異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
射命丸文は、山の中腹に不自然な緑を見つけた。
風に揺れる、低く刈りそろえられた灌木の列。畑にしては妙に整っている。人里の畑ではない。河童の実験農場でもない。守矢神社の新事業にしては、看板も幟もない。
文は木の枝に降り立ち、目を細めた。
「……茶畑?」
幻想郷に茶畑があること自体はおかしくない。おかしくないが、場所がおかしい。ここは天狗の勢力圏から少し外れた、人間が簡単に来るには険しい山肌である。さらにおかしいことに、その茶畑の真ん中に、伊吹萃香がいた。
小さな鬼は、瓢箪を腰に下げ、片手に鋏を持って、茶葉を真剣な顔で眺めていた。
文は思わず懐から手帳を出した。
見出し候補、その一。
――鬼、ついに酒を捨てる。
見出し候補、その二。
――伊吹萃香、謎の緑葉栽培。山中に広がる“新たな依存先”。
見出し候補、その三。
――瓢箪の中身、酒ではなく茶か。鬼社会に激震。
どれも悪くない。悪くないが、最近の文は少しだけ慎重だった。真実性、公益性、相当性。天狗の新聞にも、最近はそういう面倒な言葉が入り込んでいる。
なにより、相手が鬼だった。
「萃香さん」
文が声をかけると、萃香は振り向きもせずに言った。
「見てたね」
「ええ、偶然です。山中に不審な畑を発見しまして」
「茶畑だよ」
「やはり。隠していたのですか?」
「別に」
萃香は鋏を止め、摘んだ葉を籠に入れた。
「隠すなら、もっと分かりにくい所に作るよ。山の日当たりと風の通りがちょうどよかっただけ」
「なるほど。では記事にしても?」
「好きにすれば」
あまりにも簡単に許可が出たので、文は少し困った。
「よろしいのですか? 鬼が茶畑を作っているとなれば、なかなか読者の関心を引くと思いますが」
「別に悪いことしてないしね」
「酒をやめた、という理解で?」
「なんでそうなるのさ。普通に飲むよ」
「では、お茶は?」
「お茶も飲む」
「両方ですか」
「飲み物なんだから、好きなら両方飲めばいいだろ」
萃香はそこで、少しだけ笑った。
「宴会なら酒だよ。天狗の宴会はちょっと量がおかしいけど」
「鬼が言いますか?」
「あれは酒が嫌なんじゃなくて、勝負になってるのがきついんだよ」
「鬼だから?」
「鬼だから受けるけどね」
文は無言で手帳に書き込んだ。
――鬼だから受ける。
これは使える。非常に使える。けれど使い方を誤ると、たぶん翌朝には自分が茶畑の肥料になっている。
「それで、お茶ですか」
「うん。酒は酒でいいんだよ。でも、お茶もいい。香りがある。苦みがある。頭がすっきりする。飲んでも足元がふらつかない」
「鬼が言うと重みがありますね」
「天狗の新聞にそう書かれると、別の重みが出るからやめて」
文は笑ってごまかした。
正直、ここで一つくらい悪意ある角度をつけたかった。
鬼が健康志向に目覚めた。
鬼、酒宴文化に疑問。
萃香ブランド茶、裏で山の勢力図を変えるか。
どれも見出しとしては強い。強いが、萃香は今、片手に鋏を持っている。農具に見えるが、鬼が持てば武器である。文は職業倫理と身の安全を天秤にかけ、珍しく両方を採用することにした。
「では、素直に書きます」
「珍しいね」
「最近はコンプライアンスに気をつけていますので」
「その言葉を使う奴ほど信用できないんだよなあ」
萃香はそう言って、畑の脇に置いてあった小さな急須を手に取った。いつの間に用意していたのか、湯気の立つ湯呑みが二つ並んでいる。
「飲んでく?」
「取材対象からの供応は、記事の公平性に影響する可能性が」
「じゃあいいや」
「飲みます」
文は即答した。
湯呑みから立つ香りは、思ったよりずっと澄んでいた。草の青さだけではない。山の冷えた空気と、日なたの土の匂いが、ほどよく丸くなっている。
一口飲む。
文は目を瞬かせた。
「……美味しいですね」
「だろ」
萃香は少し得意そうに笑った。
「酒は酒でいいんだよ。でも、お茶はまた違う。葉の摘み方、蒸し方、揉み方、火の入れ方。ちょっと違うだけで味が変わる。強けりゃいいってもんじゃない」
「鬼から聞くと、なかなか新鮮な言葉です」
「鬼だって繊細なものを分かるよ。分かったうえで壊すだけで」
「最後の一言で台無しです」
文は湯呑みを空にし、手帳を閉じた。
翌日の『文々。新聞』には、珍しく落ち着いた記事が載った。
見出しはこうだった。
――伊吹萃香、山中で茶畑を開く “酒は百薬の長”幻想入り後の新習慣か
本文はおおむね事実に沿っていた。伊吹萃香が山中に茶畑を作っていること。本人は隠していないこと。酒は変わらず好んでいる一方、最近は茶にも凝っていること。天狗の宴会については「酒席文化について思うところがあるようだ」とだけ書かれていた。
ただし、最後に余計な一文があった。
――なお、記者も試飲したが、萃香氏の茶は普通にうまい。集中力が欲しい巫女、魔法使い、締切前の新聞記者などにはおすすめである。
博麗神社では、霊夢が新聞を読みながら眉をひそめた。
「集中力が欲しい巫女って、誰のことよ」
魔法の森では、魔理沙が新聞を折りたたみ、少し考えた。
「普通にうまい、か。鬼の茶ってのは気になるな」
そして山では、萃香が新聞を手に、しばらく黙っていた。
「……まあ、今回は許すか」
文はその日、なぜか少しだけ胸を張って飛んでいた。
イエロージャーナリズムの魂は、まだ死んでいない。
ただ、鬼は怖い。
それだけのことである。