「酔ったら静かじゃなくなるでしょう!」
「おれは酔っても静かだ」
「昨日、歌っていました」
「歌ってねェ」
「『酒は飲んでも飲まれるな』って大声で歌っていました!」
「いい歌だろ」
「自分が守れていません!」
結局。
肉の袋は一つ。
パンも半分。
酒瓶はローバウルが没収した。
「なぜだ!」
「帰ってきたら飲ませてやる」
「おれの酒だぞ!」
「旅先で騒動を起こさぬためじゃ」
「一杯だけだ!」
「ウェンディの言うことを聞けたら、帰宅後に二杯じゃ」
カイドウの動きが止まった。
「二杯?」
「ああ」
「本当だな」
「約束じゃ」
「カイドウさん」
ウェンディが不安そうに見上げる。
「お酒のためだけに、言うことを聞くんですか?」
「それ以外に何がある」
「私たちへ迷惑をかけないためです!」
「同じだ」
「違います!」
シャルルが翼を出す。
「そろそろ行きましょう。列車へ乗り遅れるわ」
「列車は、おれを待つ」
「待ちません」
ウェンディはローバウルへ頭を下げる。
「行ってきます、マスター」
「気をつけてのう」
「手紙は必ず届けます」
「ああ。頼んだぞ」
ローバウルの視線が、一瞬だけ手紙の入った鞄へ向けられた。
穏やかな笑み。
しかし、その奥には、どこか寂しそうなものがあった。
ウェンディは気づかなかった。
カイドウは。
僅かに目を細めた。
「ジジイ」
「何じゃ?」
「この手紙、本当にただの手紙か」
ローバウルは、カイドウを見た。
「どういう意味じゃ」
「お前の顔が妙だ」
広間の空気が、一瞬だけ静まる。
ウェンディが首を傾げる。
「マスター、どこか具合が悪いんですか?」
「いやいや。年寄りじゃから、朝は少し眠いだけじゃ」
ローバウルは笑った。
「心配はいらん。楽しんでくるとよい」
「お使いですよ?」
「マグノリアは美しい町じゃ。妖精の尻尾にも、面白い魔導士が多い」
「雷の小僧もいるか」
カイドウが尋ねる。
「それは分からん」
「いたら殴る」
「駄目です!」
ウェンディの声が宿へ響いた。
先ほどの僅かな違和感は、いつもの騒がしさへ流されていった。
◇◇◇
最寄りの町にある駅。
ウェンディは、駅舎へ入った瞬間から目を輝かせていた。
広い構内。
高い天井。
行き交う旅人たち。
売店では弁当や飲み物が売られ、掲示板には各地へ向かう列車の時刻が書かれている。
ホームの向こうには、長い車両が停まっていた。
黒い鉄の車体。
煙突から白い煙を吐き。
低い音を立てながら出発を待っている。
「これが列車ですか」
ウェンディが感心したように言う。
「大きいですね」
「そうか?」
カイドウは列車を見下ろす。
「おれが龍になった方がでかい」
「何と比べているんですか?」
「速いのか」
「かなり速いはずです」
「おれよりは?」
「分かりません」
「競争する」
「しません!」
カイドウは車体へ近づき、表面を指で叩いた。
ごん、と重い音が響く。
駅員が慌てて駆け寄る。
「お客様! 車体を叩かないでください!」
「丈夫か確認しただけだ」
「列車は安全です!」
「本当か」
「もちろんです!」
駅員はカイドウの体格を見上げる。
次に、二本の角。
背中の紋章。
そして巨大な荷物。
「ところで……お客様は、本当に乗車されるのですか?」
「ああ」
「座席へ入りますかね」
「壊せば入る」
「壊さないでください!」
ウェンディと駅員の声が重なる。
「通路が狭い場合は、少し屈んでください」
ウェンディが言う。
「面倒だ」
「二杯の約束を忘れたんですか?」
カイドウの動きが止まる。
「屈む」
「お酒の力ってすごいわね」
シャルルが呆れる。
切符を買う。
ウェンディとシャルルは通常料金。
カイドウは体格と荷物の大きさから、二人分の座席を使うことになった。
「なぜ、おれだけ二倍だ」
「場所を取るからです」
駅員が説明する。
「おれは一人だ」
「座席二つ分の大きさがあります」
「床へ座る」
「通路が塞がります!」
「屋根へ乗る」
「絶対に駄目です!」
「なら、車両を一つ空けろ」
「無理です!」
カイドウの切符代は、ローバウルから預かった旅費の大半を占めた。
ウェンディは財布の中身を見て、少し青ざめる。
「帰りの分は残っていますけど……」
「酒は買えるか」
「買いません!」
「マグノリアの酒を試す」
「お使いです!」
「一杯だけだ」
「一日一杯は、宿へ帰った後です!」
「話が違う」
「最初から変わっていません!」
やがて、出発の合図が鳴った。
三人は列車へ乗り込む。
入り口でカイドウの角が引っかかりかけたが、ウェンディが注意する前に屈んだ。
「できましたね!」
「子供扱いするな」
「褒めただけです」
車内へ入る。
通路は、カイドウにとって非常に狭かった。
乗客たちは、巨大な男が歩いてくると一斉に体を寄せ、道を空ける。
「便利だな」
「怖がらせているだけです!」
指定された座席へ到着する。
カイドウは二つの座席を使い、どうにか腰を下ろした。
みしり。
不穏な音。
ウェンディとシャルルが座席を見る。
「壊れてねェ」
カイドウが先に言った。
「まだです」
ウェンディは、カイドウの隣の席へ座る。
シャルルは窓際。
列車が動き出した。
最初はゆっくり。
やがて速度を上げ、駅の建物が後方へ流れていく。
「動いた!」
ウェンディが窓の外を見る。
町並みが遠ざかる。
草原。
森。
遠くの山。
風景が次々と変わっていく。
「すごいですね!」
「遅い」
カイドウは腕を組んでいた。
「おれなら、もっと速く走れる」
「でも、座っていられます」
「揺れる」
「少しだけです」
列車が大きく曲がる。
車体が揺れた。
カイドウの顔色が、僅かに変わった。
「……」
ウェンディは気づかない。
窓の外へ夢中になっている。
シャルルは、カイドウを見た。
「どうしたの?」
「何がだ」
「顔が少し青いわ」
「気のせいだ」
「もしかして」
シャルルの目が細くなる。
「乗り物に弱いの?」
「誰がだ」
列車が再び揺れる。
カイドウの眉間へ皺が寄った。
「……この箱、妙に揺れやがる」
「列車だから当然よ」
「地面を走ってるくせに、安定しねェ」
「完全に酔っているじゃない!」
「酔ってねェ!」
カイドウの声が車内を震わせる。
他の乗客たちが振り返る。
ウェンディもようやく気づいた。
「カイドウさん?」
「何だ」
「大丈夫ですか?」
「問題ねェ」
「顔色が悪いです」
「元からだ」
「元から悪いのは目つきです!」
ウェンディは鞄から薬草を取り出す。
「乗り物酔いのお薬があります」
「いらん」
「飲んでください」
「断る」
「このままだと吐きますよ」
「吐かん」
列車が小さな段差を越える。
がたん。
「……うっ」
カイドウが口元を押さえた。
「今、うって言いました!」
「言ってねェ」
「言いました!」
「腹が減っただけだ」
「さっき肉を食べました!」
「もう消化した」
「それでは、お弁当を食べますか?」
ウェンディが小さな包みを出す。
カイドウは匂いを嗅いだだけで顔を背けた。
「いらん」
「カイドウさんが食べ物を断った……」
ウェンディの顔が青ざめる。
「重症です!」
「大声を出すな」
「すぐに薬を飲んでください!」
「薬の方が吐く」
「そんなことありません!」
ウェンディは薬草を水へ溶かし、小さな杯へ入れる。
カイドウは座席へ深くもたれ、目を閉じていた。
普段の威圧感はない。
完全に乗り物酔いした大男だった。
「はい」
ウェンディが杯を差し出す。
「飲んでください」
「嫌だ」
「子供みたいなことを言わないでください」
「まずい」
「乗り物酔いよりはましです!」
「酒で治る」
「悪化します!」
ウェンディはカイドウの鼻を摘もうと手を伸ばす。
届かない。
座席の上に立ち、さらに腕を伸ばす。
「何をしてる」
「鼻を摘んだら飲みやすいです」
「やめろ」
「では自分で飲んでください!」
ウェンディが杯をカイドウの口元へ近づける。
カイドウは顔を背ける。
反対側からシャルルが押さえる。
「大人しく飲みなさい!」
「白狸、離せ」
「エクシードよ!」
「ウェンディ!」
「飲んでください!」
三人の攻防が始まる。
周囲の乗客たちは、恐ろしい大男が小さな少女と白い猫に薬を飲まされている姿を、呆然と見ていた。
最後には。
列車が大きく揺れた拍子に、杯の中身がカイドウの口へ流れ込んだ。
「ぐっ……!」
カイドウは反射的に飲み込む。
顔が歪む。
「まずい!」
「大声を出さないでください!」
「酔ってる時に飲ませる味じゃねェ!」
「だから薬です!」
乗客の一人が、隣の者へ小声で言った。
「あの子、すごいな」
「あんな大男へ薬を飲ませたぞ」
「娘さんかしら」
カイドウの耳が動く。
「違ェ!」
怒鳴った直後。
また列車が揺れた。
「……うっ」
今度は声が小さかった。
ウェンディは心配そうにカイドウの腕へ触れる。
「横になりますか?」
「どこでだ」
「私の膝を使います?」
カイドウは目を開ける。
ウェンディの膝。
カイドウの頭。
大きさが違いすぎる。
「首が折れる」
「カイドウさんの首は折れないでしょう」
「お前の足が潰れる」
「それは確かに……」
ウェンディは考えた。
そして、カイドウの大きな手を自分の膝へ載せる。
「これならどうですか?」
「何だ、これは」
「手だけ休ませてください」
「意味があるのか」
「少しでも安心するかなと思って」
カイドウは、ウェンディの膝に載った自分の手を見る。
巨大な手。
ウェンディの両膝を完全に覆っている。
「……妙なことをするな」
「嫌ですか?」
「好きにしろ」
カイドウは再び目を閉じた。
ウェンディは、その手を小さな両手で包む。
天空魔法の柔らかな風を流し、気分が落ち着くように治療した。
しばらくすると。
カイドウの呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
「楽になりましたか?」
「ああ」
「よかったです」
「この列車は気に入らん」
「帰りも乗りますよ」
カイドウの目が開く。
「龍になって帰る」
「町中で変身しないでください」
「外で変わる」
「私たちを背中へ乗せるつもりですか?」
「ああ」
「落ちたらどうするのよ」
シャルルが尋ねる。
「落とさん」
「本当に?」
「ああ」
「列車より危険そうです」
ウェンディが困ったように言う。
「おれの背中を、この箱と一緒にするな」
「急に回転したりしませんか?」
「敵がいなけりゃな」
「絶対に列車で帰ります!」
カイドウの顔が絶望に染まった。
◇◇◇
数時間後。
列車は、マグノリア駅へ到着した。
停車した瞬間。
カイドウは、誰よりも早く立ち上がった。
座席が大きく軋む。
「着いたぞ」
「まだ扉が開いていません!」
「開ける」
「壊さないでください!」
乗務員が扉を開けるより早く、カイドウが手をかけようとする。
ウェンディとシャルルが腕へしがみついて止めた。
「待ってください!」
「外へ出るだけだ」
「普通に開きます!」
「遅い」
「数秒です!」
扉が開く。
カイドウは深く屈み、ホームへ降りた。
地面へ足がついた瞬間。
大きく息を吐く。
「二度と乗らん」
「帰りも乗ります」
「嫌だ」
「子供みたいなことを言わないでください」
「龍になって帰る」
「駄目です」
「歩く」
「何日かかると思っているんですか?」
「お前を肩に乗せれば早い」
「シャルルは?」
「飛べる」
「荷物は?」
「持つ」
「それでも列車です!」
カイドウは、忌々しそうに列車を睨む。
列車は何事もなかったように煙を吐き、再び走り去っていった。
「逃げやがった」
「列車に喧嘩を売らないでください」
駅の外へ出る。
そこには、化猫の宿の周辺とは比べものにならないほど大きな町が広がっていた。
石造りの建物。
運河へ架かる橋。
花で飾られた街路。
行き交う多くの人々。
遠くから聞こえる音楽。
商店の呼び込み。
ウェンディは、思わず足を止めた。
「すごい……」
これほど大きな町へ来るのは初めてではない。
だが、マグノリアは特に活気がある。
街路には色とりどりの花が並び、どこを見ても人々の笑顔があった。
「綺麗な町ですね」
「ああ」
カイドウは、ウェンディとは別の場所を見ていた。
通りの角。
大きな看板。
樽の絵。
「酒場だ」
「行きません」
「まだ何も言ってねェ」
「顔を見れば分かります!」
「マグノリアの酒を調べる」
「手紙が先です!」
「一杯だけだ」
「駄目です!」
「二杯の約束がある」
「それは帰ってからです!」
シャルルは空へ浮かび、町の案内板を確認する。
「妖精の尻尾は、町の西側みたいね」
「歩いて、どのくらいですか?」
「二十分くらいでしょう」
「遅い」
カイドウがウェンディの鞄へ手を伸ばす。
「肩に乗れ」
「歩きます!」
「迷うぞ」
「案内板があります!」
「人が多い」
「だから、はぐれないように歩きます」
「なら手を出せ」
「え?」
カイドウは、大きな手をウェンディの前へ差し出した。
「はぐれる」
ウェンディは、その手を見る。
町の人々が行き交っている。
確かに、化猫の宿の近くと比べれば人が多い。
それでも、迷子になるほどではない。
「大丈夫です」
「駄目だ」
「私は子供じゃ――」
「子供だ」
「魔導士です!」
「子供の魔導士だ」
前にも聞いた言葉。
ウェンディは少し頬を膨らませた。
だが。
カイドウの手は、そのまま待っている。
「仕方ありませんね」
ウェンディは、小さな手を重ねた。
カイドウの手は大きい。
ウェンディの手など、指一本でも包めるほどだった。
カイドウは、潰さないよう。
逃げられないほど強くはせず。
それでも人波ではぐれない程度に、優しく握った。
「親子ね」
シャルルが言う。
「違ェ」
「手まで繋いでいるじゃない」
「迷子防止だ」
「どちらの?」
「小娘のだ」
「ウェンディです!」
ウェンディは言い返しながらも、手を離さなかった。
◇◇◇
妖精の尻尾へ向かう道中。
カイドウは、町の者たちから何度も注目を集めた。
当然である。
二本の角。
巨大な体。
悪党のような顔。
背中には見慣れないギルドの紋章。
その大男が、小さな少女と手を繋いで歩いている。
町の者たちは恐れるべきか、微笑むべきか迷っていた。
「お父さん、大きいね」
道端の少女が言った。
「違ェ」
カイドウは低い声で否定する。
少女は母親の後ろへ隠れた。
「大声を出さないでください」
ウェンディが叱る。
「大声じゃねェ」
「声が怖いです」
「生まれつきだ」
「優しく否定してください」
「どうやってだ」
「普通にです」
「普通が分からん」
ウェンディは少女へ振り返る。
「お父さんではなくて、ギルドの仲間なんです」
「でも手を繋いでる」
「はぐれないためです」
「お父さんみたい」
ウェンディの顔が少し赤くなる。
「そ、そう見えるかもしれませんけど……」
「見えねェ」
カイドウが言う。
少女はカイドウを見る。
次に、繋がれた手を見る。
「お父さん」
「違ェ!」
今度は声が大きかった。
少女は笑いながら走っていった。
カイドウの眉間に皺が寄る。
「面倒な町だな」
「カイドウさんが否定するから、面白がられているんです」
「お前も否定しろ」
「しました」
「弱い」
「声の強さの問題ではありません!」
通りの先。
魚屋。
肉屋。
菓子店。
酒屋。
酒屋の前を通った瞬間。
カイドウの足が止まる。
ウェンディも引っ張られて止まった。
「行きません」
「まだ何も言ってねェ」
「入り口を見ています」
「店の構造を確認してる」
「どうしてですか?」
「丈夫そうだ」
「壊す前提で見ないでください!」
酒屋から、甘い香りが漂ってくる。
カイドウは鼻を動かす。
「いい酒だ」
「匂いだけで分かるんですか?」
「ああ」
「手紙を届けた後なら、一杯だけ……」
ウェンディが言いかける。
カイドウの目が輝いた。
「本当か」
「やっぱり駄目です」
「なぜだ!」
「今の顔を見て、絶対に一杯で終わらないと思いました!」
「終わる」
「本当ですか?」
「……二杯で」
「駄目です!」
カイドウは名残惜しそうに酒屋を見ながら、再び歩き出した。
手は離さない。
ウェンディが酒屋へ引っ張られないようにするのではなく。
自分が酒屋へ入らないよう、ウェンディに繋いでもらっているようにも見えた。
「ウェンディ」
「はい?」
「絶対に手を離すな」
「どうしてですか?」
「おれが酒屋へ入る」
「自覚があるんですね!」
◇◇◇
やがて。
大きな建物が見えてきた。
入口の上には、妖精の羽を模した紋章。
建物の中からは、大勢の笑い声と怒鳴り声。
何かが壊れる音。
爆発音。
さらに。
「勝負しろ、グレイ!」
「てめェから吹っかけたんだろうが!」
「服を着なさい!」
外にまで響く騒がしさ。
ウェンディは立ち止まる。
「ここが……妖精の尻尾」
フィオーレ王国でも名高い魔導士ギルド。
強者が集まり。
数多くの依頼を解決し。
同時に建物の破壊や問題行動で評議院を悩ませているという、噂のギルド。
カイドウは建物を見上げた。
「騒がしいな」
「あなたが言うの?」
シャルルが呆れる。
中から椅子が一脚、窓を突き破って飛んできた。
カイドウは片手で受け止める。
椅子は無傷だった。
ウェンディが驚く。
「何で椅子が飛んでくるんですか!?」
「普通じゃねェか」
「普通ではありません!」
「化猫の宿でも、よく椅子が壊れる」
「カイドウさんが壊しているんです!」
直後。
建物の中から、ピンク色の髪をした少年が飛び出してきた。
「うおおおおおっ!」
拳を振り上げたまま。
勢いよく。
カイドウの腹へ突っ込んだ。
ごん。
鈍い音。
少年の拳が、カイドウの腹で止まった。
「……あ?」
カイドウが見下ろす。
「……ん?」
少年が見上げる。
互いに固まる。
ピンク色の髪。
首には白い鱗模様のマフラー。
鋭い目。
体から漂う、龍の匂い。
カイドウの目が細くなる。
「お前」
少年の鼻が動く。
「ドラゴンの匂いがする!」
突然、少年の目が輝いた。
「お前、ドラゴンか!?」
「ああ」
「本当か!?」
「正確には、龍へ変身できる人間です!」
ウェンディが慌てて説明する。
少年はウェンディを見る。
その瞬間。
今度は彼女の匂いを嗅ぐ。
「お前も滅竜魔導士か!」
「は、はい。天空の滅竜魔導士です」
「オレはナツ・ドラグニル! 火の滅竜魔導士だ!」
ナツは楽しそうに名乗った。
「すげェ! ドラゴンが二人も来た!」
「おれは滅竜魔導士じゃねェ」
カイドウが言う。
「でも龍なんだろ?」
「ああ」
「勝負しろ!」
「断る」
「何でだよ!」
「列車で気分が悪い」
ナツの顔が固まった。
「お前も乗り物に弱いのか?」
「あ?」
「オレもだ!」
ナツは、突然カイドウの手を握った。
「仲間だな!」
「勝手に仲間にするな」
「乗り物は最悪だよな!」
「ああ。あの箱は気に入らん」
「分かる!」
「次は壊す」
「オレも!」
「二人とも壊さないでください!」
ウェンディの声が響く。
シャルルは頭を抱えた。
「初対面なのに、変なところで意気投合したわ」
ギルドの中から、金髪の少女が走ってくる。
「ナツ! 外へ飛ばされたと思ったら、何をしてるのよ!」
腰には鍵束。
右手には鞭。
長い金髪をした少女。
その後ろから、青い猫が飛んでくる。
「あい! ナツが新しい変な人を見つけた!」
「変な人?」
少女はカイドウを見た。
見上げる。
さらに見上げる。
「……大きい」
「おい」
カイドウの声が低くなる。
「誰が変な人だ」
「ハッピーが言ったのよ!」
「あい!」
「認めるな!」
ウェンディは慌てて頭を下げる。
「突然すみません。私たちは化猫の宿から来ました」
「化猫の宿?」
金髪の少女が首を傾げる。
「私はウェンディ・マーベルです。こちらはシャルル。それから……」
「百獣のカイドウだ」
カイドウが名乗る。
その名を聞き。
金髪の少女の表情が変わった。
「カイドウ?」
以前、ラクサスが帰還した時。
山で遭遇した異世界の龍について、ギルド内で少し話していた。
自分と殴り合い。
雷竜の攻撃を受けても倒れず。
青い鱗と覇気を使った巨大な男。
「あんたが、ラクサスと山を壊した人!?」
「半分は雷の小僧だ」
「本当にいたのね!」
「カイドウさん」
ウェンディが彼の服を引く。
「山を壊したことを自慢しないでください」
「自慢してねェ」
「顔が得意そうです」
「強かったからな」
「反省してください!」
金髪の少女は、ウェンディに叱られるカイドウを見た。
次にシャルルを見る。
「この人、本当にラクサスと戦ったの?」
「ええ」
シャルルが答える。
「山を半分壊して、最後は二人でウェンディに叱られて、並んで薬を飲んだわ」
「何その光景!」
少女が目を丸くする。
ナツの目は、さらに輝いていた。
「ラクサスと互角だったのか!?」
「決着はついてねェ」
「やっぱり勝負しろ!」
「今は用事が先だ」
「後ならいいのか!?」
「駄目です!」
ウェンディが割って入る。
「戦いに来たんじゃありません!」
「じゃあ何しに来たんだ?」
「手紙を届けに来ました」
ウェンディは鞄を抱える。
「こちらのマスター、マカロフさんへ」
「じっちゃんなら中にいるぞ」
ナツがギルドを指差す。
「入れよ!」
「はい」
ウェンディが一歩進む。
カイドウも続こうとする。
「待ってください」
「何だ」
「絶対に暴れないでくださいね」
「分かってる」
「ナツさんに挑発されてもです」
「向こうが殴ったら殴る」
「避けてください!」
「無理だ」
「努力してください!」
「二杯」
「何ですか?」
「暴れなかったら、帰って二杯だ」
「それはマスターとの約束です」
「お前も約束しろ」
「分かりました」
ウェンディは人差し指を立てた。
「何も壊さず、誰とも戦わず、マカロフさんへ手紙を届けられたら、帰ってから二杯です」
「本当だな」
「はい」
「三杯は」
「駄目です」
「二杯半」
「駄目です」
「分かった」
カイドウは大人しく頷いた。
金髪の少女は、信じられないものを見る顔をしていた。
「酒で止まるの?」
「酒だけではありません」
シャルルが言う。
「ウェンディの言うことなら、一応は聞くわ」
「一応とは何だ」
「聞かない時も多いでしょう」
「お父さんみたいだね」
青い猫――ハッピーが言った。
「違ェ!」
カイドウの声が響く。
ウェンディが耳を押さえる。
「大声を出さないでください!」
「お父さんじゃないの?」
ハッピーが首を傾げる。
「宿の仲間です!」
ウェンディが答える。
「でも、手を繋いでたよ?」
「町ではぐれないためです!」
「やっぱり親子だね」
「あい!」
「違ェ!」
「また声が大きいです!」
ギルドへ入る前から、騒ぎは始まっていた。
◇◇◇
妖精の尻尾の扉を開ける。
中にいた魔導士たちの視線が、一斉に集まった。
広い酒場。
壁には大量の依頼書。
長い机。
カウンター。
酒を飲む者。
喧嘩をする者。
眠る者。
笑う者。
実に騒がしい場所だった。
だが。
カイドウが入った瞬間。
その騒がしさが、一度止まった。
「誰だ、あの大男」
「角があるぞ」
「魔族か?」
「敵じゃないよね?」
「背中に違うギルドの紋章がある」
ざわめきが広がる。
カイドウは広間を見回した。
多くの魔導士。
強い魔力。
酒の匂い。
そして。
カウンターの奥に並ぶ、大量の酒樽。
カイドウの目が輝いた。
「酒だ」
「見ないでください」
ウェンディが彼の顔の前へ立つ。
「手紙が先です」
「一杯だけ」
「駄目です」
「匂いを嗅ぐだけだ」
「そのまま飲むでしょう!」
カウンターの中。
白い長髪の美しい女性が、三人を見て微笑んでいた。
「いらっしゃいませ」
柔らかな声。
「化猫の宿の方ね?」
「はい」
ウェンディが頭を下げる。
「ウェンディ・マーベルです」
「私はミラジェーン。妖精の尻尾で看板娘をしているの」
ミラジェーンは、ウェンディへ優しい笑顔を向けた。
「マスターにご用?」
「はい。化猫の宿のマスターから、手紙を預かっています」
「分かったわ。少し待っていてね」
ミラジェーンは、奥へ声をかける。
「マスター! お客様です!」
返事を待つ間。
カイドウは、カウンターの酒を見ていた。
ミラジェーンが気づく。
「お酒を飲まれますか?」
「ああ」
「駄目です!」
ウェンディが叫ぶ。
「カイドウさんは飲みすぎるので!」
「一杯だけだ」
「手紙を渡すまで駄目です」
「渡した後はいいのか」
「帰ってからです!」
ミラジェーンは、二人を見比べた。
「お父さん?」
「違ェ!」
「違います!」
二人の声が重なる。
ギルドの魔導士たちから笑いが起きた。
「何だ、親子じゃないのか」
「どう見ても父親だろ」
「娘に酒を止められてるぞ」
「誰が父親だ!」
カイドウが周囲を睨む。
空気が重くなる。
笑っていた者たちの声が止まった。
ただ一人。
上半身裸の黒髪の少年が、腕を組んで言った。
「親子じゃねェなら、何なんだよ」
「グレイ! 服!」
金髪の少女――ルーシィが叫ぶ。
グレイは自分の体を見る。
「いつの間に脱いだ!?」
「お前」
カイドウがグレイを見る。
「露出狂か」
「誰が露出狂だ!」
「服を着ろ」
「お前に言われたくねェ!」
グレイがカイドウの服装を見る。
胸元は大きく開き。
上着は肩へ掛けただけ。
確かに人のことを言える姿ではない。
「おれは着てる」
「ほとんど開いてんじゃねェか!」
「カイドウさん」
ウェンディが上着を引っ張る。
「前を閉めてください」
「きつい」
「町の中です」
「破れる」
「少しだけでも!」
カイドウは渋々、上着を閉じようとする。
筋肉が邪魔をし、布がみしみしと鳴った。
ばりっ。
背中の縫い目が裂ける。
「……」
「……」
「服が悪い」
「力を入れすぎです!」
妖精の尻尾の広間に、大きな笑い声が響いた。
「面白ェ奴だな!」
大柄な男が笑う。
「男なら服など破れて当然だ!」
「エルフマン、服は破れない方がいいわよ」
ミラジェーンが穏やかに注意する。
カイドウは、笑う魔導士たちを見回した。
普通なら。
その顔。
その威圧感。
少し覇気を漏らすだけで、誰も笑わなくなる。
だが。
妖精の尻尾の者たちは違った。
恐れる者もいる。
警戒する者もいる。
それでも、騒ぎを面白がり。
誰一人として逃げようとしない。
「妙なギルドだな」
カイドウが呟く。
「化猫の宿も似たようなものよ」
シャルルが言う。
「おれが来てからだろ」
「自覚があるのね」
その時。
「誰じゃ、わしを呼んだのは」
奥から、小柄な老人が現れた。
白い髪。
長い髭。
非常に小さな体。
しかし。
その身から漂う魔力は、他の魔導士たちとは比べものにならない。
妖精の尻尾三代目マスター。
マカロフ・ドレアー。
「マスター」
ミラジェーンが説明する。
「化猫の宿から、お手紙を届けに来たそうです」
「化猫の宿?」
マカロフの目が僅かに見開かれる。
ウェンディは前へ出る。
「初めまして。ウェンディ・マーベルです」
「おお。お主がウェンディか」
マカロフの表情が柔らかくなる。
「ローバウル殿から、話は聞いたことがある」
「私のことを?」
「ああ。天空の滅竜魔導士の少女がいるとな」
マカロフは、ウェンディの隣を見る。
白いエクシード。
そして。
遥かに見上げなければ顔が見えない巨大な男。
「……こちらは?」
「百獣のカイドウだ」
カイドウが答える。
「ラクサスさんと戦った人です」
ウェンディが補足した。
マカロフの顔が固まる。
「お主が?」
「ああ」
「ラクサスと山を壊したという」
「半分はあいつだ」
「そういう問題ではない!」
マカロフの額に青筋が浮かぶ。
「帰ってきたラクサスから聞いたぞ! 山道は割れ、岩壁が崩れ、周辺の魔力が乱れておったと!」
「魔物は倒した」
「結果がよければ、何をしてもいいわけではない!」
「このジジイも説教するのか」
「妖精の尻尾のマスターじゃ!」
「雷の小僧のジジイだろ」
「誰が雷の小僧じゃ!」
「ラクサスさんです」
「分かっておる!」
マカロフとカイドウが睨み合う。
小さな老人。
巨大な男。
身長差は凄まじい。
それでも、マカロフは一歩も引かなかった。
カイドウの目が、少しだけ楽しそうに細くなる。
「お前、強いな」
「ここで暴れる気なら、容赦はせんぞ」
「面白ェ」
「カイドウさん!」
ウェンディが大きな声を出す。
「戦いません!」
「まだ何もしてねェ」
「顔が戦う気です!」
「向こうが容赦しねェと言った」
「カイドウさんが挑発するからです!」
ウェンディはカイドウの前へ立ち、両手を広げた。
「今日は手紙を届けに来ただけです!」
「分かってる」
「何も壊さなかったら二杯ですよ!」
カイドウの闘志が、一瞬で消えた。
「……そうだったな」
マカロフの口が開く。
「酒で止まるのか?」
「酒だけではありません」
シャルルが答える。
「ウェンディの言うことなら聞きます」
「一応ですけど」
ウェンディが付け加える。
「お父さんみたいね」
ミラジェーンが微笑む。
「違ェ!」
カイドウの怒声。
マカロフが耳を押さえる。
「声が大きいわ!」
「お父さんじゃありません!」
ウェンディも否定する。
「では、どういう関係じゃ」
マカロフが尋ねる。
「化猫の宿の仲間です」
「おれはこいつの護衛だ」
「頼んでいません!」
「親子じゃな」
「違います!」
二人の声がまた重なる。
マカロフは、大声で笑った。
「なるほど。ローバウル殿も、面白い者を拾ったものじゃ」
「拾われたのはカイドウさんです」
「違ェ。客として迎えられただけだ」
「空から落ちて、私たちが治したんですよ?」
「拾われておるではないか」
「違ェ!」
妖精の尻尾の魔導士たちも笑う。
カイドウは不満そうだったが。
ウェンディが笑っているため、怒りはしなかった。
「それで、手紙は?」
マカロフが尋ねる。
「あ、はい」
ウェンディは鞄を開く。
奥へ大切に入れていた封筒を取り出す。
「化猫の宿のマスター、ローバウルさんからです」
両手で差し出す。
マカロフは、手紙を受け取った。
封蝋を見た瞬間。
その表情が僅かに変わる。
「確かに、ローバウル殿の紋章じゃ」
「直接渡してほしいと言われました」
「ああ。ご苦労じゃった」
マカロフは、ウェンディの頭へ手を伸ばす。
だが。
触れる直前。
カイドウの大きな手が、二人の間へ入った。
「何をする」
低い声。
「何って、よく来たと褒めようと……」
「口で言え」
「頭を撫でるくらい構わんじゃろ!」
「必要ねェ」
「カイドウさん!」
ウェンディが、彼の手を押し下げる。
「マカロフさんは悪い人じゃありません!」
「雷の小僧のジジイだ」
「だから何ですか!」
「血が繋がってる」
「それだけで警戒しないでください!」
マカロフは、カイドウの顔を見た。
ウェンディの前へ庇うように出された手。
鋭い視線。
完全な父親の顔。
「親バカじゃな」
「違ェ!」
「それ以外に何がある!」
「護衛だ!」
「ギルドの中で、わしから守る必要がどこにある!」
「何があるか分からん」
「お主が一番危険じゃ!」
マカロフの怒鳴り声と。
カイドウの低い声。
再び睨み合い。
ウェンディは二人の間で頭を抱えた。
「どうして、手紙を渡すだけで喧嘩になるんですか!」
◇◇◇
手紙を受け取ったマカロフは、内容を確認するため奥の部屋へ移動した。
返事を書くまで、少し時間が必要だという。
その間。
ウェンディたちは、妖精の尻尾の広間で待つことになった。
ミラジェーンが飲み物を用意する。
「ウェンディちゃんは、何がいい?」
「温かいミルクをお願いします」
「シャルルは?」
「私も同じ物を」
「カイドウさんは?」
「酒」
「駄目です」
ウェンディが即答する。
「水です」
「客だぞ」
「一日一杯です」
「マグノリアへ来た祝いだ」
「何のお祝いですか!」
「列車に耐えた」
「薬を飲みながらですけど、頑張りましたね」
「なら酒だ」
「帰ってから二杯です!」
ミラジェーンは、楽しそうに二人を眺める。
「では、お水ね」
「待て」
「ウェンディちゃんの許可が出たら、いつでも出すわ」
「なぜ小娘の許可がいる」
「健康管理をしているんでしょう?」
「誰から聞いた」
「今のやり取りを見れば分かるわ」
カイドウは不満そうに椅子へ座る。
妖精の尻尾の椅子は、化猫の宿ほど補強されていない。
みしり。
全員の視線が椅子へ向く。
「壊れてねェ」
カイドウが先に言う。
「壊さないでくださいね」
ウェンディが念を押す。
「二杯だろ」
「はい」
「なら壊さん」
カイドウは、背筋を伸ばして慎重に座った。
普段なら威圧感のある姿勢。
今は、椅子を壊さないよう体重を調節しているだけだった。
ナツが向かいへ座る。
「なあ、カイドウ」
「あ?」
「勝負しようぜ」
「断る」
「何でだ!」
「二杯が消える」
「何の話だ?」
「何も壊さなかったら、帰って酒を二杯飲めるんです」
ウェンディが説明する。
ナツの顔が真剣になる。
「じゃあ、外で戦えばいい!」
「駄目です」
「何で!?」
「外でも壊します!」
「壊さなきゃいいだろ!」
「ナツさんとカイドウさんが戦って、壊さないなんてできますか?」
ナツは考える。
「……無理だな!」
「即答しないでください!」
ルーシィがナツの頭を叩く。
「お使いで来た人へ、いきなり勝負を挑まないの!」
「だって、ドラゴンだぞ!」
「正確には、ドラゴンへ変身できる人よ!」
「同じだ!」
「違うでしょう!」
グレイが横からカイドウを見る。
「ラクサスと互角って、本当かよ」
「おれが少し上だ」
「まだ決着はついていないでしょう!」
ウェンディが訂正する。
「ラクサスが薬を飲まされたって話も本当か?」
「ああ」
「おれと同じ顔をしてた」
「どんな顔だよ」
「薬がまずくて、死にそうな顔よ」
シャルルが答える。
グレイは吹き出した。
「あのラクサスが?」
「お前も飲むか」
カイドウが低い声で尋ねる。
「何で俺が!」
「笑った罰だ」
「そんな罰があるか!」
「ウェンディ。薬を出せ」
「勝手に人へ飲ませないでください!」
カナが酒樽を抱えながら近づいてくる。
「面白い奴が来たって聞いたけど」
大胆な服装。
片腕には大きな酒樽。
カイドウの目が、一瞬で酒へ向く。
「お前」
「何?」
「話が分かりそうだな」
「酒、飲む?」
「ああ」
「駄目です!
ウェンディが二人の間へ飛び込む。
「一杯だけならいいじゃない」
カナが笑う。
「一杯では終わりません!」
「終わる」
カイドウが答える。
「本当に?」
「……二杯で」
「増えてるじゃないですか!」
「カナさん!」
ルーシィが注意する。
「子供の前でお酒を勧めないでください!」
「飲むのは、この大男よ」
「ウェンディちゃんが止めているでしょう!」
「お父さんの酒を娘が管理してるの?」
「違ェ!」
カイドウの怒声。
カナの酒樽が僅かに揺れる。
中の酒が、ちゃぷんと音を立てた。
カイドウの目がそちらへ向く。
「……いい音だ」
「聞き分けられるの!?」
ルーシィが驚く。
「樽の中身は、まだ半分以上ある」
「どうして分かるの?」
「音だ」
カナの目が輝く。
「やるわね」
「お前もな」
二人は酒を通じて、一瞬で理解し合った。
ウェンディの顔が青ざめる。
「駄目です!」
「まだ何もしてないわよ」
「酒を渡そうとしました!」
「一杯だけ」
「その一杯が始まりなんです!」
カイドウはカナを見る。
「後で隠れて飲むぞ」
「いいわね」
「聞こえています!」
ウェンディの怒声が広間へ響く。
シャルルは溜息を吐いた。
「このギルド、カイドウと相性が良すぎるわ」
◇◇◇
騒ぎの中。
一人の赤い髪の女性が、階段から下りてきた。
全身に鎧を纏い。
腰には剣。
堂々とした足取り。
広間の騒ぎを見た瞬間。
鋭い声を上げた。
「何を騒いでいる!」
妖精の尻尾の者たちが、一斉に静かになる。
ナツとグレイは背筋を伸ばし。
ルーシィも口を閉じ。
カナは酒樽を背中へ隠そうとする。
赤い髪の女性――エルザ・スカーレットは、広間を見回した。
「客人の前だぞ。少しは節度を持て!」
「す、すみません!」
ルーシィが頭を下げる。
エルザの視線が、カイドウへ向く。
巨大な男。
二本の角。
悪党のような顔。
そして。
カナの酒樽へ手を伸ばしかけている。
「そこの男」
「あ?」
「客人なら、勝手に酒へ手を出すな」
「一杯飲むだけだ」
「許可は得たのか」
「カナがいいと言った」
「ウェンディが駄目だと言った」
シャルルが補足する。
エルザはウェンディを見る。
次にカイドウを見る。
「なら駄目だ」
「なぜだ」
「健康を心配されているのだろう」
「おれは健康だ」
「薬を毎朝飲んでいるわ」
シャルルが言う。
「怪我も治ったばかりです」
ウェンディも続ける。
エルザは腕を組んだ。
「飲むべきではない」
「お前まで説教するのか」
「当然だ」
カイドウの目が細くなる。
エルザも一歩も退かない。
空気が重くなる。
ナツが嬉しそうに言う。
「おっ、やるのか!?」
「やりません!」
ウェンディが叫ぶ。
「カイドウさん。二杯です!」
「……」
カイドウの闘志が消える。
エルザの眉が動く。
「酒で抑えられているのか?」
「はい」
「違ェ」
「では、なぜ座り直した?」
「椅子を壊さねェためだ」
「立ち上がりかけていたでしょう!」
ウェンディが指摘する。
エルザは、カイドウの前へ立った。
「名は?」
「百獣のカイドウ」
「私はエルザ・スカーレットだ」
「強そうだな」
「お前もな」
二人の視線がぶつかる。
カイドウの口元が僅かに上がる。
「おれの部下にならねェか」
広間が静まり返った。
「は?」
エルザが聞き返す。
「お前なら、百獣海賊団の大看板に――」
「駄目です!」
ウェンディが割って入る。
「勝手に勧誘しないでください!」
「強い奴を部下にするのは普通だ」
「カイドウさんの世界ではそうかもしれませんけど、ここでは違います!」
「断る」
エルザが即答した。
「私は妖精の尻尾の魔導士だ」
「そうか」
「だが、強さに興味があるなら、いずれ手合わせしてもいい」
カイドウの目が輝く。
「面白ェ」
「エルザさん!」
ウェンディが悲鳴に近い声を上げる。
「戦う約束をしないでください!」
「町の外なら問題ないだろう」
「問題あります!」
「周囲を壊さなければいい」
「二人とも壊すでしょう!」
ナツが手を上げる。
「オレも入る!」
「お前は黙れ!」
ルーシィがナツを叩く。
グレイが笑う。
「またウェンディに叱られてんぞ」
「白狸、薬を出せ」
「私はエクシードよ。それから、薬を罰に使わないで」
妖精の尻尾の広間は。
化猫の宿以上に騒がしくなっていた。
◇◇◇
その頃。
奥の部屋では、マカロフがローバウルから届いた手紙を読んでいた。
羊皮紙に書かれた文字。
一行ずつ目を通すたび。
マカロフの表情から、先ほどまでの笑みが消えていく。
手紙には。
連合軍。
闇ギルド。
六魔将軍。
そして、ニルヴァーナについて書かれていた。
化猫の宿から、連合軍へ一人の魔導士を派遣すること。
その役目を、ウェンディへ託したいということ。
さらに。
自分に何かあった場合。
ウェンディとシャルルを、妖精の尻尾で受け入れてほしいという願い。
マカロフは、最後の一文を何度も読んだ。
『あの子には、帰る場所が必要じゃ』
「ローバウル殿……」
低い呟き。
マカロフは、手紙を机へ置いた。
封筒の中には、もう一枚。
カイドウについて書かれた短い文もあった。
『空より落ちてきた異世界の龍。恐るべき力を持つが、ウェンディには心を許しておる。あの子を守る者となるか、世界を壊す災厄となるかは、今後次第じゃ』
マカロフは、扉の向こうから聞こえる怒鳴り声へ耳を傾けた。
「酒は一杯だ!」
「二杯の約束だ!」
「それは帰ってからです!」
「なら、今帰る!」
「手紙の返事を待ってください!」
「お父さん、大変だね」
「誰がお父さんだ!」
マカロフの口元が、僅かに緩む。
「少なくとも、あの子を傷つける災厄ではなさそうじゃな」
だが。
手紙の内容は重い。
すぐにウェンディへ伝えるべきか。
ローバウルの意図を尊重し、まだ伏せるべきか。
マカロフは目を閉じ、しばらく考えた。
◇◇◇
「待たせたのう」
マカロフが広間へ戻った時。
カイドウは、なぜか床へ正座させられていた。
その前にはエルザ。
腕を組み、厳しい顔をしている。
「何があったんじゃ?」
マカロフが尋ねる。
「この男が、カナの酒樽を持って逃げようとした」
エルザが答えた。
「逃げてねェ」
カイドウが反論する。
「少し移動しただけだ」
「酒樽を抱えて、出口へ向かっていただろう」
「匂いを確認するためだ」
「出口で?」
「風通しがいい」
「言い訳をするな!」
エルザの声が響く。
カイドウは不満そうに正座している。
巨大な男が、小さな座布団の上へ無理やり膝を折っている姿は、妙に滑稽だった。
ウェンディは、その隣で正座していた。
「どうしてウェンディまで?」
マカロフが尋ねる。
「私が見張っていたのに、カイドウさんを止められなかったので……」
「お前が座る必要はねェ」
カイドウが言う。
「私にも責任があります」
「ねェ」
「あります」
「ねェ!」
「大声を出さない!」
エルザが二人を叱る。
カイドウが黙る。
ウェンディも姿勢を正す。
マカロフは、思わず笑いそうになった。
「カイドウを正座させたのか」
「ああ。反省するまで酒は禁止だ」
「待て」
カイドウの顔が変わる。
「帰ったら二杯だ」
「ここでの行動は、ローバウル殿にも報告する」
マカロフが言う。
「ジジイ同士で余計なことを話すな」
「マスター同士の連絡じゃ」
「酒樽には触ってねェ」
「抱えていたでしょう!」
ウェンディが言う。
「持っただけだ」
「栓を開けようとしていました!」
「固さを確認した」
「本当に言い訳ばかりですね!」
マカロフは、二人の前へ歩み寄る。
「返事を書いた」
ウェンディが顔を上げる。
「ありがとうございます」
「ローバウル殿へ、直接渡してくれ」
「はい」
マカロフは、新しい封筒を差し出した。
封蝋には、妖精の尻尾の紋章。
ウェンディが受け取ろうとする。
その前に。
カイドウの手が伸びた。
「おれが持つ」
「正座中ですよ!」
ウェンディが手を叩く。
「触らないでください!」
「帰りも列車だろ」
「そうです」
「お前が酔った時、おれが持てない」
「酔うのはカイドウさんです!」
「……そうだったな」
カイドウの顔が険しくなる。
帰りの列車。
その事実を忘れていたらしい。
「龍になって帰る」
「駄目です」
「歩く」
「何日もかかります!」
「泊まればいい」
「宿代がありません!」
「野宿だ」
「手紙を早く届けないといけません!」
「列車は嫌だ」
「子供みたいなことを言わないでください!」
ナツが、横から口を挟む。
「分かるぞ、カイドウ!」
「お前は黙ってろ!」
ルーシィが叫ぶ。
「乗り物は敵だ!」
ナツが拳を握る。
「ああ」
カイドウも頷く。
「今度、列車を倒すぞ」
「いいな!」
「よくありません!」
ウェンディとルーシィの声が重なる。
「何で意気投合してるのよ!」
「ドラゴン同士だからな!」
「おれは、こいつと一緒にするな」
「何でだよ!」
「弱い」
「勝負しろ!」
「二杯が消える」
「酒を優先するな!」
ナツが怒鳴る。
「お前に言われたくねェ」
カイドウは鼻を鳴らした。
マカロフは、ウェンディへ手紙を渡す。
「大事な返事じゃ。なくさぬようにな」
「はい」
「それから」
マカロフは少しだけ声を落とした。
「また近いうちに、会うことになるかもしれん」
「私たちが、ですか?」
「ああ」
「どうしてですか?」
ウェンディが首を傾げる。
マカロフは、すぐに答えなかった。
「ローバウル殿から、話があるはずじゃ」
「マスターから?」
「ああ」
ウェンディは不思議そうな表情を浮かべた。
カイドウは、マカロフをじっと見ている。
「ジジイ」
「何じゃ」
「何を隠してる」
低い声。
広間の騒がしさが、少しだけ遠のいた。
マカロフはカイドウを見る。
鋭い目。
人の嘘や敵意に敏感な男。
「今、わしから話すことではない」
「ウェンディに関係あるんだろ」
「ああ」
「なら話せ」
「ローバウル殿が話すべきことじゃ」
カイドウの目が細くなる。
空気が重くなる。
ウェンディが、そっとカイドウの腕へ触れた。
「カイドウさん」
「何だ」
「マスターへ帰って聞きましょう」
「……」
「マカロフさんを怖がらせないでください」
「わしは怖がっておらん!」
マカロフが怒鳴る。
「小せェのに威勢はいいな」
「誰が小さい!」
「見れば分かる」
「わしは巨人にもなれるぞ!」
「面白ェ。やってみろ」
「戦わないでください!」
緊張感は、一瞬で消えた。
妖精の尻尾の者たちから笑い声が上がる。
マカロフは咳払いをし、真剣な表情へ戻った。
「とにかく、返事を頼む」
「はい」
ウェンディは封筒を鞄の奥へ入れた。
今度はカイドウに取られないよう、すぐに鞄を抱える。
「おれが持つ」
「駄目です」
「列車でお前が寝たら落とす」
「寝ません」
「疲れる」
「大丈夫です」
「魔力を使うかもしれん」
「帰るだけです!」
「何があるか分からん」
「カイドウさんが何もしなければ、何もありません!」
カイドウは納得していない顔だった。
だが、二杯の約束を思い出したのか、手を引いた。
◇◇◇
帰る前。
妖精の尻尾の者たちは、ウェンディたちを見送るため外へ集まった。
ナツ。
ルーシィ。
ハッピー。
グレイ。
エルザ。
ミラジェーン。
カナ。
エルフマン。
そしてマカロフ。
「また来いよ!」
ナツが言う。
「次は勝負だからな!」
「駄目です」
ウェンディが即答する。
「カイドウさんとナツさんが戦ったら、町が壊れます」
「町の外でやる!」
「森が壊れます!」
「平原なら!」
「地面が割れます!」
「空なら!」
「飛べない人がいます!」
「オレは飛べるぞ! ハッピーで!」
「あい!」
「おれも飛べる」
カイドウが言う。
「なら空だ!」
「やめてください!」
ルーシィがナツの耳を引っ張る。
「初対面で戦う約束をしない!」
「痛ェ!」
「お前も大変だな」
カイドウがナツへ言う。
「お前ほどじゃねェよ!」
「何?」
「だって、ウェンディに酒も戦いも止められてるだろ」
「お前は、そいつに止められてる」
カイドウがルーシィを指差す。
ナツが黙る。
「同じね」
シャルルが言う。
「同じじゃねェ!」
二人の声が重なった。
ハッピーが笑う。
「あい! 似てる!」
グレイも笑う。
「馬鹿なところがな」
「グレイ!」
ナツが飛びかかる。
「やんのか!」
「来いよ!」
「町を壊すな!」
エルザの怒声が響く。
ナツとグレイが止まる。
カイドウは、エルザを見た。
「やはり、お前は部下に向いてる」
「断ると言っただろう」
「考え直せ」
「妖精の尻尾を抜ける気はない」
「なら、ギルドごと来い」
「勝手に移籍させるな!」
マカロフが叫ぶ。
ミラジェーンは、ウェンディの前へしゃがむ。
「また遊びに来てね」
「はい」
「今度はゆっくりお話ししましょう」
「楽しみにしています」
ミラジェーンは、ウェンディの頭を撫でようとする。
カイドウの手が動きかける。
ウェンディは、その手を掴んだ。
「駄目です」
「まだ何もしてねェ」
「顔が止める気でした」
「知らねェ女だ」
「ミラジェーンさんです!」
「今日会ったばかりだ」
「優しい人です!」
「本性は分からん」
ミラジェーンは、笑顔のまま僅かに魔力を漏らした。
「確かめてみる?」
カイドウの目が輝く。
「面白ェ」
「ミラジェーンさんまで挑発しないでください!」
ウェンディは、カイドウの腕を両手で引いた。
「帰ります!」
「待て。今、この女が――」
「二杯がなくなります!」
「帰るぞ」
カイドウは即座に背を向けた。
妖精の尻尾の者たちが、一斉に笑う。
「本当に酒で動くのね」
ルーシィが言う。
「ウェンディちゃん、すごい」
「毎日、大変です」
ウェンディは苦笑した。
カイドウは振り返る。
「何をしてる。置いてくぞ」
「待ってください!」
「はぐれるぞ」
カイドウは手を差し出した。
ウェンディは少しだけ頬を膨らませる。
それでも。
その手を取った。
「子供じゃありません」
「知ってる」
「一人でも歩けます」
「知ってる」
「では、どうして手を?」
「人が多い」
「親バカね」
シャルルが言う。
「違ェ」
カイドウは否定しながら。
ウェンディの手を離さなかった。
妖精の尻尾の者たちは、その背中を見送る。
マカロフは。
小さな少女。
その隣を歩く異世界の龍。
二人を見ながら、ローバウルの手紙を思い出していた。
『あの子には、帰る場所が必要じゃ』
化猫の宿。
妖精の尻尾。
そして。
百獣のカイドウ。
ウェンディの帰る場所は。
すでに一つだけではないのかもしれない。
◇◇◇
マグノリア駅。
帰りの列車を前に。
カイドウは、腕を組んで立っていた。
「乗らん」
「乗ります」
「龍で帰る」
「駄目です」
「歩く」
「遅くなります」
「明日着けばいい」
「マスターが待っています!」
「この箱は嫌だ」
「薬があります」
「それが一番嫌だ」
「では、気持ち悪くなっても我慢してください」
「酒を飲めば治る」
「治りません!」
駅員が出発を知らせる。
ウェンディはカイドウの上着を掴み、列車へ引っ張った。
「乗ってください!」
「嫌だ」
「二杯です!」
カイドウの足が止まる。
「帰らねェと飲めねェな」
「そうです!」
「……仕方ねェ」
カイドウは渋々、列車へ乗り込んだ。
シャルルも続く。
席へ座った瞬間。
カイドウは目を閉じる。
「まだ動いていませんよ」
「気分が悪い」
「早すぎます!」
「この箱の中にいるだけで悪くなる」
「では、薬を先に飲みましょう」
「嫌だ」
「予防です」
「まずい」
「蜂蜜を多くします」
「酒は」
「入れません」
「使えねェな」
「もう毎回失礼です!」
列車が動き出す。
カイドウの顔色が、早くも悪くなる。
ウェンディは薬を用意する。
シャルルは窓の外を眺める。
帰りの旅も、騒がしくなることは確実だった。
「カイドウさん、口を開けてください」
「断る」
「飲んでください」
「嫌だ」
「二杯」
「……飲む」
カイドウは薬を一気に飲み干した。
「まずい!」
列車の窓が震える。
「大声を出さないでください!」
乗客たちが振り返る。
その一人が、小声で呟いた。
「あの大男、娘さんに薬を飲ませてもらってる」
「違ェ!」
カイドウが否定する。
直後。
列車が揺れる。
「……うっ」
カイドウは口元を押さえた。
ウェンディが慌てて背中を擦る。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
「横になります?」
「ここでは無理だ」
「手だけ、私の膝へ置きますか?」
「……好きにしろ」
ウェンディは、カイドウの巨大な手を自分の膝へ載せる。
両手で包み。
優しい風を流す。
カイドウの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「帰ったら、マスターへ手紙を渡しましょうね」
「ああ」
「それから、約束の二杯です」
「ああ」
「でも、何も壊していませんよね?」
「壊してねェ」
「酒樽を持って逃げようとしました」
「逃げてねェ」
「エルザさんに正座させられました」
「あの女、気に入らん」
「でも強かったでしょう?」
「ああ」
「また戦おうとしていますね?」
「少しだけだ」
「駄目です」
「二杯飲んだ後なら」
「もっと駄目です!」
カイドウは、僅かに笑った。
「ウォロロロ」
ウェンディも笑う。
マグノリアで出会った、新しい魔導士たち。
騒がしく。
乱暴で。
それでも温かい、妖精の尻尾。
ローバウルから預かった手紙は、無事にマカロフへ渡された。
だが。
手紙に書かれていた本当の意味を。
ウェンディはまだ知らない。
化猫の宿に隠された真実。
ローバウルの願い。
近づく闇ギルドとの戦い。
それらが、少女と異世界の龍の運命を大きく変えることになる。
けれど今は。
「カイドウさん」
「何だ」
「吐くなら、窓の外にしてくださいね」
「吐かん」
「袋も用意しています」
「必要ねェ」
「顔が青いです」
「元からだ」
「目つきが悪いのは元からです!」
「お前、最近言い方が酷くなってねェか」
「誰のせいだと思っているんですか?」
「白狸だな」
「私はエクシードよ!」
列車の中に。
いつもの言い争いが響いていた。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!