東京終焉   作:ゆきひな

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第3話 約束した場所

 東京の街から、音が消え始めていた。

 

 正確には、音がなくなったわけではない。むしろ普段より多くの音が溢れている。

 

 遠くで鳴り響くサイレン、誰かの叫び声、車のクラクション、建物の中から聞こえる悲鳴。

 

 しかし、それらは日常の音ではなかった。

 

 人々が生活する街の音ではない。何かが壊れていく音だった。

 

 黒崎蓮は、人の流れに逆らうように走っていた。

 

 駅へ向かう人、街から逃げようとする人、家族を探して泣き叫ぶ人。

 

 その全てと逆方向へ。

 

 目的地は一つ。

 

 美咲がいる保育園。

 

「……無事でいてくれ」

 

 何度も同じ言葉を心の中で繰り返す。

 

 スマートフォンを握る手に力が入る。

 

 何度電話をかけても繋がらない。メッセージも既読にならない。

 

 嫌な想像が頭をよぎる。しかし、すぐに否定する。

 

 美咲は大丈夫だ。

 

 昔からそうだった。

 

 困っている人を放っておけない。誰よりも優しい。

 

 そんな人が、こんなところで簡単に死ぬはずがない。

 

「絶対に……」

 

 蓮は呟いた。

 

「俺が行くから」

 

 

 保育園へ向かう途中、大きな交差点に差しかかった。普段なら昼間でも多くの人が行き交う場所。

 

 しかし今は、異様な光景になっていた。道路には放置された車、開いたままのタクシーのドア、地面に落ちたスマートフォン、持ち主を失った荷物。

 

 数十分前まで、誰かの日常だったものが転がっている。

 

 蓮は足を止めた。

 

 目の前の歩道に、一人の男性が立っていた。

 

 背中を向けている。

 

 スーツ姿。普通の会社員に見える。

 

「大丈夫ですか?」

 

 反射的に声をかけそうになる。しかし、男は動かなかった。

 

 妙だった。人がこれだけ騒いでいる状況で、あまりにも静かすぎる。

 

 蓮が一歩近づく。

 

 その瞬間、男の首が、不自然な角度で動いた。ゆっくり、ギギギ、と音がしそうなほど。

 

 振り返る。

 

 顔には生気がなかった。目は焦点が合っていない。口元には血。

 

「……っ」

 

 蓮は息を止めた。昨日までなら、ただの体調不良だと思っただろう。しかし、今は違う。

 

 駅で見た光景が頭をよぎる。人を襲う人間、噛みつく人間。そして、感染。

 

 男がこちらへ向かって歩き出す。いや、歩いているというより、引きずるように身体を動かしている。

 

 蓮は後ずさった。

 

 男の足取りは遅い。しかし、確実に近づいてくる。

 

「来るな……」

 

 小さく呟く。

 

 男は反応しない。その代わり、遠くで鳴った車のクラクションに反応した。

 

 突然、男の首が音の方向へ向いた。蓮はその瞬間を見逃さなかった。

 

「……音?」

 

 男は蓮ではなく、別方向へ向かって歩き始めた。

 

 蓮は息を潜める。静かに、ゆっくりその場を離れる。

 

 まだ理解できないことだらけだった。だが、一つだけ分かった。

 

 あいつらは目で人を探していない。音に反応している。

 

 蓮はそれを頭の片隅に刻み込んだ。

 

 

 午前十一時四十分。

 

 目的地の保育園が見えてきた。しかし、そこで蓮は足を止めた。

 

 門が開いている。子供用の靴が、入口付近に散乱している。壁には先生たちが作った飾り付け。

 

「春の遠足まであと○日」

 

 可愛らしい文字。

 

 そのすぐ横に赤い手形が残っていた。

 

 蓮の胸が締め付けられる。

 

「……美咲」

 

 嫌な予感がした。だが、逃げるわけにはいかない。

 

 蓮は周囲を確認しながら中へ入る。

 

 園庭には誰もいない。遊具は誰も遊んでいない。

 

 いつもなら子供たちの声で溢れている場所。今は不気味なほど静かだった。

 

 建物の中から、小さな音が聞こえる。

 

「……先生……」

 

 子供の声。

 

 蓮は急いで向かう。扉を開ける。

 

 そこには数人の子供たちと、保育士がいた。

 

 しかし、その保育士は、正常な状態ではなかった。

 

「先生……?」

 

 一人の子供が泣きながら呼びかける。

 

 保育士はゆっくり振り返った。目は虚ろ。口元は赤く染まっている。

 

 蓮は咄嗟に近くにあった椅子を掴んだ。

 

「下がって!」

 

 子供たちを守るように前へ出る。

 

 保育士が近づいてくる。力なく見える。しかし、手が椅子に触れた瞬間、信じられない力で押し返してきた。

 

「っ……!」

 

 蓮の身体が後ろへ飛ばされる。

 

 普通の人間の力ではない。

 

 恐怖が背中を走る。だが、逃げるわけにはいかなかった。

 

 後ろには子供たちがいる。

 

 蓮は必死に椅子を押し返す。

 

「お願いだから戻ってくれ……!」

 

 もちろん返事はない。

 

 その時、後ろから声がした。

 

「蓮くん!」

 

 聞き覚えのある声。

 

 振り返る。

 

 そこにいた。

 

 高橋美咲。

 

 白い保育士エプロン。

 

 涙を浮かべながら立っている。

 

「美咲……!」

 

 一瞬、世界から恐怖が消えた。

 

 蓮は力を振り絞り、感染した保育士を押し倒す。子供たちを連れて、美咲の元へ走った。

 

「怪我はない?」

 

 美咲は首を振る。

 

「私は大丈夫」

 

 そう言って笑った。でも、蓮は気付かなかった。

 

 美咲が一瞬だけ苦しそうな表情をしたことに。

 

 

 保育園の倉庫。

 

 二人は避難していた。子供たちは別室で休ませている。

 

 蓮は壁にもたれながら息を整える。

 

「……何なんだよ、これ」

 

 答えは返ってこない。

 

 美咲も俯いていた。

 

「ニュース見た?」

 

「ああ」

 

「……人じゃないみたいだったね」

 

 蓮は黙る。認めたくなかった。しかし、目の前で見た。人間が変わる瞬間を。

 

「蓮くん」

 

「ん?」

 

 美咲が優しく笑う。

 

「来てくれてありがとう」

 

「当たり前だろ」

 

 即答だった。

 

 美咲は少し驚いた顔をする。

 

「昔から変わらないね」

 

「何が?」

 

「困ってる人を見ると助けるところ」

 

 蓮は視線を逸らした。

 

 そんな大した人間じゃない。そう言おうとした。でも、美咲の言葉が嬉しかった。

 

「……土曜日」

 

 蓮が言う。

 

「え?」

 

「ご飯の約束」

 

「あ……」

 

 美咲は少し笑った。

 

「覚えてたんだ」

 

「当たり前だろ」

 

「そっか」

 

 一瞬だけ二人の間に昔と同じ空気が戻った。世界が壊れていることを忘れるくらい。

 

 蓮は思った。この時間を守りたい。この人を守りたい。

 

 その時だった。

 

 美咲が突然、咳き込んだ。

 

「……大丈夫?」

 

「うん」

 

「顔色悪いぞ」

 

「寝不足かな」

 

 美咲は笑う。

 

 蓮は気付かなかった。

 

 美咲の右腕。

 

 長袖の奥。

 

 そこに残る傷跡を。

 

 そして、彼女が蓮に隠している事実をまだ知らなかった。

 

 この再会が二人に残された最後の時間になることを。

 

 

 外から大きな音が響いた。ガラスが割れる音、複数の足音。感染者が集まってきている。

 

 蓮は立ち上がる。

 

「ここを出よう」

 

 美咲を見る。

 

「二人で逃げるぞ」

 

 美咲は一瞬だけ悲しそうな顔をした。しかし、すぐに笑った。

 

「うん」

 

 その笑顔を蓮は忘れない。

 

 この後、何度も思い出すことになる。

 

 世界が終わった後も最後まで。

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