異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
萃香の茶は、思ったより早く幻想郷の一部に広まった。
広まった、といっても、別に商売を始めたわけではない。伊吹萃香が山中に茶畑を作っているという話を、射命丸文が珍しくほぼ事実のまま記事にしただけである。
ただし、記事の最後に余計な一文があった。
――なお、記者も試飲したが、萃香氏の茶は普通にうまい。集中力が欲しい巫女、魔法使い、締切前の新聞記者などにはおすすめである。
その余計な一文のせいで、博麗神社には少しだけ波風が立った。
縁側で、博麗霊夢は湯呑みをすすっていた。湯気は薄い。色も薄い。香りは、草のような、土のような、要するに神社の裏手から摘んできた何かのような匂いだった。
そこへ、茨木華扇がやってきた。
華扇は霊夢の湯呑みを見て、眉をひそめた。
「霊夢。そっちの雑草茶ではなく、こちらを飲みなさい」
そう言って、持参した包みをほどく。中には丁寧に乾かされた茶葉が入っていた。緑が深く、葉の形が整っている。湯を注ぐ前から、かすかに甘い香りがした。
霊夢は湯呑みを持ったまま、華扇をじっと見た。
「あんたは私の母親か何かか」
「母親なら、もっと早く止めています。雑草を煎じても雑草でしかないわ」
「失礼ね。これは節約よ。自然の恵みよ。ありがたい神社の生活の知恵よ」
「知恵と我慢を混同しない」
華扇は勝手に急須を用意し、萃香の茶葉を入れた。
霊夢はその手元を見ながら、わざとらしくため息をついた。
「私の神社が万年貧乏だということを知っていて、そんな高そうな茶を勧めてくるの。酷い話だわ」
「酷いも何も、おいしいのは事実よ」
「事実で殴るのも酷いのよ」
「なら、せめておいしいもので殴られなさい」
華扇が湯を注ぐと、縁側に香りが広がった。霊夢は少しだけ顔を動かした。鼻が反応してしまったのを、本人は認めたくなさそうだった。
「……香りだけは悪くないわね」
「香りだけではありません」
「はいはい。どうせ飲んだら負けなんでしょ」
「誰と戦っているのですか」
霊夢はしばらく抵抗するように湯呑みを眺めていたが、結局飲んだ。
そして、黙った。
華扇は勝ち誇らなかった。こういう時に勝ち誇ると、霊夢は意地で認めなくなる。だからただ静かに、自分の湯呑みを口へ運んだ。
「……まあ」
霊夢が小さく言った。
「雑草よりは、飲み物ね」
「比較対象を低くしすぎです」
「うるさいわね。褒めてるのよ」
◇
その頃、魔法の森では、霧雨魔理沙が別の実験をしていた。
机の上には二つの湯呑みと、ひとつのティーカップが並んでいる。片方は萃香の緑茶。もう片方は、それを河童の機械に通したもの。そしてティーカップの中には、色の濃い、紅茶らしい液体が入っていた。
「緑茶と紅茶の飲み比べか」
魔理沙は帽子を少し上げて、じっと液面を見た。
普通の魔法使いは、東洋で西洋である。箒に乗るし、魔法の森に住むし、キノコを煮るし、紅茶も飲む。けれど幻想郷の生まれでもあるので、緑茶を飲んでも別に不自然ではない。
その節操のなさを、本人は自由と呼んでいた。
「で、これが河童の機械で作った紅茶か」
河童の技術者は、やや得意そうに胸を張った。
「正確には、茶葉の発酵状態を制御して、緑茶用に処理された茶葉から紅茶風の風味を短時間で引き出す装置だよ。外の世界でも最近、似たようなものが出始めてるらしいけどね」
「焦ってるのか?」
「焦ってない」
「新聞には焦ってるって書いてあったぜ」
「あの天狗、余計なことを書くんだよ」
文々。新聞の記事には、こうあった。
――河童、茶葉加工技術で外界に先行か。ただし外の世界でも類似技術が登場しつつあり、関係者からは「まだ焦る時間ではない」との声。
魔理沙はその一文を読んだとき、「焦ってるな」と思った。
彼女はまず、紅茶風の方を飲んだ。
「悪くないな」
河童が明らかにほっとした顔をした。
「だろう? 香りを立たせるところに苦労してね。短時間加工だと、どうしても奥行きが――」
「でも、緑茶の方が好きだな」
河童は固まった。
魔理沙は気にせず、萃香の緑茶を飲む。
「こっちの方が、目が覚める。魔法の調整をする時は、変に甘い香りが残らない方がいい。紅茶は本を読む時ならいいけど、弾幕を組む時はこっちだ」
「……それは機械の敗北では?」
「違う違う。用途の違いだ」
「慰めてる?」
「事実を言ってる」
「それが一番つらいやつだよ」
魔理沙は笑って、もう一度緑茶をすすった。
「萃香のやつ、妙なところに凝り始めたな」
そう言いながら、彼女は新聞の切り抜きを机の端に置いた。そこには、萃香の茶畑の写真が載っている。記事を書いた射命丸文は、いつものように少し煽っていたが、今回は珍しく褒めるべきところは褒めていた。
――集中力が欲しい巫女、魔法使い、締切前の新聞記者などにはおすすめである。
魔理沙はその一文を見て、鼻で笑った。
「締切前の新聞記者は、自分で飲めよ」
博麗神社では、霊夢が同じ新聞を読みながら、同じような顔をしていた。
「集中力が欲しい巫女って、誰のことよ」
華扇は湯呑みを置き、涼しい顔で言った。
「少なくとも、飲んだ方がいい巫女の心当たりはあります」
「やっぱり母親じゃないの、あんた」
「違います。通りすがりの仙人です」
「通りすがりの仙人は、人の湯呑みに説教を注がないのよ」
霊夢はそう言いながらも、湯呑みを空にした。
萃香の茶は、普通にうまかった。
それが一番、腹立たしい事実だった。