午前七時十二分。
黒崎蓮は、いつもより少しだけ軽い気持ちで目を覚ました。
理由は単純だった。昨日、美咲と約束をしたからだ。
土曜日。久しぶりに二人で食事に行く。たったそれだけの予定。
それなのに、何年も灰色だった毎日に、少しだけ色が戻ったような気がした。
「……単純だな、俺」
ベッドから起き上がりながら、自嘲気味に笑う。
三十歳手前の男が、食事の約束一つで浮かれている。他人から見れば、くだらないことなのかもしれない。
しかし蓮にとっては違った。
美咲は高校時代から、自分の人生の中で特別な存在だった。
何も持っていない自分。何者にもなれていない自分。
そんな自分を、昔から変わらず見てくれる人。
「……ちゃんと言おう」
鏡を見る。
疲れた顔、寝癖のついた髪、決して格好いいとは言えない姿。
それでも今度こそ伝える。好きだという気持ちを。
そう決めた。
スマートフォンを見る。ニュースアプリから大量の通知が届いていた。
【海外で発生した感染症、日本国内でも警戒強化】
【一部空港で検疫体制を強化】
【原因不明の暴動について政府が注意喚起】
蓮は記事を開く。しかし、数秒で閉じた。
「また海外の話か」
昨日と同じ感想だった。
感染症。暴動。物騒な言葉が並んでいる。
だが、東京で暮らす自分には関係ない。
人間は、自分に直接関係のない危機を現実として受け止めることが難しい。
テレビの向こう側で誰かが苦しんでいても、遠い国で何万人が困っていても、自分の朝は来る。
会社へ行かなければならない。今日も仕事をしなければならない。
それが、蓮にとっての現実だった。
◇
午前八時二十五分。
中野駅。
いつものように、人で溢れていた。改札へ向かう人、ホームへ急ぐ人、眠そうな顔でスマートフォンを見る人。
昨日までと何も変わらない。いや、正確には、変わり始めていた。
駅構内の大型モニター。
そこには、昨日よりも頻繁にニュース速報が流れていた。
【海外からの帰国者に体調不良者】
【政府、不要不急の外出を控えるよう呼びかけ】
【東京都内で複数の救急要請】
しかし、誰も足を止めない。みんな忙しい。みんな、自分の日常を守ることで精一杯だった。
蓮も同じだった。
電車に乗り込む。
いつもの満員電車。隣の男性の肩が当たる、誰かの香水の匂い、イヤホンから漏れる小さな音。
不快なはずなのに、いつも通りすぎて何も感じない。
「……平和だな」
ふと、そんなことを思った。
だが、その直後、車内に異変が起きた。
「……あの」
誰かの声。
見ると、三十代くらいの男性が吊革につかまっていた。顔色が悪い。汗が大量に流れている。
「大丈夫ですか?」
隣にいた女性が声をかける。
男性は返事をしない。身体が小刻みに震えている。
「すみません……」
男性が呟いた。
「気持ち悪くて……」
次の瞬間、男性の身体が大きく揺れた。
そして、床に倒れ込む。
「きゃっ!」
車内に悲鳴が響いた。
電車が緊急停止する。
乗客たちは一斉に距離を取った。
「誰か救急車!」
「感染症じゃないの?」
「昨日ニュースで――」
不安の声が広がる。
蓮もその場を見ていた。
倒れた男性、震える身体、異常な汗。
ただの体調不良と思いたかった。
しかし、次の瞬間、男性が動いた。ゆっくり、不自然に。まるで人間の動きではなかった。
「……え?」
誰かが呟く。
男性は四つん這いになり、近くにいた女性へ向かって手を伸ばした。
助けを求める動きではない。掴む動き、捕まえる動き。
そして、噛みついた。
「いやあああああ!」
女性の悲鳴。
車内が一瞬で恐怖に包まれた。誰も理解できなかった。何が起きているのか。
なぜ人間が、人間を襲っているのか。
蓮はただ立ち尽くしていた。
映画、ドラマ、ネット動画。そんな作り物の世界でしか見たことのない光景。
しかし、目の前にいる存在は現実だった。
男性は女性の肩に噛みついたまま離れない。周囲の人間が棒やバッグで叩く。
「やめろ!」
「離れろ!」
しかし、男性は止まらなかった。むしろ、力が増している。数人がかりで引き離そうとしても、まるでびくともしない。
「なんだよ……これ」
蓮の口から声が漏れる。
その瞬間、電車のドアが開いた。誰かが非常ボタンを押したらしい。乗客が一斉にホームへ逃げ出す。蓮も流されるように外へ出た。
しかし、ホームも混乱していた。
駅員が叫んでいる。
「落ち着いてください!」
「押さないでください!」
だが、誰も聞いていない。
人は恐怖すると、理性より本能が先に動く。逃げる、離れる、生き残る。その本能だけが支配していた。
その時、蓮のスマートフォンが鳴った。
画面を見る。
美咲。
電話だった。
一瞬で現実に引き戻される。
「美咲?」
『蓮くん……』
声が震えていた。いつもの明るい声ではない。
「どうした?」
『今、ニュース見た?』
「いや……」
『東京で……変な人が出てる』
蓮は周囲を見る。
駅構内、走る人々、泣いている人、倒れている人。
「……見た」
数秒の沈黙。
美咲が小さく息を吸う。
『蓮くん』
「ん?」
『助けて』
その一言で蓮の身体が動いた。
「どこにいる?」
『保育園』
「今から行く」
『でも危ないよ」
「関係ない」
自分でも驚くほど迷いがなかった。
昨日まで仕事に追われ、何かを諦めて、ただ流されて生きていた男。
その男が初めて、自分の意思で走った。守りたい人のために。
駅を出る。
東京の街は、すでに少しずつ壊れ始めていた。道路には停車した車、叫び声、逃げ惑う人々、パトカーのサイレン。
しかし、まだ完全な混乱ではない。
多くの人間は信じていなかった。これは一時的な騒ぎだと、すぐに警察が解決すると、政府が何とかすると蓮も、心のどこかではそう思っていた。
ただ一つ違ったのは。彼には向かわなければならない場所があったこと。
美咲がいる場所。保育園。
蓮は走った。息が苦しい。足が痛い。それでも止まらない。
その途中。、街頭ビジョンにニュースが映った。
先ほどまでとは違う内容。キャスターの表情が青ざめている。
【東京都内で同様の事案が複数発生】
【警察は市民に対し、外出を控えるよう要請しています】
【なお、襲撃を受けた人物にも同様の症状が――】
蓮は足を止めた。
画面の中。人間とは思えない動きをする人々、逃げる群衆、血、悲鳴。そして、画面下に表示された言葉。
【感染拡大の可能性】
「……感染?」
その言葉が胸に引っかかった。しかし、考える時間はなかった。
蓮は再び走り出す。美咲が待っている。そう信じて。
この先に待っているものをまだ知らなかった。
そして、この日が東京という街が死に始めた日になることを。