異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
旧地獄から、河童の工房へ鬼が来た。
それだけなら、にとりは驚かない。河童の技術は便利である。旧地獄の連中も、壊れた道具の修理や、変な熱機関の相談くらいは持ち込んでくる。
ただ、その日の依頼人は星熊勇儀だった。
しかも相談内容が、妙だった。
「コーラを作りたい」
にとりは、しばらく瞬きをした。
「……コーラ?」
「ああ」
「酒じゃなくて?」
「コーラだ」
「鬼が?」
「鬼が」
勇儀は大真面目だった。片手には椀ではなく、外の世界から流れ着いたらしい空き瓶を持っている。透明な瓶に、剥がれかけたラベル。中身は当然もうない。けれど勇儀はそれを、宝物のように持っていた。
「たまたま飲んだんだよ。一口だけな。あの味が忘れられない」
「どんな味だった?」
「黒かった」
「色じゃなくて」
「甘かった」
「まあ、そうだろうね」
「なのに、喉を殴ってきた」
にとりは少しだけ感心した。
「炭酸だね」
「炭酸というのか。あれはいい。酒は腹に落ちる。だが、あいつは喉で勝負してくる。正面から来る。潔い」
「飲み物に武人の評価をしないでほしいな」
「それでいて、後味に妙な香りがある。薬みたいで、砂糖みたいで、焦げたみたいで、祭りみたいだった」
「詩人か」
にとりは瓶を受け取って、ラベルを眺めた。
外の世界の飲料。黒く、甘く、炭酸が強い。香料は複雑。糖分は多い。再現できないことはない。炭酸水を作る機械はある。甘味もある。香りの調合も、河童の実験としては面白い。
ただ、ひとつ気になった。
「勇儀」
「なんだ」
「鬼って、実はそんなに酒が好きじゃないの?」
工房の空気が、少しだけ止まった。
勇儀は意外そうに眉を上げた。
「好きだよ」
「即答だ」
「うまい酒は好きだ。強い酒も好きだ。飲み比べも宴会も好きだ」
「じゃあ、なんでコーラ?」
「なんで酒が好きだと、ほかの飲み物を好きになっちゃいけないんだ?」
にとりは少し黙った。
「いや、いけなくはないけど」
「だろ」
勇儀は瓶を見た。
「酒はな、鬼にとってただの飲み物でもない。強さを見せる。腹を割る。昔話をする。喧嘩して、仲直りして、また飲む。そういう場も含めて好きなんだよ」
「なるほど」
「でもな」
勇儀は瓶の口を指で弾いた。
「こいつは酒とは別に面白い。喉に正面から来る。好きなものが一つ増えただけだ」
にとりは腕を組んだ。
筋は通っている。通っているが、幻想郷の常識が少しずつ壊れている気もした。
鬼が酒を飲む。
それはいつも通りだ。
その鬼が茶も飲む。
その鬼がコーラまで欲しがる。
天狗は宴会で飲ませるが、新聞記者は飲まない。
河童は茶葉を機械で紅茶にしようとして、外の世界に追いつかれそうになって焦っている。
世も末である。いや、幻想郷はもともと世の末みたいなものだった。
「作れるか?」
勇儀が聞いた。
「試作はできるよ。ただ、完全再現は難しい。外の世界のコーラは香料が複雑だからね。こっちで手に入る素材で近づけるなら、薬草、柑橘、香辛料、焦がし砂糖、あと炭酸。問題は炭酸の圧だな」
「喉を殴るやつか」
「そう、それ。鬼基準で殴る強さにすると、普通の瓶は爆発する」
「じゃあ鬼用の瓶を作ればいい」
「簡単に言うね」
「河童だろ」
「便利な言葉だなあ」
にとりはぶつぶつ言いながらも、すでに紙に図を描き始めていた。高圧用の栓。厚手の瓶。冷却装置。炭酸注入機。香料抽出器。考え始めると、これはこれで面白い。
「名前はどうする?」
「名前?」
「商品名。せっかくだし、試作品に名前くらい付けようよ」
勇儀は少し考えた。
「鬼殺し」
「酒と間違われるから却下」
「喉砕き」
「売る気ある?」
「星熊黒泡」
「急に渋いね」
「じゃあ、地獄コーラ」
「それはちょっといい」
にとりは紙の端に「地獄コーラ(仮)」と書いた。
「ただし、記事にされると面倒だね。文々。新聞がまた変な見出しを付けるよ。『鬼、酒離れ加速』とか」
「書かせておけばいい」
「いいの?」
「隠すことじゃない」
「萃香も同じこと言ってたなあ」
にとりはそこで、ふと笑った。
「鬼って、酒が好きだからって、それだけで満足する連中じゃないんだね」
勇儀は瓶を持ち上げた。
「面白いものがあるなら試すさ。それを鬼というんだよ」
数日後、河童の工房で試作一号が完成した。
黒い液体。強い泡。焦がし砂糖の甘さ。薬草の香り。柑橘の苦み。炭酸の圧は、人間用の三倍。河童用には危険。鬼用にはまだ少し弱い。
勇儀はそれを一気に飲んだ。
そして、目を見開いた。
「……いい」
「ほんと?」
「まだ喉への踏み込みが浅い。でも、いい。これは鍛えれば強くなる」
「飲み物を弟子扱いしないで」
にとりはそう言いながらも、試作記録に丸をつけた。
その翌日、文々。新聞には小さな記事が載った。
――旧地獄で黒い泡飲料の開発進む 鬼の嗜好多様化か
本文には、珍しく控えめな調子でこう書かれていた。
――関係者によれば、当該飲料は酒ではなく、甘味と炭酸を特徴とする嗜好品である。星熊勇儀氏は「酒は好きだ。それはそれとして、喉で勝負してくる飲み物も悪くない」と語った。なお、河童側は瓶の強度に課題があるとしている。
ただし、最後にまた余計な一文があった。
――萃香氏の茶と勇儀氏の黒泡飲料。鬼たちは今、酒以外の楽しみを見つけつつあるのかもしれない。もっとも、取材班としては、鬼が本気で好む飲み物を人間が真似することは推奨しない。たぶん喉が負ける。
旧地獄で記事を読んだ勇儀は、少し笑った。
「今回は許すか」
河童の工房で記事を読んだにとりは、頭を抱えた。
「これ、絶対また注文が来るやつだ」
そして博麗神社で記事を読んだ霊夢は、湯呑みを片手にぼそりと言った。
「鬼って、思ったより健康的ね」
華扇は即座に言った。
「炭酸と砂糖を健康的とは言いません」
「また母親みたいなこと言ってる」
「事実です」
その頃、萃香は茶畑で茶葉を摘みながら、遠く旧地獄の方を見ていた。
「勇儀はコーラかあ」
少し考えてから、萃香は笑った。
「まあ、あいつらしいね」
鬼は酒を飲む。
それは間違いではない。
ただ、鬼が酒だけを飲むとは、誰も言っていなかった。