東京終焉   作:ゆきひな

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第6話 生き続ける

 朝が来た。

 

 黒崎蓮は、目を覚ました瞬間に理解した。今日だ。今日、この時間が終わる。

 

 隣を見る。

 

 高橋美咲はまだ眠っていた。昨日と変わらない顔。穏やかな表情。まるで何も起きていないようだった。

 

 蓮はしばらく、その姿を見つめていた。高校時代、初めて話しかけてくれた日のこと。文化祭で一緒に笑ったこと。卒業式の日。結局伝えられなかった気持ち。

 

 何年もの記憶が、頭の中を流れていく。

 

 もっと早く言えばよかった。もっと勇気を出せばよかった。もっと一緒に時間を過ごせばよかった。

 

 後悔ばかりが浮かんでくる。しかし、どれだけ願っても時間は戻らない。

 

「……蓮くん」

 

 突然、声がした。

 

 蓮は驚いて顔を上げる。

 

 美咲が目を開けていた。

 

「起きてたの?」

 

「……うん」

 

「ずっと見てた?」

 

 蓮は少し気まずそうに目を逸らす。

 

「悪い」

 

 美咲は小さく笑った。

 

「謝るところじゃないよ」

 

「でも」

 

「嬉しかった」

 

 その一言で蓮の胸が苦しくなる。

 

 美咲はゆっくり身体を起こした。昨日より明らかに顔色が悪い。呼吸も少し荒い。

 

 それでも笑顔だけは失っていなかった。

 

「今日、天気いいね」

 

 美咲が窓を見る。

 

 蓮も外を見る。

 

 青空だった。雲一つない。世界が終わろうとしているとは思えないほど綺麗な空だった。

 

「変だよな」

 

 蓮が呟く。

 

「こんな状況なのに」

 

「だからじゃないかな」

 

「え?」

 

「世界がどんなになっても、朝は来るんだと思う」

 

 美咲は微笑んだ。

 

「人間が勝手に終わったと思ってるだけで」

 

 その言葉を蓮は覚えておこうと思った。

 

 

 午前八時。

 

 二人はビルを出た。目的地はなかった。正確には蓮にはもう、どこへ行けばいいのか分からなかった。

 

 治療法を探す。安全な場所を探す。そう言って動いてきた。しかし、現実は残酷だった。

 

 病院には何もなかった。政府の救助も、自衛隊の到着もいつになるか分からない。それでも蓮は歩いた。美咲と一緒にいられる時間を少しでも長くするために。

 

「蓮くん」

 

「ん?」

 

「疲れてない?」

 

「大丈夫」

 

「嘘」

 

 美咲は笑う。

 

「昔からそう」

 

「何が?」

 

「自分が辛い時ほど、大丈夫って言う」

 

 蓮は何も返せなかった。図星だった。

 

 美咲は歩きながら言う。

 

「ねえ」

 

「うん」

 

「もし私がいなくなったら」

 

「……」

 

「蓮くんはどうする?」

 

 その質問に蓮の足が止まった。

 

「そんな話するなよ」

 

「聞きたい」

 

「……」

 

「お願い」

 蓮は俯いた。

 

「分からない」

 

 正直な答えだった。

 

 美咲は少し悲しそうに笑った。

 

「そっか」

 

「でも」

 

 蓮は続ける。

 

「生きる」

 

 美咲を見る。

 

「美咲が……そう言うなら」

 

 美咲の目が少し潤んだ。

 

「うん」

 

「約束」

 

「……」

 

「生きて」

 

 その言葉は命令ではなかった。願いだった。

 

 

 昼頃、二人は小さな公園にいた。以前なら子供たちの声で溢れていた場所。今は静まり返っている。ブランコが風で揺れていた。

 

 蓮はベンチに座る。

 

 美咲は隣に座った。

 

「覚えてる?」

 

「何を?」

 

「高校の帰り道」

 

「いっぱいあるけど」

 

「雨の日」

 

 蓮は考える。

 

「ああ」

 

 思い出した。突然雨が降った日、蓮は傘を持っていなかった。美咲が自分の傘に入れてくれた。

 

「蓮くん、びしょ濡れだった」

 

「美咲が急に入れてくるから」

 

「だって放っておけなかったし」

 

「普通、自分が濡れるだろ」

 

「いいの」

 

 美咲は笑った。

 

「蓮くんだから」

 

 その言葉が昔からずっと蓮を支えていた。

 

「美咲」

 

「ん?」

 

「俺さ」

 

 一度言葉を止める。

 

「もっと早く変われたらよかった」

 

「……」

 

「もっと自信持って」

 

「もっとちゃんと伝えて」

 

「もっと一緒に――」

 

 声が震える。

 

 美咲は静かに首を振った。

 

「違うよ」

 

「え?」

 

「蓮くんは変わってない」

 

「……」

 

「昔から優しかった」

 

「でも」

 

 美咲は続ける。

 

「自分のことを大切にしてなかった」

 

 蓮は黙る。

 

「だから」

 

「これからは」

 

「自分の人生を生きて」

 

 その言葉に涙が落ちた。

 

 

 午後三時、異変が起きた。

 

 美咲が突然立ち止まる。

 

「美咲?」

 

 返事がない。肩が震えている。

 

「美咲」

 

 近づく。すると、美咲が苦しそうに顔を歪めた。

 

「……蓮くん」

 

「大丈夫か?」

 

「少し……寒い」

 

 蓮は息を飲む。

 

 始まった。感染の進行が。

 

 美咲は壁に手をついた。

 

「もう……時間ないね」

 

「違う」

 

 蓮は否定する。

 

「まだ大丈夫」

 

「蓮くん」

 

「大丈夫だ」

 

「蓮くん」

 

 美咲の声が優しく響く。

 

「ありがとう」

 

 その言葉が何より辛かった。まるで別れの言葉だった。

 

 

 夕方。

 

 二人は昨日の廃ビルへ戻った。

 

 外は暗くなり始めている。

 

 蓮は必死に考えていた。何か方法はないか、何か奇跡はないか。しかし、時間は残酷だった。

 

 美咲の目、表情、声。少しずつ変わっていく。

 

 それでもまだ彼女だった。

 

「蓮くん」

 

「……」

 

「こっち見て」

 

 蓮は顔を上げる。

 

 美咲が笑っていた。

 

「泣かないで」

 

「無理だろ」

 

「蓮くん」

 

「俺は……」

 

 言葉が詰まる。

 

「俺は何もできない」

 

 美咲は首を振った。

 

「違うよ」

 

「違わない」

 

「蓮くんはできたよ」

 

「……」

 

「私を一人にしなかった」

 

 その言葉で蓮は涙を流した。

 

「怖い」

 

 美咲が呟く。

 

「本当は」

 

 初めてだった。

 

 美咲が弱音を吐いた。

 

「死ぬのが怖い」

 

 蓮は彼女の手を握る。

 

「俺も怖い」

 

「……」

 

「美咲を失うのが怖い」

 

 二人はしばらく黙っていた。

 

 

 夜。

 

 時計の針が進む。

 

 美咲の様子が変わる。呼吸が荒い。目の焦点が合わなくなる。

 

 蓮は分かっていた。

 

 もうすぐだ。

 

 美咲は最後の力を振り絞るように言った。

 

「蓮くん」

 

「……」

 

「お願い」

 

「何?」

 

「私を……覚えていて」

 

 蓮の涙が落ちる。

 

「忘れるわけない」

 

「絶対?」

 

「絶対」

 

 美咲は安心したように笑った。

 

「よかった」

 

 そして、少し間を置いて。

 

「蓮くんに会えて……よかった」

 

 その瞬間、美咲の身体が大きく震えた。

 

 蓮は目を閉じた。

 

 分かっていた。

 

 時間が来た。

 

 目の前の人がもう自分の知っている美咲ではなくなる。

 

「蓮くん……」

 

 最後の声。

 

「ありがとう」

 

 蓮は震える手で立ち上がった。

 

 涙で視界が滲む。

 

 でも、約束した。美咲を美咲のまま終わらせる。彼女が望んだ最後を。

 

「ごめん」

 

 蓮は呟いた。

 

「ありがとう」

 

 そして、静かに決断した。

 

 

 夜明け前。

 

 東京の片隅で一人の男が泣いていた。

 

 世界が終わったからではない。ゾンビが怖いからでもない。大切な人を失ったからだった。

 

 黒崎蓮はこの日、人生で一番大切な人を失った。

 

 しかし、同時にその人から託されたものを受け取った。

 

 生きる理由。誰かを守る意味。

 

 そして、自分自身の人生。

 

 蓮は立ち上がる。

 

 もう逃げない。もう諦めない。

 

 美咲が信じた自分でいるために、この終わった世界で。生き続ける。

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