転生したら結城丈二(♀)だったのでプルトンロケットを回避したい! 作:青葱小口切り
午前の採型が一件だけ入っていた日だった。
石膏の匂いが残る作業台を拭いて、乾かしている型を棚へ戻す。義手の調整記録に最後の一行を書き込んで、日付を入れて閉じた。窓の外では、商店街の魚屋が氷を割っている。
工具を布へ並べ直していたところで、扉が開いた。
「こんにちは、結城さん」
聞き覚えのある明るい声だった。
「筑波くんか。今日は予定を入れていなかったと思うが」
「はい。急にすみません」
俺は答えながら、もう地下の方へ歩いていた。
工房の下にある棚には番号だけを書いた記録簿が並んでいる。表紙には名前を書かない。中身が誰のものかは、俺と本人だけが知っている。七番の背を引き抜くと、指にかかる重さが去年より増していた。
「あ、すみません。今日は身体の方じゃないんです」
地下までよく響く声に手が止まる。
(違うのか)
筑波くんは少し笑って、鞄を作業台の端へ置いた。
「そっちは来月の予約で、ちゃんと取ってます」
「……そうだったな」
記録簿を小脇に抱えたまま返事をするのは、我ながら格好がつかない。俺は結局持ってきたものを作業台の隅へ置いた。
筑波くんが鞄から取り出したのは、折り目のついた紙だった。手描きの見取り図だ。通路と部屋の四角が几帳面に描かれ、配管らしい線が何本も走っている。線の脇には、太さと本数が数字で書き込まれていた。
その下から、走り書きのメモが出てくる。音、振動、温度。気づいたことを片っ端から書きつけたらしい。
「ちょっと、見てもらいたいものがあって」
***
俺は椅子を二つ引き寄せて、見取り図を作業台へ広げた。
「山の中で見つけたんです」
筑波くんが話し始める。
北の山間部で、不自然な排熱を見つけた。積雪の残る時期なのに、その斜面だけ雪が早く融けていた。近づくと周期的な低い振動があったので岩壁を調べたら、偽装された入口が出てきたとのことだ。
「中に人はいませんでしたが、機械は動いてました」
俺は見取り図の上を指でたどる。入口から通路、通路から広い区画へ。奥の四角には主動力と書かれている。
「奥まで入ったのか」
「はい。かなり大きな装置が動いてました。壊そうと思えば、壊せたんですけど」
筑波くんは見取り図の、太い線が集まっているあたりを指した。
「ここから太い配管が何本も出ていて、施設の外まで続いてたんです。何に繋がってるか分からないのに、動力だけ壊すのはまずいと思って」
「正解だ」
(偉いぞ)
一瞬気が逸れたが、口の方はすぐ技術者としてのものへ戻る。
「筑波くん、いくつか訊く」
「はい」
「主動力装置の音は一定だったか。上がり下がりはあったか」
「一定でした。ずっと同じ調子で、低い音が続いてました」
「周囲に熱は」
「装置の近くは温かかったです。触れないほどじゃありません」
「振動は装置から出ていたか、床から来ていたか」
「……床です。装置の音とは別に、床から来る揺れがありました」
俺は鉛筆を取って、見取り図の余白へ書き込みを始めた。
「配管の太さと本数は、この数字でいいのか」
「腕くらいの太さのが六本。もっと細いのが、たぶん十本以上。細い方は数え切れませんでした」
「操作盤に、温度や圧力の表示は」
「ありました。針の計器です。数字は控えてきました」
メモの二枚目に数値が並んでいた。単位まで書き写してある。
「外へ伸びる系統とは別に、戻ってくる配管はあったか」
「……そこは確認できませんでした」
筑波くんは、すぐにそう言った。
「壁の向こうへ入っていく管があったのは覚えてます。でも、それが行きなのか戻りなのかまでは、追えませんでした」
「冷却設備らしいものは」
「見ていません」
「人が最近出入りした痕跡は」
「ありませんでした。埃の積もり方が同じだったので、少なくとも最近は誰も歩いてないと思います」
俺は鉛筆を置いた。
答えに迷いがない。分からないところだけ、きちんと止まる。筑波くんはこういうところがやりやすくて助かる。
メモの端には時刻の記録があった。入った時刻と、出た時刻。滞在は二十分ほどで切り上げている。
「二十分で出たのは?」
「あれ以上いても、自分に読めるものは増えないと思ったので」
筑波くんは少し困った顔をした。
「本当は全部調べてから相談したかったんですけど、下手に触ってからじゃ遅いですし」
俺は資料を並べながら、入った時刻と出た時刻まで記されたメモをもう一度見た。
(立派になったなあ。いや、俺が言うのも何なんだけど)
ふと、数年前の空を思い出す。
あれは山の中腹だったか。とにかく広くて、隠れる場所のない場所だった。歴代の仮面ライダーが次々と立ちはだかり、若い後輩――筑波くんを鍛えていた。
それが問題だった。一人が終わればまた一人が出てくる。倒され、起き上がり、また倒される。筑波くんはそのたびに立ち上がったが、肩の上下がだんだん大きくなっていた。
(いや、改めて見てもやりすぎじゃないか。休憩の概念は? 水分補給は?)
そう考えているうちに俺の番が来た。
役目は拘束だった。ロープアームで動きを止め、そこから次の攻撃へ繋げる。避けられなければ痛い。だからこその特訓なのだ。
縄を放った。
放った瞬間に、腕が勝手に勢いを落とした。角度も、肩ではなく腕の外側へ逃げる方へ向いていた。筑波くんは縄を弾いて、難なく抜ける。
「結城!」
背中から鋭い声が飛んできた。
(あっ)
「手を抜くな」
「抜いていません」
「俺を見てちゃんと言え」
(すみません抜きました!)
風見はそれ以上説明しなかった。ただ、次はちゃんとやれという顔で俺の隣に立っただけだった。
「結城さん?」
目の前の筑波くんは、急かすでもなく、俺が鉛筆を動かすのを待っていた。
「いや。何でもない」
まさか昔みんなで筑波くんをしごいたことを思い出していたとは言えない。
***
俺は見取り図へ自分の予測を書き足していった。
太い管が六本。外へ出ていく系統があるなら、戻ってくる系統もあるはずだ。装置一台が熱を出しているだけなら、床全体が揺れる理由がない。
鉛筆の線が、往路と復路の二本になる。
――ここで止まった。
接続の順序が確定しない。熱を運ぶ何かが循環しているのは間違いない。だが、それがどこで冷やされ、どこへ逃がされるのかが読めない。逃がし先のない循環系は存在しないはずで、その逃がし先が図の上のどこにも描かれていない。
「……駄目だな」
筑波くんが少し身構えた。
「やっぱり危ないですか?」
「この情報だけでは判断できない。配管の接続と圧力を調整している系統を現地で確認する必要がある」
筑波くんが立ち上がりかけた。
「じゃあ、もう一度見てきます」
「いや。私も行こう」
「結城さんも?」
「また見てきてもらって、それでも足りない情報があれば二度手間になる。私が現物を見る方が早いだろう」
(それに、普通に危ないしな)
筑波くんはしばらく俺を見て、それから頭を下げる。
「分かりました。お願いします」
彼がそう返事をしたとき、扉が開いた。
「結城、いるか」
風見が、いつもの入り方で入ってきた。用があるときも、ないときも、変わらない。
「風見さん」
「洋じゃないか。珍しいな」
「ご無沙汰してます。結城さんに相談があって」
風見は片手を上げて応じ、それから作業台の上を見た。
手描きの見取り図。俺が書き足した予測線。脇に置かれたままの、七番の記録簿。椅子が二つ、同じ側を向いて並んでいる。
風見の目元が、少しだけ緩んだ。
「……何です?」
「何がだ」
「いえ」
(いや絶対ちょっと嬉しそうだったぞ。何が嬉しいのかは分からないが)
筑波くんが経緯を説明する。風見さんは黙って聞いて、俺たちが現地へ向かうと知ったところで、一度だけ俺を見た。
(あ、その目は知ってる。『洋相手だからって甘くしてないだろうな』の目だ)
「現物を見なければ、停止手順が組めないんです」
訊かれてもいないのに、俺の口が説明を始めていた。
「配管の接続関係が確定しない以上、図面だけで手順を組むのは危険です。これは技術上の判断であって、他意はありません」
「俺は何も言ってないぞ」
(顔が言ってるんだよな)
「まあそういうことなら、俺も行こう」
風見さんは当然のようにそう言って、脱ぎかけた上着を羽織りなおした。俺も筑波くんも止めない。
支度にかかる。
右腕はネットアームを選んだ。何が入っているか分からない施設で、殴って解決する必要はどこにもない。持っていくのは、回路計、表面温度計、それから工具一式と手帳。携行通信機を三つ。
最後に、換装用の通常手型をケースへ入れた。
「持っていくんですか」
「制御盤を触るなら、指が要る」
***
現地は、想像していたより人里に近かった。
斜面の下に谷沿いの道が走っていて、その先に小さな集落が見える。屋根が十いくつ。夕方にはきっと食事の匂いが漂うだろう。
俺はそれをしばらく見ていた。ここで何かが破裂すれば、その影響は下へ行く。
「結城」
「……行きましょう」
偽装された入口は、言われなければ岩にしか見えなかった。筑波くんが縁へ指をかけて、記憶した手順で開ける。
中の空気は温かかった。
人の気配はない。埃の積もり方も、彼が言ったとおり一定だ。筑波くんが通ったときの足足跡が残っている。それでいて、床は低く震え続けていた。誰もいないまま、動き続けている場所だ。
「この先です」
筑波くんが先頭に立った。彼が前回通っただろう道を、迷いなく進んでいく。
三つ目の角を曲がったところで、壁が動いた。
正確には、壁だと思っていた面が開いた。射出口だ。同時に、通路の先で防爆扉が下がり始め、床の一部が持ち上がって無人の警備装置が起き上がった。
旧式だ。だが、古いからといって動かないという意味ではない。
「変身!」
風見と筑波くんの声が重なった。
俺はヘルメットの中で、視界の切り替わりを待たずに右腕を上げていた。
筑波くんが正面の警備装置へ踏み込む。速い。数年前とは踏み込みの重さが違う。
その死角で、二つ目の射出口が開いていた。
網を放つ。射出口の縁ごと絡めて右腕を横へ引いた。網が銃身を逸らすより早く、筑波くんの踏み込みが深くなった。死角は塞がると決めている動きだ。銃身を壁に向けたところで放たれた光が、誰もいない壁を焼く。
筑波くんは迷いなく正面の装置を蹴り砕いた。
閉まりかけていた防爆扉は、V3が肩で受け止めている。
「先へ行け!」
三人で扉の下をくぐる。背後で、扉が最後まで下りきる音がした。退路の確保としては及第点ではない。
「戻りは別の道を探すことになりますね」
「その方が面白い」
(何がだ!?)
***
主動力区画は広かった。
中央に、天井まで届く大型の動力装置。そこから太い管が放射状に伸び、壁の何か所かへ吸い込まれている。操作盤は装置の手前に一列。針の計器が並んで、どれも生きていた。
「筑波くん、そこの盤の数値を読み上げてくれ。左から順に」
「はい」
俺は右腕の留め具を三つ外した。
「風見さん」
「ああ」
風見の手が肩へ来る。手のひら全体で支えて、安全固定を外側から外し、ネットアームを引き抜く。布の上へ、接点を上にして置く。通常手型の内側の固定を先に締めて、それから外側。
言葉はいらなかった。もう十年、この人はこの手順を間違えていない。
「入りました」
「三十八秒だ」
(速くなったな……)
筑波くんが計器から目を離さずに、少しだけこちらを見た気配があった。
俺は指の戻った右手で温度計と回路計を持ち替えながら、配管と操作盤を順に調べた。太い管の表面温度。細い管の温度。往きと戻りの温度差。流量計の針。圧力計の位置。
三十分かけて、施設の形が見えてきた。
「大体分かった」
二人が振り返る。
「この施設は、地下の動力装置から出た熱を、高圧の熱媒体へ移して循環させ、貯めて外へ送るための実験設備だ」
俺は配管を指しながら続けた。
「系統は四つ。熱を出す主動力系。熱媒体を回して冷やす循環・冷却系。エネルギーを外へ送る外部供給系。そして、圧力が上がりすぎた時に、余分な熱媒体を貯留槽へ逃がす圧力調整系」
「送り先は分かるんですか」
「外部供給系の行き先は、ここからは追えない。切れているのか、まだどこかへ繋がっているのかも分からない」
設備の組み方には見覚えがある。だが、規格の違う部品と年代の異なる改修が重なっていた。
(出所を追うのは、止めてからだ)
「壊さなくて正解だった」
「やっぱり危なかったんですね」
「主動力だけを止めれば、冷却と循環も止まる。だが、内部の熱は残る」
「……要するに?」
「火を止めても、蓋を溶接した鍋はすぐには冷めないということだ。しかも中身は高圧。冷却まで止めれば、逃げ場を失った圧力がどこかを裂く」
(鍋って規模じゃないけどね)
筑波くんが黙った。あの斜面の下を、彼も見ている。
「止められますか」
「順序を守れば止められる」
俺は手帳を開いて、四つの手順を書いた。
一、圧力の逃げ道と貯留槽を確認する。
二、外部供給を切り、主動力の出力を段階的に落とす。
三、熱が抜けるまで循環と冷却を続ける。
四、残った圧力を貯留槽へ逃がしてから、すべて止める。
圧力調整弁を操作盤から開閉する。表示は切り替わった。差圧のない今は実際の流れまでは確かめられないが、少なくとも制御信号は通っている。
「役割を決める。私は中央の制御盤で、出力と温度と圧力と循環量を見る。筑波くんは副区画で外部供給系を手動で切り離し、現場の計器を読んでくれ」
「分かりました」
「風見さんは、通路と退路を。防衛機構が生きています」
「そのつもりだ」
通信機の周波数を合わせる。三人の声が、それぞれの耳へ届いた。
***
最初は予定どおりに進んだ。
『外部供給系、切り離しました』
「確認した。主動力の出力を一段落とす」
中央の針が、ゆっくり左へ動く。循環は正常。冷却も効いている。温度が下がり始めた。
その直後、施設が気づいた。
通路の奥で防爆扉が動き出し、警備装置の起動音が重なった。外へ送る先を失ったことを、施設の自動防衛機構が異常として読んだのだ。
「ここは俺が引き受ける。続けろ、結城」
風見が中央区画を出ていく。足音が遠ざかり、すぐに金属の音へ変わった。
俺は二段目の出力を落とした。
温度は下がる。なのに圧力が下がらない。針は止まらず、むしろ少しずつ右へ寄っていく。
(……おかしい)
操作盤の表示を見た。圧力調整弁、開。信号は届いている。
貯留槽側の流量計を見た。増えていない。
俺は配管へ手を伸ばした。弁の下流側と上流側の温度を測る。差がない。流れていれば、必ず差が出る。
「弁が開いていない」
『表示は開いてるんじゃないんですか』
筑波くんの声が返ってきた。
「盤が示しているのは、命令を受けたという返事だけだ。弁の位置じゃない。恐らく、駆動部が固着している」
きっと長い放置で弁だけが固まったのだろう。
(信号は信号。結局最後は物を見るしかないんだよな)
外部供給はすでに切った。出力を元へ戻せば、行き場のない熱がさらに増える。運転状態へ戻すには時間が足りない。
このままなら、余熱が圧力を押し上げ、一番弱い管か容器が地下で裂ける。
俺は筑波くんの見取り図と、自分で測った配置を並べた。圧力調整弁のある区画。その脇に、小さな四角がある。
非常時用の手動操作部。
中央制御室から、通路を三つ隔てた奥の区画だった。
***
『俺が行きます』
筑波くんの声は、迷いがなかった。
「いや、私が――」
言いかけて、口が止まった。
中央を離れれば、出力の調整ができない。循環量の維持もできない。圧力の監視も、弁を開ける瞬間の圧力差の調整も、この盤の前でしかできない。
誰かが向こうへ行って、誰かがここに残る。それしかない。
分かっている。分かっているのに、俺の目は盤の上を別の方法を探して往復していた。補助系統で逃がせないか。細い管を犠牲にして時間を稼げないか。どれも数字が足りない。足りないことは、たぶん最初から分かっていた。
『結城』
通信から、風見さんの声が飛んで来た。
名前だけだった。
数年前の特訓の時と、同じ長さの声だ。あのとき、この声のあとに続いた言葉を、俺は今でも一字も間違えずに言える。
(……分かってますよ)
『結城さん。場所と、合図をお願いします』
筑波くんの言葉は、自分の役目を正しく確認するものだった。
筑波くんはもう、倒されるたびに起き上がっていた若い後輩ではない。異変を見つけ、危険を判断して撤退し、必要な人を頼って、ここまで来た仮面ライダーだ。
俺の口が、いつもより少し遅れて動いた。
「……分かった。筑波くん、頼む」
***
「次の分岐を右。赤い配管ではない、その隣の太い方を追ってくれ」
『了解』
通信の向こうで、足音が走っている。
「二つ目の扉は開けたままに。戻る道が要る」
『開けました』
別の回線から、金属を打つ音が続いていた。風見が警備装置を引き受けている。防爆扉が下りきる前に押さえているのだろう。金属の歪む音の合間から、風見の短い声が飛ぶ。
『洋、左だ』
『はい!』
『次の扉は俺が止める。そのまま行け』
筑波くんの足音は一度も止まらなかった。
(走ってる音が速すぎる。いやそれはいいことなんだけど……転ぶなよ)
中央の圧力計は、まだ上がり続けている。
『着きました。……大きいですね、これ』
「弁に着いても、まだ触るな。私の合図を待つんだ」
『分かりました』
俺は補助系統の切り替えにかかった。
弁の前後で圧力差が大きいまま開けば、高温の熱媒体が一気に押し寄せる。開けた本人が、その正面にいる。
細い管を三本、貯留槽側へ回した。逃げる量は少ない。だが、差を縮めるには足りる。
二つの計器を見る。上流側の針が、少しずつ下りてくる。下流側は変わらない。差が縮まっていく。
「まだだ、筑波くん」
『はい』
通信の向こうで、彼が息を整えているのが分かった。
(君なら開けられる。それは分かってる。——分かってるけど、ここからは見えないんだよ)
防衛機構の作動音が、遠くで一段大きくなった。風見の側だ。あちらもそう長くは保たない。
針が重なる。
俺は補助弁を開いた。安全に操作できる幅が生まれる。十数秒。
「――今!」
金属が軋む音が、通信越しに届いた。
一度動いて、途中で止まる。
『っ……!』
息を詰める音。それから、もう一度。右腕と肩へ、体重ごと預けている音だった。
軋んでいたものが、回り始めた。中央の流量計が跳ね上がる。
貯留槽へ熱媒体が流れ込む音が、床を伝って中央区画まで届いてきた。
(開いた!)
圧力計の針が、左へ落ちていく。俺は喜ぶ前に、次の指示を出した。
「筑波くん、その場から離れろ。下流側の管が熱を持つ」
『離れます』
「風見さん、退路の確保を優先してください。防衛機構は放置して構いません」
『分かった』
ここからは待つ作業だった。
循環と冷却は維持したまま、温度が落ちるのを見る。落ちきる前に止めれば同じことが起きる。針が安全域へ入るまで、俺は盤の前に立っていた。
しばらくして、ようやく温度と圧力が下がった。
貯留槽の残量を確認して、循環ポンプを止める。それから、主動力を完全に停止させた。
装置の振動が、段階的に小さくなっていく。長く続いていた低い音が、途中で一度だけ大きく鳴って消えた。
施設が静かになると、自分の呼吸の音が急に大きく聞こえた。
***
三人で、最低限の調査をした。
制御方式には見覚えがある。部品の一部にも。だが、製造番号は削られていた。別の系統の部品が、同じ盤の中に混ざっている。
「ネオショッカーの技術が使われている可能性は高い。だが、誰が造り、誰が動かしていたかは分からない」
「結局、何だったんでしょうね」
「分からない。だから、調査は続ける必要がある」
俺は削られた製造番号と、混在する部品だけを記録する。推測は形にしなかった。
地上へ出ると、日が傾いていた。
斜面の下を一台の車が走り、屋根の間から夕餉の煙が上がっていた。
「ありがとうございました、結城さん」
筑波くんが頭を下げた。
「私は手順を組んだだけだ。実際に弁を開けたのは筑波くんだろう」
「結城さんの合図がなかったら、開けられませんでした」
真っ直ぐな目でそう言われるとむずがゆい。視線をそらしたかったが、目が勝手に彼の右肩へ行った。
「筑波くん。右腕を見せてくれ」
「大丈夫ですよ」
「君の『大丈夫』は診断結果じゃない」
筑波くんが、少し笑って腕を出した。
肩を回してもらい、左右の高さを見る。肘を曲げ、伸ばし、抵抗をかける。関節の遊びを確かめ、鎖骨の下へ指を当てて痛みの有無を訊く。
あの軋み方を通信越しに聞いていれば、負荷の大きさは想像がつく。
「損傷はないが、負荷は掛かっている。点検の日を少し早めよう」
「分かりました」
素直に腕を預けたまま、筑波くんが言った。
「また何かあったら、相談してもいいですか」
「もちろん」
(……即答したな、俺)
礼を言った筑波くんは、点検の日を決めてから帰っていった。歩き方に庇う癖は出ていない。
「今度は手を抜かなかったな」
唐突に横で風見がそう言った。
「……まだ覚えていたんですか」
「忘れるか」
風見は筑波くんの歩いた道をしばらく見ていた。
「だが、終わった途端に腕を見せろ、か。同じ仮面ライダーだぞ」
「仮面ライダーでも、関節は摩耗します」
風見の目が細まる。
俺は返事の代わりに、筑波くんの点検日を書いた手帳を閉じた。
***
工房へ戻ったのは、夜だった。
作業台の上に、七番の記録簿がそのまま置いてある。
俺は左手で表紙を開いて、新しい頁へ日付を書いた。
地下施設の停止作業に同行。
高温区画への進入あり。
手動弁操作により、右肩および右腕へ高負荷。
現時点で異常なし。
次回点検で再検査。
書き終えて綴じ具を留めようとしたが、紙が増えすぎて止まらなかった。かなり力を入れて、ようやく音がした。表紙が水平にならず、少し浮いたままになる。
(二冊目が要るな)
作業予定へ『記録簿一冊』と書き足す。
表紙の浮いた七番の記録簿を地下の棚へ戻した。隣に一冊分の空きを作る。
それから俺は明かりを消し、階段を登った。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!これにて番外編も含めて完結となります。感想・評価などいただけますととても嬉しいです。