やあみんな、よく来てくれたね。 僕の名前は狭山ケイ。 こないだ間違えて男子トイレに入った、元男性社会人転生者系女子高生さ。
さて、今日は雨だ。
朝から降り続き、放課後も止む気配がない。
生徒会の仕事を早めに切り上げる。
ちくわ部に顔を出し”次回の試食会案”を伝えた。
ちくわぶを革命的に真っ赤なソースで和えた、トッポギだ。
一部の熱心な部員には反発を受けたが、私は原理主義者ではないのでコレで通した。
なお、燻製部は屋外活動ができないので休みだ。
当然である。
雨なら英智の部屋に直行する、というのが最近のパターンだったが、今日は違った。
英智から「駅前のゲーセン、新台入ったらしい」と連絡が来たのだ。
珍しく、彼の方から。
駅前で合流する。
英智はすでに傘を差していた。
しばらくゲーセンで遊んだ後、外に出ると、雨が一段と強くなっていた。
そして、英智の傘の骨が、不自然に歪んでいた。
「英智。傘、どうした」
「さっき風で裏返った。骨が折れた」
「ふうん」
僕は自分の傘を回しながら、その壊れた傘を見た。
風で裏返る程度の強度だったのか。
それとも、何か別の要因があったのか。
僕は知らない。
知る必要もない。
以前の僕なら、こう言っていただろう。
“はっはっは、そのまま濡れて帰れ。水も滴る良い男だ”
そう笑いながら、一人で歩き出すのが普通だった。
なのに、今日の僕は違った。
「……仕方ない。入れ」
「え?」
「傘だ。二人で差せ。君が濡れると、僕が困る」
「困る理由がわからん」
「親友が風邪をひくと、次の予定が乱れる。管理上の問題だ」
英智が不思議そうな顔をした。当然だ。前の僕なら、絶対にこうは言わない。
「……前は”濡れて帰れ”って笑ってただろ。何で急にシェアなんだよ」
「以前の話だ。今は違う」
「何が違うんだよ」
「効率だ。君が倒れる方が、長期的に見て損失が大きい」
「損失とか言うな。ただの心配だろ」
「心配ではない。予定の確保だ」
僕は構わず傘を差し出した。
英智が「いいよ」と手を振るが、僕は近くに寄る。
一つの傘に二人分の肩が入り歩き出す。
距離が、いつもより近い。
すこし歩く。
しかし、予想以上に雨が強かった。
「……とりあえず、雨が弱まるまでゲーセンに戻ろうか」
「……おう」
傘の下で並んで、ゲーセンへ踵を返す。
雨音が傘に当たる。
英智の腕が、時々僕の腕に触れる。前なら何とも思わなかった接触が、今日は少しだけ意識に引っかかる。
(…気のせい…そう、気のせいだ)
自分に言い聞かせる。傘が小さいだけだ。
物理的な問題だ。
「ケイ、傘寄せすぎだろ」
「寄せすぎではない。効率的な配置だ」
「配置とか言うな。ただの密着だろ」
「密着などしていない。物理的な制約だ」
「制約とか言うな。ケイの方が寄ってきてるだろ」
図星を突かれて、僕は少しだけ傘を傾けた。
雨粒が英智の肩に落ちる。すぐに戻す。
「……気のせいだ」
「気のせいにしすぎ」
ゲーセンに入り直す。
傘を閉じ、大破した英智の傘は、傘立てに押し込まれる。
音ゲーの筐体が並ぶ通路を歩きながら、英智がぼそりと言った。
「なあ、ケイ」
「何だ」
「最近、俺のこと過剰に気にしてないか」
「気にしていない。適切に監視しているだけだ」
「監視とか言うな。やっぱり変だぞ」
「変ではない。僕は常に正確だ」
「さっきも言っけど、前のケイなら、絶対に”はっはっは、濡れて帰れ”って言ってただろ」
沈黙が、少しだけ落ちる。
ゲーセンのやかましい電子音が、周囲を埋めている。
「……何か変わったのか?」
「変わっていない。状況に応じて最適な選択をしているだけだ」
「最適な選択が、強制傘シェアかよ。まぁありがたいけど」
「ありがたいなら良いのでは」
「……あのさ、こういう時ケイって、前は笑って突き放してたよな。何で今は寄ってくるんだよ」
その言葉が、胸の奥に小さく沈む。
否定しようとして、言葉が少しだけ遅れた。
「……守護対象が濡れると、困る」
「また守護対象とか言い出した」
「事実だ」
「事実とか言うな。ただの口実だろ」
英智が小さく笑った。
呆れと、少しの諦めと、何か別のものが混じった笑い方だ。
「……まあ、いいけど。雨だしな」
「いいのか…雨だしね」
「いい。ケイが変なのは今に始まったことじゃないし」
そう言って、英智は音ゲーの筐体の前に立った。
僕も隣に並ぶ。
肩が、また触れそうな距離になる。
壊れた傘のことが、視界の端に残っていた。
風のせいなのか、それとも——。
考えない。
考える必要はない。
ただの偶然だ。
やがて雨が少し弱まったので、ゲーセンを出ることにした。
お互いの自宅に分かれるあたりまで来たところで、急に雨脚が変わる。
さっきまでの落ち着いた降り方とは別物だ。
大きな雨粒が、まるで上方から叩きつけられるように落ちてくる。
傘を差し直す暇もなく、風に煽られた雨が横から顔面と制服を容赦なく打った。
視界が白くかすむ。
アスファルトに落ちる雨音が、一段と高く、連続した雑音になって鼓膜を埋め尽くす。
足元では、すでに大きな水たまりができ始めていた。
靴の中に冷たい水が染み込む感触がある。
あっという間に、二人の制服は大きく濡れた。
白いシャツは透明感を帯び、肌に張りつく。
布の重みが増して、動くたびに粘るような感触が腕と胴に残る。
髪から伝う水が、襟元を伝って背中へ落ちていく。
寒い、というより、肌の表面が常に何かに触れている感覚が強い。
「……これは計画外だ」
僕は濡れた前髪を払った。
指先にも、雨の冷たさが残る。
シャツの生地が肌に密着し、普段は意識しない部分の形を、強制的に浮かび上がらせている。
不快だ。布が重くなり、動きにくい。
それだけだ、と思おうとする。
しかし、胸のあたりの感触が、普段よりはっきりと意識された。
支える下着の存在が、水を含んだ生地越しに、輪郭を持って迫ってくる。
無視しようとする。
無視できるはずだ。
ただの布だ。
必要だから着ているだけだ。
隣を歩く英智が、ちらりとこちらを見た。
すぐに視線を逸らす。
また見る。
また逸らす。
雨に打たれた横顔が、水滴で光っている。
「……見るな」
「見てない」
「見ている。君の視線が泳いでいる」
「気のせいだ。雨で前が見えにくいだけだ」
「前を見ろ。僕を見るな」
「見てねえって」
英智の声が、少しだけ高い。
雨音に紛れていても、必死に否定しているのが分かった。
分かってしまった。
シャツが肌に貼りついている。
水を吸った白い生地は、下着のラインすらぼんやりと透かせているのだろう。
普段は徹底的に意識しないようにしている部分が、今は生地の重みと冷たさで、強制的に存在を主張してくる。
雨粒が、頬を伝い、顎から落ちる。
足元の水しぶきが、すでに濡れた裾をさらに叩く。
世界が、水音と冷たい感触だけになっている。
不快だ。 苛立たしい。
なのに、胸の奥が、雨のせいではない熱を持っている。
(……なんだ、これは)
「ただの布だ。気にするな」
僕は自分に言い聞かせるように言った。
英智にも、自分にも。
言葉は雨に吸われて、少しだけ弱く聞こえた。
「気にしてねえよ。ただ、濡れて冷えるかもしれないし……」
「冷えてはいない。濡れているだけだ。それ以上でも以下でもない」
「わかってる」
「わかっているなら、視線を固定しろ」
「固定してる」
「していない」
言い合いになる。
内容は噛み合っていない。
ただ、お互いが「見ていない」「気にしていない」を繰り返しているだけだ。
激しい雨音が、そのぎこちない言葉をかき消し、また運んでくる。
分かれ道に差し掛かったとき、僕は傘を閉じた。
すでにずぶ濡れで、意味が薄くなっていた。
閉じた傘から、水がぽたぽたと落ちる。
「……今日はここまでだ」
「おう」
英智が小さく頷く。
また、一瞬だけ視線が胸元に落ちて、すぐに上がる。
雨に濡れたまつ毛が、少しだけ束になっているのが見えた。
僕はそれを見て、言葉を継いだ。
「傘の管理を徹底しておくれよ。次は入れてやらないかなら」
「……分かった」
「分かったら、もう行け」
「ケイこそ、風邪ひくなよ」
「ひかない。管理している」
そう言って、僕は先に足を向けた。
背中に、英智の視線が残っている気がした。
気のせいだ、と思おうとする。
思えない。
雨が、後頭部から背中へ流れていく。
濡れた生地が、歩くたびに肌に吸い付く。
下着の感触が、普段より明確だ。
水の冷たさと、布の密着が、身体の輪郭をくっきりと意識させてくる。
不快だ。
認めたくない。
なのに、さっきの英智の視線が、脳の端に張り付いたまま離れない。
(……気のせいだ)
そう自分に言い聞かせながら、雨の中を歩いた。 水音だけが、周囲を埋め尽くしている。 指先の熱は、雨に打たれても、なかなか冷めてくれなかった。