「世界が終わった日、人間は何を失うのか」
第一話 死んだような毎日
東京。日本で最も多くの人間が集まり、最も多くの夢と欲望が交差する街。
朝の新宿駅には、今日も数え切れないほどの人間が流れ込んでいた。
スーツ姿の会社員。制服を着た学生。買い物袋を抱えた高齢者。スマートフォンを片手に歩く若者。
誰もが当たり前のように明日が来ると信じている。今日も仕事がある。今日も家に帰れる。明日も同じ日常が続く。
そんな、何の変哲もない一日がこの街では永遠に続くと思われていた。
少なくとも、黒崎蓮はそう思っていた。
「……眠い」
午前六時三十分。東京都中野区。築十五年のワンルームマンション。
黒崎蓮は、鳴り響くスマートフォンのアラームを止めることもなく、布団の中で目を開けた。
天井には、以前から気になっていた小さな染みがある。引っ越してきた三年前から存在しているが、修繕を依頼することもなかった。
正確には、そんな余裕がなかった。
「……今日も会社か」
呟いた声は、誰もいない部屋に消えていく。
蓮はスマートフォンを手に取った。
画面には大量の通知、会社のチャットアプリ、メール、上司からのメッセージ。
【黒崎、昨日頼んだ資料まだ?】
送信時間は午前二時十三分。
その下には続けて、
【朝一で確認するから】
と書かれていた。
蓮は小さく息を吐いた。
「朝一って……俺、寝てないんだけどな」
もちろん、その言葉を誰かに伝えることはない。
言っても意味がないことを、二十八年の人生で覚えてしまっていた。
反論すれば面倒になる。怒れば空気が悪くなる。我慢すれば、その場は終わる。
そうやって生きてきた。
洗面台の鏡を見る。
そこに映っている男は、二十八歳とは思えないほど疲れていた。
目の下には薄いクマ、伸びかけた髪、無表情な顔。
大学を卒業した頃、自分はもっと違う人生を歩んでいると思っていた。
好きな仕事をして、休日には友人と遊んで、恋人と旅行に行って、普通に笑っている。そんな未来。
しかし、現実は違った。就職した広告代理店の下請け会社。待っていたのは、終わらない残業と理不尽な要求だった。
「社会人なんだから」
「新人なんだから」
「みんなやってるから」
その言葉を何度聞いただろう。
気付けば、自分の人生なのに、自分で選んでいる感覚がなくなっていた。
蓮は冷蔵庫を開けた。中には昨日買ったペットボトルの水と、賞味期限が切れかけた食品だけ。料理をする気力など残っていない。
朝食はいつも同じ。コンビニのおにぎり二つ。
それを口に入れながら、テレビをつける。ニュース番組では、海外の映像が流れていた。
画面には、混乱する街、警察車両、逃げ惑う人々。
【海外で原因不明の感染症が発生】
キャスターが神妙な顔で話している。
【一部地域では暴動のような混乱も発生しており、現地政府は不要不急の外出を控えるよう呼びかけています】
蓮は画面をぼんやり眺めた。
「また海外か」
日本に住む自分には関係ない。そう思った。
世界のどこかで起きている問題、テレビの向こう側の出来事、自分の日常とは無関係。
そう決めつけて、テレビを消した。
それが大きな間違いだったことをこの時の蓮はまだ知らない。
◇
午前八時四十五分。新宿にある勤務先のオフィス。
始業時間は九時。しかし、社員のほとんどはすでに席についていた。誰も定時出社などしない。
そんな空気が、この会社には当たり前のように存在していた。
「黒崎」
席についた瞬間、背後から声がした。振り返ると、営業部の課長である高木が立っていた。
四十代半ば。いつも眉間に皺を寄せている男。
「昨日の企画書」
「はい」
蓮はすぐに資料を差し出した。
「見ました」
「……どうでしたか?」
高木はため息をついた。
「これ、本当に客に出すつもり?」
胸が少し痛む。
「修正点があれば直します」
「そういうところなんだよ」
「え?」
「言われないと動けない」
高木は資料を机に置いた。
「黒崎、お前もう三年目だろ?」
「はい」
「新人じゃないんだからさ。もっと考えて仕事してくれよ」
「……すみません」
いつもの言葉。いつもの流れ。蓮は頭を下げる。
高木は満足したように去っていった。
周囲の社員は誰も何も言わない。助けてもくれない。責めもしない。
ただ、自分には関係ないという顔をしてパソコンへ向かっている。
蓮は椅子に座って、画面を見る。大量のタスク、終わる気配のない仕事。
ふと、スマートフォンが震えた。仕事の連絡かと思った。
しかし画面を見ると、予想外の名前だった。
【高橋美咲】
その名前を見た瞬間、蓮の表情が少しだけ変わった。
高校時代からの同級生。二十八年間生きてきた中で、唯一特別な存在。
美咲。
彼女は昔から変わらなかった。明るくて、優しくて、誰かが困っていれば必ず助ける。
高校時代、クラスで孤立していた蓮に初めて声をかけたのも彼女だった。
『黒崎くんって、いつも一人でいるよね』
『別に』
『じゃあ今日から私が話し相手になる』
あの日の笑顔を、蓮はいまだに覚えている。
しかし、いつからか距離ができた。大学、就職、忙しい毎日。
それでも、美咲だけは時々連絡をくれた。
画面を見る。メッセージが届いていた。
【久しぶり!】
【最近ちゃんと寝てる?】
蓮は思わず笑った。
「相変わらずだな……」
自分の体調を気遣う人間なんて、今の生活ではほとんどいない。
返信を打つ。
【寝てるよ】
少し考えて消す。嘘だった。
【まあまあかな】
送信。
すぐに既読がついた。
【絶対寝てないやつじゃん笑】
【昔から無理するところ変わらないね】
その文字を見て、胸の奥が少し温かくなる。
『昔から』その言葉が嬉しかった。自分のことを昔から知っている人間がいる。それだけで救われる気がした。
しばらくスマートフォンを見つめていると、美咲から続けてメッセージが届いた。
【今度、ご飯行かない?】
心臓が一瞬だけ強く鳴った。
「……え?」
思わず声が漏れる。
周囲を確認する。幸い、誰も聞いていなかった。
蓮は画面を見て、何度も読み返す。
たった一文。それだけなのに、仕事で疲れ切った毎日が、一瞬だけ明るく見えた。
美咲と最後に会ったのは半年前。その時も楽しかった。昔話をして、笑って、帰り道、一度だけ思った。
告白しよう。
でも言えなかった。もし断られたら、今の関係が壊れたら、そんな小さな恐怖に負けた。
二十八歳になっても、自分は何も変わっていない。
蓮はスマートフォンを握る。そして返信を入力した。
【行こう】
送信。
数秒後、返信。
【やった】
【じゃあ今週の土曜日空いてる?】
蓮はカレンダーを見る。土曜日。本来なら休日出勤の予定だった。
しかし、
【空いてる】
と入力した。嘘だった。でも、初めて仕事より優先したいものがあると思った。
◇
午後十時三十七分。
会社を出る。予定では午後六時退社だった。
いつものことだった。
夜の新宿。昼間とは違う顔を見せる街。ネオン、酔った人々、楽しそうな笑い声。
蓮は駅へ向かいながら、スマートフォンを見る。
美咲との会話履歴。最後のメッセージ。
【土曜日楽しみにしてるね】
その文字を見る。自然と口元が緩んだ。
「……告白、するかな」
小さく呟く。
二十八年間、ずっと胸の奥にしまっていた気持ち。
もう逃げるのはやめよう。仕事だけの人生なんて嫌だ。自分にも幸せになる資格がある。
そんなことを考えながら、蓮は歩いた。その時だった。
駅前の大型ビジョンから、ニュース速報が流れた。
【緊急ニュースです】
足を止める人は少なかった。誰も気にしていない。
【海外で発生した感染症について、日本政府は警戒レベルを引き上げ――】
蓮も一瞬だけ画面を見る。しかし、すぐに歩き出した。
明日も仕事。いつも通りの日常。そう思っていた。
この夜が彼が最後に見る「普通の日常」になるとも知らずに。
翌朝。東京は変わる。人間が人間ではなくなる日が始まる。
そして黒崎蓮の人生は、ここから大きく狂い始める。
読んでいただきありがとうございます。これからよろしくお願いします。