異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
博麗神社の奥には、霊夢もあまり開けない戸があった。
開けない理由は簡単で、面倒だからである。
そこは物置だった。古い札、壊れた祭具、使わなくなった掃除道具、由来の分からない箱、誰かが勝手に置いていった石、何に使うのか分からない布、昔からそこにある気がする板切れ。
神社の表側は、霊夢なりにきれいにしている。
境内の落ち葉は掃く。縁側は拭く。賽銭箱の埃も払う。参拝客が来るかどうかは別として、神社が汚れているのは気に入らない。
ただ、物置は別だった。
見なければ汚れていないのと同じである。
霊夢はしばらく戸の前に立ち、ため息をついた。
「……思いついた時にやらないと、一生やらないわね」
そう言って戸を開けた。
埃が舞った。
「げほっ」
霊夢は即座に顔をしかめた。
「汚い」
それはかなり本気の声だった。
霊夢は袖で口元を押さえ、しばらく中を睨んだ。神社の奥に、こんな埃の巣があるのが許せない。誰のせいかと言えば自分のせいなのだが、そういう時こそ腹が立つ。
箒を取ってきて、まず入口の埃を掃いた。
次に、よく分からない石を外へ出した。天子が置いていったものかもしれない。そうでないものもあるかもしれない。全部同じ場所に積んだ。
「あとでまとめて返す」
誰に返すのかは分からないが、とにかく返すことにした。
古い木箱を一つ動かすと、下から色褪せた札束が出てきた。文字は読めるものと読めないものが混ざっている。霊夢はそれを軽く払って、脇に置いた。
壊れた御幣もあった。
黒ずみ、紙垂は半分崩れ、柄には細かい傷がある。今の霊夢が使うものとは少し形が違う。けれど、ただの飾りではないことは分かった。手に取ると、ほんのわずかに霊力の残り香がある。
「……昔の?」
霊夢はしばらく眺めたあと、それを雑に投げることはしなかった。
きれいな布を探し、そこに置く。
その奥に、もう一つ箱があった。
古い桐箱だった。蓋には何も書かれていない。ただ、箱の隅に小さく博麗の印が入っている。
霊夢は指で埃を払った。
すぐに開けようとして、少し迷った。
別に、誰かに止められているわけではない。紫が隙間から覗いている気配も、今はない。華扇の説教も聞こえない。萃香の茶化す声も、天子の余計な一言もない。
神社の奥で、霊夢は一人だった。
「……私の神社だし」
そう言って、蓋を開けた。
中には、布に包まれたものがいくつか入っていた。
一つ目は、古い巫女装束だった。
赤白ではある。だが、今の霊夢のものとは違う。袖の形が少し細く、襟元の作りも違う。赤の色も、今のものよりくすんでいる。古びているからではない。もともと、少し暗い赤だったように見えた。
霊夢はそれを広げ、首をかしげた。
「別に、同じじゃないのね」
博麗の巫女といえば、自分の格好のようなものだと思っていた。もちろん、昔の巫女が全員まったく同じ姿をしていたなどとは考えていなかったが、それでも、どこかで「博麗の巫女とはこういうもの」と思っていた。
けれど、目の前の装束は少し違った。
同じようで、違う。
違うようで、確かに博麗のものだった。
二つ目は、割れた陰陽玉だった。
完全に砕けているわけではない。片側に大きな罅が入り、表面の模様がずれている。霊夢はそれを手のひらに乗せた。冷たかった。
「壊れるものなのね、これ」
少し意外だった。
陰陽玉は、霊夢にとって当たり前にあるものだった。当たり前すぎて、壊れるかどうかを考えたこともなかった。壊れた陰陽玉というのは、妙に嫌な感じがした。
ただ、それは失敗の跡にも見えた。
誰かが使い、何かを受け止め、壊れ、それでも捨てられなかったもの。
三つ目は、紙束だった。
紐で綴じられた古い記録。表紙には、かすれた字でこう書かれていた。
――後始末覚書。
「後始末?」
霊夢は表紙を開いた。
最初の数枚は、異変の記録かと思った。
だが、違った。
そこに書かれていたのは、異変そのものではなく、異変のあとに誰が神社に来たかだった。
山の妖怪、数名。
里の若者、二名。
河童、一名。修理代の話でもめる。
鬼、酒を持参。飲み過ぎ。
人間側と妖怪側、最初は距離あり。夜半には同席。
翌朝、境内荒れる。掃除に半日。
ただし、喧嘩はそれ以上広がらず。
霊夢は眉をひそめた。
「なんで宴会の記録なのよ」
ページをめくる。
別の記録。
原因不明の霧、解決。
関係者、神社に集まる。
人間側、妖怪を恐れて早めに帰る。
妖怪側、不満。
巫女、翌日人里へ行き、問題なしと伝える。
その三日後、里の者二名が参拝。賽銭なし。
ただし、菓子を置いていく。
「賽銭なし……」
霊夢はそこにだけ反応した。
昔から変わっていないらしい。
さらにめくると、もっと古い紙が出てきた。
日付はない。
署名もない。
さっきまで読んでいた記録とは、字の癖も違っている。
誰が書いたのかは分からなかった。
妖怪を退治すること。
妖怪を滅ぼすこと。
この二つを混同してはならない。
恐れが消えれば妖怪は歪み、恐れが強すぎれば人は閉じる。
巫女は勝たねばならない。
ただし、勝ち過ぎてはならない。
霊夢は、そこで手を止めた。
「勝ち過ぎてはならない、ね」
思い当たることがあるような、ないような気がした。
霊夢はいつも、何となくやってきた。
異変が起きれば向かう。危なければ退治する。やりすぎだと思えば止める。宴会になれば、まあ仕方ないと場所を貸す。
それは、感覚だった。
でも、その感覚に近いものを、昔の誰かも考えていたらしい。
教えなのか。
自分用の覚書なのか。
その巫女が勝手に考えたことなのか。
そこまでは分からない。
また別の紙には、箇条書きがあった。
こちらはさらに筆跡が違う。
・人里に寄りすぎるな。人間だけの巫女になる。
・妖怪に寄りすぎるな。人間から疑われる。
・神を増やしすぎるな。信仰が薄まる。
・神を拒みすぎるな。神社が空になる。
・結界を壁と思うな。結界は境目である。
・紫の言うことを全部信じるな。
・ただし、紫の言うことを全部無視するな。
霊夢は最後の二行を見て、思わず笑った。
「昔からなのね、あいつ」
その声は、物置の中で小さく響いた。
紫が聞いているかどうかは分からない。
聞いている気もしたし、聞いていない気もした。
霊夢はそれ以上気にしなかった。
次の紙束は、日記に近かった。
字は乱れている。丁寧な記録ではない。日付も飛び飛びで、内容も短い。
今日も賽銭はなかった。
妖怪は来た。人間は来なかった。
それでも神社は開けておく。
ここが閉じると、幻想郷のどこかも閉じる気がする。
霊夢は黙った。
紙を持つ指に、少しだけ力が入る。
次の行。
巫女は強くなければならない。だが、強いだけなら妖怪と変わらない。
弱ければ人間を守れない。
強すぎれば人間から離れる。
博麗はその間に立つ。
面倒な場所である。
「……ほんと、面倒ね」
霊夢は小さく言った。
少しページを進める。
今日は境内を掃いた。
誰も来なかった。でも、掃いた。
神社が汚れていると、自分が負けた気がする。
霊夢は、少しだけ目を瞬かせた。
「そこも同じなの」
自分だけではなかった。
賽銭がないことも。
妖怪ばかり来ることも。
神社が汚れていると腹が立つことも。
面倒だと思いながら、結局開けておくことも。
何か立派な秘伝が出てくるのかと思った。
あるいは、博麗の巫女だけが知る大きな力。歴代の巫女の奥義。幻想郷の秘密。そういうものがあるのかもしれないと思った。
実際、箱の中には力の残る道具もあった。古い札もある。壊れた陰陽玉もある。読めば危なそうな紙もある。
霊夢の目を一番長く止めたのは、そういうものではなかった。
今日も賽銭はなかった。
それでも神社は開けておく。
それだけだった。
霊夢は日記を閉じずに、しばらく座っていた。
物置の外では、風が吹いている。境内の木の葉が揺れる音がした。たぶん、掃除したばかりの参道にまた葉が落ちている。
あとで掃かなければならない。
面倒だった。
でも、落ち葉を放っておくのは嫌だった。
「なんだ」
霊夢はぽつりと言った。
「私、ちゃんと博麗の巫女やってたんじゃない」
誰も答えなかった。
紫も出てこない。華扇も説教しない。萃香も笑わない。天子も茶化さない。
それがよかった。
霊夢は一人で、もう一度箱の中を見た。
秘伝はある。禁則もある。壊れた道具もある。昔の装束もある。先代か、もっと前の巫女か分からない誰かの言葉もある。
たぶん、全部を今日読む必要はない。
全部を背負う必要もない。
ただ、知らなかったことを少しだけ知った。
博麗の巫女は、最初から完成された何かではない。
少なくとも、ここに言葉を残した誰かは困っていた。
失敗していた。
貧乏だった。
別の誰かも、神社を掃いていた。
妖怪に振り回されていた。
人間が来ないことを気にしていた。
書き手は一人ではないらしい。
それでも、不思議なくらい似たところで悩んでいた。
そして、神社を閉じなかった。
霊夢は日記を布で包み直した。
割れた陰陽玉も、古い御幣も、装束も、元の箱へ戻す。だが、紙束だけは少し別にした。あとで読めるように、きれいな布で包んでおく。
それから、物置の中を見回した。
「……まず掃除ね」
結局、そこに戻ってきた。
霊夢は箒を手に取った。
埃を掃く。古い箱を並べる。いらないものと、捨ててはいけないものを分ける。天子の石らしきものは外へ出す。使える札は乾いた場所へ移す。壊れた道具は布に包む。
作業を始めると、少し気分が落ち着いた。
博麗の巫女が何なのか。
答えは、まだ分からない。
神社の奥をきれいにすることも、たぶんその一部なのだろう。
しばらくして、霊夢は物置から出た。
空は少し傾いている。境内には、また落ち葉が散っていた。
霊夢はそれを見て、ため息をついた。
「ほんと、きりがないわね」
それでも箒を持ったまま、境内へ向かう。
博麗神社は、今日も開いている。
賽銭は、たぶんない。
妖怪は、たぶん来る。
それでも、霊夢は参道を掃いた。