予定表にない移動を続ける防衛大臣の車を追ってここまで来たのは、半分は勘だった。
畑の向こうにある家の前には、黒い車が何台か止まっている。家の周りを護衛らしい者たちが固めているのは着いてすぐに分かったから、早瀬記者は林の奥から出ないと決めていた。
ファインダーの中では、作業着姿の若い男が、スーツの一団を畑へ案内していた。その中に中津の顔を見つけたとき、早瀬記者は自分の勘が外れていなかったことに笑みを浮かべた。現職の防衛大臣が、護衛まで連れて、人里離れた家の若者を訪ねている。理由が何であれ、それを裏づける写真が一枚あれば、記事はいくらでも膨らませられるはずだった。
作業小屋の陰から緑色の大きなものが起き上がったのは、そのときだった。初めは小屋の影が動いたのかと思ったが、それは長い首をもたげてから身を低くし、その首の付け根に、あの若い男がまたがった。次の瞬間には背中の薄い翼が広がり、緑の身体が土埃を巻き上げながら宙へ浮き上がる。記者の指は、考えるより先にシャッターを切っていた。人を乗せたまま、それは畑の上を大きく旋回し、その影が畝の上を滑っていった。
作り物にしては、動きに迷いがなさすぎた。機械なら羽ばたきの音はもっと硬いはずだし、中に人が入っているにしては大きすぎる。遠くから届く羽音はどこか歌声のようで、それがかえって現実味を奪っていたが、見間違いかどうかを確かめる方法なら手の中にあった。撮ったばかりの画像を呼び出し、緑の輪郭と、その背にしがみつく人影がはっきり写っているのを見て、記者は口の端を持ち上げた。
「これはスクープ待ったなしだな」
大臣が人目を避けて訪ねた家で、得体の知れない生き物が人を乗せて飛んでいる。足りないのは、あの若い男の顔がはっきり分かる一枚と、この家の場所が分かる一枚だけだった。それさえ載せてしまえば、ここがどこで誰が住んでいるのかは、読んだ人間たちが勝手に突き止めてくれる。その先でこの家がどうなろうと、知ったことではなかった。気づかれれば二度と近づけなくなるのだから、撮れるものは今日のうちに撮っておくしかなかった。
『やっぱり予定より早く帰ってきて良かったわ』
レンズを構え直そうとしたとき、視界の端を、薄桃色の何かがよぎった。
すぐ脇の、ちょうど目の高さに、小さな生き物が浮かんでいた。猫ほどの大きさの薄桃色の身体には、不釣り合いなほど大きな青い目がついていて、細く長い尾が、風もないのにゆっくりと揺れている。枝にも幹にも触れないまま宙にとどまって、それは首を傾げるようにして早瀬記者を眺めていた。
あまりに近かったせいで、早瀬記者は怖さより先に、妙に間の抜けた感心を覚えた。さっきの緑のものに比べれば、ずっと小さくて、ずっと柔らかそうに見える。これもあの家の生き物なのだとしたら、遠くから狙うより、ここで撮ってしまえばいい。相手を驚かせないよう、ゆっくりとカメラを持ち上げる。
『―――それさえ手に入れれば後はどうでもいい』
その声は、耳から入ってきたのではなかった。頭の内側に、誰かが言葉をそっと置いていったような感覚があり、早瀬記者は思わず辺りを見回したが、林の中には自分と目の前の小さな生き物しかいない。生き物の口は、少しも動いていなかった。
『全く、日廻もあの連中も甘いものね。誠実に対して誠実さが返ってくるわけじゃない。それに図に乗る連中がここにいることも分からずに』
持ち上げかけたカメラが、途中で止まった。言い当てられたことよりも、その声に咎める響きがまるでないことのほうが、記者の背中を冷たくした。子どもが答え合わせでもするような軽い調子は、こういう人間がこういう場所で何を欲しがるのかを、とうの昔から知っているかのように聞こえた。
記者は、一歩だけ後ろへ下がろうとした。逃げるつもりだったのか、距離を取って撮り直すつもりだったのか、自分でも決めきれないまま足を引くと、生き物はふわりと同じだけ近づいてきた。
『それを私は許していない』
青い目の奥で、
『さて、どうしようかしら。何をするにしても、ここから遠い場所ね。足がついたら日廻の悩みの種になりそうだし……でも、もし私たちが原因で追い詰められたら、日廻はこの地を捨てるのかしら。そうなれば、私が住んでいた森へ移住させるのもいいわね』
生き物がくるりと向きを変え、林の奥へ漂っていく。細い尾が誘うように揺れると、記者の足は、その揺れに引かれて、勝手に前へ出ていた。おかしい、と思う自分がどこかにいる気はしたが、その思いはひどく遠くて、足を止めるだけの力を持たなかった。
振り返れば、木々の隙間に、あの瓦屋根がまだ見えたのかもしれない。けれど、振り返ろうという考えはもう浮かばなかったし、手の中にあったはずのカメラの重さがいつから消えていたのかも、分からなかった。薄桃色の尾だけを見つめながら、落ち葉を踏んで、木々の奥へと歩いていく。
『いいことを思いついたわ。この世界の獣の器に、人間の魂を入れてみたらどうなるのかしら。ふふ、試してみたくなっちゃった』
頭の中に置かれたその声は、さっきと少しも変わらず柔らかかった。何をするつもりなのかとを口を動かそうとも息が出るだけで、一歩踏み出せば自分が何を尋ねたかったのかを、もう思い出せなかった。