東京の街から、音が消え始めていた。
正確には、音がなくなったわけではない。むしろ普段より多くの音が溢れている。
遠くで鳴り響くサイレン、誰かの叫び声、車のクラクション、建物の中から聞こえる悲鳴。
しかし、それらは日常の音ではなかった。
人々が生活する街の音ではない。何かが壊れていく音だった。
黒崎蓮は、人の流れに逆らうように走っていた。
駅へ向かう人、街から逃げようとする人、家族を探して泣き叫ぶ人。
その全てと逆方向へ。
目的地は一つ。
美咲がいる保育園。
「……無事でいてくれ」
何度も同じ言葉を心の中で繰り返す。
スマートフォンを握る手に力が入る。
何度電話をかけても繋がらない。メッセージも既読にならない。
嫌な想像が頭をよぎる。しかし、すぐに否定する。
美咲は大丈夫だ。
昔からそうだった。
困っている人を放っておけない。誰よりも優しい。
そんな人が、こんなところで簡単に死ぬはずがない。
「絶対に……」
蓮は呟いた。
「俺が行くから」
◇
保育園へ向かう途中、大きな交差点に差しかかった。普段なら昼間でも多くの人が行き交う場所。
しかし今は、異様な光景になっていた。道路には放置された車、開いたままのタクシーのドア、地面に落ちたスマートフォン、持ち主を失った荷物。
数十分前まで、誰かの日常だったものが転がっている。
蓮は足を止めた。
目の前の歩道に、一人の男性が立っていた。
背中を向けている。
スーツ姿。普通の会社員に見える。
「大丈夫ですか?」
反射的に声をかけそうになる。しかし、男は動かなかった。
妙だった。人がこれだけ騒いでいる状況で、あまりにも静かすぎる。
蓮が一歩近づく。
その瞬間、男の首が、不自然な角度で動いた。ゆっくり、ギギギ、と音がしそうなほど。
振り返る。
顔には生気がなかった。目は焦点が合っていない。口元には血。
「……っ」
蓮は息を止めた。昨日までなら、ただの体調不良だと思っただろう。しかし、今は違う。
駅で見た光景が頭をよぎる。人を襲う人間、噛みつく人間。そして、感染。
男がこちらへ向かって歩き出す。いや、歩いているというより、引きずるように身体を動かしている。
蓮は後ずさった。
男の足取りは遅い。しかし、確実に近づいてくる。
「来るな……」
小さく呟く。
男は反応しない。その代わり、遠くで鳴った車のクラクションに反応した。
突然、男の首が音の方向へ向いた。蓮はその瞬間を見逃さなかった。
「……音?」
男は蓮ではなく、別方向へ向かって歩き始めた。
蓮は息を潜める。静かに、ゆっくりその場を離れる。
まだ理解できないことだらけだった。だが、一つだけ分かった。
あいつらは目で人を探していない。音に反応している。
蓮はそれを頭の片隅に刻み込んだ。
◇
午前十一時四十分。
目的地の保育園が見えてきた。しかし、そこで蓮は足を止めた。
門が開いている。子供用の靴が、入口付近に散乱している。壁には先生たちが作った飾り付け。
「春の遠足まであと○日」
可愛らしい文字。
そのすぐ横に赤い手形が残っていた。
蓮の胸が締め付けられる。
「……美咲」
嫌な予感がした。だが、逃げるわけにはいかない。
蓮は周囲を確認しながら中へ入る。
園庭には誰もいない。遊具は誰も遊んでいない。
いつもなら子供たちの声で溢れている場所。今は不気味なほど静かだった。
建物の中から、小さな音が聞こえる。
「……先生……」
子供の声。
蓮は急いで向かう。扉を開ける。
そこには数人の子供たちと、保育士がいた。
しかし、その保育士は、正常な状態ではなかった。
「先生……?」
一人の子供が泣きながら呼びかける。
保育士はゆっくり振り返った。目は虚ろ。口元は赤く染まっている。
蓮は咄嗟に近くにあった椅子を掴んだ。
「下がって!」
子供たちを守るように前へ出る。
保育士が近づいてくる。力なく見える。しかし、手が椅子に触れた瞬間、信じられない力で押し返してきた。
「っ……!」
蓮の身体が後ろへ飛ばされる。
普通の人間の力ではない。
恐怖が背中を走る。だが、逃げるわけにはいかなかった。
後ろには子供たちがいる。
蓮は必死に椅子を押し返す。
「お願いだから戻ってくれ……!」
もちろん返事はない。
その時、後ろから声がした。
「蓮くん!」
聞き覚えのある声。
振り返る。
そこにいた。
高橋美咲。
白い保育士エプロン。
涙を浮かべながら立っている。
「美咲……!」
一瞬、世界から恐怖が消えた。
蓮は力を振り絞り、感染した保育士を押し倒す。子供たちを連れて、美咲の元へ走った。
「怪我はない?」
美咲は首を振る。
「私は大丈夫」
そう言って笑った。でも、蓮は気付かなかった。
美咲が一瞬だけ苦しそうな表情をしたことに。
◇
保育園の倉庫。
二人は避難していた。子供たちは別室で休ませている。
蓮は壁にもたれながら息を整える。
「……何なんだよ、これ」
答えは返ってこない。
美咲も俯いていた。
「ニュース見た?」
「ああ」
「……人じゃないみたいだったね」
蓮は黙る。認めたくなかった。しかし、目の前で見た。人間が変わる瞬間を。
「蓮くん」
「ん?」
美咲が優しく笑う。
「来てくれてありがとう」
「当たり前だろ」
即答だった。
美咲は少し驚いた顔をする。
「昔から変わらないね」
「何が?」
「困ってる人を見ると助けるところ」
蓮は視線を逸らした。
そんな大した人間じゃない。そう言おうとした。でも、美咲の言葉が嬉しかった。
「……土曜日」
蓮が言う。
「え?」
「ご飯の約束」
「あ……」
美咲は少し笑った。
「覚えてたんだ」
「当たり前だろ」
「そっか」
一瞬だけ二人の間に昔と同じ空気が戻った。世界が壊れていることを忘れるくらい。
蓮は思った。この時間を守りたい。この人を守りたい。
その時だった。
美咲が突然、咳き込んだ。
「……大丈夫?」
「うん」
「顔色悪いぞ」
「寝不足かな」
美咲は笑う。
蓮は気付かなかった。
美咲の右腕。
長袖の奥。
そこに残る傷跡を。
そして、彼女が蓮に隠している事実をまだ知らなかった。
この再会が二人に残された最後の時間になることを。
◇
外から大きな音が響いた。ガラスが割れる音、複数の足音。感染者が集まってきている。
蓮は立ち上がる。
「ここを出よう」
美咲を見る。
「二人で逃げるぞ」
美咲は一瞬だけ悲しそうな顔をした。しかし、すぐに笑った。
「うん」
その笑顔を蓮は忘れない。
この後、何度も思い出すことになる。
世界が終わった後も最後まで。