東京終焉   作:ゆきひな

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第5話 最後の時間

 朝が来た。

 

 しかし、黒崎蓮にとって、その朝は昨日までとは違う意味を持っていた。

 

 目を覚ました瞬間、最初に感じたのは、身体の疲労だった。硬い床、冷たい壁、薄暗い廃ビルの一室。

 

 快適とは程遠い場所。だが、それ以上に重かったのは隣にいる大切な人の未来が、残りわずかだという現実だった。

 

 蓮はゆっくり目を開ける。

 

 窓から差し込む朝日、東京の街並み。本来なら、多くの人が通勤している時間。駅へ向かう人、店を開ける人。学校へ向かう子供たち。

 

 そんな当たり前の景色が広がっているはずだった。しかし、今、街を歩く者はいない。

 

 代わりに遠くから、低い唸り声が聞こえる。人間ではない存在が徘徊する街。世界は、たった一日で変わってしまった。

 

「……蓮くん」

 

 声が聞こえた。

 

 振り返る。

 

 美咲がいた。

 

 壁にもたれながら、こちらを見ている。

 

「起きてたんだ」

 

「うん」

 

 美咲は微笑む。その笑顔は、昨日と変わらなかった。明るくて、優しくて蓮が知っている高橋美咲のままだった。

 

 だからこそ胸が苦しかった。

 

「腕……」

 

 蓮の視線が美咲の右腕へ向く。

 

 昨日、見てしまった傷。感染者に噛まれた跡。そこには包帯が巻かれている。

 

「痛くない?」

 

「少しだけ」

 

 美咲は答える。

 

「でも、大丈夫」

 

「大丈夫って……」

 

 蓮の声が少し強くなる。美咲は困ったように笑った。

 

「蓮くん」

 

「……」

 

「私より辛そうな顔してる」

 

 その言葉に、蓮は黙った。

 

 自分でも分かっていた。美咲よりも自分の方が取り乱している。助けたい、治したい、何とかしたい。

 

 でも、何もできない。その無力感が、胸を締め付けていた。

 

「病院を探そう」

 

 蓮は言った。

 

「大きい病院なら、何か分かるかもしれない」

 

 美咲は少し寂しそうに笑った。

 

「蓮くん」

 

「何?」

 

「優しいね」

 

「……」

 

「でも」

 

 美咲は窓の外を見る。

 

「たぶん、もう普通の病気じゃない」

 

 蓮は拳を握った。

 

 分かっている。分かっているからこそ認めたくない。

 

「まだ決まったわけじゃない」

 

「うん」

 

「治療法があるかもしれない」

 

「うん」

 

「だから探す」

 

 美咲は蓮を見る。その目には涙が浮かんでいた。

 

「ありがとう」

 

 小さな声だった。

 

 午前九時。

 

 蓮たちは廃ビルを出た。

 

 一緒にいた子供たちは、近くの避難所へ移動した別の生存者グループに預けることができた。

 

 苦渋の決断だった。本当なら最後まで守りたかった。しかし、感染した美咲を連れた状態で、大人数を守り続けることは難しい。

 

 その現実を理解していた。

 

「ごめんな」

 

 別れる前、一人の男の子が蓮に言った。

 

「お兄ちゃんも頑張って」

 

 その言葉に蓮は少し驚いた。こんな状況でも子供は誰かを気遣える。

 

「……ありがとう」

 

 蓮は頭を撫でた。そして思った。

 

 この世界にはまだ守る価値があるものが残っている。

 

 

 二人は街を歩いた。

 

 目的地は近くの総合病院。感染者の情報、治療法。何でもいいから手掛かりが欲しかった。

 

 しかし、東京は静かだった。静かすぎた。昨日まで騒がしかった商店街、人で溢れていた道路。そこには誰もいない。

 

 蓮と美咲の足音だけが響く。

 

「ねえ」

 

 美咲が言う。

 

「何?」

 

「高校の時、覚えてる?」

 

「何を?」

 

「文化祭」

 

 蓮は少し笑った。

 

「覚えてる」

 

「蓮くん、クラスの出し物ずっと裏方だったよね」

 

「人前苦手だったから」

 

「でも、誰より働いてた」

 

「そうだっけ」

 

「そうだよ」

 

 美咲は笑う。

 

「みんな気付いてなかったけど」

 

「美咲は気付いてたんだ」

 

「うん」

 

 少し間が空く。

 

「だから話しかけた」

 

 蓮は歩きながら美咲を見る。

 

「なんで?」

 

 美咲は少し考える。

 

「寂しそうだったから」

 

「……」

 

「でもね」

 

 美咲は続けた。

 

「本当は違った」

 

「え?」

 

「蓮くんは寂しいんじゃなくて」

 

「……」

 

「誰かに必要とされたかったんだと思う」

 

 蓮は何も言えなかった。図星だった。会社でも人間関係でも自分が必要とされている実感がなかった。

 

 だから頑張った。認められたかった。でも、美咲だけは昔から自分を見ていた。

 

「美咲」

 

「ん?」

 

「俺さ」

 

 言葉を探す。

 

「もっと早く言えばよかった」

 

 美咲は少し首を傾げる。

 

「何を?」

 

 蓮は足を止めた。

 

「好きって」

 

 時間が止まったように感じた。街の音も風の音も全部消えた気がした。

 

 美咲は目を見開く。そして、ゆっくり笑った。

 

「……知ってた」

 

「え?」

 

「なんとなく」

 

「嘘だろ」

 

「本当」

 

 美咲は笑う。

 

「蓮くん、分かりやすいもん」

 

 蓮は苦笑した。

 

「じゃあ何で」

 

「待ってた」

 

「……」

 

「蓮くん自身が、自分の人生を選ぶまで」

 

 その言葉が胸に刺さった。

 

「私はね」

 

 美咲は空を見上げる。

 

「蓮くんには幸せになってほしかった」

 

 蓮は俯く。涙が出そうになる。

 

 こんな話、もっと普通の日にしたかった。レストランで笑いながら、未来の話をしながら。でも、世界は待ってくれなかった。

 

 

 午後一時。

 

 病院へ到着。しかし、そこはすでに機能していなかった。

 

 入口には大量の血痕、割れたガラス、倒れた医療器具。誰もいない。

 

「……」

 

 蓮は中へ入る。

 

 受付、診察室、薬品庫。全て確認する。

 

 しかし、生存者はいない。

 

 残されていたテレビ。そこからニュース音声が流れていた。

 

【政府は現在、首都圏で発生している暴動について――】

 

【感染者への接触を避けるよう――】

 

【自衛隊の派遣を検討しています】

 

 蓮は画面を見る。

 

 希望。

 

 その言葉が頭に浮かぶ。

 

 自衛隊、政府。まだ何か方法がある。

 

 そう思った。その時、美咲が突然壁に手をついた。

 

「美咲?」

 

 振り返る。

 

 顔色が悪い。

 

「大丈夫」

 

「嘘だろ」

 

「少し疲れただけ」

 

 蓮は近づく。

 

 その瞬間、美咲の身体が小さく震えた。

 

 蓮は悟った。確実に進行している。時間がない。

 

 

 病院の屋上。

 

 夕方。

 

 二人は並んで座っていた。

 

 東京の街が赤く染まっている。昨日なら綺麗だと思った夕焼け。今は寂しく見えた。

 

「ねえ、蓮くん」

 

「ん?」

 

「もし普通の世界だったら」

 

 美咲が言う。

 

「土曜日、何食べに行く予定だった?」

 

 蓮は少し笑った。

 

「考えてなかった」

 

「えー」

 

「美咲が決めると思ってた」

 

「ひどい」

 

 二人で笑う。

 

 ほんの数秒、世界が終わる前の二人に戻れた気がした。

 

「でも」

 

 蓮は言う。

 

「どこでもよかった」

 

 美咲を見る。

 

「美咲となら」

 

 その言葉に美咲は目を伏せた。

 

「そっか」

 

 小さく呟く。

 

「嬉しい」

 

 風が吹く。

 

 しばらく沈黙。

 

 そして、美咲が言った。

 

「蓮くん」

 

「何?」

 

「お願いがある」

 

 蓮は美咲を見る。

 

「最後まで」

 

「……」

 

「私を美咲のままでいさせて」

 

 蓮の胸が痛む。

 

「そんなこと言うなよ」

 

「約束して」

 

「……」

 

「私が私じゃなくなる前に」

 

 美咲の目から涙が落ちる。

 

 蓮は答えられなかった。答えたくなかった。しかし、彼女の覚悟を感じた。

 

「……分かった」

 

 震える声。

 

「約束する」

 

 美咲は安心したように笑った。

 

「ありがとう」

 

 その夜、二人は静かに過ごした。

 

 会話をした。昔の話をした。くだらないことで笑った。まるで世界が終わる前の最後の休日のように。

 

 しかし、夜が明ければ運命の時間が来る。

 

 美咲の身体は少しずつ人間ではなくなっていた。

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