氷雪の魔女 ~店主リヒターの不条理な日常~ 作:ポオツマス亭
冷たく重い静寂が、零落の王墓の地下深くを支配していた。
幾重にも張り巡らせた複雑な迷路。
太古の石材が放つ不気味な冷気と、澱んだ魔力の残滓が肌を刺す。
一級魔法使い試験の第二次試験。
この最終局面において、リヒターとラヴィーネは行動を共にしていた。
デンケンやラオフェン、カンネと分かれ、敵を迎え撃つ警戒を行っていた時のことだ
暗闇の奥から現れたのは、言葉を解さぬ魔物ではなく――恐ろしいほどに精緻な、魔法使いたちの「影」だった。
「――っ!?」
その圧倒的な威圧感を前に、言葉すら満足に発せられなかった。
影の正体は、一級魔法使い試験官・ゼンゼの複製体。
無限に伸縮し、あらゆる防御魔法を容易く貫通する巨大な髪の毛の刃。
その殺意が殺到した瞬間、頑丈な岩盤すらも切り裂かれた。
「ラヴィーネ、伏せろ!」
リヒターの叫びと同時に、鋭利な髪の刃が空間を穿った。
間一髪で大地魔法の障壁を練り上げたが、防御を破壊する特化魔法の前では気休めに過ぎない。
強烈な衝撃が土壁を粉砕し、リヒターの腹部を深く抉った。
「ぐあっ……!?」
焼けるような激痛が身体を貫く。
だが、急所は辛うじて外れていた。
内臓の損傷は免れたものの、温かい液体が腹から溢れ出していく。
しかし、惨劇はそれだけでは終わらなかった。
「あ……が……っ」
短い悲鳴と共に、ラヴィーネの小さな身体が地面へと叩きつけられた。
「ラヴィーネ!!」
激しい焦燥で視界が眩む。
ラヴィーネの背中から胸元にかけて、深い一閃が走っていた。
そこから溢れ出る血の量は、リヒターの比ではない。
石畳の床が、瞬く間に深紅の池へと変貌していく。
(くそが……っ! こんな化け物とまともにやり合えるかよ……!)
リヒターは激痛に耐えながら、懐から転移の瓶を取り出した。
試験前に支給された、棄権用の試作ゴーレムが封印された瓶だ。
これを割れば、即座に安全な地上へと避難できる。
それでも、それは試験の脱落を意味していた。
しかし、選択の余地などどこにもなかった。
目の前で命の灯火が消えかけている少女を前に、試験の合格などという計算は一瞬で吹き飛ぶ。
「おい、瓶を割れるか!?」
「大丈夫……だよ……おっさん……」
ラヴィーネは息も絶え絶えになりながらも、震える手で自身の瓶を床へ叩きつけた。
パリン、と甲高い音が響き渡ると同時に脱出用ゴーレムが展開される。
「よし――頼むぞ!」
リヒターも間髪入れずに自身の瓶を床に叩きつけた。
召喚された無機質な岩石のゴーレム二体が、すぐさま怪我人であるふたりをその巨体で抱え上げた。
複製体の追撃が迫るより速く、ゴーレムは爆発的な脚力で岩盤を蹴りだした。
ゴーレムは二人を庇うように抱え込み、王墓の地上出口へと向かって一気に離脱を開始した。
ゴーレムの強靭な岩の腕の中で、激しい揺れが伝わってくる。
地殻を突き抜けるような猛烈な移動速度のなか、リヒターは必死に姿勢を保ち、すぐ隣に横たわる少女へ視線を向けた。
ラヴィーネの顔からは血の気が完全に引いていた。
唇は青ざめ、浅い息を繰り返している。
その身体からは絶え間なく血液が漏れ出し、服を赤黒く染め上げていた。
「おい、ラヴィーネ、無事か!?」
リヒターは腹部の痛みを忘れたかのように大声を出した。
声をかけ続けなければ、そのまま意識が闇の底へ落ちていってしまいそうだったからだ。
「うっせーな……だい、じょうぶ、だよ……」
消え入りそうな声が返ってきた。
いつもの勝気で強がりな口調を保とうとしているが、その声には全く力がない。
「嘘をつくな! 俺よりお前の方が深手だ。死ぬんじゃないぞ!」
ラヴィーネは掠れた声で、小さく鼻を鳴らすような仕草をした。
「ふん……第一次試験で……カンネと一緒に、殺してやるっていったくせに……よ……」
「……っ」
リヒターは一瞬、言葉に詰まった。
第一次試験の隕鉄鳥(シュティレ)奪い合いの最中、確かに自分は冷酷な現実主義者として彼女たちに立ちはだかり、突き放すような言葉を投げかけた。
甘さを捨てられない子供たちへの、彼なりの「教育」であり「威嚇」だった。
「あの時はあの時だ……! 余計な口を叩いて体力を使うな!」
リヒターは押し当てる手に力を込めた。
自分の腹の傷からも血が流れ落ちているが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
少女の細い肩が、揺れに合わせて力なく揺れている。
「ラヴィーネ、もうすぐ助かるぞ。聞こえているか!? もうすぐ地上だ!」
必死に声を張り上げるリヒター。
日頃の冷徹で計算高い自分はどこへ行ったのかと、心のどこかで呆れつつも、声を出さずにはいられなかった。
すると、ラヴィーネが弱々しく目を開け、薄っすらとリヒターを見上げた。
「あんた……あたしの名前……呼んでくれたんだな……」
その呟きは、風の音に掻き消されそうなほど小さかった。
いつも「お嬢様」だの「ガキ」だのと呼んでいた男が、自分の名前を当然のように連呼している。
そのことが、死の恐怖に怯える彼女の心に、小さな灯火を点けたのかもしれなかった。
「当たり前だ、バカ野郎……! だから目を開けろ!」
リヒターの叫びに応えるように、ゴーレムの周囲の空間が一気にひらけた。
不快な洞窟の冷気が消え、外の新鮮な空気が肌を撫でる。
零落の王墓の地上――出口へと到着したのだ。
「くっ……!」
地上に降り立った瞬間、脱出用ゴーレムによる巨大な回復魔法の光が二人を包み込んだ。
破れかけた筋肉が繋がり、傷口が急速に塞がっていく猛烈な激痛。
リヒターは床に膝をつき、荒い息を吐き出した。
「うっ、ぐ……」
腹部の深い傷が塞がり、どうにか呼吸が落ち着いてくる。
大量の失血によるめまいは残っているものの、ひとまずは死の恐怖から脱することができた。
「どうじゃ、すごいじゃろ?」
不意に、能天気な声が頭上から降ってきた。
見上げると、同じく二次試験を棄権したであろう幼い容姿の魔法使い――エーデルが、胸を張ってこちらを見下ろしていた。
「ああ……だれなの、おまえ……」
リヒターは眉をひそめたが、すぐにそんな疑問はどうでもよくなった。
自分の激痛など、一瞬で頭から吹き飛ぶ。
「ラヴィーネッ!」
跳ね起きるようにして、すぐ隣に横たわる少女へと駆け寄った。
回復魔法の光はラヴィーネをも包み込んでいたが、彼女の状態はリヒターよりも遥かに深刻だった。
失血量が多すぎたのだ。
魔法で傷口自体は塞がったものの、失われた血液までは一瞬で戻らない。
ラヴィーネの顔は紙のように真っ白で、唇は紫色に変色していた。
「おい、ラヴィーネ、大丈夫か!?」
リヒターは彼女の側に膝をつき、呼びかけた。
ラヴィーネは苦しそうに眉根を寄せ、浅い息を繰り返している。
しかし、その手足からは完全に力が抜け、腕がだらりと地面に垂れ下がっていた。
命の糸が今にも断ち切られようとしているかのような、恐ろしい静けさ。
(おいおい……冗談だろ……?)
リヒターの胸に、冷や汗が吹き出す。
普段の彼女なら、生意気な口調で言い返してくるはずだった。
勝気で、すぐに感情を剥き出しにして、相棒の少女と顔を合わせては喧嘩ばかりしていたあの威勢の良さは、どこにもなかった。
今にも消え去ってしまいそうな命の感触が、そこにはあった。
いつも生意気に自分へ突っかかってきた少女の、あまりにも小さく冷たい手――。
気がつけば、リヒターは計算や損得のすべてを忘れ、その手を強く、折れんばかりに握りしめていた。
「おい、死ぬんじゃないぞ……! あいつを一人にする気か……!」
自分の声が震えているのが分かった。
ただの試験の受験者同士。
関わりなど第一次試験の僅かな時間と、このダンジョンでの一時的なパーティーに過ぎない。
割り切った関係であるはずだった。
だが、目の前で失われようとしている若い命を、どうしても見過ごすことができなかった。
そう言うと、ラヴィーネは握られた手の感触を確かめるように、ほんの少しだけ指を握り返してきた。
「……カンネ……」
掠れた呼吸の隙間から、消え入りそうな声が溢れ出す。
「あいつの名前は……カンネだ……。あたしの名前だけ……覚えてんじゃねえよ……」
そう言うと、ラヴィーネは握られたリヒターの手の感触を確かめるように、ほんの少しだけ指を握り返してきた。
リヒターは、自分の手の中にある小さく冷たい手をじっと見つめた。
こんな死の淵にあっても、彼女は自分の命のこと以上に、残してきた相棒の心配をしている。
その不器用で真っ直ぐな強さに、リヒターの胸の奥が熱く締め付けられた。
やがて、ラヴィーネの荒かった呼吸が、次第に穏やかなものへと変わっていった。
顔に僅かだが赤みが戻り、苦しげだった表情が和らいでいく。
女神の魔法と、彼女自身の若い生命力が、ようやく最悪の峠を越えさせたのだ。
規則正しい、静かな寝息が聞こえ始める。
「……たく、生意気なガキだ」
リヒターは深く、長く息を吐き出した。
全身の緊張が一気に抜け、ドッと重い疲労感が押し寄せてくる。
彼はそっとラヴィーネの手を放し、彼女の上着を丁寧に整えてやった。
太陽が少しずつ傾き、空が橙色に染まり始めていた。
ラヴィーネの容態が完全に安定したのを確認すると、リヒターは彼女の傍らを離れ、王墓の入口から少し離れた場所に腰を下ろした。
冷えた風が頬を撫でる。
リヒターは煙草を取り出そうとしたが、指がかすかに震えていることに気づき、ポケットの中に手を戻した。
(俺らしくもない……)
自分はいつだって損得勘定で動く現実主義者のはずだった。
師匠から受け継いだ魔法店を営み、客や魔法使いの現実を見てきた。
割り切りこそが生きていくための術だと知っていた。
だが、あの暗闇の中で見せた少女の必死な目や、命が消えかけた瞬間の冷たい手の感触が、脳裏から離れない。
「自分を捨ててまで他人を庇うような真似はしない」と言っていたはずの自分が、気づけば全力を尽くして彼女を励まし、手を握りしめていた。
(まあ……店のお得意様を一人失わずに済んだと思えば、安いものか)
そんな自分への言い訳を胸の中で呟きながら、リヒターは王墓の出口を見つめた。
デンケンたちの帰りを待つために。
どれほどの時間が流れただろうか。
やがて、王墓の大きな扉が開き、ダンジョン攻略を終えた受験者たちが続々と地上へと姿を現した。
フリーレンを筆頭とする攻略組。
無事に生還を果たした者たちの安堵の表情と、疲れ切った足取り。
その集団の中に、一人の少女の姿があった。
赤茶色の髪を揺らし、不安と焦燥を全身から漂わせながら――カンネだ。
無事に迷宮を攻略したものの、先に脱落したラヴィーネの生死すら分からず、気が気ではなかったのだろう。
その視線が、木陰に座っているリヒターと交差する。
カンネは弾かれたようにリヒターへと駆け寄ってきた。
「ねえ! ラヴィーネは!? ラヴィーネはどうなったの!?」
涙目になりながら、リヒターに詰め寄ってくる。
リヒターは億劫そうに視線を少しだけ動かし、木陰の暖かい場所で毛布に包まれて静かに眠っているラヴィーネを指差した。
「あっちにいるぞ。死にはしねえよ。今は寝てるだけだ」
「っ……! ラヴィーネ……!」
カンネはリヒターへのお礼もそこそこに、脱兎の如くラヴィーネの元へ走っていった。
「ラヴィーネ! よかった……よかったよぉ……!」と泣きじゃくりながら少女に抱きつく声が、遠くから聞こえてくる。
リヒターはその光景を静かに眺めていた。
(あいつがカンネか……)
さっきラヴィーネが死に際に必死で教えてくれた名前。
リヒターは駆け去っていく後ろ姿を見つめながら、心の中でそっとその名を反芻した。
「――すまんな、リヒター」
重厚で、聞き覚えのある声が頭上から響いた。
振り仰ぐと、無事に迷宮を攻略し、合格を果たして地上へ生還した老宮廷魔法使い――デンケンが立っていた。
その顔には、仲間として共に戦いながらも二人を庇いきれず、脱落させてしまったことに対する深い苦渋と申し訳なさが滲み出ていた。
リヒターは自嘲気味に鼻で笑い、首を横に振った。
「気にするな」
短く、それだけを答えた。
「俺が未熟だっただけの話だ……まあ、得たものが何もなかったわけでもない」
デンケンはリヒターの言葉の真意を問うことはせず、ただ静かに頷いた。
遠くでは、目を覚ましたラヴィーネが、泣きじゃくるカンネに対して「うざい! 抱きつくなカンネ!」と、いつもの威勢の良さを取り戻して怒鳴っている声が響いていた。
その声には、先ほどまでの死の影など微塵も感じられない。
リヒターは立ち上がり、土を払った。
二次試験、脱落。
一級魔法使いへの道は、ここで潰えた。
店に戻れば、またいつも通りの地味で退屈な魔法店の店主としての日常が待っているだけだ。
だが、自分の手の中に残ったあの確かな温もりと、少女が見せた命の輝きは、決して無駄なものではなかったと思えた。
「さて……帰るとするか」
リヒターは一度も振り返ることなく、夕暮れに染まる街道に向かって歩き出した。
自分の店――あの薄暗く、退屈で、けれど、師匠が残してくれた、静かな魔法店に帰るか。
不器用な男の唇がほんのわずかに綻んだ。
胸の奥に吹き抜けた温かい風を感じながら、リヒターは歩みを進めていった。
(第2話に続く)
一級魔法使い試験の第二次試験、過酷な「影」との戦いの中で描かれたリヒターとラヴィーネのひと幕、いかがでしたでしょうか。
冷徹な現実主義者として振る舞うリヒターが、死の淵にある少女の手を握りしめたときに見せた隠しきれない優しさや、ラヴィーネのカンネを想う真っ直ぐな強さが、少しでも心に残っていたら幸いです。
今回の物語では、原作が持つ圧倒的な空気感とキャラクターたちの人間味を大切にしつつ、魔法店とリヒターとラヴィーネ、そして、リヒターには実は師匠がいたという二次創作の物語をお楽しみください。
不器用な男が営む静かな魔法店や、かつて彼に魔法と技術、生き様を教えた師匠との思い出など、これからの日常や関係性の広がりをも想像させるエピソードとなっていれば嬉しいです。