神なき楽園宣言 ー少女狩人(戦歴七年)が最愛の呪い姫と世界に挑む話ー 作:卯月スズカ
澪は万象を構えながら、翼を破壊された竜の姿を観察する。呟く声には困惑が強く浮かんでいた。
「……効きが悪すぎる」
竜に刻まれた呪刻は生命力を奪って肥大し、被弾した右翼には今も腐敗が広がり続けている。呪いが竜にも通用していることは疑いようがないが──あまりにも、影響が薄い。
悪魔に対して譲葉の呪いがどれほどの効力を及ぼすかを知っている澪だから察知した違和感だった。譲葉は手加減などしていないし、万象の呪詛を増幅させる機構は今も働いている。にもかかわらず、翼が崩壊することなく形を留めている現実は澪にとって想定外そのものだった。
譲葉の呪いを実感として知らない前線の人員は、竜の異様な耐性に気が付けないだろう。澪は自分たちがカラクリを暴くしかないと理解して、譲葉に尋ねた。
「譲葉、どう思う?」
「……そうね。私もここまで効かないなんて考えていなかった。何か理由はあるはずなんだけれど」
譲葉の言葉尻にも迷いが見えた。譲葉の呪いが効果を発揮すれば、生物だろうが世界だろうが生を侵され、命を失う。譲葉はその事実を本能で知るからこそ、竜がまだ生きて動いている光景には途方もない矛盾を感じていた。
譲葉は腕を組み、指でとんとんと叩きながら思考を口ずさんでいく。
「呪い自体は効いている。澪みたいに無効化しているわけじゃない。単に呪いへの耐性が強いだけって可能性もあるけれど、何か違う気がする」
「そうだな。私たちが想定していたよりも侵食が遅いだけで結果は同じだ。翼も直に落ちるだろうし」
銃弾に抉られた翼膜はすでに腐り果てている。呪いが竜を確実に蝕んでいる事実は澪と譲葉の違和感を刺激するが、なかなか答えが見えてこない。原因は必ず存在すると確信できるだけに、手掛かりを掴めないもどかしさは大きかった。
「そう、そうね。耐性があるなら、効果自体が弱まるはず。腐って侵食が進んでいる以上、おかしいのは速度だけ」
「婆様の観測も、あれが悪魔だと判断している。原因があるなら竜の概念だろうが、竜の何が譲葉の呪いを遅らせる?」
澪は思考をそのまま譲葉に伝えて、推察は委ねる。竜の根幹を暴くのは必須でも、澪がまず成すべきは前線を支えること。澪は戦場からひと時も目を離さないようにしながら、弾丸を撃ち込むべきタイミングを常に測っていた。
竜の薙ぎ払い一つで樹木の破片が凶弾と化し、狩人たちに襲いくる。けれどやはり、いつもの狩りだ。規模が大きいだけで、やることは何も変わらない。
譲葉は竜だけを見つめながら、連想を次から次へと言葉にしていく。
「効いているのに、遅い。竜の概念の何かが私の呪いを遅らせている。……ならそうね。澪、次はこっちを。悪魔にどうやって効くかはわからないけれど、最低の記憶を抉り出すものよ」
「──そうか。それなら肉体が原因なのか見られる」
「ええ」
澪は譲葉の意図を理解すると、万象の弾丸を換えながらシトゥリへの通信を繋げる。繋がるとすぐさま、シトゥリからの反応は待たずに用件だけを告げた。
「院長、次の呪いは精神にかける。セレネにも、何か気付いたことがあれば教えてほしいと言伝を」
『ふむ。何か違和感が?』
「呪いの効きが遅すぎる。私たちの想定だと、弾丸が命中した時点で翼は残らないはずだった」
それだけ伝えればシトゥリの理解には十分だったらしい。シトゥリが迷わず応じてすぐに通信は切られた。
攻め立てられる竜は怒りに咆哮を唸り上げる。大気を震わせるほどの怒りはけれど、狩りに人生を費やす人間たちの妨げにはなっていなかった。澪も平常心のままに万象を手繰り直して、皆中の好機を見咎めた瞬間、引き金に指をかけた。
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セレネは地を蹴り、宙を踏んで、翼を失った竜を空から襲っていた。
ここまでの狩りは順調そのもの。三年前と同じ、ただ規模が大きいだけでやることはいつもと変わらない、悪魔を殺すためだけにある戦いだった。
セレネはすん、とペストマスクの奥の鼻をぴくりと動かす。嗅ぎ取ったのは灰の生まれる新鮮な焦げ臭さ。自分が最も竜に近い位置にいることを確認してから巨体の胸元に滑り込んで、膨らむ直前の肺を刺し貫いた。
「……どれだけ斬ってもすぐに治る。相変わらずね」
セレネが火球のブレスを阻むのはもう五度目になる。そのたびに肺を刺しているのに、肉を裂く手応えは変わらない。ほんの数分もあれば、ただの裂傷程度なら癒えてしまうほどの回復力は異様そのもの。攻撃そのものは竜の巨体のおかげで通りやすいが、殺し切れる確信には届いていなかった。
「セレネ、次入れたら交代!」
「了解!」
ペラギアからの呼びかけがやってくる。セレネは全霊の力をこめて今しがた貫いた胸の傷をさらに抉り、眼球を蹴り付けて。最良のパフォーマンスで殺し続けるためにいったん後ろへ下がると、しばらくぶりに心肺を落ち着かせていった。
ジョジュアが壊滅してから三年。三年の月日が流れても、セレネは修道院の狩人のままだった。今の混戦の只中で、歯車としてつつがなく機能していることこそその証明。怨敵を前にしてもセレネに平静を失わせないのはやはり、ジョジュアの娘としての誇りと自負だった。
セレネは曲剣についた血液を払いながら、体内へゆっくりと酸素を取り込んでいく。獣人の鋭い聴覚がシトゥリからの通信のノイズを捉えたのはその最中。
『セレネ、澪から要請がありました。次弾で竜の精神を呪うから、何か気付いたことがあれば教えて欲しいと』
「精神を?」
『想定よりも呪詛の効きが遅いそうです。原因が竜の肉体にあるのか、あるいは何らかの異常性にあるのかを切り分けたいのでしょう』
「なるほど……。了解、命中からしばらくは観察に注力します」
セレネは答えながら背負った鞘に刃を納める。その意図なら今すぐにでも澪は撃つだろうという予想の通り、射撃音が反響して竜の胴体から鮮血が飛び散っていた。
竜の喉からは、グルルと空気を揺さぶるような低音の唸りが発せられる。
狙撃手の位置はわかっているのに、まとわりつく狩人たちのせいでこの場から離れられない。竜が抱く苛立ちを雄弁に物語るそんな音が──不意に、止まった。
乱雑ながら、巨躯だけで脅威に至る攻撃が停止する。ペラギアの狩人たちも攻める手は緩めないものの、竜の変化を受けて、全体の共通意識が様子見に変化していた。
もちろんセレネの思考も同じ。少し離れた場所から竜を見つめる。セレネの視線が竜のすべてではなく、爬虫類そのものの無機質な瞳に向けられていたのはきっと、仇討ちに今を費やし続けた乙女の直感だった。
「────ゥ」
竜がこぼした、ほんの小さな唸り音。そこに明確な意思が宿っていたことを、セレネは思考よりも先に理解する。
竜の視線が何かを探して動き続ける。竜が視界に捉えたのは、ペラギアの中に一人紛れたジョジュアの正装。
その視線を受けたセレネは知らずのうちに、笑っていた。
「……は、はは」
タタールの薬の恩恵だろう。ほんの僅かな時間でも、心拍はすでに整っていた。
戦うことに支障はない。納めたばかりの剣を抜いて、セレネは戦場の只中に歩を向けた。
「私を──私たちを、思い出したな」
真っ先に理解を伝えるべきなのはわかっていた。けれど伝達として整える余裕はなかったから、シトゥリへの通信を繋げて、一方的に自分の声を聞いてもらう。
「そう、そうよ。お前の臓器を潰してやった。喉を裂いてやった。お前を二度も致死に追い込んだ。私たちジョジュアは、お前を何度も追い詰めた」
歓喜だろうか。セレネの背中がぞくりと震える。
ペストマスクに隠された素顔は笑っていた。セレネと竜は今確かに、通じ合っていた。
己の家族を殺した仇敵。己の肉体を破壊した敵らの生き残り。これまで狩人それぞれへの区別を必要しなかった竜は、呼び起こされた忌々しい記憶によって、セレネを見た。
セレネは憎悪の歓喜に心を浸しながら、思考だけは切り分ける。今度こそ竜を殺し切るために、自らのすべてを最適化させていく。
「理解しなさい。ジョジュアとペラギアが、お前を殺すのよ」