空は鉛色の雲に覆われていた。世界樹が崩れ落ちたあの日から、世界はすべてを失った。太陽の光は厚い雲の向こうへ閉ざされ、大地には瘴気がゆっくりと這い広がる。焼け落ちた村々から立ちのぼる黒煙は絶えることなく、人々の絶望だけが静かに積み重なっていた。
魔王ウルノーガ。その勝利は、世界そのものを書き換えてしまった。
かつて「イシの村」と呼ばれた小さな集落は、今では各地から逃れてきた人々を受け入れる最後の避難場所となっていた。
誰もが、その名をこう呼ぶ。――最後の砦。
武器を持てる者は城壁代わりの柵へ立ち、老人や子どもたちは身を寄せ合って祈る。ここが落ちれば、もう人類に逃げ場は残されていなかった。
森は異様なほど静かだった。風が木々を揺らす音だけが響く。
その静寂を切り裂くように、見張り台の兵士が叫んだ。
「来るぞ!」
直後、森の奥から獣の咆哮が響き渡る。地面が震え、無数の魔物が木々の間から姿を現した。
魔王軍。最後の砦を完全に潰すために送り込まれた軍勢だった。
「構え!」
兵士たちが一斉に武器を抜く。その最前列へ、一人の男が進み出た。グレイグ。デルカダール最強の騎士と呼ばれた男は、大盾を構え、大剣を肩へ担ぐ。
「ここを通すな!」
雷鳴のような号令が響く。
「おおっ!」
兵士たちが応え、戦いの火蓋が切られた。魔物が押し寄せる。剣と牙が激しくぶつかり合い、怒号と悲鳴が森へ響いた。グレイグは大剣を振るい、一撃ごとに魔物を薙ぎ払っていく。
その時だった。一体の魔物が、不自然なほどの勢いで宙を舞った。木々を何本もへし折りながら地面を転がり、そのまま動かなくなる。グレイグは反射的に視線を向けた。
そこには、一人の兵士が立っていた。黒い外套。片手剣。細身の体格。長い前髪に隠れた表情。――魔王軍の兵士。
それは間違いない。だが、その剣が向いている相手は、人間ではなかった。
「何をしている!」
魔物の一体が怒声を上げる。兵士は答えない。静かに片手を掲げると、足元へ幾重もの魔法陣が展開された。淡い光が複雑な紋様を描き、大地そのものが震える。
次の瞬間、爆発的な魔力が解き放たれた。
轟音。
衝撃。
周囲の魔物たちが一斉に吹き飛ばされる。あまりの威力に、人間も魔物も動きを止めた。静まり返った戦場で、その兵士だけが何事もなかったように剣についた血を払う。まるで、掃除でも終えたかのように。
「……」
グレイグは目を細めた。――見覚えがある。名前は思い出せない。それでも確かに知っている顔だった。
「お前……」
兵士がゆっくりと視線だけを向ける。感情の色がまるでない瞳だった。
「どこかで会ったか」
兵士は少しだけ考える。
「デルカダール城」
短い返答。その一言で、止まっていた記憶が繋がる。 ――ホメロス。その隣で常に控えていた無口な部下。
「ああ……そうか」
グレイグは息を吐いた。
「ホメロスの部下か」
兵士は否定しなかった。ただ静かに答える。
「そう呼ばれていた」
過去の話をするような声だった。自分自身のことを語っているとは思えないほど、どこか遠い響きだった。
その時、一人の少年が前へ歩み出る。勇者イレブン。
「勇者様!」
兵士たちが慌てて制止する。
「危険です!」
相手は魔王軍の兵士だ。何をするか分からない。だがイレブンは止まらなかった。ゆっくりと兵士の前まで歩き、そのまま右手を差し出す。
兵士は首を傾げた。その意味が分からない。敵に向ける行動ではない。まして戦場ではなおさらだった。
イレブンは何も言わない。ただ真っ直ぐ見つめ続ける。その眼差しには敵意も警戒もなく、ただ一人の人間を迎え入れようとする意志だけが宿っていた。
長い沈黙の末、兵士は小さく息を吐く。
「……勇者は変わっているな」
誰かが息を呑んだ。だがイレブンは微笑み、小さく頷くだけだった。兵士は差し出された手を見つめたまま、静かに口を開く。
「コハク」
それが、自ら名乗った最初の言葉だった。その瞬間。後方で様子を見守っていたロウの表情が凍りつく。
「……今、何と言った?」
隣にいたマルティナも目を見開いていた。――忘れられるはずのない名前。けれど、この場にいるはずのない名前。コハクはそんな視線に気づかない。ただ勇者の手を見つめ、不思議そうに問いかける。
「仲間になれと言うのか」
イレブンは静かに頷く。コハクは少し考え、小さく首を傾げた。
「私は魔王軍だぞ」
その言葉に、誰も返事ができなかった。ただ一人。勇者だけが、迷うことなくもう一度頷く。コハクはその顔を見つめる。困ったように眉を寄せ、それでも拒絶はしなかった。
それが、勇者一行とコハク。
長い旅の始まりとなる、最初の出会いだった。
*
「私は魔王軍だぞ」
コハクの静かな声が、戦いを終えたばかりの森に落ちる。それでも勇者は迷わなかった。まるで、その事実など最初から問題ではないと言うように、穏やかに頷く。
「……」
コハクは黙って勇者を見つめた。理解できない。敵と味方くらいは知っている。自分は魔王軍の兵士だ。たとえ魔物を斬っていたとしても、それは偶然でしかない。
本来なら拘束されるか、その場で討たれていてもおかしくない。それが戦場というものだ。なのに目の前の少年は違う。警戒も敵意も見せず、ただ一人の人間として自分を見ている。
コハクは小さく息を吐いた。
「……変な奴だな」
「変なのはアンタでしょう!」
間髪入れず、ベロニカが声を張り上げた。
「魔王軍なのに魔物ぶっ飛ばしてるなんて聞いたことないわよ!」
「邪魔だった」
「理由になってないわ!」
あまりに淡々とした返事に、ベロニカは思わず額へ手を当てる。コハクは首を傾げた。本気で怒っているようには見えない。敵意とも違う。初めて経験する種類の反応だった。
「……元気な人だな」
「子ども扱いしないで!」
「?」
本当に意味が分からないらしい。その様子に、シルビアが肩を震わせながら笑った。
「ふふ、この子、本当に天然なのねぇ」
「天然ではない」
即座に否定する。
「否定だけは早いのね」
くすくすと笑うシルビアにつられ、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。コハクだけが、その理由を理解できずにいた。
一方、その様子を離れた場所から見つめる二人がいた。ロウとマルティナである。二人の視線は、一度もコハクから離れなかった。
「……のう」
ロウが静かに口を開く。
「やはり、おぬしもそう思うか」
マルティナは小さく頷いた。間違えるはずがない。
右目を隠す長い前髪。
黒髪に混じる一本の白髪。
中性的な面差し。
そして――コハクという名前。十六年前、ユグノア王国から忽然と姿を消した幼い少女。
誰も見つけることのできなかった子ども。
「……生きていたのね」
震える声が漏れる。胸の奥で、長い年月押し込めていた思いが静かに揺れた。だが当の本人は、そんな視線に気づく様子もない。
コハクの意識は、別の人物へ向いていた。じっと見つめられたグレイグが眉をひそめる。
「……何だ」
「相変わらず無理をするな」
唐突な言葉だった。
「何?」
「右肩」
短い一言。その瞬間、グレイグの表情がわずかに変わる。戦闘中に負った傷だった。鎧の下に隠れ、外からは分からない。
「……なぜ分かった」
「庇っただろう」
「見ていたのか」
「いや」
コハクは静かに首を振る。
「動き方が少し違う」
グレイグは黙り込む。戦場で何百という兵士を見てきた彼ですら、そこまで細かな変化を見抜ける者はほとんどいない。思わず口をついて出た。
「お前は昔からそうだったな」
コハクが視線を向ける。
「……昔?」
しまった。グレイグは心の中で舌打ちした。思い出したのは、デルカダール城での日々。ホメロスの側近として働いていた頃のコハク。訓練でも任務でも、誰よりも人の動きを観察していた少女だった。
「……いや」
それ以上は言わなかった。コハクも深くは追及しない。代わりに、何気ない調子で尋ねる。
「ホメロスは元気か」
その一言で、空気が止まった。誰も答えない。グレイグは目を伏せる。ロウもマルティナも、表情を曇らせた。ベロニカたちも言葉を失う。
事情を知らない勇者だけが、不思議そうに皆を見回している。
「……?」
コハクは首を傾げた。何かおかしなことを言っただろうか。長い沈黙のあと、グレイグが重く口を開く。
「今は……魔王軍幹部として動いている」
「そうか」
コハクは静かに頷いた。驚きもない。怒りもない。悲しみもない。ただ事実として受け止めるだけだった。
その反応に、むしろグレイグの方が戸惑う。長年行動を共にした部下だった。何かしらの感情を見せると思っていた。しかしコハクは、小さく呟くだけだった。
「なら、生きているな」
それだけだった。
――夕暮れ。
戦いを終えた最後の砦には、束の間の静けさが戻っていた。焚き火の炎がぱちりと音を立てる。人々はようやく武器を置き、疲れ切った身体を休め始めていた。
それでもロウは眠れなかった。炎の向こう側に、一人で座るコハクの姿が見える。
死んだと思っていた子。
守れなかった子。
十六年もの間、探し続けた子。
ようやく再会できたというのに、少女は何も覚えていない。自分が誰なのか。どこから来たのか。どれほど多くの人が、その帰りを待ち続けていたのか。
ロウは静かに目を閉じた。
(……今はまだ言えぬ。)
あまりにも突然すぎる。失われた十六年は、一夜で埋められるものではない。それでも、いつか必ず伝えなければならない。その日が来るまで、自分は待とう。
一方、コハクは焚き火をぼんやりと見つめていた。揺れる炎を眺めながら、今日出会った者たちの顔を思い返す。
勇者。
グレイグ。
最後の砦。
そして。
ホメロス。
「……何をしているんだ」
夜風に溶けるような小さな独り言は、誰の耳にも届かなかった。
*
最後の砦の朝は早い。昨日の戦いを生き延びたからといって、安全が約束されたわけではない。夜明けとともに見張りの兵士は交代し、武器の点検が始まる。村人たちは限られた食料を分け合い、子どもたちは大人の手伝いをしながら静かに一日を迎えていた。
――生き延びること。
それが、この場所で暮らすすべての者の共通した目的だった。
砦から少し離れた森の外れで、コハクは一人腰を下ろしていた。膝の上には片手剣。研ぎ石を一定の角度で滑らせるたび、しゃり、しゃり、と静かな音が朝の空気へ溶けていく。無駄のない手つきだった。
長年身体へ染み込んだ動きであることは、一目で分かる。
「隣、よいかの」
不意に声がかかる。振り返ると、ロウが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「好きにしろ」
素っ気ない返事にも、ロウは気を悪くすることなく隣へ腰を下ろす。しばらくは二人とも何も話さなかった。聞こえるのは研ぎ石の音と、風が葉を揺らす音だけ。やがてロウが口を開く。
「鍛冶は好きか?」
コハクの手が、わずかに止まる。少し考えてから答えた。
「嫌いではない」
「ほう」
「武器の手入れは嫌いじゃない」
短い返事だった。だが、その言葉だけでロウには十分だった。
「誰かに教わったのか?」
コハクは剣先を見つめたまま、小さく首を振る。
「……覚えていない」
本当に覚えていない。二歳以前の記憶はほとんど残っていなかった。それなのに、刃の癖も、鉄の焼き具合も、砥ぎ方も、身体は自然に理解している。まるで、生まれた時から知っていたかのように。
「そうか……」
ロウはそれ以上尋ねなかった。その代わり、胸の中では確信が強くなっていく。間違いない。
――この子は、あの鍛冶師夫婦の娘だ。
ユグノア王国最高の鍛冶職人として名を馳せ、アーウィン王やエレノア王妃とも親交の深かった夫婦。十六年前、ユグノア滅亡の混乱の中で命を落とした。その忘れ形見が、今、自分の隣にいる。
「おぬしの両親はな……」
そこまで言って、ロウは口を閉ざした。コハクは何も知らず、ただ静かに剣を磨いている。今、この場で伝えるべきではない。そう判断した。
「……何でもない」
コハクはロウを見上げる。
「変なおじいさんだな」
ロウは思わず吹き出した。
「はっはっは。よく言われるわい」
コハクは首を傾げる。この老人と話していると、不思議と胸が落ち着く。理由は分からない。けれど、その感覚だけが、どこか懐かしかった。
昼過ぎ。
砦の一角では、ベロニカの声が響き渡っていた。
「だから違うって言ってるでしょ!」
「そうか」
「そうか、じゃないわよ!」
三十分ほど前。コハクが何気なく尋ねた一言が始まりだった。
「ベロニカは何歳だ」
「秘密よ」
「十歳くらいか」
その瞬間、ベロニカの堪忍袋が切れた。
「十六よ!」
「……そうか」
「今、信じてない顔した!」
「いや」
「絶対してた!」
必死に抗議するベロニカに対し、コハクは本気で困惑している。悪意は一切ない。だからこそ始末が悪い。離れた場所で見ていたシルビアが肩を震わせた。
「この子、本当に面白いわねぇ」
セーニャも思わず笑みをこぼす。その時、コハクはふとセーニャへ視線を向けた。
「姉妹なのに、ずいぶん違うな」
「よく言われます」
苦笑するセーニャへ、コハクは静かに言った。
「無理をしているな」
その一言で、セーニャの笑みが止まる。
「眠れていない」
図星だった。
「食事も減った」
ベロニカを失った世界。その記憶は、この世界では消えていても、セーニャの心には深い傷として残っている。
「……無理をするな」
慰めではない。励ましでもない。ただ、見えた事実を口にしただけだった。それでも、その言葉は不思議と胸へ染み込んだ。
「ありがとうございます」
セーニャが微笑む。コハクは首を傾げた。礼を言われる理由が、本当に分からなかった。
夕方。
見張り台へ立つグレイグの背後から、小さな足音が近づいてくる。
「コハクか」
「気づいていたか」
振り返ることなく答える。
「お前は昔から気配を消すのが下手だ」
コハクは少しだけ目を丸くした。
「そうか」
本気で意外そうだった。その反応があまりにも昔と変わらず、グレイグは思わず笑みを漏らす。二人は並んで夕焼けに染まる森を眺めた。
「グレイグ」
「何だ」
「ホメロスと喧嘩したのか」
その一言で、空気が止まった。
「……なぜそう思う」
「昨日」
コハクは静かに答える。
「ホメロスの話をした時、お前は話したくなさそうだった」
人の表情を読む。それは生き残るために身についた癖だった。グレイグはしばらく黙り込む。答えられない。答える資格が、自分にはない気がした。
やがてコハクが小さく呟く。
「なら、話した方がいい」
「簡単に言うな」
「難しいのか」
「ああ」
短い返事だった。コハクは少し考え、静かに頷く。
「……そうか」
それだけ。だが、その一言は、不思議なほど胸へ残った。
――話した方がいい。そんなことは、自分が一番よく分かっていた。
夜。
コハクは一人、世界樹の残骸を見上げていた。
崩れた世界。
失われた空。
静かな夜風が頬を撫でる。
その時、不意に胸の奥で何かが揺れた。
***
赤く燃える炉。
鉄を打つ澄んだ音。
誰かの笑い声。
頭を優しく撫でる大きな手。
温かい。
けれど、その景色は指の隙間から零れる砂のように消えていく。
***
「……」
思い出せない。何一つ。それでも胸の奥だけが、ほんの少し痛んだ。その痛みが何なのか。コハクは、まだ知らなかった。
*
最後の砦に身を寄せるようになって、数日が過ぎた。コハクの立ち位置は、相変わらず曖昧だった。
誰かと積極的に行動を共にすることはない。かといって孤立しているわけでもない。誰かが困っていればいつの間にか現れ、用が済めば気配もなく姿を消す。
まるで風のような存在だった。
朝。
倉庫の前では、避難民たちが食料や物資を運び出していた。
「コハクー!」
元気な声が砦中へ響く。
「何だ」
振り返ると、腕を腰に当てたベロニカがこちらを睨んでいた。
「荷物運び、手伝いなさい!」
「嫌だ」
間髪入れない返事だった。
「なんでよ!」
「人手は足りている」
コハクは周囲を見回す。荷物を運ぶグレイグ。手際よく指示を出すシルビア。軽口を叩きながら木箱を抱えるカミュ。誰もが忙しく動いている。
「……足りているな」
「そういう意味じゃないの!」
結局、十分後。
コハクは何事もなかったように木箱を運んでいた。文句は言わない。逃げもしない。ただ、自分では納得していないだけだった。その様子にシルビアが笑う。
「素直じゃない子ねぇ」
コハクは不思議そうに首を傾げた。
「断った」
「ええ」
「必要なら手伝う」
あまりにも真面目な返答に、シルビアは苦笑するしかない。
「それを素直って言うのよ」
コハクは最後まで納得できないままだった。
昼過ぎ。
砦の隅に設けられた簡素な鍛冶場では、小さな炉へ火が入れられていた。本来なら武具を作る場所ではない。避難民の包丁や農具を直すためだけの、小さな作業場だ。その前でコハクは一本の包丁をじっと見つめていた。
「何をしておる」
ロウが声を掛ける。
「歪んでいる」
「そうじゃな」
「叩けば直る」
迷いのない答えだった。ロウは静かに笑う。
「やってみるか?」
コハクは目を瞬かせる。
「……いいのか」
「もちろんじゃ」
炉へ火が入り、鉄が赤く染まる。コハクは金槌を握った。教わった記憶などない。それなのに、身体は自然と動いていく。
どこを打てば歪みが戻るのか。どの温度なら鉄が応えてくれるのか。考えるより先に、手が知っていた。
カン。
カン。
静かな金属音が砦へ響く。ロウはその横顔を見つめていた。似ている。鉄を見る目も。
打つ前に全体を眺める癖も。完成した形ではなく、その先を見ている眼差しも。
――あの夫婦と、あまりにもよく似ていた。
一方のコハクは、胸の奥に生まれた違和感へ戸惑っていた。
熱。鉄の匂い。金槌の音。そのすべてが、初めて触れるものではない気がする。
――懐かしい。理由は分からない。けれど、その感覚だけは確かだった。
夕方。
勇者一行は次の行き先を話し合っていた。
「デルカダールへ向かう」
グレイグが地図を見ながら言う。
「魔王軍の動きも探りたい」
カミュが頷き、マルティナも続けた。
「城の様子も確かめたいわ」
自然と視線がコハクへ集まる。デルカダールを最も知る者だからだ。
「行けるか」
グレイグが尋ねる。コハクは少しだけ考えた。
「行ける」
「危険だぞ」
「今さらだ」
確かにその通りだった。魔王軍の中で生きてきた人間にとって、危険という言葉は今さら意味を持たない。コハクは少しだけ視線を落とす。
「……それに」
「何だ」
しばらく沈黙が続いた。
「確認したいことがある」
「何をだ」
コハクは空を見上げる。言葉を探すように、ゆっくりと口を開いた。
「帰る場所が、あるのか」
その場にいた誰もが首を傾げた。問いの意味が分からない。コハク自身も、うまく説明できなかった。
最後の砦へ来てから、ずっと胸の奥に引っかかっている。ロウにも。マルティナにも。勇者にも。皆には帰る場所がある。戦いが終われば帰る故郷がある。待っている人がいる。
だが、自分には何もない。……そう思っていた。死ねば終われる。それだけを考えて生きてきた。けれど最近、その答えが少しだけ揺らいでいる。本当に、それだけなのだろうか。
ロウとマルティナは黙ってコハクを見つめていた。二人だけは知っている。コハクにも帰る場所はある。失われたのではない。ただ、辿り着けなくなっていただけなのだと。
夜。
焚き火の前に、一人で座るコハクの隣へ勇者が静かに腰を下ろした。互いに何も言わない。ただ炎が揺れる音だけが聞こえる。やがてコハクが口を開いた。
「イレブン」
イレブンが顔を向ける。
「お前には、帰る場所があるか」
静かな問いだった。イレブンは少しだけ考え、ゆっくり頷く。
故郷。
仲間。
守りたい人たち。
帰る場所は確かにある。
その答えを見届けるように、コハクも小さく頷いた。
「……そうか」
少しだけ間を置いて、ぽつりと呟く。
「少し、羨ましいな」
炎が揺れ、その橙色の光が横顔を照らした。表情はほとんど変わらない。けれど勇者には分かった。
それは敵でも兵士でもない。ただ、自分の帰る場所を知らない、一人の少女の横顔だった。
翌朝。
勇者一行は最後の砦を後にする。目指すはデルカダール。魔王の支配する王国。そしてコハク自身もまだ知らない、失われた過去へと続く場所。その旅路は、少女が「帰る場所」の意味を知る旅の始まりでもあった。
*
最後の砦を発って三日。勇者一行はデルカダール地方へ向けて歩みを進めていた。街道のあちこちには、大樹崩落の日の爪痕が色濃く残っている。
荷を積んだまま朽ちた馬車。
焼け落ちた家々。
人の気配を失った集落。
世界はまだ、滅びの日から立ち直れてはいなかった。
先頭を歩くのはグレイグ。そのすぐ後ろを勇者が進み、仲間たちが続く。そして最後尾には、いつものようにコハクがいた。
視線は絶えず森の奥や街道脇へ向けられている。誰も見ていない場所を見る。それが、いつの間にか癖になっていた。
「相変わらず最後尾なのね」
振り返ったベロニカが声を掛ける。
「後ろを見る者が少ない」
「前だってちゃんと見てるわよ」
「足りない」
迷いのない返答だった。ベロニカは大きくため息をつく。
「全部一人でやろうとするの、やめなさいよ」
コハクは少しだけ考える。
「誰かがやらなければならない」
「だから、皆でやるの!」
「……そうか」
返事はした。だが、その顔はまったく納得していない。ベロニカは額へ手を当てた。最近ようやく分かった。この少女は、とにかく頑固だ。しかも本人にその自覚がない。
「ほんっと面倒くさいわね」
「よく言われる」
「誰に?」
コハクは少しだけ考え、何気なく答えた。
「ホメロス」
空気が止まる。ベロニカは言葉を失った。コハクだけが、その沈黙の意味を知らない。
昼過ぎ。
一行は街道沿いの廃村で休息を取ることにした。仲間たちが食事の準備を始める中、コハクだけは一軒の家の前へ立っていた。
屋根は崩れ、扉は外れ、窓にはガラス一枚残っていない。誰も住んでいない家。それでも、そこには確かに人が暮らしていた痕跡が残っていた。
「どうしたの?」
マルティナが隣へ歩み寄る。コハクは家から目を離さない。
「……家だ」
「ええ」
「帰る場所なんだな」
ぽつりと呟く。その声は、どこか羨むようでもあった。
「壊れていても」
コハクは崩れた玄関を見つめる。
「誰もいなくても」
少しだけ間が空く。
「帰ってきた場所がある」
それだけ言って、口を閉ざした。自分でも、なぜそんなことを思ったのか分からない。胸の奥が少しだけ締めつけられる。理由は思い出せなかった。
マルティナは静かに俯く。この子は知らない。自分にも帰る家があったことを。両親がいて、笑い合う日々があったことを。
「コハク」
思わず名前を呼ぶ。コハクが振り返った。
「もし……」
その先が続かなかった。まだ早い。今伝えれば、かえって混乱させるだけだ。
「……ううん、何でもない」
コハクは不思議そうに首を傾げる。最近、こんなことが増えた。ロウも。マルティナも。何か言いかけては飲み込む。 何かを知っている。そんな気はする。けれど、それを尋ねようとは思わなかった。
夜。
焚き火を囲みながら夕食を取っていると、シルビアがふと思いついたように尋ねた。
「ねぇ、コハクちゃん」
「何だ」
「夢ってある?」
コハクの手が止まる。夢。そんなものを考えたことは一度もなかった。
生き延びること。
任務を終えること。
明日を迎えること。
それだけだった。
「……ない」
静かな返事だった。皆が顔を見合わせる。
「じゃあ、将来やりたいことは?」
セーニャが優しく尋ねる。
「ない」
「行ってみたい場所は?」
カミュが続ける。
「ない」
「食べたいものは?」
ベロニカが聞く。
「ない」
「……アンタ、本当につまらないわね」
「そうか」
本気で意味が分からないらしい。苦笑が広がる。その中でイレブンだけは黙ってコハクを見つめていた。
嘘ではない。
この少女には本当に存在しないのだ。
未来というものが。
明日も。
一年後も。
十年後も。
何一つ思い描いていない。
あるのは、生きることだけ。
そして最近になって、ようやく生まれた一つの願い。
――帰る場所を探したい。
それだけだった。
夜更け。
皆が眠りについた頃、コハクだけは焚き火の前に残っていた。小さくなった炎を見つめながら、ぼんやりと夜空を仰ぐ。
その時だった。
風が吹く。木々が揺れ、葉擦れの音が静かな夜へ溶けていく。その音に混じって、誰かの声が聞こえた気がした。
『――……』
優しい声だった。懐かしい。胸が締めつけられるほど遠い声。けれど、名前だけが聞き取れない。呼ばれた気がする。誰かが、自分を。
「……誰だ」
返事はない。風だけが吹き抜けていく。コハクは無意識に胸元を押さえた。苦しい。悲しい。それなのに、どこか温かい。そんな感情を知ったのは初めてだった。
「……帰りたい」
小さく零れた言葉に、自分自身が驚く。
どこへ帰りたいのか。
誰のもとへ帰りたいのか。
それだけは、まだ思い出せない。
ただ一つ。
忘れてしまったはずの誰かが、今も自分の名を呼び続けている。
そんな気がしていた。