異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
霧雨魔理沙の家には、しばらく来客が増えた。
正確には、来客ではない。監視であり、教師であり、説教係である。
吹き飛んだ屋根は、アリスの人形と美鈴から借りた資材と、魔理沙本人の雑な腕力によって、どうにか元の形に近いものへ戻った。近いだけで、同じではない。窓の位置が少し変わり、壁の一部は前よりも丈夫になり、机は新しくなった。
ただし、机の上には、今までの研究ノートとは別に一冊の帳面が増えていた。
魔理沙のノートなら、もともと何冊もある。茸を採った場所、試した組み合わせ、うまくいった魔法、失敗した魔法。本人が見ればだいたい分かるようには書いてある。
だが、新しい帳面は違った。
葉の種類。乾燥日数。量。八卦炉の出力。魔力を通した時間。結果。
最初から項目まで決められている。
魔理沙はそれを、心底嫌そうに見ていた。
「なんでこんな細かく書かなきゃいけないんだよ」
その日の担当はアリスだった。
アリスは人形に乾燥させた木の葉を小皿へ分けさせながら、淡々と言った。
「同じ失敗をしないためよ」
「同じ失敗はしないぜ」
「前回の失敗原因は?」
「出力」
「どれくらい?」
「ちょっと多かった」
「だから記録するの」
魔理沙は羽ペンを持ったまま、机に突っ伏した。
「魔法ってのは、もっとこう、星が流れる感じとか、火花が散る感じとか、そういうものだろ」
「それを書けばいいじゃない」
「書いたら怒るだろ」
「“星が流れる感じ”だけなら怒るわ。けれど、それが火花の色なのか、魔力の流れなのか、八卦炉の振動なのか、素材の匂いなのかまで書けば資料になる」
魔理沙は顔だけ上げた。
「匂いも書くのか?」
「書きなさい。茸を使うなら、匂いは重要でしょう」
「それはまあ、そうだな」
アリスは少しだけ笑った。
「ほら。あなたは分かっていないわけじゃないのよ。分かっていることを、頭の中と手癖と、自分にしか分からない言葉に置いているだけ」
魔理沙は不服そうに羽ペンを動かした。
木の葉魔法実験 二回目。
素材:乾燥させた楓の葉。茸粉末なし。
匂い:少し甘い。焦げる前の紙みたい。
八卦炉出力:かなり弱め。
結果:暗くならず、葉が丸まった。
感想:つまらない。
アリスが覗き込む。
「最後の一文は要らないわ」
「いる。大事だ」
「何に?」
「やる気に」
アリスはしばらく考え、諦めた。
「まあ、主観的評価も記録ではあるわね」
別の日には、パチュリーが来た。
魔理沙は実験記録帳を開きながら、また同じことを言った。
「なんでこんなことをやるんだよ」
パチュリーは咳をしてから、椅子に座った。
「再現性のためよ」
「アリスも似たようなこと言ってた」
「アリスは失敗を減らすため。私は成功を増やすために言っている」
「違うのか?」
「違うわ。失敗を避けるだけなら、危ないことをしなければいい。でもあなたは、危ないことをしたいのでしょう」
「人聞きが悪いぜ」
「違うの?」
「違わない」
「なら、成功した条件を残す必要がある」
パチュリーは前回の記録をめくった。
「ここ。三回目。葉が一瞬だけ影を作ったとある」
「そうそう。机の上だけ、月明かりが消えた」
「その条件を再現できる?」
「……たぶん」
「たぶんでは困る」
「困るのか」
「困るわ。あなたが“たぶん”で撃った魔法を、相手は“確実”に避けるかもしれない」
魔理沙の顔が少し変わった。
パチュリーはそこを逃さなかった。
「霊夢に勝ちたいのでしょう」
「別に、いつも勝ちたいわけじゃない」
「今、“勝てるなら勝ちたい”と思ったわね」
「お前はさとりか」
「顔に出ているわ」
魔理沙は舌打ちした。
パチュリーは平然と続けた。
「霊夢は勘が良い。曖昧な魔法は、曖昧なまま避けられる。けれど、場の光を奪う、魔力感覚をずらす、陰影そのものを弾幕にする。そういう術が安定すれば、霊夢の勘に干渉できるかもしれない」
「……安定すればな」
「だから記録するの」
魔理沙は渋々、羽ペンを持った。
木の葉魔法実験 五回目。
素材:乾燥三日の柊の葉。
混合:茸粉末ごく少量。
八卦炉出力:前回より一目盛り下。
魔力投入:短く三回。
結果:机の上の影が一拍遅れて動いた。
感想:ちょっと面白い。霊夢の札に使えるかもしれない。
パチュリーはそれを読み、頷いた。
「だいぶ良くなったわ」
「私が?」
「記録が」
「そこは私と言えよ」
「記録が良くなるのは、あなたが良くなっているということよ」
「回りくどいな」
「理論とはそういうものよ」
また別の日には、聖白蓮が来た。
白蓮は他の二人より穏やかだった。穏やかだが、逃げ道を塞ぐのが上手かった。
魔理沙は茶を出しながら、また同じことを言った。
「なんでこんなことをやるんだよ」
白蓮は湯呑みを受け取り、にこりと笑った。
「自分を知るためです」
「急に修行っぽくなったな」
「修行ですから」
「魔法の実験じゃなかったのか?」
「魔法の実験も、自分を知る修行です。あなたは、何を見て、何を感じて、どこで危ないと思い、どこで面白いと思うのか。それを知らなければ、力に振り回されます」
魔理沙は顔をしかめた。
「私は振り回されてないぜ」
「家は吹き飛びました」
「家は振り回されたな」
「屁理屈です」
白蓮は穏やかなまま言った。
「あなたは覚えが悪いわけではありません。むしろ、かなり良い。これまでのノートも、あなた自身が使うには十分だったのでしょう」
「だったら、これでいいじゃないか」
「でも、昨日のあなたと今日のあなたが、同じ『少し』を同じ量だと思っているとは限りません」
魔理沙は少し黙った。
「……それは、まあ」
「昨日の成功を、今日もう一度同じ条件で試せるようにする。今日の失敗を、どの条件が違ったのか比べられるようにする。そのための記録です」
魔理沙は魔導書を読む。弾幕を見る。盗む。借りる。真似る。自分のものにする。そうやって強くなってきた。
自分の実験だって記録してきた。
ただ、自分のやり方そのものを、他人の弾幕を見るように細かく分解して眺めたことは、あまりなかった。
「……私はさ、自分でも本を書いてるんだぜ」
「知っています」
「弾幕の記録も書くし、自分の実験だって残してる。できないわけじゃない」
「ええ」
「でも、今までのは私が読めればよかったんだよ。『いつもの茸』『少し乾かす』『火は強め』。見れば、その時どうやったか思い出せる」
白蓮は静かに聞いていた。
「霊夢の札とか、咲夜のナイフとか、幽々子の蝶とかは違う。私のものじゃないから、ちゃんと見ないと盗めない」
魔理沙は少しだけ顔をしかめた。
「自分の魔法まで、同じように外から見るのが……なんか変なんだよ」
「恥ずかしいですか?」
「違う」
「怖いですか?」
「それも、違うな」
「では、悔しい?」
魔理沙は少し黙った。
「……たぶん、それだな」
白蓮は頷いた。
「自分では分かっているつもりだったものが、書こうとすると曖昧だと分かる。それは悔しいものです」
「そうだよ。私は分かってるんだよ。どの茸がいいか、どれくらい乾かすか、八卦炉をどう持つか、どこで魔力を押すか。でも書くと、“なんとなく”ばっかりになる」
「なら、その“なんとなく”を少しずつ言葉にすればいい」
「それが面倒なんだよ」
「面倒なことをした人だけが、面倒な力を扱えます」
魔理沙は湯呑みを置いた。
「白蓮は、そういう言い方がうまいな」
「年の功です」
「それ、紫に言ったら怒られるやつだぜ」
「紫さんには言いません」
魔理沙は笑った。
それでも、納得したわけではなかった。
アリスの言う「失敗を減らすため」も分かる。
パチュリーの言う「成功を増やすため」も分かる。
白蓮の言う「自分を知るため」も、まあ分からなくはない。
だが、魔理沙にとって魔法は、もっと手の中で爆ぜるものだった。
理屈にする前に、光る。
説明する前に、飛ぶ。
危ないと思ったときには、もう面白い。
それでも、最近は少し変わってきていた。
条件を揃えて記録すると、昨日の失敗と今日の実験を比べられる。
素材の量を変えると、影の出方が変わる。
葉の種類で、闇の質が違う。
茸を混ぜると、闇の中に星のような粒が出る。
茶葉を使うと、光が柔らかく曲がる。
何かが分かってきている。
それは認めざるを得なかった。
夕方、三人が帰ったあと、魔理沙は一人で記録帳を開いた。
木の葉魔法実験 十一回目。
素材:乾燥二日の椿の葉。
混合:茸粉末なし。
八卦炉出力:低。
魔力投入:細く長く。
結果:光を消すのではなく、影を固定した。
感想:氷に少し似ている。チルノに聞くと面倒そうだが、聞く価値はあるかもしれない。
そこまで書いて、魔理沙は羽ペンを止めた。
そして、少し考えてから追記した。
今までだって、自分の魔法は書いてきた。
ただ、それは後で自分が思い出すための記録だった。
『少し』『強め』『いつもの』『いい感じ』。
その日の自分には、それで十分だった。
今書いているのは、少し違う。
同じ条件を、もう一度作るための記録だ。
自分以外の誰かが見ても、少なくとも何をしたのかは分かる。
たぶん、今まで一番感覚に任せていたのは、魔法そのものではなく、その感覚を説明するところだった。
魔理沙はその一文を見つめた。
気恥ずかしくなって、消そうかと思った。
だが、消さなかった。
「まあ、いいか」
魔理沙は記録帳を閉じた。
理論派になるつもりはない。
きっと明日も、最後は感覚で撃つ。
面白そうなら試す。危なそうでも、少しは試す。
霊夢より強くなれると言われれば、たぶん乗る。
けれど、感覚で掴んだものを、次の自分へ渡すくらいなら、やってもいい。
魔理沙はミニ八卦炉を手に取った。
窓の外では、森の葉が夕暮れの光を受けて揺れている。
「木の葉で闇か」
魔理沙は笑った。
「次は、吹き飛ばさないようにやるか」
少し間を置いて、付け加える。
「たぶんな」