東京終焉   作:ゆきひな

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第2話 東京感染

 午前七時十二分。

 

 黒崎蓮は、いつもより少しだけ軽い気持ちで目を覚ました。

 

 理由は単純だった。昨日、美咲と約束をしたからだ。

 

 土曜日。久しぶりに二人で食事に行く。たったそれだけの予定。

 

 それなのに、何年も灰色だった毎日に、少しだけ色が戻ったような気がした。

 

「……単純だな、俺」

 

 ベッドから起き上がりながら、自嘲気味に笑う。

 

 三十歳手前の男が、食事の約束一つで浮かれている。他人から見れば、くだらないことなのかもしれない。

 

 しかし蓮にとっては違った。

 

 美咲は高校時代から、自分の人生の中で特別な存在だった。

 

 何も持っていない自分。何者にもなれていない自分。

 

 そんな自分を、昔から変わらず見てくれる人。

 

「……ちゃんと言おう」

 

 鏡を見る。

 

 疲れた顔、寝癖のついた髪、決して格好いいとは言えない姿。

 

 それでも今度こそ伝える。好きだという気持ちを。

 

 そう決めた。

 

 スマートフォンを見る。ニュースアプリから大量の通知が届いていた。

 

【海外で発生した感染症、日本国内でも警戒強化】

 

【一部空港で検疫体制を強化】

 

【原因不明の暴動について政府が注意喚起】

 

 蓮は記事を開く。しかし、数秒で閉じた。

 

「また海外の話か」

 

 昨日と同じ感想だった。

 

 感染症。暴動。物騒な言葉が並んでいる。

 

 だが、東京で暮らす自分には関係ない。

 

 人間は、自分に直接関係のない危機を現実として受け止めることが難しい。

 

 テレビの向こう側で誰かが苦しんでいても、遠い国で何万人が困っていても、自分の朝は来る。

 

 会社へ行かなければならない。今日も仕事をしなければならない。

 

 それが、蓮にとっての現実だった。

 

 

 午前八時二十五分。

 

 中野駅。

 

 いつものように、人で溢れていた。改札へ向かう人、ホームへ急ぐ人、眠そうな顔でスマートフォンを見る人。

 

 昨日までと何も変わらない。いや、正確には、変わり始めていた。

 

 駅構内の大型モニター。

 

 そこには、昨日よりも頻繁にニュース速報が流れていた。

 

【海外からの帰国者に体調不良者】

 

【政府、不要不急の外出を控えるよう呼びかけ】

 

【東京都内で複数の救急要請】

 

 しかし、誰も足を止めない。みんな忙しい。みんな、自分の日常を守ることで精一杯だった。

 

 蓮も同じだった。

 

 電車に乗り込む。

 

 いつもの満員電車。隣の男性の肩が当たる、誰かの香水の匂い、イヤホンから漏れる小さな音。

 

 不快なはずなのに、いつも通りすぎて何も感じない。

 

「……平和だな」

 

 ふと、そんなことを思った。

 

 だが、その直後、車内に異変が起きた。

 

「……あの」

 

 誰かの声。

 

 見ると、三十代くらいの男性が吊革につかまっていた。顔色が悪い。汗が大量に流れている。

 

「大丈夫ですか?」

 

 隣にいた女性が声をかける。

 

 男性は返事をしない。身体が小刻みに震えている。

 

「すみません……」

 

 男性が呟いた。

 

「気持ち悪くて……」

 

 次の瞬間、男性の身体が大きく揺れた。

 

 そして、床に倒れ込む。

 

「きゃっ!」

 

 車内に悲鳴が響いた。

 

 電車が緊急停止する。

 

 乗客たちは一斉に距離を取った。

 

「誰か救急車!」

 

「感染症じゃないの?」

 

「昨日ニュースで――」

 

 不安の声が広がる。

 

 蓮もその場を見ていた。

 

 倒れた男性、震える身体、異常な汗。

 

 ただの体調不良と思いたかった。

 

 しかし、次の瞬間、男性が動いた。ゆっくり、不自然に。まるで人間の動きではなかった。

 

「……え?」

 

 誰かが呟く。

 

 男性は四つん這いになり、近くにいた女性へ向かって手を伸ばした。

 

 助けを求める動きではない。掴む動き、捕まえる動き。

 

 そして、噛みついた。

 

「いやあああああ!」

 

 女性の悲鳴。

 

 車内が一瞬で恐怖に包まれた。誰も理解できなかった。何が起きているのか。

 

 なぜ人間が、人間を襲っているのか。

 

 蓮はただ立ち尽くしていた。

 

 映画、ドラマ、ネット動画。そんな作り物の世界でしか見たことのない光景。

 

 しかし、目の前にいる存在は現実だった。

 

 男性は女性の肩に噛みついたまま離れない。周囲の人間が棒やバッグで叩く。

 

「やめろ!」

 

「離れろ!」

 

 しかし、男性は止まらなかった。むしろ、力が増している。数人がかりで引き離そうとしても、まるでびくともしない。

 

「なんだよ……これ」

 

 蓮の口から声が漏れる。

 

 その瞬間、電車のドアが開いた。誰かが非常ボタンを押したらしい。乗客が一斉にホームへ逃げ出す。蓮も流されるように外へ出た。

 

 しかし、ホームも混乱していた。

 

 駅員が叫んでいる。

 

「落ち着いてください!」

 

「押さないでください!」

 

 だが、誰も聞いていない。

 

 人は恐怖すると、理性より本能が先に動く。逃げる、離れる、生き残る。その本能だけが支配していた。

 

 その時、蓮のスマートフォンが鳴った。

 

 画面を見る。

 

 美咲。

 

 電話だった。

 

 一瞬で現実に引き戻される。

 

「美咲?」

 

『蓮くん……』

 

 声が震えていた。いつもの明るい声ではない。

 

「どうした?」

 

『今、ニュース見た?』

 

「いや……」

 

『東京で……変な人が出てる』

 

 蓮は周囲を見る。

 

 駅構内、走る人々、泣いている人、倒れている人。

 

「……見た」

 

 数秒の沈黙。

 

 美咲が小さく息を吸う。

 

『蓮くん』

 

「ん?」

 

『助けて』

 

 その一言で蓮の身体が動いた。

 

「どこにいる?」

 

『保育園』

 

「今から行く」

 

『でも危ないよ」

 

「関係ない」

 

 自分でも驚くほど迷いがなかった。

 

 昨日まで仕事に追われ、何かを諦めて、ただ流されて生きていた男。

 

 その男が初めて、自分の意思で走った。守りたい人のために。

 

 駅を出る。

 

 東京の街は、すでに少しずつ壊れ始めていた。道路には停車した車、叫び声、逃げ惑う人々、パトカーのサイレン。

 

 しかし、まだ完全な混乱ではない。

 

 多くの人間は信じていなかった。これは一時的な騒ぎだと、すぐに警察が解決すると、政府が何とかすると蓮も、心のどこかではそう思っていた。

 

 ただ一つ違ったのは。彼には向かわなければならない場所があったこと。

 

 美咲がいる場所。保育園。

 

 蓮は走った。息が苦しい。足が痛い。それでも止まらない。

 

 その途中。、街頭ビジョンにニュースが映った。

 

 先ほどまでとは違う内容。キャスターの表情が青ざめている。

 

【東京都内で同様の事案が複数発生】

 

【警察は市民に対し、外出を控えるよう要請しています】

 

【なお、襲撃を受けた人物にも同様の症状が――】

 

 蓮は足を止めた。

 

 画面の中。人間とは思えない動きをする人々、逃げる群衆、血、悲鳴。そして、画面下に表示された言葉。

 

【感染拡大の可能性】

 

「……感染?」

 

 その言葉が胸に引っかかった。しかし、考える時間はなかった。

 

 蓮は再び走り出す。美咲が待っている。そう信じて。

 

 この先に待っているものをまだ知らなかった。

 

 そして、この日が東京という街が死に始めた日になることを。

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