午前十二時二十三分。
東京の街は、少しずつ形を失っていた。
昨日まで人々が当たり前のように歩いていた道路。学生が笑いながら通っていた歩道。会社員が急ぎ足で向かっていた駅。
そこにはもう、日常の姿はなかった。残されているのは、逃げ惑った人々の痕跡だけ。倒れた自転車、割れたスマートフォン、放置された車。
そして、誰も拾うことのできない荷物。
黒崎蓮は、保育園の裏口から外へ出た。
後ろには、高橋美咲。
そして数人の子供たち。
「静かにね」
美咲が優しく声をかける。
子供たちは泣くのを必死に我慢していた。
いつもなら先生に甘えて、抱きついてくる年齢。しかし、今は違う。小さな身体で、この異常な状況を理解しようとしていた。
蓮は周囲を見る。道路には感染者の姿はない。だが、安心はできなかった。
さっきの光景が頭から離れない。普通の人間とは思えない力、噛みつく行動。そして、音に反応する習性。
「蓮くん」
美咲が小声で呼ぶ。
「どうした?」
「この子たち……どうする?」
蓮は答えられなかった。
当然だった。
自分だって、どうすればいいのか分からない。警察?自衛隊?避難所?助けてくれる場所はあるのか。
考えている間にも、状況は悪化している。しかし、子供たちの不安そうな顔を見ると、立ち止まることはできなかった。
「まず安全な場所を探そう」
蓮は言った。
「大丈夫。きっと助けが来る」
根拠なんてなかった。でも、そう言うしかなかった。
美咲は蓮を見る。少しだけ寂しそうに。
「蓮くん」
「ん?」
「昔からそうだよね」
「何が?」
「自分が怖くても、誰かを安心させようとする」
蓮は苦笑した。
「そんな大したことじゃないよ」
「ううん」
美咲は首を振る。
「それが蓮くんの良いところ」
その言葉に蓮の胸が少し温かくなる。だが、美咲は視線を逸らした。その表情には、隠している何かがあった。
◇
保育園から数百メートル離れた場所。小さな公園。
蓮たちは一度休憩することにした。子供たちはベンチに座り、水を飲んでいる。
幸い、保育園にあった備蓄品を少し持ち出せた。だが、長くは持たない。
「この先に区の避難所がある」
美咲が言った。
「保育士仲間から聞いたことがある」
「そこなら安全かもな」
蓮は頷く。
その時、遠くから音が聞こえた。
車のエンジン音。そして、怒鳴り声。
「誰かいるぞ!」
蓮は振り返った。
道路の向こうに数人の男女がいた。手には金属バット、工具、長い棒、武器になりそうなものを持っている。
最初は助かったと思った。生存者、同じ人間。しかし、近づいてきた男の目を見て、蓮は違和感を覚えた。
恐怖ではない。混乱でもない。そこにあったのは他人を警戒する目だった。
「大丈夫ですか?」
蓮が声をかける。
男は周囲を見る。
子供たち、食料、荷物。そして蓮たち。
「その水」
男が言った。
「持ってるなら分けてくれよ」
「もちろんです。ただ――」
蓮が答えようとした瞬間、別の男が口を挟む。
「全部出せよ」
空気が変わった。
「え?」
「食料も」
「いや、俺たちも避難途中で……」
蓮が言うと、男は鼻で笑った。
「この状況で助け合いとか言ってんの?」
「……」
「甘いんだよ」
その言葉に蓮は何も言えなかった。
今までなら会社でも、日常でも話し合えば解決できると思っていた。でも、世界が変われば人間も変わる。
その現実を初めて感じた。
「やめろ」
一人の女性が止める。
「子供いるじゃん」
しかし、男は聞かない。
「だから何だよ」
「全員生き残れると思ってんのか?」
その瞬間、蓮の背筋が冷えた。
この状況で一番怖いもの。それは感染者だけではない。人間だった。
「行こう」
蓮は小さく言った。
美咲と子供たちを連れて、その場を離れる。
背後から怒鳴り声が聞こえる。しかし、追っては来なかった。
◇
午後二時。
区の避難所へ到着。しかし、そこには異様な光景が広がっていた。校庭には大量の人、泣いている人、家族を探す人、負傷者。
そして、入口には警察官。
「ここから先は感染確認が必要です!」
叫び声が飛び交っている。
蓮は少し安心した。
まだ秩序は残っている。
「大丈夫だ」
「ここなら……」
そう思った。しかし、その瞬間、近くにいた男性が突然倒れた。
周囲がざわつく。
「大丈夫ですか?」
警察官が近づく。
男性は震えている。
汗を流している。
そして次の瞬間、立ち上がった。
「……また」
蓮は呟く。
駅で見た光景、保育園で見た光景と同じだった。
男性は近くの警察官に飛びかかった。悲鳴、混乱。人々が逃げる。
「逃げろ!」
誰かが叫ぶ。その声、その音は大量の感染者を呼び寄せた。遠くから何十もの足音がゆっくりと、しかし、確実に近づいてくる。
蓮は美咲を見る。
「走るぞ!」
子供たちを連れて逃げる。
後ろで悲鳴が響く。
避難所。安全だと思った場所。そこも一瞬で地獄へ変わった。
◇
夕方。
廃ビルの一室。
蓮たちは何とか逃げ切っていた。
子供たちは疲れて眠っている。
美咲は壁にもたれていた。顔色が悪い。
「美咲」
「……ん?」
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
いつもの笑顔。でも、蓮には分かった。何かがおかしい。
「見せて」
「え?」
「怪我してるだろ」
美咲の表情が固まる。
「……」
「美咲」
静かな声。
「俺に隠すなよ」
しばらく沈黙。
外では遠くから感染者の声、低いうめき声。
美咲は目を閉じた。そして、ゆっくり袖をまくった。
蓮の時間が止まった。
腕。そこには歯形が残っていた。赤黒く腫れた傷。見間違えるはずがない。感染者に噛まれた跡。
「……いつ?」
蓮の声が震える。
美咲は答えない。
「いつ噛まれたんだよ!」
初めて蓮が声を荒げた。
美咲の肩が震える。
「保育園に入る前」
「……」
「子供を助けた時」
蓮は後ろへ下がった。
頭が理解を拒否している。
「嘘だろ……」
美咲は涙を流した。
「ごめんね」
「……」
「言えなかった」
「何で……」
「蓮くんが来てくれたから」
美咲は笑った。悲しい笑顔だった。
「最後まで、一緒にいたかった」
蓮の胸が締め付けられる。
ずっと会いたかった人。やっと再会できた人。これから想いを伝えようと思っていた人。
その人にはもう時間が残されていない。
「治る方法を探そう」
蓮は言った。
「絶対ある」
「蓮くん」
「薬だってあるかもしれない。病院に行けば――」
「蓮くん」
美咲は優しく遮った。
「もう分かってるでしょ」
蓮は黙る。
分かっていた。分かりたくなかっただけ。
美咲は窓の外を見る。
夕焼けに染まる東京。昨日までなら綺麗だと思った景色。今は世界の終わりの色に見えた。
「蓮くん」
「……」
「私ね」
少し間を置いて。
「本当は、土曜日楽しみにしてた」
蓮の目から涙が落ちた。
「俺もだよ」
声が震える。
「言いたいことがあった」
美咲は振り返る。
「……何?」
蓮は口を開く。でも、言葉が出なかった。こんな形でこんな状況で伝えたくなかった。
美咲は少し笑った。
「そっか」
「……」
「なんとなく分かってた」
その瞬間、外から大きな音が響いた。ガラスが割れる音。
感染者が近づいている。
二人の時間は終わりへ向かっていた。
美咲は小さく呟いた。
「蓮くん」
「なに?」
「最後まで……そばにいてくれる?」
蓮は迷うことなく答えた。
「当たり前だろ」
その言葉を聞いて美咲は安心したように目を閉じた。
しかし、蓮はまだ知らない。
明日、彼自身の手で最も大切な人との別れを選ばなければならないことを。