東京終焉   作:ゆきひな

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第7話 生きる意味

 雨が降っていた。東京の空を覆う鉛色の雲から、静かに、冷たく雨粒が落ちてくる。まるで街全体を洗い流そうとしているようだった。

 

 黒崎蓮は、一人で歩いていた。右手には金属製のバール。左肩には、小さなリュックサック。

 

 荷物はほとんどない。食料も、水も、あと数日分。

 

 そして、隣を歩いていたはずの人も、もういない。

 

 雨は、蓮の頬を濡らしていた。涙なのか、雨なのか、自分でも分からなかった。

 

 昨夜の出来事が何度も頭の中で繰り返される。

 

 美咲の笑顔。

 

 最後の「ありがとう」。

 

 そして、自分の手で彼女を終わらせた瞬間。

 

 蓮は足を止める。胸の奥が締めつけられる。

 

「……美咲」

 

 名前を呼んでも、返事は返ってこない。当然だった。もう、この世界のどこにもいない。

 

「……なんで俺だけ」

 

 小さく呟く。答える者はいない。

 

 

 蓮は住宅街へ入った。

 

 昨日まで人が暮らしていた場所。洗濯物が風に揺れている。庭先には植木鉢、玄関には子どもの自転車。そこに生活の痕跡はある。

 

 だが、人の気配だけがない。静かだった。静かすぎた。その静けさが、かえって恐怖を際立たせていた。

 

 突然、腹が鳴る。昨日からほとんど何も食べていない。

 

 コンビニを探そう。そう思って歩き出した時だった。

 

「……たすけて!」

 

 か細い声。

 

 蓮は反射的に振り返る。

 

 細い路地の奥。小学生くらいの男の子が転んでいた。足を押さえながら必死に立ち上がろうとしている。

 

 その十メートルほど先。三体の感染者が、ゆっくりと男の子へ近づいていた。蓮の足が止まる。

 

 頭の中で二つの声がぶつかる。

 

 行け。

 

 もう関わるな。

 

 助けに行けば、自分も死ぬかもしれない。昨日までなら迷わなかった。

 

 だが今は違う。美咲を失った。もう誰も守れなかった。何もかも終わった。そんな思いが蓮の身体を縛りつける。

 

「……っ」

 

 男の子が泣きながらこちらを見る。その目が美咲と重なった。

 

『蓮くんは、誰かを守れる人だよ』

 

 最後の言葉が耳に蘇る。

 

「……くそっ!」

 

 蓮は地面を蹴った。全力で走る。感染者は足が遅い。だが、一度捕まれば終わりだ。

 

 蓮は一番後ろの感染者へ向かって、バールを振り下ろした。

 

 鈍い音が響く。感染者は倒れるが、まだ動いている。頭が潰れていない。

 

「倒れろ!」

 

 もう一度、全身の力を込めて振り下ろす。頭蓋が砕ける感触。

 

 感染者は動きを止めた。残る二体が、音に反応して振り返る。

 

「こっちだ!」

 

 蓮はわざと叫ぶ。

 

 感染者が男の子から離れ、自分へ向かってくる。

 

 その隙に男の子が這うように逃げた。

 

 蓮は後退しながら周囲を見る。道路脇に転がる空き缶、近くには自動販売機。

 

 ふと、気づいたことを思い出す。音に反応する。

 

 蓮は空き缶を拾い、思い切り遠くへ投げた。

 

 ガラン、ガラン、ガラン!

 

 金属音が住宅街に響く。

 

 二体の感染者は一斉に音の方へ首を向け、そのまま歩き出した。

 

「やっぱり……」

 

 蓮は息を呑む。間違いない。あいつらは視覚ではなく、音を追っている。

 

「今だ!」

 

 男の子の手を掴み、その場から走り去った。

 

 

 十分ほど走った先。小さな神社の境内で二人は息を整えていた。男の子はまだ震えている。

 

「ありがとう……」

 

「怪我は?」

 

「足をひねっただけ……」

 

 蓮は安心した。

 

「お父さんとお母さんは?」

 

 その瞬間、男の子の表情が曇る。

 

「……分からない」

 

 蓮は何も言えなかった。自分も同じだった。大切な人を失ったばかりだから。

 

「名前は?」

 

「翔太」

 

「俺は黒崎蓮」

 

 翔太は小さく頷いた。その時だった。

 

 神社の外から大きなエンジン音が聞こえる。蓮は翔太をかばいながら身構えた。

 

 一台の大型トラックが神社の前で止まる。運転席から迷彩服の男が飛び降りた。三十代半ば、短く刈った髪、自衛隊の制服、肩には89式小銃。

 

 男は周囲を一瞬で確認し、低い声で言った。

 

「君たち、生存者か」

 

 蓮は警戒を解かない。

 

「あなたは?」

 

 男は敬礼した。

 

「陸上自衛隊、三等陸曹・相馬拓真だ」

 

 自衛隊。その言葉に、蓮の胸へわずかな希望が灯る。

 

「助けが来たんですか?」

 

 相馬は一瞬だけ黙った。その沈黙だけで、蓮は何かを察した。

 

「……違う」

 

 相馬は静かに答える。

 

「助けに来たんじゃない」

 

「え?」

 

「生き残った人を集めている」

 

「基地へ?」

 

「違う」

 

 相馬は首を振る。

 

「基地は……もうない」

 

 蓮は言葉を失った。

 

「そんな……」

 

「各地で壊滅した」

 

 相馬の表情には疲労が滲んでいた。

 

「俺たちも命令系統を失った」

 

 その言葉は重かった。国を守る存在。最後の希望だと思っていた存在。その自衛隊ですら、世界を救えなかった。

 

 相馬は蓮を見つめる。

 

「それでも生きるしかない」

 

 その一言が、蓮の胸に深く刺さる。

 

 

 その日の夕方、相馬の案内で、蓮と翔太は次の避難場所へ向かうことになる。希望は、まだ消えていない。

 

 しかし、同時に。

 

「国家でも世界は救えない」

 

という現実が、ゆっくりと姿を現し始めていた。

 

蓮は空を見上げる。

 

雨は止み、雲の隙間から夕日が差していた。

 

「美咲……」

 

小さく呟く。

 

「俺、生きるよ」

 

「お前との約束だから」

 

その歩みは、まだ頼りない。

 

それでも。

 

黒崎蓮は初めて、自分の意思で未来へ向かって歩き始めた。

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