朝日が、錆びついた鉄骨を赤く染める。黒崎蓮は、廃工場の屋上で夜明けを迎えていた。
校舎を脱出してから一晩、眠ったと言えるほど眠れてはいない。冷たいコンクリートの床に背を預け、うとうとしただけだった。
目の前には、崩壊した東京の街並みが広がる。ビル群の隙間から薄く煙が立ち上り、遠くでは時折、感染者の低い唸り声が風に乗って聞こえてくる。
それでも、太陽だけは昨日と同じように昇っていた。
「……朝か」
自然と口から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。右手には、昨夜からずっと握りしめたままの銀色の認識票。
相馬拓真の認識票だった。表面には傷があり、「相馬 拓真」の文字が刻まれている。
蓮は親指でその文字をなぞった。脳裏によみがえるのは、最後に聞いた無線越しの声。
『これは命令だ。生きろ』
その直後に響いた爆発音、炎に包まれた校門。そして、戻ることのなかった背中。
蓮は目を閉じた。
「……ありがとうございます」
誰に届くわけでもない言葉が、静かな朝に溶けていく。
「眠れましたか?」
背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、神崎澪が紙コップを両手に持って立っていた。
「温かいお湯です。味はありませんけど」
蓮は小さく笑って受け取る。
「十分ですよ」
紙コップから立ち上る湯気が、冷えた身体を少しだけ温めた。
二人は並んで街を見下ろす。しばらく、誰も口を開かなかった。
「……みんな、眠れていません」
先に話し始めたのは澪だった。
「子どもたちは疲れて眠っています。でも大人は……」
「相馬さんのこと、考えてるんですね」
「はい」
蓮も頷く。
避難者のほとんどが、相馬という存在に支えられていた。誰よりも前へ立ち、誰よりも冷静だった男。
その柱が失われた。不安にならない方がおかしい。
「蓮さん」
「はい?」
「あなたは、自分を責めていますね」
図星だった。
蓮は苦笑する。
「顔に出てますか」
「少しだけ」
澪は優しく笑う。
「もし、私が相馬さんなら」
そこで一度言葉を区切る。
「きっと今の蓮さんを叱ります」
「え?」
「『前を見ろ』って」
蓮は思わず空を見上げた。青空が広がっている。
昨日も、相馬は空を見ていた。その姿を思い出すと、胸が締め付けられた。
◇
朝食はクラッカー二枚と水だった。
避難者は二十五人。体育館にいた頃の三分の一ほどになっていた。校門で別れた者、逃げる途中ではぐれた者、命を落とした者。
誰もその話題には触れない。触れれば、現実を認めることになるからだ。
蓮は立ち上がり、皆の前に出た。
「聞いてください」
二十五人の視線が集まる。
緊張で喉が渇く。相馬なら迷わず話せただろう。でも、自分は違う。それでも話さなければならない。
「ここは安全ではありません」
誰も口を挟まない。
「食料も水も限られています。このままでは一週間も持ちません」
ざわめきが起こる。
年配の男性が立ち上がった。
「じゃあ、どうするんだ」
「また移動するのか?」
「そのつもりです」
蓮が答えると、不満そうな声があちこちから上がった。
「もう歩けない」
「子どもがいるんだぞ」
「どこへ行くんだ」
質問ばかりが飛んでくる。
蓮は答えに詰まった。目的地は決まっていない。安全な場所など分からない。
相馬なら、ここで皆を安心させる言葉を言えたのだろうか。
「……」
沈黙。
空気が重くなる。
その時だった。
「まず、水の確保が先です」
澪が前へ出た。
「脱水症状の方もいます。このままでは感染者と戦う前に体力が尽きます」
続いて悠真も立ち上がる。
「工場の裏に貯水タンクがあります。昨日、屋上から見えました」
全員が悠真を見る。
「点検して使えるなら、水の問題は少し解決できます」
蓮は悠真を見る。
悠真は小さく頷いた。
――一人で背負わなくていい。
そんなふうに言われた気がした。
「……そうですね」
蓮は深く息を吸う。
「まずは、この工場を調べます」
「使える設備がないか確認する。水も食料も、ここで見つかるかもしれない」
今度は誰も反対しなかった。
小さな一歩だった。
しかし、蓮は初めて気づく。
リーダーとは、一人ですべてを決める人間ではない。
仲間の声をまとめる人間なのだと。
◇
探索は三班に分かれて始まった。
蓮と悠真は工場内部。
澪は避難者の健康状態を確認。
残る数人は周辺警戒。
工場の中は油の臭いが染みついていた。巨大な工作機械が並び、床には金属片が散乱している。
「昔は自動車部品でも作ってたんですかね」
蓮が呟く。
「たぶんですね」
悠真は床を見つめたまま答えた。
「でも、変です」
「何が?」
悠真はしゃがみ込み、床に指を当てる。
「足跡があります」
蓮も覗き込んだ。
薄い埃の上に、靴跡が残っている。しかも一つではない。
「昨日、俺たちが付けた跡じゃないのか?」
悠真は首を横に振る。
「違います」
「見てください」
指差した先には、靴底の模様がくっきり残っていた。
「これ、新しいです」
「昨日より前」
「でも、一週間以内くらい」
蓮の背中に冷たいものが走る。
「誰かがいた……?」
「はい」
悠真は真剣な表情で頷く。
「しかも複数人」
二人は顔を見合わせた。
この工場には、自分たちより前に誰かがいた。
今もいるのか。
それとも――。
その時。
ガタン。
工場の奥から、小さな物音が響いた。
蓮と悠真は同時に息を止める。感染者か、生存者か。
あるいは……。
蓮は静かにバールを握り直した。相馬の認識票が胸ポケットの中で小さく揺れる。
――守る側になる。
そう決めたばかりだ。
蓮は悠真に目配せし、小さく頷いた。
二人は音のした暗闇へ、一歩ずつ慎重に歩き始めた。
そこで待ち受けるものが、新たな希望なのか、それとも新たな絶望なのか。まだ、誰にも分からなかった。
◇
工場内は、不気味なほど静かだった。天井の割れた窓から差し込む夕陽が、巨大な工作機械の影を長く引き伸ばしている。
黒崎蓮は、バールを握る手に力を込めた。胸の鼓動が速い。
目の前にいるのが感染者ならまだいい。相手が人間だった場合、その人間が敵か味方かは分からない。それが、この世界で一番恐ろしいことだった。
隣では朝倉悠真が耳を澄ませている。
「……動いてます」
小声だった。
「何人だ?」
「分かりません。でも、感染者の足音じゃない」
感染者は足を引きずるように歩く。しかし、今聞こえた音は、一定のリズムで床を踏む音だった。人間だ。
蓮は静かに息を吐く。
悠真が指を三本立てた。
三。
三人か。
その時だった。
カラン。
床に転がっていたボルトを、蓮の靴が軽く蹴ってしまう。
金属音が工場中に響いた。
しまった。
そう思った瞬間。
「誰だ!」
低い男の声が響く。
直後、鉄骨の陰から懐中電灯の光が照らされた。
蓮は思わず腕で目をかばう。
「動くな!」
鋭い声。
人間だ。
しかも武器を持っている。
蓮はゆっくりとバールを床へ置いた。
「俺たちは敵じゃありません」
「それを信じろと?」
光の向こうから、三人の男が姿を現した。全員、金属パイプやナイフを持っている。服装は汚れているが、統率は取れていた。生き残る術を知っている人間たちだ。
「ここは俺たちの縄張りだ」
中央の男が言う。
「勝手に入ってくるな」
蓮は工場内を見回した。
縄張り。
つまり、ここには以前から彼らが出入りしていたということだ。
「俺たちは昨日ここへ来たばかりです」
「避難してきました」
「避難?」
男は鼻で笑う。
「そんな人数で?」
「二十五人です」
「……馬鹿だな」
その一言に、蓮の表情が曇る。
「そんな人数を抱えて生き残れると思ってるのか?」
「子どもも老人もいるんだろ」
「全員死ぬぞ」
言葉は冷たい。しかし、その口調には妙な現実味があった。
悠真が一歩前へ出る。
「あなたたちは何人ですか」
「八人」
「じゃあ、残り五人は?」
一瞬、男たちの表情が固まる。
蓮は見逃さなかった。
「……死んだ」
短く答えた。
「食料を探して」
「感染者に囲まれて」
それだけ言うと男は目を逸らした。
彼らも失ったのだ、仲間を。
◇
工場の中央、互いに距離を保ったまま話し合いが始まった。
「俺は村瀬」
リーダー格の男が名乗る。
「黒崎蓮です」
「そっちは?」
「朝倉悠真」
村瀬は二人をじっと見つめる。
「お前ら、随分若いな」
「運が良かっただけです」
蓮は答えた。
村瀬は鼻で笑う。
「違うな」
「運だけじゃ生き残れねぇ」
その言葉には重みがあった。きっと、この男も数え切れない修羅場をくぐってきたのだろう。
「一つ聞く」
村瀬が言う。
「お前らのリーダーは誰だ」
蓮は少しだけ言葉に詰まる。相馬の姿が脳裏に浮かんだ。
「……俺です」
そう答えると、村瀬は驚いたように目を細めた。
「本気か?」
「はい」
「その顔で?」
「え?」
「自信がない顔してるぞ」
胸を突かれたようだった。図星だった。蓮はまだ、自分がリーダーだと思えていない。ただ、誰もいなくなったから前に立っているだけだ。
「そんな顔じゃ」
村瀬は静かに言う。
「仲間は守れねぇ」
◇
その時だった。工場の外から、甲高い悲鳴が響いた。
「きゃああっ!」
澪だ。
蓮の顔色が変わる。
「澪さん!」
悠真が駆け出す。
蓮も続いた。
工場の裏手、貯水タンクの前で、避難者たちが慌てていた。
「感染者です!」
誰かが叫ぶ。
十体ほどの感染者が、工場裏のフェンスを乗り越えてきていた。どうやら水を汲む際にバケツを倒し、大きな音を立ててしまったらしい。
「散開!」
蓮が叫ぶ。
しかし、誰も動かない。避難者たちは恐怖で足が止まっていた。その一瞬の隙を突き、一体の感染者が少女へ飛びかかる。
「危ない!」
蓮は走った。
間に合わない。
そう思った瞬間だった。
ガンッ!
金属パイプが感染者の横顔を吹き飛ばした。
村瀬だった。
「ぼさっとするな!」
叫ぶ。
続けて仲間二人も加勢する。
「頭を狙え!」
悠真が叫ぶ。
蓮は少女を抱き寄せ、感染者から引き離した。
澪は負傷した女性の腕を掴み、安全な場所へ誘導している。
混乱の中で、それぞれが役割を果たしていた。
蓮は感染者へ向き直る。
バールを握り直し、一体目の頭部へ振り下ろす。
鈍い音。
倒れる感染者。
二体目が迫る。
蓮は息を整え、横へ回り込みながら首元へ一撃を叩き込んだ。
完全には倒れない。
さらに追撃。
三撃目でようやく動きが止まる。
その頃には、村瀬たちも最後の一体を仕留めていた。
静寂が戻る。
◇
避難者に怪我人はいたが、噛まれた者はいなかった。
澪が全員を確認し、安堵の息を漏らす。
「感染はありません」
その一言で、その場の空気が少しだけ緩んだ。
村瀬は汗を拭いながら蓮を見る。
「悪かったな」
「え?」
「お前を甘く見てた」
蓮は首を振る。
「助けてもらったのは俺たちです」
「違う」
村瀬は苦笑した。
「俺なら、あの子を助ける前に感染者を倒してた」
少女を見る。震えながらも、蓮の服を握っている。
「でも、お前は先に子どもを助けた」
「そのせいで危なくなった」
「……はい」
「だけど」
村瀬は小さく笑う。
「その判断をする奴は、案外長く生きる」
蓮は意味が分からず首を傾げた。
「人はな」
村瀬は空を見上げる。
「守るもんがある奴の方が、最後まで諦めねぇんだ」
その言葉は、相馬の言葉とどこか重なった。
◇
日が暮れ始めた頃、村瀬たちは帰り支度を始めていた。
「また会うこともあるだろ」
村瀬は振り返る。
「この辺りで生きるならな」
「あなたたちも、この工場を使うんですか?」
蓮が聞く。
「いや」
村瀬は首を横に振る。
「もっと北に拠点がある」
「ただ……」
一瞬だけ表情が曇る。
「気を付けろ」
「何にですか?」
「最近、この辺で武装した連中が動いてる」
「武装?」
「銃を持ってる」
蓮たちは息を呑んだ。
相馬以外で銃を持つ人間。つまり、それだけ危険な集団ということだ。
「感染者より厄介かもしれねぇ」
そう言い残し、村瀬たちは夕闇の中へ消えていった。
◇
その夜、避難者たちは久しぶりに少しだけ穏やかな表情を浮かべていた。水も確保できた。怪我人も無事だった。工場で暮らす希望が見え始めた。
蓮は屋上へ上がる。夜空には星が見えていた。静かな風が吹く。
「相馬さん」
認識票を握る。
「俺……まだ全然ですよ」
苦笑する。
「でも」
遠くの街明かりを見る。
「一人じゃありません」
その時だった。
悠真が階段を駆け上がってきた。
「蓮さん!」
「どうした?」
「地下です!」
「地下?」
「この工場、地下へ続く扉があります!」
蓮の表情が変わる。
「しかも……」
悠真は息を整えながら続けた。
「鍵は壊されていました」
「誰かが最近まで出入りしていた形跡があります」
地下に何があるのか。そして、誰がそこにいたのか。工場に隠された秘密が、静かに口を開こうとしていた。