神なき楽園宣言 ー少女狩人(戦歴七年)が最愛の呪い姫と世界に挑む話ー 作:卯月スズカ
4-1 唯我とは
すうすうと、澪は毛布にくるまり、穏やかな寝息を立てていた。観測機械はその横に肘をつき、久々に眠りを見守りながら、統御するすべてのコンピューターで悪魔の発生予測の計算を行い続ける。
地下深くの部屋に自然光や外気はない。常に一定の温度と湿度に調整された快適な部屋は観測機械の日常で、澪の原風景でもあった。
「んぅ」
もぞりと毛布の塊が動いた。観測機械はおやと呟き、乱れた額の髪を払ってやる。それが安心を誘ったのか、ぱちと、澪の瞳が何の警戒もなく開いた。
「……婆様、おはよう」
「ああ、おはよう。唯我、顔洗っといで」
「わかった」
澪自身にここで暮らしていた頃の記憶は薄いとはいえ、ペラギアに移ってからも通い詰めている祖母の部屋だ。どこに何があるのかは全部わかっている。澪は促されるまま身支度をしてくると、また観測機械のそばに戻って毛布にくるまった。
「くっくっく……なんだい、いきなり二度寝かい?」
「起きれるけど、まだ眠かった」
「くく、くくくっ……! 唯我、朝食作るけどあんたは?」
「婆様は仕事中だろう。私が婆様の分も用意すればいい」
「あんた、自分で作るとなんでも火通して終わりじゃないか。あたしの分もって言うなら、まず味付けを覚えな」
「……塩は振ってるのに」
むぅ、と不満を浮かべる表情に観測機械はまた笑って、ベッドから立ち上がる。
観測機械の行動可能範囲は狭い。生活する分には問題ないが、繋がれた機械たちは四百年の間、観測機械をこの部屋に留めている。
サンドイッチとスープ。観測機械が用意した食事を二人で頬張る。澪は普段よりもゆっくり食べ終えると二人分の食器を片付けてから、サイドチェストにしまわれた櫛を手にした。
「婆様、髪は切らないのか?」
「別に切ってもいいんだけどね。一人だと切るにも限度があるし、後片付けも面倒だし、ここまで伸びちまえばかえって気にならないし」
観測機械が口にするメリット一つ一つに、澪はふむと相槌を打っていく。観測機械はにいと笑って、自分の髪を梳く澪を見た。
「唯我の仕事も奪っちゃ悪いしねえ」
「ああ。婆様の髪は私が綺麗にしたい」
澪の返事に、観測機械はくつくつと喉から音を立てて笑う。幼い頃から澪に安堵を与える、いつもの笑い声だった。
「唯我、何日泊まってく?」
「とりあえず、今日と明日は泊まらせてもらう。その後は、まだ決めていない」
澪の声に迷いが浮かぶ。ふむ、と観測機械が促せば、澪はぽつぽつとまとまり切らない思考を言葉にし始めた。
「……婆様といられるのは嬉しい。でも、長くここにいると、婆様に甘えて外に出られなくなりそうで、怖い」
「そうかい」
「うん。……婆様」
ゆっくりと、澪は口を開く。どうやって表現するものかと言葉を探しながらも、けれど言いたいことはわかっていると物語るような、しっかりした声だった。
「ここだと婆様の孫だから、私も唯我でいられる」
「うん」
「でも、ここの外だと駄目なんだ。……譲葉にも、私は唯我だって言えていない。譲葉なら、知っててもおかしくないってわかってるのに」
澪が髪を梳く手付きに淀みはない。長く伸ばされ、どうしても絡まる亜麻色の髪を丁寧に解いていく。
「森羅のせいで、あいつが羨ましかったって気付いた。でも、エルダーガーデンに戻りたいとは思わない。私はペラギアだし、婆様の孫なんだから」
「うん」
「私は森羅が羨ましくて、でも私の家はちゃんとある。エルダーガーデンに認められたいとは思わないけど、認められているあいつは羨ましい」
観測機械はただ相槌を打って、澪の言葉を待つ。しばらく沈黙してから、澪は「あ」と小さく呟いた。
「そうか。婆様、私はあいつの名前が羨ましいんだ。あいつがちゃんと、本当の名前で生きているのが羨ましい」
澪はやっと気付いた羨望の中身に目を丸くする。髪を梳く手も今だけは止まっていた。
「澪も、院長がくれた大事な名前だ。狩人になりたいって言ったときに、院長がゼロじゃなくて澪にしてくれたから、私は戦場に立てた」
「……ああ」
「でも、唯我がいい。澪は戦うための名前だ。唯我は婆様がくれた、生きているだけでいい名前だ。外でもちゃんと、婆様の孫になりたい」
そうか、と観測機械は小さくこぼした。観測機械は喉の震えを飲み込んで、くつくつと笑う。
「なんだ、あたしの孫って名乗るのが恥ずかしいのかい?」
「違う。婆様の孫って堂々と言えるくらい、譲葉と一緒に楽園を証明して、私が自分の価値を信じられないと駄目なんだ」
むう、と澪はからかいにむくれる。悪い悪いと観測機械が言えば、澪の機嫌もすぐに戻った。髪を梳く手の動きも再開される。
「婆様。いつかちゃんと、帰ってくる。だから、待ってて」
「──ああ。いくらでも、待っててあげる。だからあんたも、約束は果たすんだよ」
「わかった」
観測機械が差し出した小指に、澪も小指を絡める。
澪の休暇が始まった、一日目の朝だった。