神なき楽園宣言 ー少女狩人(戦歴七年)が最愛の呪い姫と世界に挑む話ー 作:卯月スズカ
『発生位置、南部大森林。悪魔概念は豊穣』
『従来通りペラギア修道院が対応。猟友会序列七位オレリア・ファムが協働狩猟者として参加』
『戦局一切問題なし。豊穣本体討伐終了次第、仔の殲滅に入る』
澪は女学院のロビーの片隅に立ち、通信端末に送られた報告を眺めながら豪雨の雨音に耳を傾けていた。
滝がまるごと落ちているかのような濁雨。豊穣相手の長期戦でこんな悪天候を引いてしまった姉たちの不運には同情するが、不安には繋がらない。
いつも通りの狩猟だ。長期戦と悪天候が重なろうが、ペラギアにとって支障にはならない。だから、澪の思考を支配するのはただ一つ。戦場にいない自分への焦燥だけだった。
「院長と姉さんたちはどう?」
傍らに立つ譲葉はそっと囁いて、澪の手を握った。柔らかな指先に込められた力は、澪を引き戻すような強さだった。
澪は小さく苦笑して、自分からも指を絡める。やはり譲葉には、自分の感情など手に取るように見透かされてしまうのだと実感しながら。
「問題ない。いつもと何も変わらないよ。それにオレリアが協働しているそうだから、むしろ普段よりやりやすいだろうな」
「オレリアさんが? 贅沢ね」
猟友会でも上位の実力者、単独狙撃部隊の異名をとって重宝される狩人の名前に譲葉は目を丸くする。澪は通信端末のメッセージから今の戦場を順に辿って、譲葉の驚きを肯定した。
「今の状況だと、オレリアが動くなら豊穣相手が最も丸い。オレリアも手隙だから出てきたんだろうな」
澪にとって、狩りは最もわかりやすい概念だ。女学院という場所への緊張も少し和らいで、普段よりも口数が多くなっていた。譲葉は温和な瞳で澪を眺め、問いかける。
「戻りたい?」
端的な質問。戦場に立ちたいかという確認。澪も聞かれるのはわかっていたから、すぐに首を横に振る。
「正直に言えば。けれど、私が戦うべきはここだ。院長が呼び戻さなかったんだから私が加わる理由はないし、必ず叱られる」
「ふふっ、そうね。お前たちの楽園はその程度のものなのですか、って」
譲葉が口ぶりを真似すれば、澪はむぅと顔をしかめる。説教の場面がありありと想像できてしまったせいで、女学院では強張っている表情も緩んでいた。
雨の濁流が地面を鳴らしている。澪は譲葉と手を繋いだまま、雨音に浸る。その最中も目線はじっと、ロビーのテレビに映された報道に向けられていた。
報道が伝えるのは豊穣の特徴。
豊穣の概念を宿した悪魔は、討伐しない限り際限なく仔を増やす。無限に増殖する仔の群れを掃討しなければ本体に手を出せないが──ただそれだけだ。
豊穣の仔は獣とそう変わらない。持久戦を避けられないという意味ならたしかに規模は大きいが、脅威はさほどと言い切れる。それを体感で知る澪からすれば、不安そうに報道を見やる少女たちの心境が理解できなかった。
未だ、よくわからない外の世界。澪は逸れた意識を首を振ることで戻すと、隣の譲葉に疑問をそのままぶつけた。
「姫。報道はいつも事実を伝えるものなのか?」
「うーん、場合によりけりね。悪魔のことは事実をそのまま伝えた方が誰にとっても有益だけど、そうじゃない情報の方が多いから」
「ふむ、発信者の利益次第か」
「ええ、そういうこと」
澪と譲葉の周囲に人はいない。エルダーガーデンのゼロとブルーリッシュの姫君の二人を誰もが恐れ、拒絶して、距離を取っている。その孤立に平然と声をかけてくる生徒は今やイオ一人だけだった。
「あれ? 珍しいね、二人が外にいるなんて」
「あら、先輩。ええ、澪がニュースを見たいって言うからちょっと出てきたの」
イオの呼びかけに、譲葉もにこやかに対応していた。仮面ではない柔和さで、譲葉はイオを受け入れる。
イオは二人の空間に音を立てず入り込むと、首を傾げて問いかけた。
「ニュース……もしかして見たことなかったの?」
「ああ、必要がないから。戦場の報告なら、こちらが遥かに早いし正確なようだ」
澪が通信端末を示せば、イオは興味深そうに頷いた。
狩人たちの連携を支えるのは、猟友会が狩りに集中するための雑務を担うために発生し、楽園思想の集積としても機能する教会だ。教会があるから狩人たちでも組織立った動きができていると称して過言ではないほどに、その働きは多岐にわたる。
イオは澪の言葉選びで直感したのだろう。報道を一度見やってから、澪に尋ねた。
「もしかして、かなり進んでたり?」
「ほとんど終わりかけているようだ。まあ、三日目なら当然だな」
イオが大物の発生を予測したのは五日前。観測機械が豊穣の発生を予測するのとほぼ同等の速度で兆候を掴んでいたというのだから、イオの技量も末恐ろしい。澪は豊穣の発生が確定してようやく、通話越しの観測機械が手を叩いて笑い転げていた意味を実感していた。
観測機械のああも愉快そうな声を聞けるのは滅多にない。澪は自然とその時の記憶を辿って、そういえばと思い出した。
「……そうだ、忘れるところだった。イオ、一つ言伝を預かっている」
「言伝?」
「だいたい四百五十年前に出版された星見図がいくつかあるんだが、もういらないしそろそろ大掃除をしようと思っていたし、ちょうどいいから引き取ってもらえれば助かる、と言っている人がいる」
「……ん?」
イオはまず、目をぱちくりとさせて澪の伝言をゆっくり咀嚼していた。
澪も伝言の口上が明らかにからかいを目的にしているのは理解しているのだが、一言一句同じように伝えるようにと念押しされたうえに、提案そのものが好意なのは事実だから逆らえない。ふぅとため息を落として、わざわざメールにも認められた文章を口にする。
「とはいえこっちの不用品を無理に引き取ってもらうのも申し訳ない。不要なら鍋敷にするだけから、気楽に考えておくれ、と」
「待って、あんた何言ってんの?」
「私じゃない。私は読み上げただけだ」
固まっていたイオは鍋敷と聞くやすぐさま動きを再開して、澪の肩を掴んで揺さぶり始める。ゆさゆさと、澪が左右に揺さぶられながらも見せた携帯端末には確かに、伝言通りのメッセージが残されていた。
婆様とだけ記録された宛先は、澪と観測機械の繋がりを明かさない。イオはええ、と肩を落としながら、困惑と期待が同時に見える声を発した。
「いやそりゃ、うちも甘えたいけど……あんたどんな人脈持ってるん?」
「そうだな、ここだけはかなり特殊だ。引き渡しがいつになるかはわからないが、欲しがっていたことは伝えておく」
「え、えっと……うん、そこは本当にありがと。そのお人にもよろしく伝えといて」
「ああ」
澪とイオのやりとりに、譲葉は口を挟まずただ楽しげに見守っていた。
緩やかな空気の中だった。不意に澪の通信端末が音を立てる。澪の視線が鋭く吊り上がって、今ばかりは譲葉もイオも目に入っていないほどの集中で画面を確認した。
澪はじっと文面を確認する。普段は張り詰めている佇まいが、今は静かな高揚に染まっていた。その唐突な変化を目の当たりにしたイオは、呆気に取られたように、澪を呼ぶ。
「……澪、どうしたの?」
「院長から連絡があった。姫、繋いでほしい。顔を見たいと言われている」
「十秒ちょうだい。──ごめんなさい、少し使わせてもらうわ」
譲葉は澪から受け取った通信端末を手にして、今まで報道を映していたテレビと繋げる。
人体を基点に生じる神秘的科学を用いた通信要請。澪には扱えない技術だから、譲葉が担う。澪が周囲の視線を受けながらテレビの前に向かえば、宣言通りの十秒後に、返り血で全身を染め上げたシトゥリの顔が映し出された。
シトゥリは澪と譲葉の姿だけを確認して、頷く。戦場の只中とは信じられないほどに穏やかな、いつもと何も変わらない声だった。
『澪、譲葉、久しいですね。お前たちの証明は順調ですか?』
「今のところは。院長、私の役割は?」
何の前触れもなく始まった狩人のやりとりだけがロビーに響いていた。シトゥリは柔和に微笑んで、欺瞞を告げる。
『追討を。豊穣の本体は今しがた討伐しましたが、死に際の出産数が想定を超えていた。そちらに向かう仔を、お前に委ねます』
シトゥリのその言葉に、声のない恐慌が広がった。
けれど、澪は笑う。シトゥリの言葉が明らかな嘘だったから、真意はすぐに理解できた。
とうに把握している悪魔の討ち漏らしを許すなど、ありえない。シトゥリの言葉は、要請を装った支援だ。お前の実力を少女たちに見せてやれと、家族が助けてくれている。
澪は外に出てきて以来、常に感じていた肩の荷を下ろしながら修道院正式の礼をする。戦場に意識を向けながら、決して支援を無駄にしないと頷いた。
「了解した。ペラギアの澪、追討に入る。──姫、手伝いを頼む」
「ええ、もちろん」
通信が切れる間際に、譲葉はシトゥリに向けて手を振った。シトゥリも満足そうに二人の娘を見送って、己の戦場に帰っていった。
しんと静寂が戻る中、澪と譲葉は迷わず私室に足を向けた。装いを本来のものに戻して、ペラギアの澪が戦場へ向かうために。