異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
霊夢は、博麗神社に戻ってからもしばらく黙っていた。
別に不機嫌ではない。眠いわけでもない。賽銭箱が空なのはいつものことだし、境内が少し寂れているのもいつものことだ。
ただ、霧雨魔理沙が、いつもと少し違うやり方で魔法を見ていた。
それが、少しだけ引っかかっていた。
魔理沙が研究すること自体は珍しくない。茸を集めて、試して、失敗して、また試す。そうやって今までだって魔法を作ってきた。
けれど昨日は、木の葉の量を測り、乾燥日数を書き、八卦炉の出力を控え、一つ前の実験と何が違うのかを確かめていた。
できることを、できるからで済ませず、一つずつ見直していた。
もちろん、魔理沙は魔理沙だった。調子に乗るし、すぐ霊夢に勝つ話にするし、最後には「デートかよ」などと言っていた。
それでも、ああいうやり方もあるらしい。
霊夢は縁側に座り、湯呑みを眺めた。
「……私も、自分がどうやってるのかくらい、見直した方がいいのかな」
その場の空気が止まった。
縁側の反対側で茶を飲んでいた華扇が、湯呑みを置いた。
隙間から顔だけ出していた紫が、扇を止めた。
境内の石段に腰かけていた萃香が、瓢箪ではなく湯呑みを持ったまま動きを止めた。
木の上で地獄コーラを飲んでいた天子が、目を丸くした。
最初に言ったのは華扇だった。
「異変ですか?」
「異変じゃないわよ」
紫が続けた。
「霊夢が自分から修行を?」
「だから異変じゃないって」
萃香が目を細めた。
「熱でもある?」
「ないわよ」
天子が木から降りてきた。
「もしかして、魔理沙に何かされた?」
「されてないわよ」
四人は顔を見合わせた。
そして、ほとんど同時に言った。
「日頃の行いね」
「日頃の行いよ」
「日頃の行いだね」
「日頃の行いだわ」
「なんでよ!」
霊夢は湯呑みを縁側に置いた。
「私が少し真面目なことを言っただけで、どうして異変扱いなのよ」
華扇は真顔で言った。
「普段の霊夢なら、“修行なんて面倒”と言います」
「言うけど」
紫も頷いた。
「普段の霊夢なら、“必要になったらどうにかなる”と言います」
「言うけど」
萃香が笑った。
「普段の霊夢なら、“勝てるからいい”って言うね」
「言うけど」
天子が瓶を振った。
「ほら、全部合ってるじゃない」
「合ってるから腹が立つのよ」
霊夢は少し黙った。
それから、縁側から境内を見た。
鳥居。賽銭箱。石畳。少し伸びた草。天子の桃の若木。お燐が妙に世話をしているせいで、まだ枯れていない。華扇が持ってきた萃香の茶。紫が隙間から出してくる外の菓子。天子が置いていく変な石。
博麗神社は、いつも通りだった。
いつも通りなのに、少しだけ違って見えた。
「修行というわけじゃないのよ」
霊夢は言った。
「じゃあ何?」
萃香が聞く。
「博麗の巫女が、そもそも何なのか。そこは知った方がいいかなと思っただけ」
今度は、誰もすぐには茶化さなかった。
華扇の表情が少し引き締まる。
紫は扇で口元を隠した。
萃香は湯呑みの中を覗いた。
天子だけが、少し首をかしげた。
「博麗の巫女って、霊夢のことでしょ」
「そういう意味じゃないわ」
霊夢は自分でも、少し面倒なことを言っていると思った。
「私は博麗の巫女よ。妖怪退治をして、異変を解決して、神社にいて、たまにお祓いをして、賽銭が入らなくて、面倒ごとを押し付けられる」
「だいたい合ってますね」
華扇が言った。
「でも、それって私がいつもやってることじゃない。博麗の巫女が何か、とは少し違う気がする」
紫が静かに言った。
「珍しいわね。霊夢が役割の根っこを気にするなんて」
「だから異変じゃないってば」
「異変ではないわ」
紫は微笑んだ。
「でも、小さな境界には触れている」
「またそういう言い方をする」
「博麗の巫女とは、幻想郷の内と外、人間と妖怪、日常と異変の境界に立つ者。そう言えば綺麗だけれど」
「けれど?」
「それだけでは足りないわね」
華扇が続けた。
「博麗の巫女は、退治する者でもあります。しかし、ただ妖怪を滅ぼす者ではない。均衡を保つ者です」
萃香が笑う。
「宴会を開く者でもあるね」
「それは仕事なの?」
「かなり大事だよ。異変が終わった後、みんなが同じ場所で酒を飲めるなら、幻想郷はまだ大丈夫ってことだから」
霊夢は少し嫌そうな顔をした。
「酒は体に良くないんじゃなかったの」
「最近はお茶でもいい」
「軽いわね」
天子は地獄コーラの瓶を掲げた。
「じゃあ、博麗の巫女は場を開く者?」
「急にそれっぽいことを言うじゃない」
「私は天人よ」
「妙に地上人っぽい天人だけどね」
「地上を知ってる天人と言いなさい」
霊夢は四人を順番に見た。
「退治する者。均衡を保つ者。境界に立つ者。場を開く者」
「どれも間違いではないでしょう」
華扇が言った。
「でも、霊夢さんが知りたいのは、もっと実感に近いことでは?」
「実感ね」
霊夢は自分の手を見た。
お祓い棒を握る手。札を投げる手。賽銭箱を叩く手。茶を飲む手。異変が起きれば自然に動く手。
「魔理沙はさ」
霊夢はぽつりと言った。
「今までと同じじゃ、今までから見えるところにしか行けないって言ってた」
紫の目が少し細くなる。
「へえ」
「それで、自分の可能性を自分で縮めるべきじゃないって」
萃香が笑った。
「魔理沙が言いそうだね」
「言いそうだけど、ちょっと本気だった」
「それで霊夢も影響されたと」
天子が言う。
「影響じゃないわよ」
「影響でしょ」
「違うわよ」
「じゃあ何?」
霊夢は少し考えた。
「引っかかっただけ」
紫が小さく笑った。
「それを影響と言うのよ」
「うるさい」
華扇は真面目な顔で言った。
「では、霊夢さん。まず何を知りたいのですか?」
「博麗の巫女が何をしてきたのか」
「歴史ですか」
「歴史というか……私の前にも博麗の巫女はいたんでしょ」
紫は答えなかった。
華扇も、すぐには答えなかった。
萃香は静かに茶を飲んだ。
天子だけが、空気を読んだのか読まなかったのか、瓶の泡を眺めていた。
「いたのでしょうね」
紫がようやく言った。
「少なくとも、あなたが最初ではないわ」
「知ってるわよ」
「でも、あなたはあなたよ。過去の博麗を知ったところで、その通りにする必要はない」
「それも分かってる」
「なら、なぜ?」
霊夢は少しだけ目を伏せた。
「今まで、私は何となくできたのよ」
誰も茶化さなかった。
「異変が起きたら、何となく分かる。危ない妖怪も、放っておいていい妖怪も、何となく分かる。札を投げれば当たるし、結界も張れる。必要な時には、必要なことができる」
「それが霊夢さんの強さです」
華扇が言った。
「でも、何となくできるままだと、何となくできるところまでしか行けないのかもしれない」
霊夢は魔理沙の言葉を、少しだけ自分の言葉にした。
「別に魔理沙みたいに記録帳をつけたいわけじゃない。理論派になる気もない。でも、博麗の巫女が何を背負っているのか、何を見ないふりしてきたのか、それくらいは知っておいた方がいいのかなって」
萃香が湯呑みを置いた。
「霊夢がそう思ったなら、知ればいいんじゃない」
「軽いわね」
「知っても霊夢は霊夢だよ。知らなくても霊夢だけどね」
天子が言った。
「でも、知った方が退屈しなそうね」
「動機が天人すぎる」
「良いことじゃない。退屈しないのは大事よ」
華扇は少し厳しい声で言った。
「ただし、知るということは、都合の良いことだけを見るという意味ではありませんよ」
「分かってるわよ」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは、はい、と言いなさい」
「はいはい」
紫は扇を閉じた。
「では、まず神社の中を探してみたら?」
「神社の中?」
「古い札、古い記録、古い道具。博麗神社には、あなたが見ていないものがまだあるでしょう」
「うちにそんな立派なものあったかしら」
「立派かどうかは別として、古いものならあるはずよ」
霊夢は露骨に嫌そうな顔をした。
「掃除から?」
「ええ」
華扇が即答した。
「まず掃除です」
「修行より嫌なんだけど」
「日頃の行いですね」
「またそれ」
萃香が笑った。
「神社がさびれてるおかげで、古いものは残ってそうだね」
「さびれてない」
天子が首を振った。
「さびれてるから七草もすぐ見つかったのよ」
「それを言うな」
紫が楽しげに言った。
「博麗の巫女を知る第一歩が、物置の掃除。実に霊夢らしいわ」
「全然ありがたみがない」
「ありがたみは、後から見つかることもあるわ」
霊夢はため息をついたが、それでも立ち上がった。
華扇が少し驚いたように見る。
「今からですか?」
「思いついた時にやらないと、たぶん一生やらないもの」
「それは正しい判断です」
「褒められてる気がしないわね」
霊夢は神社の奥へ向かった。
その背中を、華扇と紫と萃香と天子が見送る。
天子が小声で言った。
「本当に異変じゃないの?」
紫が答えた。
「異変ではないわ」
萃香が笑った。
「異変未満だね」
華扇は少しだけ真面目に言った。
「でも、もしかすると大事なことかもしれません」
神社の奥から、霊夢の声が聞こえた。
「ちょっと! 誰よ、こんなところに変な石を詰めたの!」
天子が目を逸らした。
「日頃の行いね」
三人が同時に言った。
「日頃の行いよ」
「日頃の行いだね」
「日頃の行いでしょう」
境内に、霊夢の怒鳴り声が響いた。
その日、博麗神社の奥の物置は、ほんの少しだけ開かれた。
埃をかぶった札。古い箱。読めないほど古びた紙束。壊れた御幣。いつのものとも知れない記録。
霊夢はそれらを見て、少しだけ眉をひそめた。
面倒なことになりそうだった。
でも、もう少しだけ見てもいいかもしれない。
博麗の巫女が何なのか。
それを知ったところで、自分が急に変わるとは思わない。
ただ、今まで見えていたところの外側に、何かあるのなら。
少しくらい、覗いてみてもいい。
霊夢は埃を払って、古い箱の蓋に手をかけた。