朝、東京には、いつもと変わらない太陽が昇っていた。世界が崩壊しても人類が滅びかけても太陽だけは何も知らないように、街を照らしている。
黒崎蓮は校舎の屋上から街を眺めていた。以前なら、この時間には多くの人間が動き始めていた。会社へ向かうサラリーマン、学校へ向かう学生、通勤ラッシュで混雑する駅。
そんな当たり前の日常。蓮自身も、その中の一人だった。毎朝満員電車に揺られ、会社へ向かう。上司から怒鳴られ、終わらない仕事を押し付けられ、家に帰る頃には、ただ疲れて眠るだけ。
あの頃の自分は何のために生きているのか分からなかった。しかし、今は違う。生きる理由がある。守りたい人がいる。そして、失いたくない仲間がいる。
「朝から難しい顔してますね」
声に振り返る。
神崎澪だった。手には医療バッグ。相変わらず、休んでいる姿を見たことがない。
「そんな顔してました?」
「はい」
澪は小さく笑う。
「考え込んでいる顔です」
蓮は苦笑した。
「昔からよく言われます」
「昔から?」
「あ……」
蓮は一瞬言葉を止める。
美咲のことを思い出した。
澪はその表情の変化に気づいた。
「高橋さん……でしたよね」
蓮の身体が少し固まる。
「聞いたんです」
澪は申し訳なさそうに言う。
「相馬さんから」
「……そうですか」
沈黙。
しかし、嫌ではなかった。美咲の存在を誰かが覚えていてくれる。それだけで少し救われる気がした。
「素敵な人だったんですね」
澪が言う。
蓮は空を見る。
「はい」
迷わず答えた。
「俺には、もったいないくらい」
「そんなことないと思います」
澪は静かに言った。
「その人は、あなたを選んで最後まで一緒にいたんですから」
蓮は何も言えなかった。胸の奥が少し痛む。でも、以前のような絶望ではない。美咲との思い出はもう苦しみだけではなかった。
◇
午前九時、避難所では緊急会議が開かれていた。
理由は近隣の異常だった。
「感染者の数が増えています」
見張り担当の男性が報告する。
「昨日までは校外に数十体程度でした」
「しかし今朝確認したところ……」
男は唾を飲み込む。
「百体以上います」
体育館がざわつく。
「なぜ急に?」
田所が聞く。
「原因は分かりません」
相馬が地図を見る。周辺の道路、建物、風向き。そして、避難所の位置。
「集まっている理由があるはずだ」
相馬が呟く。
悠真が地図を見る。
「音……」
「何?」
蓮が聞く。
「最近、この周辺で大きな音はありませんでしたか?」
見張り担当が答える。
「昨日の夜……」
「何か聞きました」
「遠くからですが、爆発音みたいなものが」
悠真の顔色が変わる。
「それです」
全員が見る。
「感染者は音に反応します」
悠真は説明する。
「遠くの音に引き寄せられて移動した」
「そして」
地図を指す。
「この高校が、移動経路上にあります」
沈黙。
つまり、この避難所は偶然、感染者の群れを引き寄せる場所になっている。
「避難が必要かもしれません」
相馬が言った。
その言葉に体育館の空気が凍る。
「ここを捨てるんですか?」
誰かが聞く。
「安全ではない」
「でも!」
別の避難者が叫ぶ。
「外に出た方が危険じゃないですか!」
その通りだった。この場所には食料がある。寝る場所がある。壁がある。外へ出れば待っているのは死かもしれない。
人々の不安が広がっていく。
田所は黙っていた。その表情には迷いがあった。
◇
会議後、蓮たちは準備を始めていた。
「本当に移動するんですか」
蓮が相馬へ聞く。
「ああ」
「でも」
相馬は蓮を見る。
「迷っている時間が一番危険だ」
その言葉に反論できない。
「決断しなければ、全員死ぬ」
相馬は荷物をまとめる。
「黒崎」
「はい」
「この世界では」
「正しい答えなんてない」
蓮を見る。
「あるのは」
「選んだ答えを正しくする努力だけだ」
蓮はその言葉を胸に刻んだ。
◇
午後、避難準備が進められる。
しかし、問題が発生した。
「人数が多すぎる」
悠真が言う。車両、燃料、食料。全て足りない。
老人、子供、怪我人。全員を連れて移動するのは不可能だった。
その現実に誰もが気づいていた。
「……」
蓮は拳を握る。
まただ。また、選ばなければならない。誰を助けるか、誰を置いていくか。
そんな世界は間違っている。でも、世界は待ってくれない。
◇
夕方、相馬が一人で校舎裏へ向かっていた。
蓮は偶然その姿を見る。
「相馬さん?」
声をかける。
相馬は振り返った。
「黒崎か」
「何してるんですか」
「確認だ」
「何を?」
相馬は少し黙る。
「俺が残る場合の確認」
蓮の表情が変わる。
「何を言って……」
「もし避難が間に合わなかったら」
相馬は校舎を見る。
「誰かが時間を稼ぐ必要がある」
「駄目です」
蓮は即答した。
「そんなの」
「誰かがやらなきゃいけない」
相馬の声は静かだった。
「それが俺の役目だ」
「自衛隊だからですか」
蓮が聞く。
相馬は少し笑った。
「違う」
「一人の人間だからだ」
その言葉、蓮の胸に響いた。
◇
その夜、校外から低い唸り声が聞こえ始めた。感染者の群れ、数百。いや、それ以上。ゆっくりと確実に高校へ近づいている。
見張り台の人間が叫ぶ。
「来た!」
警報が鳴る。
避難所全体が混乱する。泣き叫ぶ声、走る足音、武器を持つ人々。そして、その中心で相馬拓真は静かに銃を構えた。
「全員、移動準備!」
大声で叫ぶ。
「ここは俺が守る!」
「相馬さん!」
蓮が叫ぶ。
相馬は振り返った。
「黒崎」
「生きろ」
その一言、まるで別れの言葉のようだった。
そして東京の夜に感染者の群れが押し寄せる。人類が失った日常、残された人間たちの未来、その全てを背負い一人の自衛官が最後の戦いへ向かう。
◇
夜の東京に、警報音が響き渡っていた。
それはかつてなら人々へ危険を知らせるための音だった。火災、事故、災害。
しかし今、その音は、生き残った人間たちへ終わりの始まりを告げる音になっていた。
校門の向こう、暗闇の中から無数の影が現れる。感染者。一体、二体、十体、百体。
数えることなど意味がない。ただ、大量の死者が、生者を求めて近づいてくる。ゆっくりと、しかし確実に。
「全員、体育館側へ移動!」
相馬拓真の声が響く。迷いのない声、恐怖を感じさせない声。
避難者たちは、その声に従って動き始めた。しかし、誰もが分かっていた。これはただの避難ではない。
戦いだ。
◇
「黒崎!」
相馬が叫ぶ。
「はい!」
蓮は振り返る。
「子供と怪我人を優先しろ」
「でも!」
「これは命令だ」
その言葉に蓮は黙る。
相馬はいつもの冷静な表情だった。
「お前は戦うために残る人間じゃない」
「……」
「生き残るために必要な人間だ」
蓮は拳を握る。自分も戦いたい。相馬だけを残したくない。
しかし、分かっていた。相馬は自分より強い。経験もある。
そして何より、覚悟が決まっている。
「……分かりました」
蓮は頷く。
「必ずみんなを逃がします」
相馬は小さく笑った。
「ああ」
「頼んだ」
◇
校門。
バリケードが大きく揺れる。感染者たちが押し寄せていた。フェンスに身体をぶつける。腕を伸ばす。歯を剥き出しにする。生前の面影など、もうない。
ただ、音に反応する肉体。人間だったもの。
「来るぞ」
相馬は銃を構える。
隣には数人の避難者。武器を持っている。だがらその手は震えていた。
当然だ。誰だって怖い。死ぬのは怖い。
相馬は静かに言った。
「恐怖を感じるのは悪いことじゃない」
全員を見る。
「怖いからこそ、生きようと思える」
「だから」
「絶対に無理をするな」
その言葉に皆が少しだけ落ち着く。
相馬は知っていた。
勇気とは怖くないことではない。怖くても前へ進むことだ。
◇
フェンスが破られた。
「来る!」
叫び声。
感染者が校内へ流れ込む。
銃声が響く。バットが振り下ろされる。火炎瓶が投げられる。
人間と感染者。生者と死者。
最後の境界線での戦い。
蓮は体育館へ向かいながら振り返った。
校門前、相馬が戦っている。
その姿はまるで一人の兵士ではなく最後の壁だった。
◇
「急いで!」
体育館では澪が避難者を誘導していた。
「子供から先に!」
悠真は校舎の地図を見ながら指示を出す。
「裏門ルートならまだ空いています!」
蓮は驚いた。
この状況でも悠真は冷静だった。
「悠真」
「はい」
「怖くないのか」
一瞬、悠真の手が止まる。
「怖いです」
正直な答え。
「でも」
彼は避難者を見る。
「僕が怖がったら、もっと怖がる人がいるから」
蓮は思った。
この少年はもう立派な仲間だ。
◇
裏門へ向かう途中、突然、校舎の廊下から感染者が現れた。
「危ない!」
蓮が叫ぶ。
澪の背後。
感染者が迫る。
蓮は走る。
間に合わない。
そう思った瞬間、横から誰かが飛び込んだ。
朝倉悠真だった。
感染者を押し倒す。しかし、距離が近すぎる。
噛まれる。そう思った。
次の瞬間、蓮がバールを振り下ろした。頭部へ一撃、二撃。
感染者は動かなくなった。静寂。
「悠真!」
蓮が叫ぶ。
悠真は震えながら立ち上がる。
「……大丈夫です」
しかし、その顔には恐怖が浮かんでいた。
「今……死ぬと思いました」
蓮は肩を掴む。
「それでいい」
「え?」
「怖いって思えるなら、生きたいってことだ」
悠真は少し黙り小さく頷いた。
◇
避難者たちは裏門から脱出を始めた。しかし、まだ時間が足りない。
感染者の数が多すぎる。そして校門側から無線が入った。
『こちら相馬』
蓮は立ち止まる。
「相馬さん」
無線から声が聞こえる。
銃声、爆発音。その中でも相馬の声は落ち着いていた。
『状況を確認』
『避難は?』
「まだ全員ではありません!」
『そうか』
少し間。
『黒崎』
「はい」
『お前は優しい』
突然の言葉。
蓮は戸惑う。
『だが』
『この先、もっと苦しい選択を迫られる』
銃声。
『全員を救えない時が来る』
「……」
『その時でも』
『人間でいることを忘れるな』
蓮の目に涙が浮かぶ。
「相馬さん……」
『これは命令だ』
相馬は続ける。
『生きろ』
その通信が最後だった。
◇
数分後、避難者全員が裏門を抜けた。
蓮は最後まで校舎を見ていた。
「相馬さん!」
叫ぶ。
返事はない。代わりに遠くから大きな爆発音が響いた。
校門付近、相馬が用意していた燃料。最後の手段。大量の感染者を引きつけるための爆発。炎が夜空を赤く染める。
蓮はその場に立ち尽くした。言葉が出なかった。
◇
翌朝、避難者たちは近くの廃工場へ移動していた。
簡易的な拠点。安全とは言えない。しかし、生きている。
蓮は一人で座っていた。手には相馬が残した認識票。昨夜、校門前で拾ったものだった。
「……守れなかった」
呟く。
すると。
「違います」
澪の声。
隣に座る。
「相馬さんは」
澪は静かに言った。
「守ったんです」
蓮は顔を上げる。
「私たちを」
「未来を」
「命を」
澪は続ける。
「それが、あの人の選んだ生き方だったんだと思います」
蓮は認識票を見る。
涙が落ちる。でも、今度の涙はただの悲しみではなかった。尊敬、感謝。そして、受け継いだ覚悟。
◇
数日後、廃工場の壁に、新しい地図が貼られた。生存者、食料、安全地域、感染者の移動経路。
その中心に蓮、澪、悠真。三人の名前があった。
まだ知らない。
これから先、さらに多くの仲間と出会うことを。
売れない漫画家。
小学生の少女。
裏社会の男。
そして、感染の真実を追う者たち。
世界の終わりの中で新しい家族のような絆が生まれていくことを。
そして、この日、黒崎蓮は決意した。
もう誰かに守られるだけの人間ではいない。守る側になる。
相馬拓真が残したものを絶対に無駄にしない。
この絶望の世界で人間として生き抜くために。
第一章 崩壊編 終了です。