東京終焉   作:ゆきひな

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第2章 新天地編スタートです。


第11話 残された者たち

 朝日が、錆びついた鉄骨を赤く染める。黒崎蓮は、廃工場の屋上で夜明けを迎えていた。

 

 校舎を脱出してから一晩、眠ったと言えるほど眠れてはいない。冷たいコンクリートの床に背を預け、うとうとしただけだった。

 

 目の前には、崩壊した東京の街並みが広がる。ビル群の隙間から薄く煙が立ち上り、遠くでは時折、感染者の低い唸り声が風に乗って聞こえてくる。

 

 それでも、太陽だけは昨日と同じように昇っていた。

 

「……朝か」

 

 自然と口から漏れた声は、自分でも驚くほど掠れていた。右手には、昨夜からずっと握りしめたままの銀色の認識票。

 

 相馬拓真の認識票だった。表面には傷があり、「相馬 拓真」の文字が刻まれている。

 

 蓮は親指でその文字をなぞった。脳裏によみがえるのは、最後に聞いた無線越しの声。

 

『これは命令だ。生きろ』

 

 その直後に響いた爆発音、炎に包まれた校門。そして、戻ることのなかった背中。

 

 蓮は目を閉じた。

 

「……ありがとうございます」

 

 誰に届くわけでもない言葉が、静かな朝に溶けていく。

 

「眠れましたか?」

 

 背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、神崎澪が紙コップを両手に持って立っていた。

 

「温かいお湯です。味はありませんけど」

 

 蓮は小さく笑って受け取る。

 

「十分ですよ」

 

 紙コップから立ち上る湯気が、冷えた身体を少しだけ温めた。

 

 二人は並んで街を見下ろす。しばらく、誰も口を開かなかった。

 

「……みんな、眠れていません」

 

 先に話し始めたのは澪だった。

 

「子どもたちは疲れて眠っています。でも大人は……」

 

「相馬さんのこと、考えてるんですね」

 

「はい」

 

 蓮も頷く。

 

 避難者のほとんどが、相馬という存在に支えられていた。誰よりも前へ立ち、誰よりも冷静だった男。

 

 その柱が失われた。不安にならない方がおかしい。

 

「蓮さん」

 

「はい?」

 

「あなたは、自分を責めていますね」

 

 図星だった。

 

 蓮は苦笑する。

 

「顔に出てますか」

 

「少しだけ」

 

 澪は優しく笑う。

 

「もし、私が相馬さんなら」

 

 そこで一度言葉を区切る。

 

「きっと今の蓮さんを叱ります」

 

「え?」

 

「『前を見ろ』って」

 

 蓮は思わず空を見上げた。青空が広がっている。

 

 昨日も、相馬は空を見ていた。その姿を思い出すと、胸が締め付けられた。

 

 

 朝食はクラッカー二枚と水だった。

 

 避難者は二十五人。体育館にいた頃の三分の一ほどになっていた。校門で別れた者、逃げる途中ではぐれた者、命を落とした者。

 

 誰もその話題には触れない。触れれば、現実を認めることになるからだ。

 

 蓮は立ち上がり、皆の前に出た。

 

「聞いてください」

 

 二十五人の視線が集まる。

 

 緊張で喉が渇く。相馬なら迷わず話せただろう。でも、自分は違う。それでも話さなければならない。

 

「ここは安全ではありません」

 

 誰も口を挟まない。

 

「食料も水も限られています。このままでは一週間も持ちません」

 

 ざわめきが起こる。

 

 年配の男性が立ち上がった。

 

「じゃあ、どうするんだ」

 

「また移動するのか?」

 

「そのつもりです」

 

 蓮が答えると、不満そうな声があちこちから上がった。

 

「もう歩けない」

 

「子どもがいるんだぞ」

 

「どこへ行くんだ」

 

 質問ばかりが飛んでくる。

 

 蓮は答えに詰まった。目的地は決まっていない。安全な場所など分からない。

 

 相馬なら、ここで皆を安心させる言葉を言えたのだろうか。

 

「……」

 

 沈黙。

 

 空気が重くなる。

 

 その時だった。

 

「まず、水の確保が先です」

 

 澪が前へ出た。

 

「脱水症状の方もいます。このままでは感染者と戦う前に体力が尽きます」

 

 続いて悠真も立ち上がる。

 

「工場の裏に貯水タンクがあります。昨日、屋上から見えました」

 

 全員が悠真を見る。

 

「点検して使えるなら、水の問題は少し解決できます」

 

 蓮は悠真を見る。

 

 悠真は小さく頷いた。

 

 ――一人で背負わなくていい。

 

 そんなふうに言われた気がした。

 

「……そうですね」

 

 蓮は深く息を吸う。

 

「まずは、この工場を調べます」

 

「使える設備がないか確認する。水も食料も、ここで見つかるかもしれない」

 

 今度は誰も反対しなかった。

 

 小さな一歩だった。

 

 しかし、蓮は初めて気づく。

 

 リーダーとは、一人ですべてを決める人間ではない。

 

 仲間の声をまとめる人間なのだと。

 

 

 探索は三班に分かれて始まった。

 

 蓮と悠真は工場内部。

 

 澪は避難者の健康状態を確認。

 

 残る数人は周辺警戒。

 

 工場の中は油の臭いが染みついていた。巨大な工作機械が並び、床には金属片が散乱している。

 

「昔は自動車部品でも作ってたんですかね」

 

 蓮が呟く。

 

「たぶんですね」

 

 悠真は床を見つめたまま答えた。

 

「でも、変です」

 

「何が?」

 

 悠真はしゃがみ込み、床に指を当てる。

 

「足跡があります」

 

 蓮も覗き込んだ。

 

 薄い埃の上に、靴跡が残っている。しかも一つではない。

 

「昨日、俺たちが付けた跡じゃないのか?」

 

 悠真は首を横に振る。

 

「違います」

 

「見てください」

 

 指差した先には、靴底の模様がくっきり残っていた。

 

「これ、新しいです」

 

「昨日より前」

 

「でも、一週間以内くらい」

 

 蓮の背中に冷たいものが走る。

 

「誰かがいた……?」

 

「はい」

 

 悠真は真剣な表情で頷く。

 

「しかも複数人」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 この工場には、自分たちより前に誰かがいた。

 

 今もいるのか。

 

 それとも――。

 

 その時。

 

 ガタン。

 

 工場の奥から、小さな物音が響いた。

 

 蓮と悠真は同時に息を止める。感染者か、生存者か。

 

 あるいは……。

 

 蓮は静かにバールを握り直した。相馬の認識票が胸ポケットの中で小さく揺れる。

 

 ――守る側になる。

 

 そう決めたばかりだ。

 

 蓮は悠真に目配せし、小さく頷いた。

 

 二人は音のした暗闇へ、一歩ずつ慎重に歩き始めた。

 

 そこで待ち受けるものが、新たな希望なのか、それとも新たな絶望なのか。まだ、誰にも分からなかった。

 

 

 工場内は、不気味なほど静かだった。天井の割れた窓から差し込む夕陽が、巨大な工作機械の影を長く引き伸ばしている。

 

 黒崎蓮は、バールを握る手に力を込めた。胸の鼓動が速い。

 

 目の前にいるのが感染者ならまだいい。相手が人間だった場合、その人間が敵か味方かは分からない。それが、この世界で一番恐ろしいことだった。

 

 隣では朝倉悠真が耳を澄ませている。

 

「……動いてます」

 

 小声だった。

 

「何人だ?」

 

「分かりません。でも、感染者の足音じゃない」

 

 感染者は足を引きずるように歩く。しかし、今聞こえた音は、一定のリズムで床を踏む音だった。人間だ。

 

 蓮は静かに息を吐く。

 

 悠真が指を三本立てた。

 

 三。

 

 三人か。

 

 その時だった。

 

 カラン。

 

 床に転がっていたボルトを、蓮の靴が軽く蹴ってしまう。

 

 金属音が工場中に響いた。

 

 しまった。

 

 そう思った瞬間。

 

「誰だ!」

 

 低い男の声が響く。

 

 直後、鉄骨の陰から懐中電灯の光が照らされた。

 

 蓮は思わず腕で目をかばう。

 

「動くな!」

 

 鋭い声。

 

 人間だ。

 

 しかも武器を持っている。

 

 蓮はゆっくりとバールを床へ置いた。

 

「俺たちは敵じゃありません」

 

「それを信じろと?」

 

 光の向こうから、三人の男が姿を現した。全員、金属パイプやナイフを持っている。服装は汚れているが、統率は取れていた。生き残る術を知っている人間たちだ。

 

「ここは俺たちの縄張りだ」

 

 中央の男が言う。

 

「勝手に入ってくるな」

 

 蓮は工場内を見回した。

 

 縄張り。

 

 つまり、ここには以前から彼らが出入りしていたということだ。

 

「俺たちは昨日ここへ来たばかりです」

 

「避難してきました」

 

「避難?」

 

 男は鼻で笑う。

 

「そんな人数で?」

 

「二十五人です」

 

「……馬鹿だな」

 

 その一言に、蓮の表情が曇る。

 

「そんな人数を抱えて生き残れると思ってるのか?」

 

「子どもも老人もいるんだろ」

 

「全員死ぬぞ」

 

 言葉は冷たい。しかし、その口調には妙な現実味があった。

 

 悠真が一歩前へ出る。

 

「あなたたちは何人ですか」

 

「八人」

 

「じゃあ、残り五人は?」

 

 一瞬、男たちの表情が固まる。

 

 蓮は見逃さなかった。

 

「……死んだ」

 

 短く答えた。

 

「食料を探して」

 

「感染者に囲まれて」

 

 それだけ言うと男は目を逸らした。 

 

 彼らも失ったのだ、仲間を。

 

 

 工場の中央、互いに距離を保ったまま話し合いが始まった。

 

「俺は村瀬」

 

 リーダー格の男が名乗る。

 

「黒崎蓮です」

 

「そっちは?」

 

「朝倉悠真」

 

 村瀬は二人をじっと見つめる。

 

「お前ら、随分若いな」

 

「運が良かっただけです」

 

 蓮は答えた。

 

 村瀬は鼻で笑う。

 

「違うな」

 

「運だけじゃ生き残れねぇ」

 

 その言葉には重みがあった。きっと、この男も数え切れない修羅場をくぐってきたのだろう。

 

「一つ聞く」

 

 村瀬が言う。

 

「お前らのリーダーは誰だ」

 

 蓮は少しだけ言葉に詰まる。相馬の姿が脳裏に浮かんだ。

 

「……俺です」

 

 そう答えると、村瀬は驚いたように目を細めた。

 

「本気か?」

 

「はい」

 

「その顔で?」

 

「え?」

 

「自信がない顔してるぞ」

 

 胸を突かれたようだった。図星だった。蓮はまだ、自分がリーダーだと思えていない。ただ、誰もいなくなったから前に立っているだけだ。

 

「そんな顔じゃ」

 

 村瀬は静かに言う。

 

「仲間は守れねぇ」

 

 

 その時だった。工場の外から、甲高い悲鳴が響いた。

 

「きゃああっ!」

 

 澪だ。

 

 蓮の顔色が変わる。

 

「澪さん!」

 

 悠真が駆け出す。

 

 蓮も続いた。

 

 工場の裏手、貯水タンクの前で、避難者たちが慌てていた。

 

「感染者です!」

 

 誰かが叫ぶ。

 

 十体ほどの感染者が、工場裏のフェンスを乗り越えてきていた。どうやら水を汲む際にバケツを倒し、大きな音を立ててしまったらしい。

 

「散開!」

 

 蓮が叫ぶ。

 

 しかし、誰も動かない。避難者たちは恐怖で足が止まっていた。その一瞬の隙を突き、一体の感染者が少女へ飛びかかる。

 

「危ない!」

 

 蓮は走った。

 

 間に合わない。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 ガンッ!

 

 金属パイプが感染者の横顔を吹き飛ばした。

 

 村瀬だった。

 

「ぼさっとするな!」

 

 叫ぶ。

 

 続けて仲間二人も加勢する。

 

「頭を狙え!」

 

 悠真が叫ぶ。

 

 蓮は少女を抱き寄せ、感染者から引き離した。

 

 澪は負傷した女性の腕を掴み、安全な場所へ誘導している。

 

 混乱の中で、それぞれが役割を果たしていた。

 

 蓮は感染者へ向き直る。

 

 バールを握り直し、一体目の頭部へ振り下ろす。

 

 鈍い音。

 

 倒れる感染者。

 

 二体目が迫る。

 

 蓮は息を整え、横へ回り込みながら首元へ一撃を叩き込んだ。

 

 完全には倒れない。

 

 さらに追撃。

 

 三撃目でようやく動きが止まる。

 

 その頃には、村瀬たちも最後の一体を仕留めていた。

 

 静寂が戻る。

 

 

 避難者に怪我人はいたが、噛まれた者はいなかった。

 

 澪が全員を確認し、安堵の息を漏らす。

 

「感染はありません」

 

 その一言で、その場の空気が少しだけ緩んだ。

 

 村瀬は汗を拭いながら蓮を見る。

 

「悪かったな」

 

「え?」

 

「お前を甘く見てた」

 

 蓮は首を振る。

 

「助けてもらったのは俺たちです」

 

「違う」

 

 村瀬は苦笑した。

 

「俺なら、あの子を助ける前に感染者を倒してた」

 

 少女を見る。震えながらも、蓮の服を握っている。

 

「でも、お前は先に子どもを助けた」

 

「そのせいで危なくなった」

 

「……はい」

 

「だけど」

 

 村瀬は小さく笑う。

 

「その判断をする奴は、案外長く生きる」

 

 蓮は意味が分からず首を傾げた。

 

「人はな」

 

 村瀬は空を見上げる。

 

「守るもんがある奴の方が、最後まで諦めねぇんだ」

 

 その言葉は、相馬の言葉とどこか重なった。

 

 

 日が暮れ始めた頃、村瀬たちは帰り支度を始めていた。

 

「また会うこともあるだろ」

 

 村瀬は振り返る。

 

「この辺りで生きるならな」

 

「あなたたちも、この工場を使うんですか?」

 

 蓮が聞く。

 

「いや」

 

 村瀬は首を横に振る。

 

「もっと北に拠点がある」

 

「ただ……」

 

 一瞬だけ表情が曇る。

 

「気を付けろ」

 

「何にですか?」

 

「最近、この辺で武装した連中が動いてる」

 

「武装?」

 

「銃を持ってる」

 

 蓮たちは息を呑んだ。

 

 相馬以外で銃を持つ人間。つまり、それだけ危険な集団ということだ。

 

「感染者より厄介かもしれねぇ」

 

 そう言い残し、村瀬たちは夕闇の中へ消えていった。

 

 

 その夜、避難者たちは久しぶりに少しだけ穏やかな表情を浮かべていた。水も確保できた。怪我人も無事だった。工場で暮らす希望が見え始めた。

 

 蓮は屋上へ上がる。夜空には星が見えていた。静かな風が吹く。

 

「相馬さん」

 

 認識票を握る。

 

「俺……まだ全然ですよ」

 

 苦笑する。

 

「でも」

 

 遠くの街明かりを見る。

 

「一人じゃありません」

 

 その時だった。

 

 悠真が階段を駆け上がってきた。

 

「蓮さん!」

 

「どうした?」

 

「地下です!」

 

「地下?」

 

「この工場、地下へ続く扉があります!」

 

 蓮の表情が変わる。

 

「しかも……」

 

 悠真は息を整えながら続けた。

 

「鍵は壊されていました」

 

「誰かが最近まで出入りしていた形跡があります」

 

 地下に何があるのか。そして、誰がそこにいたのか。工場に隠された秘密が、静かに口を開こうとしていた。

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