朝が来た。
黒崎蓮は、目を覚ました瞬間に理解した。今日だ。今日、この時間が終わる。
隣を見る。
高橋美咲はまだ眠っていた。昨日と変わらない顔。穏やかな表情。まるで何も起きていないようだった。
蓮はしばらく、その姿を見つめていた。高校時代、初めて話しかけてくれた日のこと。文化祭で一緒に笑ったこと。卒業式の日。結局伝えられなかった気持ち。
何年もの記憶が、頭の中を流れていく。
もっと早く言えばよかった。もっと勇気を出せばよかった。もっと一緒に時間を過ごせばよかった。
後悔ばかりが浮かんでくる。しかし、どれだけ願っても時間は戻らない。
「……蓮くん」
突然、声がした。
蓮は驚いて顔を上げる。
美咲が目を開けていた。
「起きてたの?」
「……うん」
「ずっと見てた?」
蓮は少し気まずそうに目を逸らす。
「悪い」
美咲は小さく笑った。
「謝るところじゃないよ」
「でも」
「嬉しかった」
その一言で蓮の胸が苦しくなる。
美咲はゆっくり身体を起こした。昨日より明らかに顔色が悪い。呼吸も少し荒い。
それでも笑顔だけは失っていなかった。
「今日、天気いいね」
美咲が窓を見る。
蓮も外を見る。
青空だった。雲一つない。世界が終わろうとしているとは思えないほど綺麗な空だった。
「変だよな」
蓮が呟く。
「こんな状況なのに」
「だからじゃないかな」
「え?」
「世界がどんなになっても、朝は来るんだと思う」
美咲は微笑んだ。
「人間が勝手に終わったと思ってるだけで」
その言葉を蓮は覚えておこうと思った。
◇
午前八時。
二人はビルを出た。目的地はなかった。正確には蓮にはもう、どこへ行けばいいのか分からなかった。
治療法を探す。安全な場所を探す。そう言って動いてきた。しかし、現実は残酷だった。
病院には何もなかった。政府の救助も、自衛隊の到着もいつになるか分からない。それでも蓮は歩いた。美咲と一緒にいられる時間を少しでも長くするために。
「蓮くん」
「ん?」
「疲れてない?」
「大丈夫」
「嘘」
美咲は笑う。
「昔からそう」
「何が?」
「自分が辛い時ほど、大丈夫って言う」
蓮は何も返せなかった。図星だった。
美咲は歩きながら言う。
「ねえ」
「うん」
「もし私がいなくなったら」
「……」
「蓮くんはどうする?」
その質問に蓮の足が止まった。
「そんな話するなよ」
「聞きたい」
「……」
「お願い」
蓮は俯いた。
「分からない」
正直な答えだった。
美咲は少し悲しそうに笑った。
「そっか」
「でも」
蓮は続ける。
「生きる」
美咲を見る。
「美咲が……そう言うなら」
美咲の目が少し潤んだ。
「うん」
「約束」
「……」
「生きて」
その言葉は命令ではなかった。願いだった。
◇
昼頃、二人は小さな公園にいた。以前なら子供たちの声で溢れていた場所。今は静まり返っている。ブランコが風で揺れていた。
蓮はベンチに座る。
美咲は隣に座った。
「覚えてる?」
「何を?」
「高校の帰り道」
「いっぱいあるけど」
「雨の日」
蓮は考える。
「ああ」
思い出した。突然雨が降った日、蓮は傘を持っていなかった。美咲が自分の傘に入れてくれた。
「蓮くん、びしょ濡れだった」
「美咲が急に入れてくるから」
「だって放っておけなかったし」
「普通、自分が濡れるだろ」
「いいの」
美咲は笑った。
「蓮くんだから」
その言葉が昔からずっと蓮を支えていた。
「美咲」
「ん?」
「俺さ」
一度言葉を止める。
「もっと早く変われたらよかった」
「……」
「もっと自信持って」
「もっとちゃんと伝えて」
「もっと一緒に――」
声が震える。
美咲は静かに首を振った。
「違うよ」
「え?」
「蓮くんは変わってない」
「……」
「昔から優しかった」
「でも」
美咲は続ける。
「自分のことを大切にしてなかった」
蓮は黙る。
「だから」
「これからは」
「自分の人生を生きて」
その言葉に涙が落ちた。
◇
午後三時、異変が起きた。
美咲が突然立ち止まる。
「美咲?」
返事がない。肩が震えている。
「美咲」
近づく。すると、美咲が苦しそうに顔を歪めた。
「……蓮くん」
「大丈夫か?」
「少し……寒い」
蓮は息を飲む。
始まった。感染の進行が。
美咲は壁に手をついた。
「もう……時間ないね」
「違う」
蓮は否定する。
「まだ大丈夫」
「蓮くん」
「大丈夫だ」
「蓮くん」
美咲の声が優しく響く。
「ありがとう」
その言葉が何より辛かった。まるで別れの言葉だった。
◇
夕方。
二人は昨日の廃ビルへ戻った。
外は暗くなり始めている。
蓮は必死に考えていた。何か方法はないか、何か奇跡はないか。しかし、時間は残酷だった。
美咲の目、表情、声。少しずつ変わっていく。
それでもまだ彼女だった。
「蓮くん」
「……」
「こっち見て」
蓮は顔を上げる。
美咲が笑っていた。
「泣かないで」
「無理だろ」
「蓮くん」
「俺は……」
言葉が詰まる。
「俺は何もできない」
美咲は首を振った。
「違うよ」
「違わない」
「蓮くんはできたよ」
「……」
「私を一人にしなかった」
その言葉で蓮は涙を流した。
「怖い」
美咲が呟く。
「本当は」
初めてだった。
美咲が弱音を吐いた。
「死ぬのが怖い」
蓮は彼女の手を握る。
「俺も怖い」
「……」
「美咲を失うのが怖い」
二人はしばらく黙っていた。
◇
夜。
時計の針が進む。
美咲の様子が変わる。呼吸が荒い。目の焦点が合わなくなる。
蓮は分かっていた。
もうすぐだ。
美咲は最後の力を振り絞るように言った。
「蓮くん」
「……」
「お願い」
「何?」
「私を……覚えていて」
蓮の涙が落ちる。
「忘れるわけない」
「絶対?」
「絶対」
美咲は安心したように笑った。
「よかった」
そして、少し間を置いて。
「蓮くんに会えて……よかった」
その瞬間、美咲の身体が大きく震えた。
蓮は目を閉じた。
分かっていた。
時間が来た。
目の前の人がもう自分の知っている美咲ではなくなる。
「蓮くん……」
最後の声。
「ありがとう」
蓮は震える手で立ち上がった。
涙で視界が滲む。
でも、約束した。美咲を美咲のまま終わらせる。彼女が望んだ最後を。
「ごめん」
蓮は呟いた。
「ありがとう」
そして、静かに決断した。
◇
夜明け前。
東京の片隅で一人の男が泣いていた。
世界が終わったからではない。ゾンビが怖いからでもない。大切な人を失ったからだった。
黒崎蓮はこの日、人生で一番大切な人を失った。
しかし、同時にその人から託されたものを受け取った。
生きる理由。誰かを守る意味。
そして、自分自身の人生。
蓮は立ち上がる。
もう逃げない。もう諦めない。
美咲が信じた自分でいるために、この終わった世界で。生き続ける。