機内は、思っていたより静かだった。
エンジンの低い唸りと、どこかの席で新聞をめくる音。聞こえるのは、それくらいだ。耳元で何かを喋り続ける声も、視界の端でちらちらと光る画面も、今日はなかった。
眼下には、白い雲がどこまでも敷き詰められている。空を飛ぶのは、初めてではない。けれど、フライゴンの背中で浴びた風は、こんなに行儀よくはなかった。ここでは窓は開かないし、風の心地よさも匂いもしない。
膝の上の鞄を、もう一度確かめる。中には、窓口へ送ったのと同じ資料の控えと、文字の書き取りを続けているノートが入っている。
前の仕事を辞めてから一度も袖を通していなかった久しぶりのスーツは、肩のあたりが少し窮屈だった。
匿名で送ったつもりの資料が、ずいぶんなところへ届いてしまったものだと思う。
中津防衛大臣とは、一度だけ会ったことがある。兄さんの葬式の日だった。
あの日のことは、ほとんど覚えていない。誰に何を言われても、言葉は耳の手前で止まって、中まで入ってこなかった。誰に何を言ったのかも、どんな顔をしていたのかも、思い出せない。
あとになって、秘書を通じて名刺が届いた。何かあれば、と添えられていた。
その番号に電話をかけたことはある。けれど、その電話も、あの一週間と一緒になかったことになっていた。
今回の連絡を受けてからは、話が驚くほど早く進んだ。
電話口の中津は、こちらから伺います、と言った。人を向かわせてもいい、とも。だがそれを断って、東京へは自分から行くと答えた。
家に来られるのは、困る。
理由は、それだけで足りた。
翌日には、秘書官から日程の候補が届いた。その次の日には、往復の航空券が手配されていた。空港には迎えを出すこと。帰りは夕方の便で構わないか。ひとつ尋ねられるたびに、ひとつ予定が埋まっていく。気づけば、日廻が自分で決めたことは、行くと答えたことくらいしか残っていなかった。
家を出たのは、まだ朝日も昇っていない薄暗いうちだった。
玄関まで見送りに来たロトムは、最後まで食い下がった。
『やっぱり、一緒に行くロト!』
「今回は留守番だ」
『でも、日廻ひとりじゃ――』
「俺ひとりで行く。こっちの世界じゃ、ポケモンという生き物の名前すら誰も知らない」
向こうの政府に当てにされているロトムを、今度はこっちの政府の前へ連れていく。その気には、どうしてもなれなかった。
畑班は、まだ寝床で丸くなっていた。アブソルだけが、縁側の端から黙ってこちらを見ていた。
「夕飯までには帰るから」
炊飯器の予約は、夕方に合わせてある。朝と昼の分は、冷蔵庫に作り置きを入れてきた。行き先も、皆に伝えてあった。東京の、市ヶ谷というところにある防衛省。
『……ぜったいロト?』
「善処する」
ロトムの何か言いたそうな顔を思い出しながら、日廻は窓の外の雲を眺めた。
肌身離さずに持っている鞄の中にある教材のことなら、話せる。
どうやって作って、誰に確かめたのか。そのくらいは、聞かれれば答えるつもりでいた。
「……夕方、家に帰れたらいいな」
機体が、ゆるく傾いた。降下を告げる放送が、静かな機内に流れた。
◇◆◇
預けた荷物はなかったから、到着口を出るのに手間はかからなかった。
自動扉を抜けた先のロビーは、出迎えの人や行き先を確かめる人でごった返していた。その人混みの中から、二人が真っすぐにこちらへ歩いてくる。濃い色のスーツに、揃って姿勢のいい二人だった。
「榊原日廻さんですね」
片方が、声を落として言った。
「防衛省の者です。お迎えに上がりました」
身分証が示され、日廻のほうも名前と生年月日を確かめられた。差し出した運転免許証が、丁寧に両手で返ってくる。
「お荷物、お持ちします」
「いえ、これは」
鞄を抱え直すと、相手はそれ以上は言わなかった。代わりに、もう一人がすでに先に立って歩き出している。案内されて外へ出ると、黒い車が横付けされていた。後部座席の扉が開けられ、乗り込むと、隣に一人、助手席に一人が収まる。扉が閉まり、車は滑るように走り出した。
丁寧に扱われていることは、わかる。けれど、到着してからここまで、日廻が自分で選んだものはひとつもなかった。扉を開けたのも、行き先を告げたのも、相手のほうだ。
連行、という言葉が、ふと頭に浮かんだ。
窓の外を、東京の街が流れていく。高い建物が隙間なく並び、広い道を車が埋め、歩道を人が行き交っている。鞄を提げて急ぐ人。立ち止まって電話をかける人。信号を待つ人。
人しかいない、と思った。
ポケモンと暮らすようになる前は、街に人しかいないことを、不思議に思ったことなどなかった。それなのに今は、人の足元や店先の軒下に、つい目が行ってしまう。そこにいるはずの小さな影を、探してしまう。
いつの間にか、そういう目になっていた。
車はやがて、市ヶ谷の門をくぐった。
まさか、こんなところへ来る日があるとは思わなかった。
用意されていた入館証を首から下げる。迎えの二人に挟まれたまま、長い廊下を歩いた。磨かれた床に、靴音がやけに大きく響く。そのたびに、鞄の取っ手を握る手に力がこもった。
通されたのは、窓がない小さな会議室だった。
楕円の机に、椅子が数脚。壁際には、何も映っていない大きな画面。
部屋には、すでに三人が待っていた。
「秘書官の日坂です。本日はよろしくお願いいたします」
電話で聞いた声だった。もうひとりは、付箋だらけの紙の束を抱えた担当者で、日廻の顔と手元の鞄を交互に見比べている。
そして、机の奥の席から、中津が立ち上がった。
「お越しいただいて、ありがとうございます、榊原さん」
中津は、そこで一度、言葉を切った。
「……お元気そうで、よかった」
日廻は、黙って頭を下げた。何と返せばいいのか、わからなかった。
「窓口に届いた資料の送り主があなただとわかったときは……正直に申し上げて、驚きました」
「……名前も書かずに、すみません」
「いえ」
勧められた椅子に腰を下ろすと、秘書官が手帳を開いた。
「本日のお話は、記録を取らせていただきます。お帰りは、ひとまず夕方の便を押さえています」
「構いません。……ただ、夕飯を作らないといけないので、それまでには帰らせていただけると、ありがたいです」
口にしてから、場違いな理由だったと気づいた。
秘書官のペンが、一瞬だけ止まった。中津が、目を上げた。何かを問いかけるような目だったが、口には出さなかった。
「では、それに間に合うように」
中津はそう言って、担当者のほうへ目で合図を送った。
担当者が、資料の束を机に広げた。日廻が送ったものを刷り出し、綴じ直したものだった。自宅のプリンターから吐き出されてきたときより、ずっと整って見える。どの頁にも、色の違う付箋がびっしりと貼られていた。
「情報本部の
担当者は、一枚の紙を日廻のほうへ滑らせた。太陽の絵と、向こうの文字で書かれた言葉。その下に、ひらがなの読みと、日本語の「太陽」が並んでいる。
「向こうから最初に届いた資料の中に、恒星と惑星を描いた図がありました。その中心の円の横に、添えられていた字があります」
小鳥遊が、別の紙を重ねた。粗い線で描かれた円と、その周りを回る点。円の横に、短い文字の並びがあった。
日廻の表にある、太陽の語と同じ並びだった。
「ほかにも、いくつか。数の表も、こちらで先に解析が進んでいた数の規則と、矛盾しませんでした」
小鳥遊は、そこで顔を上げた。
「この表には、実際の手掛かりがあります。……だからこそ、お聞きしたいんです。これを、どこで、どうやって作られたのか」
日廻は、鞄からノートを取り出した。
「元にしたのは、向こうの子ども向けの教材です。字を覚えるための表とか、絵と名前が並んでいる本とか」
ノートを開いて、机の上に置く。升目の中に、鉤のような線と小さな丸を組み合わせた字が、行ごとに並んでいる。どれも少しずつ傾きが違い、何度も消しては書き直した跡が残っていた。
「自分も、これで字を覚えている途中です。……まだ、ほとんど読めませんけど」
小鳥遊が、ノートを覗き込んだ。その目が、升目をひとつずつ追っていく。
「日本語の意味は、どなたが」
「それは自分が。絵に一番近い日本語を選びました」
「では、向こうの言葉の読みと意味は」
日廻は、すぐには答えなかった。ひらがなで書き取った読み方。三度言い直された音。どういう意味の言葉なのかという説明。どれも、日廻ひとりでは、ひとつも用意できなかったものだ。
「……向こうの言葉がわかる者が、います」
「人ですか」
小鳥遊の問いに、部屋の空気がわずかに張り詰めた。ごまかすことは、できた。知り合いが、とでも言えばいい。
「……人じゃ、ありません」
日廻は、ノートの端を指で押さえた。
「ロトムといいます。向こうの世界の……ポケットモンスター、縮めてポケモンと呼ばれるものです」
「ポケモン、ですか」
中津が、その言葉を確かめるように繰り返した。
「……動物、と考えてよいのでしょうか」
日坂がペンを止めて尋ねた。
「そうですね……こっちで言う動物みたいなもの、だと思います」
答えてから、日廻は少し言葉を探した。
「ただ、向こうには、ポケモンじゃない動物がいないんです。人を除けば、犬も猫も、鳥も魚も……向こうでは、全部ポケモンという一括りなんだそうです」
「……全部。他の分類がされている動物が、一匹もいない、と?」
小鳥遊は何かを書きかけて、また手を止めた。どの欄に書けばいいのか、迷っているように見えた。
無理もない、と思う。日廻だって、最初はそうだった。
言葉の代わりに、とでもいうように、担当者は紙の束の下から一枚の写真を引き抜いた。
夕暮れの公園だった。ベンチに、子どもと、見たことのない姿の生き物が並んで座り、同じ方向を眺めている。
「向こうから届いた画像の一枚です。この、子どもの隣にいるのも」
「……はい。たぶん、そうです」
名前まではわからない。けれど、子どもの隣に当たり前のように座っているその距離は、よく知っていた。縁側で、畑で、居間で、毎日のように目にしている距離だった。
「向こうでは、人とポケモンが一緒に暮らしています。家でも、街でも、仕事でも。……普通なんだそうです」
中津が、写真を手元へ引き寄せた。しばらく、その一枚から目を離さなかった。
「ほかの画像にも、同じように写っていました。市場にも、食卓にも、工事の現場にも。こちらでは、それが何なのか、ずっとわからなかった」
写真から顔を上げて、中津は日廻を見た。
「榊原さん、そのロトムは今どちらに」
「……家に、います」
「私たちとも、日本語で話ができるのですか」
「はい。自分とは、毎日話してます」
答えてから、日廻は膝の上で手を握った。
家にいるのは、ロトムだけではない。それを言わずに済ませることも、できたかもしれない。
日廻は、スーツの内ポケットから携帯を取り出した。画面に触れると、ホーム画面が明るくなる。
この世界ではなかったことになっていても、あの決戦の前日に、みんなの姿を撮った集合写真。まだ現像はできないけど、とロトムがデータをコピーして、日廻の端末に送ってくれた思い出の写真だった。
「……これを、見てください」
机の上に、携帯を置く。小鳥遊が身を乗り出し、日坂も手帳を持ったまま覗き込んだ。
「これは……」
「うちで、一緒に暮らしてる連中です」
やがて画面が暗くなると、日廻は携帯を引き寄せ、伏せて机の端に置いた。
中津は、指先で机をとん、とんと何度か叩いてから、顔を上げた。
「……榊原さん。ひとつ、こちらからもお伝えしておきたいことがあります」
「大臣、それは――」
日坂が、短く声を挟んだ。中津は、片手でそれを制した。
「構いません」
中津は、日廻に向き直った。
「向こうの星からは、こちらの呼びかけに応える形で、画像が届いています。その返信のうち、日本へ宛てたものだけが、少しずつ正確になってきている。こちらの問いかけに、ぴたりと合う写真が返ってくるようになったんです。ほかの国には、まだそういう変化は見られません」
机の上で、中津は指を組んだ。
「あなたの言うロトムが、こちらの言葉を、向こうへ伝えているのではありませんか」
日廻は、息を詰めた。
ごまかせる相手では、なかった。
「……大臣のおっしゃるとおりです」
小鳥遊のペンが、紙の上で止まった。
「ロトムは、日本語の基礎的な対応表を作って、向こうに渡しています。自分も、それを知ったのは、つい最近です」
一度、息を整えてから続ける。
「正直、この国の安全に関わることになるかもしれない、とも考えました。でも、ロトムは、自分で協力すると決めていました。自分が嫌だからというだけで、やめろとは言えませんでした」
甘い理由だと、自分でも思う。それでも、本当のことだった。
「そのかわり、あれからは、何を渡しているのか、目を通すようにしています。誰でも見られるものだけだと、ロトムは言っていますし、自分が見た限りでも、そうでした」
中津は、黙ってそれを聞いていた。
「方法については、また改めて伺います」
それだけ言って、中津は話を先へ進めた。
「これまで、私たちに知らせようとは、思われなかったのですか」
「……知らせたあと、どうなるのかわからなかったので。あいつらのことも、家のことも」
「それで、資料だけを」
「はい。それなら、自分たちのことを出さなくても、役には立つかと」
口にしてから、机の上の資料を見る。
今は、そのど真ん中に、自分が座っていた。
「それでも、今日は来てくださった」
「自分が送ったものですから。作った本人が説明しないのも、おかしいでしょう」
中津の口もとが、ふっと緩んだように見えた。
「では、もう少しだけ、伺わせてください」
小鳥遊が、新しい紙を一枚めくった。
「そもそも、そうした存在が、どうして榊原さんのところに」
「……向こうの世界で、大きな災害がありました」
言葉を選びながら、日廻は口を開いた。
「その災害から逃れてきた、怪我をしたポケモンたちと出会って……家に連れて帰ったのが、始まりです。もう終結はしまして、向こうの世界は復興中みたいです」
こっちの世界でも同じ災いがあったことは、言わなかった。
この星のあちこちに穴が開き、見たこともないものが溢れ出してきたことも。言ったところで、それを覚えている者は、この星には日廻しかいないことも。
「その災害は、どうやって終わったんですか」
ここから先は、機内で決めきれなかったところ。
黙っていることは、できる。わからない、と言えばいい。
実際、わかっていないことのほうが多い。
けれど、この人たちは、これから先も向こうの星と言葉を交わしていく。少しずつ相手を知ろうとしていく。そのとき、向こうの世界のいちばん奥にいるものを知らないままでいたら。
知らないせいで、取り返しのつかない誤解をすることだって、あるかもしれない。
それでも、口が重かった。
確かめてもらえた資料の話と、確かめようのない話。ここで後のほうを口にすれば、前のほうまで、作り話の側へ引きずられるかもしれない。
「……ここから先は、確かめようのない話になります」
付箋だらけの紙の束に、片手を載せる。
「構いません。確かめられたことと、これから伺うお話とは、分けて扱います。混ぜることはしません」
その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
「……人の力だけで、終わったわけじゃありません」
口に出してから、日廻は一度、唇を引き結んだ。
「最後に……会いました。向こうで、アルセウスと呼ばれている存在に」
担当者がペンを取り直し、確かめるようにゆっくりと、紙の上に片仮名を書きつけていく。
「アルセウス。……それも、ポケモンですか」
「たぶん、そうなんだと思います。でも、ほかのやつらとは、まるで違います」
どう言えばいいのか。日廻は一度、視線を落とした。
「向こうでは、世界を形づくったものだと……そう言われているらしいです」
中津は、何も言わなかった。机の上で組んだ指に、力がこもっただけだった。
「会った、というのは」
しばらくして、中津が口を開いた。
「実際に、言葉を交わしたということですか」
「……はい」
「何を、話したんですか」
日廻は、膝の上の手に目を落とした。
「……全部は、まだ話せません。自分自身のことも、あるので」
組んでいた指を、ゆっくりとほどく。
あの場所で交わした言葉は、覚えている。ただ、それをここで話したあと、どうなるのかまでは想像できなかった。
「それに、自分にもわからないことが多いんです。会って話したからといって、あの存在の力までわかったわけじゃありません。ただ自分がはっきりと言えるのは、向こうの災害の終わりに関わった、それだけは、はっきり言えます」
それ以上は、言わなかった。中津も、重ねては聞いてこなかった。代わりに、深く息を吐いた。
「信じる、信じないは、今ここでは申し上げられません」
その声は、静かだった。
「ただ、あなたがお持ちくださった表は、本物でした。その同じ方の話を、聞かなかったことにはできません」
中津が、日坂に何事かを耳打ちした。
すぐに部屋を出ていき、ほどなく戻ってくると、今度は中津に何事かを耳打ちした。中津は短く頷き、それから、日廻に向き直った。
「榊原さん。申し訳ありませんが、直接お話を伺いたいという者が、もう一人おります」
「……もうひとり、ですか」
「向こうと直接やり取りしている相手が、今もこちらにいる。この件は、防衛省だけで抱えてよい話ではありません。関係する者が、こちらへ向かっています」
「帰りの便が」
「便は、こちらで遅い時間に振り替えます」
日坂が、すかさず言った。手際のいい声だった。
「……振り替えても、夕飯には間に合いません」
「どなたか、代わりにお支度をお願いできる方は」
「人は、自分だけなので」
中津の目が、ほんのわずかに揺れた。
「家で、腹を空かせて待ってる連中がいるんです」
日廻の視線が、机の端に伏せた携帯へ落ちる。中津も、同じところを見た。
「……あの、写真の」
中津は、しばらく口を開かなかった。
「無理を申し上げているのは、承知しています」
頭を下げこそしなかったが、その声には、言い訳の色がなかった。
「それでも、今日のうちに聞いていただかなければならない。あなたが話してくださったことは、それだけのことです」
日廻は、返す言葉を探して、やめた。
ここにいる人たちの立場だったら、やはり帰さないだろう。それがわかるから、強くは言えなかった。
それに、自分で選んで口にしたことだ。半分だけ話して、あとは勝手に読み取ってくれと放り出して帰るわけにはいかなかった。
「……わかりました」
待つあいだ、小鳥遊がいくつか細かな確認をした。災害が起きたのは、どのくらい前のことか。ロトムは、こちらの言葉をどの程度話すのか。日廻は答えられることだけを答え、答えられないことには、わからないと答えた。
日坂が、新しい茶を運んできた。湯呑みの湯気が消えて、ようやく口をつけられるほどに冷めても、話は終わらなかった。
机の端で、携帯が震えた。
断って、画面を返す。ホーム画面の写真の上に、ロトムからの通知がいくつも重なっていた。皆が腹を空かせていると伝えるもの。ヒメグマが炊飯器の前から動かないと訴えるもの。窓のない部屋で、どれほどの時間が流れていたのか、日廻はそこで初めて知った。
胸の内で、皆に詫びた。
――悪い、遅くなる。
そう打ち込んで、送信を押す。通知が消えると、皆で撮った写真が、また画面いっぱいに戻ってきた。
どうすればいいのか、わからなかった。
携帯を握ったまま、日廻は目を閉じた。
閉じた瞼の向こうで、明かりが一度だけ瞬いた。
誰かが、息を呑む気配がした。日廻は目を開け、机の向こうの何もない宙を見た。
空気が、ひび割れた。
そうとしか言いようがなかった。会議室の真ん中、楕円の机の上の宙に、細い光の筋が走る。筋は枝分かれし、絡まり合い、渦を巻くように丸く広がっていく。その縁の向こうで、見たことのない色が揺れていた。
椅子の脚が、床を擦る音が重なった。
「下がってください!」
日坂が、弾かれたように中津の前へ出る。小鳥遊の腕から紙の束が滑り落ち、付箋の色が床に散った。誰かが扉のほうへ叫んだ。
穴の奥から、黒い腕が現れた。
続いて、夜を固めたような黒い身体が、ぬっと這い出してくる。肩や腕のあちこちから、結晶に似たものが突き出していた。日廻はすぐに立ち上がり、誰よりも前に出た。
「待ってください! 自分の知ってる相手です!」
振り返らずに、それだけを叫んだ。
「――ネクロズマ!」
ほかの誰も見ていなかった。中津も、日坂も、扉の外から駆け込んでくる足音も。その顔は、名前を呼んだ日廻だけに向いていた。
「なんで来たんだ。……俺は、捕まってるわけじゃない。話をしてただけだ」
ネクロズマが、机を越えて近づいてくる。日廻は、空いている手を開いて見せた。
「帰りのことも、今――」
長い腕が、背中へ回った。
「おい、ちょっと待て」
もう片方の腕が、膝の裏へ差し込まれる。硬い感触に身体を支えられたと思った瞬間、足が床から離れた。
「まだ話が終わってない、大事な話が!」
ネクロズマは、喉の奥で低い音を響かせた。返事なのか、そうでないのかもわからない。ただ、その身体は、もう光の渦のほうへ向き直っていた。
穴の向こうに、見慣れた踏み石が見えた。
家の庭だった。縁側の明かりの中で、小さな影がいくつも、こちらを見上げている。
「榊原さん!」
抱えられたまま振り返ると、日坂の肩越しに、立ち上がった中津の顔が見えた。その目は、日廻を抱えた黒い影に釘付けになっていた。椅子の脚元には、日廻の鞄が置き去りにされている。
「すみません! すぐに連絡します!」
言い終える前に、黒い結晶が視界を遮った。
◇◆◇
踏み石に、足がついた。ついさっきまで耳を塞いでいた空調の音はなく、代わりに、いくつもの鳴き声が降ってくる。
『日廻!?』
縁側から、ロトムが飛び出してきた。それを追うように、次々とポケモン達が転がり出てくる。ヒメグマは最後に飛び降りて、そのまま日廻の脚にしがみついた。
『ど、どこから帰ってきたロト!?』
答える前に、白い影が日廻の前に立った。足元から顔まで、確かめるようにゆっくりとアブソルが見上げてくる。日廻が手を伸ばすと、その下へ、黙って頭を寄せてきた。
『夕飯までには帰るって、言っていたロト!』
「悪い、ただいま」
軒先の暗がりから、ミュウの声が降ってきた。
『遅いわよ。……それに、ずいぶん派手な帰り方ね』
胸元で、何かが揺れた。見下ろすと、防衛省の入館証が首から下がったままになっていた。鞄も、ノートも、資料も、あの会議室に置いてきてしまった。
日廻は、背後を振り返った。閉じていく光の渦の前に、ネクロズマがいた。
『ネクロズマ……? 今日は、一回も来てなかったロト』
ロトムが、不思議そうに画面の目を瞬かせた。
日廻は、ネクロズマの前まで歩いていった。
「迎えは、助かった」
ネクロズマは、動かない。
「でも、いきなりあんなところに出たら、皆が驚くだろ」
どこまで伝わっているのかは、わからない。日廻は、屈めたままの頭の結晶に、そっと手を添えた。
ちょうど、どうしていいかわからなくなったときだった。帰ると言った約束と、途中で放り出せない話のあいだで、身動きが取れなくなっていた。
それが、伝わったのだろうか。どうやって伝わったのかも、どうやってあの部屋を探し当てたのかも、わからない。聞いたところで、答えの返ってくる相手でもない。
「……俺が困ってたの、わかったのか」
日廻は、長く息を吐いた。
「向こうに説明しないといけない。少し、待っててくれ」
庭を横切りながら、日廻は会議室のことを考えた。説明の途中で部屋の真ん中に穴が開き、見たこともない生き物が入ってきた。その生き物は、誰が止めるのも構わずに、話をしていた相手を抱えて消えた。
向こうに残された人たちからすれば、そうとしか見えないはずだ。
ひどい見え方だと、自分でも思う。
「……あー、もう。何て言えば正解なんだよ。俺はともかくこっちはポケモンを知らないんだぞ。ただの一般人がファンタジーな世界観をどうやって納得できるように説明すればいいだよ」
足元で、ぐう、と音がした。
見下ろすと、ヒメグマが日廻の脚にしがみついたまま、訴えるように見上げていた。
「分かった、すぐにいくよ」
日廻は、縁側へ駆け上がった。台所へ飛び込むと、炊飯器が保温の明かりを灯していた。飯だけは、間に合ったらしい。
手の中に、まだ携帯を握りしめていたことに、そこで気づいた。
携帯を調理台の端に置き、上着を椅子の背に放って、前掛けを引っかける。コジョンドが棚の下から大鍋を引っ張り出し、チュリネが畑の青菜を籠に入れて運んでくる。冷蔵庫に伸びたヒメグマの手を、ピカチュウが引き戻していた。
鍋を火にかけてから、日廻は携帯を取り上げ、秘書官の番号を呼び出した。
呼び出し音は、一度も鳴り終わらなかった。
《――榊原さんですか!?》
日坂の声だった。昼間の落ち着いた調子が、どこかへ消えている。
「はい。……すみません、今は家です」
《家……》
電話の向こうで、短いやり取りが聞こえた。それから、相手が替わる気配がした。
《榊原さん》
中津だった。
《お怪我は。今、どちらにいらっしゃいますか》
「家です。怪我は、ありません」
《……そうですか》
中津の声から、ほんの少しだけ力が抜けた。
《本当に、ご自宅なんですね》
「はい。……さっきは、本当にすみませんでした」
携帯を耳と肩の間に挟み、青菜を洗いながら、日廻は言葉を探した。
「あれは、ネクロズマといいます。向こうの……ポケモンとは、少し違うんですけど。自分が呼んだわけじゃありません。迎えに来る約束も、していませんでした」
《あなたが呼んだのでは、ないのですね》
「はい。……たぶん、自分が困っていたのが、伝わったんだと思います。あいつの言葉は、自分にもロトムにもわからないので、たぶん、ですけど」
電話の向こうが、しばらく静かになった。
《今も、そちらに?》
「はい。庭にいます」
《同じことが起きないよう、伝えていただくことはできますか》
日廻は、ガラス戸の向こうの暗がりへ目をやった。黒い影は、縁側に触れない距離で、じっとこちらを向いている。
「伝えようとは、します。でも、言うとおりにしてくれるとは……約束できません」
正直に答えるしかなかった。
「ただ、何かを壊しに来たわけじゃありません。それだけは、間違いないと思います」
中津が、ゆっくりと息を吐く音がした。
《……こちらは、ご想像のとおりです。あの部屋にいた全員が、あれを見ています。鞄は、こちらでお預かりしています》
「……入館証も、首に下げたままです」
言ってから、間の抜けた報告だったと気づいた。電話の向こうで、中津が小さく咳払いをしたのが聞こえた。
「自分のほうから、連絡を絶つつもりはありません。今日の話の続きも、ちゃんとします」
鍋が煮立ち始めた。刻んだ青菜を放り込むと、湯気が一気に立ちのぼる。
《……音と声で分かります。本当に、夕飯だったんですね》
その声は、昼間の会議室で聞いたどの声よりも、柔らかかった。
「申し訳ございません……余計に、警戒させたと思います」
《何ができるのかわからない相手が突然、目の前に現れたんです。警戒はしますよ。しかも、防衛省の中で》
「……そうですよね」
台所の入口を、振り返る。
居間の座卓には、もう器が並んでいた。ニャスパーが運び、ピカチュウが並べ直したのだろう。その前に畑班が行儀よく座り、ヒメグマだけが、待ちきれずに身を乗り出している。フライゴンの大きな器まで、縁側の端に置かれていた。台所の入口にはアブソルが伏せ、天井近くではミュウが腕を組み、ロトムは、台所と居間の間をそわそわと行き来している。
ガラス戸の向こう、庭の暗がりには、黒い影がまだ立っていた。
昼間、あの会議室で、言葉を選んで、それでも半分も伝えられなかった気がする。動物みたいなものだ、と言うのが精一杯だった。ポケモンとは何なのか。どんなふうに一緒に暮らしているのか。机越しに、写真を挟んで、いくら説明しても、届かないものがある。
しかも、最後に見せてしまったのは、あれだった。
見れば、わかるのだ。怖い姿だけではないことも。こうして皆で、飯を待っていることも。
「……中津さん」
《はい》
「資料を一緒に作ったロトムも、家にいます。直接、日本語で話せます」
足元で、ヒメグマが日廻のズボンを引いた。いつの間に、台所まで来ていたのか。
「写真で見てもらった連中が、ここにいます。触ってもらっても、構いません。本人が嫌がらなければ、ですけど」
日廻は火を止めて、携帯を持ち直した。
「―――うちに、来ますか」