東京終焉   作:ゆきひな

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第9話 選別

 朝の校舎は、不気味なほど静かだった。

 

 かつては生徒たちの笑い声や足音で満たされていた場所。廊下を走るなと教師が注意する声、教室から漏れる雑談、部活動へ向かう生徒たちの声。

 

 そんな日常は、もう存在しない。今、この場所にあるのは生き残るための緊張感だけだった。

 

 黒崎蓮は、体育館の隅で目を覚ました。毛布一枚、硬い床。

 

 決して快適とは言えない。それでも、数日前までの状況を考えれば、贅沢だった。

 

 雨風をしのげる、食料がある、仲間がいる。そして何より、眠っている間に襲われる心配がない。

 

 ……本当にそうなら。

 

 蓮は身体を起こし、周囲を見渡した。

 

 体育館には約八十人ほどの避難者がいる。老人、子供、怪我をした人、家族を失った人。それぞれが、それぞれの絶望を抱えていた。

 

 その中に一人だけ、異質な存在がいた。

 

「おはようございます」

 

 声をかけてきたのは、朝倉悠真だった。昨日と同じように、腰にはナイフ。背中には大きなリュック。高校生とは思えない装備だった。

 

「眠れましたか?」

 

「まあ……なんとか」

 

 蓮は苦笑する。

 

「悠真くんは?」

 

「僕は慣れてます」

 

「慣れてる?」

 

「危険な場所で寝る練習」

 

 さらりと言う。

 

 蓮は思わず聞き返した。

 

「そんな練習してたの?」

 

「はい」

 

 悠真は真顔で答える。

 

「キャンプとか、サバイバル動画を見るのが好きだったので」

 

「本当に好きだったんだな」

 

「はい」

 

 少しだけ笑う。

 

「でも……」

 

 悠真の表情が曇った。

 

「本当に役に立つ日が来るとは思いませんでした」

 

 その言葉に、蓮は何も返せなかった。

 

 好きだったものが、趣味だったものが突然、生きるための技術になる。そんな世界を誰が望んだのだろう。

 

 

「朝食です」

 

 避難所の中央で声が響いた。

 

 配られるのは、小さなおにぎり一つと水。以前なら一食にも満たない量。

 

 しかし、誰も文句を言わなかった。言える状況ではなかった。

 

 食料が有限であることを、全員が理解していた。

 

 蓮は受け取ったおにぎりを見る。小さい。だが、作ってくれた人の苦労は分かる。

 

「ありがとうございます」

 

 配給をしていた女性へ声をかける。

 

 女性は疲れた笑顔を見せた。

 

「いいんです」

 

「でも……」

 

「こういう時だからこそ、普通のことをしたいんです」

 

 その言葉が印象に残った。

 

 世界が壊れても人間は完全には変わらない。誰かを思いやる気持ちは残る。

 

 蓮はそう思った。

 

 しかし、その希望は長くは続かなかった。

 

 

 午前十時、避難所の会議が開かれた。

 

 場所は職員室。

 

 集まったのは避難所リーダーの田所、自衛官の相馬、高校生の悠真。医療担当の神崎澪。そして蓮。

 

「問題があります」

 

 田所が口を開いた。

 

 机の上には食料管理表。数字が並んでいる。

 

「現在の備蓄では、全員分を維持できません」

 

 空気が重くなる。

 

「何日ですか」

 

 相馬が聞く。

 

「……五日」

 

 沈黙。

 

「五日後には、食料が尽きます」

 

 田所は続ける。

 

「近隣のスーパーや倉庫を探す必要があります」

 

「なら俺が行く」

 

 相馬が即答する。

 

 田所は頷いた。

 

「お願いします」

 

 しかし、悠真が口を挟む。

 

「問題があります」

 

「何だ」

 

 相馬が見る。

 

「この周辺の大型店舗は、すでに他の生存者が探索している可能性があります」

 

 悠真は地図を広げる。

 

「そして、音を出せば感染者が集まります」

 

 全員が黙る。

 

 簡単な物資調達ではない。命懸けの作業だ。

 

「少人数で行くべきです」

 

 悠真が言う。

 

「人数が多いほど危険になります」

 

 田所は考え込む。

 

「しかし」

 

 別の避難者が言った。

 

「失敗したら?」

 

「……」

 

「戻ってこなかったら?」

 

 不安の声。

 

 それは当然だった。

 

 誰も死にたくない。

 

 誰も大切な人を失いたくない。

 

 相馬は静かに言った。

 

「誰かが行かなければならない」

 

 その言葉に誰も反論できなかった。

 

 

 会議後、蓮は校舎の廊下を歩いていた。

 

 窓の外を見る。

 

 校庭には子供たちがいる。笑顔はない。でも、ボールを転がして遊んでいる。少しでも普通の日常を取り戻そうとしている。

 

「優しいですね」

 

 後ろから声がした。

 

 振り返る。

 

 神崎澪だった。白衣代わりのジャージ。首から下げた医療用ライト。疲れているはずなのに、姿勢はまっすぐだった。

 

「何がですか?」

 

「子供たちを見る顔」

 

 蓮は少し驚く。

 

「そんな顔してました?」

 

「はい」

 

 澪は小さく笑う。

 

「守りたいって顔です」

 

 蓮は視線を逸らした。

 

「……守れなかった人もいます」

 

 澪の表情が変わる。

 

「大切な人ですか」

 

 蓮は答えなかった。でも、澪には伝わった。

 

「私も」

 

 澪が静かに言う。

 

「守れませんでした」

 

 蓮が見る。

 

「家族?」

 

「はい」

 

 短い返事。その声には深い悲しみがあった。

 

「感染が広がった時、私は病院にいました」

 

 澪は窓の外を見る。

 

「医療スタッフとして、患者を助けようとしていました」

 

「……」

 

「でも」

 

 拳を握る。

 

「目の前の患者を助けることに必死で」

 

「家族を探しに行くのが遅れました」

 

 蓮は黙って聞いていた。

 

「最後に電話が繋がった時」

 

 澪の声が震える。

 

「母が言ったんです」

 

「『あなたは人を助けなさい』って」

 

 少し笑う。

 

「でも」

 

「私は……母を助けられませんでした」

 

 蓮は初めて澪が強いだけの人間ではないと知った。この人も傷ついている。それでも立っている。

 

「だから」

 

 澪は蓮を見る。

 

「あなたが羨ましいです」

 

「え?」

 

「最後まで一緒にいられたんですよね」

 

 蓮の胸が締め付けられる。美咲、最後の時間、約束。

 

「辛いです」

 

 澪は続ける。

 

「でも」

 

「それは、とても大切なことだと思います」

 

 蓮は何も言えなかった。

 

 

 午後、物資探索のメンバーが決まった。相馬、蓮、悠真。

 

 そして、もう一人。

 

「俺も行く」

 

 名乗り出たのは、避難者の男性だった。三十代、元消防士だという。

 

「外の経験がある」

 

 相馬は少し考え、頷いた。

 

「分かった」

 

 四人で行動することになる。

 

 出発前、悠真が装備を確認していた。

 

「蓮さん」

 

「何?」

 

「これ」

 

 渡されたのは、小さな鈴だった。

 

「鈴?」

 

「音を利用します」

 

 悠真は説明する。

 

「感染者は音に反応する」

 

「だから、こちらから音を制御する」

 

 蓮は頷く。

 

 この少年は本当に生き残ることだけを考えている。

 

「怖くないのか?」

 

 思わず聞いた。

 

 悠真は少し黙る。

 

「怖いですよ」

 

 意外な答え。

 

「毎日怖いです」

 

「……」

 

「でも」

 

 悠真はリュックを背負う。

 

「怖いから準備するんです」

 

 その言葉に蓮は少し救われた気がした。

 

 

 夕方、出発の時間。

 

 校門前で相馬が最後に全員を見る。

 

「戻ってくる」

 

 短い言葉。しかし、それは約束だった。

 

 蓮は校舎を見る。

 

 そこには澪が立っていた。

 

 目が合う。

 

 澪は小さく頷いた。

 

 気をつけて。

 

 そう言っているようだった。

 

 蓮も頷き返す。

 

 そして、四人は東京の街へ向かって歩き出した。

 

 まだ誰も知らない。

 

 この探索が避難所の未来を大きく変えることを。

 

 そして、帰ってきた時、この場所がもう以前の避難所ではなくなっていることを。

 

 

 夕暮れの東京、四人の足音だけが、静まり返った道路に響いていた。

 

 目的地は、避難所から約二キロ離れた大型スーパー。そこには、まだ大量の商品が残されている可能性があった。

 

 もちろん可能性でしかない。この世界では「あるかもしれない」という希望ほど、危険なものはなかった。

 

「止まって」

 

 先頭を歩いていた悠真が、小さく手を上げた。

 

 三人が足を止める。

 

「前方、十体以上います」

 

 蓮は目を凝らす。

 

 確かに道路の先、数体の感染者がゆっくり歩いていた。以前なら人混みの中に紛れてしまうような存在。しかし、今は東京の街を支配する怪物だった。

 

「迂回するか」

 

 相馬が聞く。

 

 悠真は周囲を見る。

 

「右は住宅街」

 

「左は狭い路地」

 

「どちらも危険です」

 

「なら?」

 

 蓮が聞く。

 

 悠真は少し考えた。

 

「誘導します」

 

 そう言って、リュックから小さな袋を取り出した。中にはビー玉や金属片。

 

「それをどうするんだ?」

 

 蓮が聞く。

 

「音を出します」

 

 悠真は説明する。

 

「感染者は音源へ向かう」

 

「でも、投げた場所までしか移動しません」

 

「だから……」

 

 悠真は道路の奥を見る。

 

「目的地とは逆方向へ誘導する」

 

 相馬が感心したように頷いた。

 

「よく考えているな」

 

「生きるためです」

 

 悠真は答えた。

 

 その表情には、高校生らしい幼さはなかった。生き残るために何かを捨てた顔だった。

 

 

 作戦は成功した。

 

 悠真が投げた金属片が道路の奥で音を立てる。感染者たちは一斉に反応した。ゆっくり、しかし確実に音の方向へ歩いていく。

 

「今だ」

 

 相馬が合図する。

 

 四人は静かに横を通り抜けた。

 

 蓮は思った。戦うだけではない。逃げる、隠れる、利用する。それも生き残るための力だ。

 

 美咲がいたらきっと驚いただろう。何もできなかった自分が少しずつ変わっている。そう感じた。

 

 

 大型スーパーに到着した時、入口のシャッターは半分開いていた。中は暗い。

 

「誰か入った形跡があります」

 

 悠真がしゃがみ込む。床を見る。足跡、台車の跡。

 

「最近まで誰かいた」

 

 相馬の表情が険しくなる。

 

「警戒する」

 

 四人は慎重に中へ入った。

 

 店内は荒れていた。棚は倒れ、商品は散乱、床には血の跡。しかし、食料は残っていた。缶詰、水、保存食。十分な量がある

 

「これなら……」

 

 高木が呟く。

 

「避難所をしばらく維持できる」

 

 その瞬間だった。

 

 ガタン。

 

 奥から音がした。全員が振り返る。

 

 相馬が銃を構える。

 

「誰だ」

 

 返事はない。

 

 数秒、沈黙。

 

 そして。

 

「……助けて」

 

 女性の声。

 

 蓮が驚く。

 

「生存者?」

 

 しかし、相馬は警戒を解かない。

 

「待て」

 

 奥から現れたのは、若い女性だった。服は汚れている。顔には疲労。しかし、人間だった。

 

「お願いします……」

 

「仲間が……」

 

 女性は震えながら言った。

 

「奥にいます」

 

 四人は顔を見合わせる。

 

 助けるべきか、危険か。一瞬の判断。

 

「行く」

 

 蓮が言った。

 

 相馬を見る。

 

「黒崎」

 

「困っている人がいるなら」

 

 蓮は言う。

 

「助けたいです」

 

 相馬は少し黙った。そして、小さく頷いた。

 

「分かった」

 

 

 スーパーの倉庫。

 

 そこには三人の生存者がいた。一人は足を負傷、一人は高齢男性。そして、もう一人は小さな男の子だった。

 

「ありがとう……」

 

 女性は泣きながら頭を下げる。

 

「本当にありがとう」

 

 蓮は男の子を見る。

 

 震えている。その姿に以前助けた翔太を思い出した。

 

「大丈夫」

 

 蓮は優しく声をかける。

 

「もう大丈夫だから」

 

 しかし、その時、高木が叫んだ。

 

「待て!」

 

 全員が振り返る。

 

 高木の視線は、負傷した男性へ向いていた。

 

「その足……」

 

 男性の足には布が巻かれている。

 

 しかし、そこから黒い血が滲んでいた。

 

 相馬の顔が変わる。

 

「外せ」

 

 男性は怯える。

 

「何を……」

 

「包帯を外せ」

 

 低い声。

 

 数秒後、包帯の下が見える。そこには歯形、感染者の噛み跡。空気が凍った。

 

「違う!」

 

 男性が叫ぶ。

 

「さっき噛まれたんだ!」

 

「まだ大丈夫だ!」

 

 相馬は銃を下げない。

 

「いつだ」

 

「……」

 

「いつ噛まれた」

 

 沈黙。

 

 答えが何よりの証拠だった。

 

「嘘をついていたのか」

 

 高木が怒る。

 

「仕方なかった!」

 

 男性は叫んだ。

 

「言ったら置いていかれる!」

 

 その言葉、蓮には理解できてしまった。怖かったのだ。死ぬのが、一人になるのが。

 

 だから隠した。誰だって同じ状況なら、そうするかもしれない。

 

「どうする」

 

 相馬が言う。

 

 誰に向けた言葉か分からない。

 

 蓮は黙った。判断できない。この人を助けたい。

 

 でも、もし変異したら、ここにいる全員が危険になる。

 

「……時間がない」

 

 悠真が小さく言った。冷静な声。

 

「感染者になる前に決めないと」

 

 蓮の胸が痛む。決める。

 

誰を生かすか、誰を切り捨てるか。そんな権利が自分たちにあるのか。

 

 

 その時、店内から大きな音が響いた。

 

 ガシャーン!!

 

 入口のガラスが割れる。

 

「感染者!」

 

 誰かが叫ぶ。

 

 音に反応した大量の感染者が、店内へ入ってくる。

 

「逃げるぞ!」

 

 相馬が叫ぶ。

 

 全員が走る。

 

 しかし、負傷した男性は動けない。

 

「待ってくれ!」

 

 叫び声。

 

 蓮は振り返る。

 

 男性と目が合う。恐怖、絶望、助けを求める目。

 

 一瞬、蓮の足が止まった。

 

 美咲だったら、どうするだろう。

 

 きっと、助けようとする。

 

 でも、今は違う。蓮には守るべき人がいる。生き残る責任がある。

 

 蓮は拳を握る。

 

「……ごめん」

 

 その言葉を残し、走った。

 

 

 店の外。

 

 四人は何とか脱出した。

 

 背後から悲鳴が聞こえる。

 

 誰も振り返らなかった。

 

 しばらくして高木が口を開く。

 

「……慣れるのかね」

 

「何が」

 

 蓮が聞く。

 

「こういう判断に」

 

 沈黙。

 

 相馬が答えた。

 

「慣れるな」

 

 意外な答えだった。

 

「慣れたら終わりだ」

 

 相馬は続ける。

 

「人を切り捨てることを当然だと思った時」

 

「俺たちは感染者と同じになる」

 

 その言葉に蓮は救われた気がした。正解なんてない。でも、苦しむ心だけは失ってはいけない。

 

 

 夜、四人は高校へ戻った。

 

 大量の食料。

 

 避難所にとって大きな成果だった。

 

 しかし、蓮の心は晴れなかった。

 

 校舎の屋上、また一人で夜空を見る。

 

「……助けられなかった」

 

 呟く。

 

「それでいいんです」

 

 後ろから声。

 

 澪だった。

 

「神崎さん」

 

 澪は隣に立つ。

 

「今日、何があったか聞きました」

 

「……」

 

「辛かったですね」

 

 蓮は空を見る。

 

「俺は」

 

「また間違えた気がします」

 

 澪は首を振る。

 

「違います」

 

「じゃあ何ですか」

 

「苦しんでいることです」

 

 澪は静かに言った。

 

「それは、人間でいる証拠です」

 

 蓮は黙る。

 

「本当に怖い人は」

 

 澪は続ける。

 

「何も感じなくなる人です」

 

 その言葉、蓮は忘れないと思った。

 

 

 一方、避難所の食料庫。

 

 田所は一人で在庫を確認していた。大量の食料。これでしばらくは大丈夫。そう思った。

 

 しかし、避難者の人数、消費量、今後増える可能性。計算すればするほど現実は厳しかった。

 

「……全員は守れない」

 

 田所は呟く。

 

 その顔から昨日までの優しいリーダーの表情が少しずつ消えていた。そして、彼の中である考えが芽生え始めていた。

 

 ――生き残るためには、犠牲が必要なのではないか。

 

 それが後に避難所を大きく変えることになるとはまだ誰も知らなかった。

 

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