雨が降っていた。東京の空を覆う鉛色の雲から、静かに、冷たく雨粒が落ちてくる。まるで街全体を洗い流そうとしているようだった。
黒崎蓮は、一人で歩いていた。右手には金属製のバール。左肩には、小さなリュックサック。
荷物はほとんどない。食料も、水も、あと数日分。
そして、隣を歩いていたはずの人も、もういない。
雨は、蓮の頬を濡らしていた。涙なのか、雨なのか、自分でも分からなかった。
昨夜の出来事が何度も頭の中で繰り返される。
美咲の笑顔。
最後の「ありがとう」。
そして、自分の手で彼女を終わらせた瞬間。
蓮は足を止める。胸の奥が締めつけられる。
「……美咲」
名前を呼んでも、返事は返ってこない。当然だった。もう、この世界のどこにもいない。
「……なんで俺だけ」
小さく呟く。答える者はいない。
◇
蓮は住宅街へ入った。
昨日まで人が暮らしていた場所。洗濯物が風に揺れている。庭先には植木鉢、玄関には子どもの自転車。そこに生活の痕跡はある。
だが、人の気配だけがない。静かだった。静かすぎた。その静けさが、かえって恐怖を際立たせていた。
突然、腹が鳴る。昨日からほとんど何も食べていない。
コンビニを探そう。そう思って歩き出した時だった。
「……たすけて!」
か細い声。
蓮は反射的に振り返る。
細い路地の奥。小学生くらいの男の子が転んでいた。足を押さえながら必死に立ち上がろうとしている。
その十メートルほど先。三体の感染者が、ゆっくりと男の子へ近づいていた。蓮の足が止まる。
頭の中で二つの声がぶつかる。
行け。
もう関わるな。
助けに行けば、自分も死ぬかもしれない。昨日までなら迷わなかった。
だが今は違う。美咲を失った。もう誰も守れなかった。何もかも終わった。そんな思いが蓮の身体を縛りつける。
「……っ」
男の子が泣きながらこちらを見る。その目が美咲と重なった。
『蓮くんは、誰かを守れる人だよ』
最後の言葉が耳に蘇る。
「……くそっ!」
蓮は地面を蹴った。全力で走る。感染者は足が遅い。だが、一度捕まれば終わりだ。
蓮は一番後ろの感染者へ向かって、バールを振り下ろした。
鈍い音が響く。感染者は倒れるが、まだ動いている。頭が潰れていない。
「倒れろ!」
もう一度、全身の力を込めて振り下ろす。頭蓋が砕ける感触。
感染者は動きを止めた。残る二体が、音に反応して振り返る。
「こっちだ!」
蓮はわざと叫ぶ。
感染者が男の子から離れ、自分へ向かってくる。
その隙に男の子が這うように逃げた。
蓮は後退しながら周囲を見る。道路脇に転がる空き缶、近くには自動販売機。
ふと、気づいたことを思い出す。音に反応する。
蓮は空き缶を拾い、思い切り遠くへ投げた。
ガラン、ガラン、ガラン!
金属音が住宅街に響く。
二体の感染者は一斉に音の方へ首を向け、そのまま歩き出した。
「やっぱり……」
蓮は息を呑む。間違いない。あいつらは視覚ではなく、音を追っている。
「今だ!」
男の子の手を掴み、その場から走り去った。
◇
十分ほど走った先。小さな神社の境内で二人は息を整えていた。男の子はまだ震えている。
「ありがとう……」
「怪我は?」
「足をひねっただけ……」
蓮は安心した。
「お父さんとお母さんは?」
その瞬間、男の子の表情が曇る。
「……分からない」
蓮は何も言えなかった。自分も同じだった。大切な人を失ったばかりだから。
「名前は?」
「翔太」
「俺は黒崎蓮」
翔太は小さく頷いた。その時だった。
神社の外から大きなエンジン音が聞こえる。蓮は翔太をかばいながら身構えた。
一台の大型トラックが神社の前で止まる。運転席から迷彩服の男が飛び降りた。三十代半ば、短く刈った髪、自衛隊の制服、肩には89式小銃。
男は周囲を一瞬で確認し、低い声で言った。
「君たち、生存者か」
蓮は警戒を解かない。
「あなたは?」
男は敬礼した。
「陸上自衛隊、三等陸曹・相馬拓真だ」
自衛隊。その言葉に、蓮の胸へわずかな希望が灯る。
「助けが来たんですか?」
相馬は一瞬だけ黙った。その沈黙だけで、蓮は何かを察した。
「……違う」
相馬は静かに答える。
「助けに来たんじゃない」
「え?」
「生き残った人を集めている」
「基地へ?」
「違う」
相馬は首を振る。
「基地は……もうない」
蓮は言葉を失った。
「そんな……」
「各地で壊滅した」
相馬の表情には疲労が滲んでいた。
「俺たちも命令系統を失った」
その言葉は重かった。国を守る存在。最後の希望だと思っていた存在。その自衛隊ですら、世界を救えなかった。
相馬は蓮を見つめる。
「それでも生きるしかない」
その一言が、蓮の胸に深く刺さる。
◇
その日の夕方、相馬の案内で、蓮と翔太は次の避難場所へ向かうことになる。希望は、まだ消えていない。
しかし、同時に。
「国家でも世界は救えない」
という現実が、ゆっくりと姿を現し始めていた。
蓮は空を見上げる。
雨は止み、雲の隙間から夕日が差していた。
「美咲……」
小さく呟く。
「俺、生きるよ」
「お前との約束だから」
その歩みは、まだ頼りない。
それでも。
黒崎蓮は初めて、自分の意思で未来へ向かって歩き始めた。