朝が来た。
しかし、黒崎蓮にとって、その朝は昨日までとは違う意味を持っていた。
目を覚ました瞬間、最初に感じたのは、身体の疲労だった。硬い床、冷たい壁、薄暗い廃ビルの一室。
快適とは程遠い場所。だが、それ以上に重かったのは隣にいる大切な人の未来が、残りわずかだという現実だった。
蓮はゆっくり目を開ける。
窓から差し込む朝日、東京の街並み。本来なら、多くの人が通勤している時間。駅へ向かう人、店を開ける人。学校へ向かう子供たち。
そんな当たり前の景色が広がっているはずだった。しかし、今、街を歩く者はいない。
代わりに遠くから、低い唸り声が聞こえる。人間ではない存在が徘徊する街。世界は、たった一日で変わってしまった。
「……蓮くん」
声が聞こえた。
振り返る。
美咲がいた。
壁にもたれながら、こちらを見ている。
「起きてたんだ」
「うん」
美咲は微笑む。その笑顔は、昨日と変わらなかった。明るくて、優しくて蓮が知っている高橋美咲のままだった。
だからこそ胸が苦しかった。
「腕……」
蓮の視線が美咲の右腕へ向く。
昨日、見てしまった傷。感染者に噛まれた跡。そこには包帯が巻かれている。
「痛くない?」
「少しだけ」
美咲は答える。
「でも、大丈夫」
「大丈夫って……」
蓮の声が少し強くなる。美咲は困ったように笑った。
「蓮くん」
「……」
「私より辛そうな顔してる」
その言葉に、蓮は黙った。
自分でも分かっていた。美咲よりも自分の方が取り乱している。助けたい、治したい、何とかしたい。
でも、何もできない。その無力感が、胸を締め付けていた。
「病院を探そう」
蓮は言った。
「大きい病院なら、何か分かるかもしれない」
美咲は少し寂しそうに笑った。
「蓮くん」
「何?」
「優しいね」
「……」
「でも」
美咲は窓の外を見る。
「たぶん、もう普通の病気じゃない」
蓮は拳を握った。
分かっている。分かっているからこそ認めたくない。
「まだ決まったわけじゃない」
「うん」
「治療法があるかもしれない」
「うん」
「だから探す」
美咲は蓮を見る。その目には涙が浮かんでいた。
「ありがとう」
小さな声だった。
◇
午前九時。
蓮たちは廃ビルを出た。
一緒にいた子供たちは、近くの避難所へ移動した別の生存者グループに預けることができた。
苦渋の決断だった。本当なら最後まで守りたかった。しかし、感染した美咲を連れた状態で、大人数を守り続けることは難しい。
その現実を理解していた。
「ごめんな」
別れる前、一人の男の子が蓮に言った。
「お兄ちゃんも頑張って」
その言葉に蓮は少し驚いた。こんな状況でも子供は誰かを気遣える。
「……ありがとう」
蓮は頭を撫でた。そして思った。
この世界にはまだ守る価値があるものが残っている。
◇
二人は街を歩いた。
目的地は近くの総合病院。感染者の情報、治療法。何でもいいから手掛かりが欲しかった。
しかし、東京は静かだった。静かすぎた。昨日まで騒がしかった商店街、人で溢れていた道路。そこには誰もいない。
蓮と美咲の足音だけが響く。
「ねえ」
美咲が言う。
「何?」
「高校の時、覚えてる?」
「何を?」
「文化祭」
蓮は少し笑った。
「覚えてる」
「蓮くん、クラスの出し物ずっと裏方だったよね」
「人前苦手だったから」
「でも、誰より働いてた」
「そうだっけ」
「そうだよ」
美咲は笑う。
「みんな気付いてなかったけど」
「美咲は気付いてたんだ」
「うん」
少し間が空く。
「だから話しかけた」
蓮は歩きながら美咲を見る。
「なんで?」
美咲は少し考える。
「寂しそうだったから」
「……」
「でもね」
美咲は続けた。
「本当は違った」
「え?」
「蓮くんは寂しいんじゃなくて」
「……」
「誰かに必要とされたかったんだと思う」
蓮は何も言えなかった。図星だった。会社でも人間関係でも自分が必要とされている実感がなかった。
だから頑張った。認められたかった。でも、美咲だけは昔から自分を見ていた。
「美咲」
「ん?」
「俺さ」
言葉を探す。
「もっと早く言えばよかった」
美咲は少し首を傾げる。
「何を?」
蓮は足を止めた。
「好きって」
時間が止まったように感じた。街の音も風の音も全部消えた気がした。
美咲は目を見開く。そして、ゆっくり笑った。
「……知ってた」
「え?」
「なんとなく」
「嘘だろ」
「本当」
美咲は笑う。
「蓮くん、分かりやすいもん」
蓮は苦笑した。
「じゃあ何で」
「待ってた」
「……」
「蓮くん自身が、自分の人生を選ぶまで」
その言葉が胸に刺さった。
「私はね」
美咲は空を見上げる。
「蓮くんには幸せになってほしかった」
蓮は俯く。涙が出そうになる。
こんな話、もっと普通の日にしたかった。レストランで笑いながら、未来の話をしながら。でも、世界は待ってくれなかった。
◇
午後一時。
病院へ到着。しかし、そこはすでに機能していなかった。
入口には大量の血痕、割れたガラス、倒れた医療器具。誰もいない。
「……」
蓮は中へ入る。
受付、診察室、薬品庫。全て確認する。
しかし、生存者はいない。
残されていたテレビ。そこからニュース音声が流れていた。
【政府は現在、首都圏で発生している暴動について――】
【感染者への接触を避けるよう――】
【自衛隊の派遣を検討しています】
蓮は画面を見る。
希望。
その言葉が頭に浮かぶ。
自衛隊、政府。まだ何か方法がある。
そう思った。その時、美咲が突然壁に手をついた。
「美咲?」
振り返る。
顔色が悪い。
「大丈夫」
「嘘だろ」
「少し疲れただけ」
蓮は近づく。
その瞬間、美咲の身体が小さく震えた。
蓮は悟った。確実に進行している。時間がない。
◇
病院の屋上。
夕方。
二人は並んで座っていた。
東京の街が赤く染まっている。昨日なら綺麗だと思った夕焼け。今は寂しく見えた。
「ねえ、蓮くん」
「ん?」
「もし普通の世界だったら」
美咲が言う。
「土曜日、何食べに行く予定だった?」
蓮は少し笑った。
「考えてなかった」
「えー」
「美咲が決めると思ってた」
「ひどい」
二人で笑う。
ほんの数秒、世界が終わる前の二人に戻れた気がした。
「でも」
蓮は言う。
「どこでもよかった」
美咲を見る。
「美咲となら」
その言葉に美咲は目を伏せた。
「そっか」
小さく呟く。
「嬉しい」
風が吹く。
しばらく沈黙。
そして、美咲が言った。
「蓮くん」
「何?」
「お願いがある」
蓮は美咲を見る。
「最後まで」
「……」
「私を美咲のままでいさせて」
蓮の胸が痛む。
「そんなこと言うなよ」
「約束して」
「……」
「私が私じゃなくなる前に」
美咲の目から涙が落ちる。
蓮は答えられなかった。答えたくなかった。しかし、彼女の覚悟を感じた。
「……分かった」
震える声。
「約束する」
美咲は安心したように笑った。
「ありがとう」
その夜、二人は静かに過ごした。
会話をした。昔の話をした。くだらないことで笑った。まるで世界が終わる前の最後の休日のように。
しかし、夜が明ければ運命の時間が来る。
美咲の身体は少しずつ人間ではなくなっていた。