異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
博麗神社の裏手に、桃の木があった。
正確には、桃の木になる予定のものがあった。
天子が置いていった桃の種を、霊夢が「変なものを置いていくな」と言いながらも、なんとなく土に埋めた。すると、忘れた頃に小さな芽が出た。
そしてなぜか、火焔猫燐が世話をしていた。
「うーん。葉っぱは出てるんだけどねえ」
お燐はしゃがみ込み、まだ頼りない若木を眺めていた。尻尾がゆらゆら揺れている。
「根は悪くないと思うんだ。地面も、死んでるわけじゃないし」
「死んでる地面ってあるの?」
こいしが隣で首をかしげた。
「あるよ。何も育たない土とか、怨みが溜まりすぎて変なものしか生えない場所とか」
「へえ。じゃあ、ここは?」
「さびれてる」
「そっかあ」
こいしは納得したように手を打った。
「さびれてる土って、静かでいいよね」
「それ、霊夢さんには言わない方がいいよ」
「言わなくても聞こえてるかもしれないよ」
「それは怖いねえ」
二人は笑った。
そこへ、紅美鈴がやってきた。
その後ろに、フランドール・スカーレットがいる。
フランドールは大きな日傘を差していた。差しているというより、日傘にしがみついているようにも見えた。日差しを完全に避けられているわけではない。傘の端からこぼれた光が、時々白い頬に触れる。
美鈴が慌てて傘の角度を直した。
「妹様、もう少しこちらへ。日が入ります」
「平気よ」
「平気ではありません」
「平気。私はお姉さまよりも根性があるから」
「根性で日光をどうにかしないでください」
フランドールは胸を張った。
「お姉さまはすぐ日陰に戻るもの。私はちゃんと外に出ている」
「レミリアお嬢様は賢明なのです」
「つまり私は勇敢なのね」
「そういう分け方は危険です」
美鈴は困ったように笑ったが、日傘を持つ手は真剣だった。
お燐が振り返る。
「あれ、珍しいお客さんだね」
「桃の木を見に来たの」
フランドールは若木を指さした。
「天人の桃なんでしょう?」
「たぶんね。まだ桃どころか枝も細いけど」
「壊れやすそう」
フランドールがそう言った瞬間、美鈴の肩がわずかに動いた。
「妹様」
「壊さないわよ。今日は見に来ただけ」
「本当にお願いします」
「壊れやすいものを見るのは好きよ。壊さないで見るのは、もっと難しいから」
お燐は少しだけ目を細めた。
おかしなことを言っている。けれど、幻想郷では、そのくらいならまだ普通の範囲だった。少なくとも、今すぐ退治されるほどではない。
こいしが桃の若木の周りをくるりと回った。
「この木、まだ自分が桃だって知らなそう」
美鈴が瞬きをした。
「木が、ですか?」
「うん。土から出てきて、光を見て、水を飲んで、なんとなく伸びてるだけ。まだ桃のことは知らない」
「桃の木なのに?」
「桃の木だって、最初から桃の実のことを考えてるわけじゃないんじゃないかな」
こいしは若木の葉を覗き込んだ。
「ある日、気づいたら桃になってるのかも」
フランドールはそれを聞いて、少し笑った。
「それ、吸血鬼みたいね」
「そうなの?」
「最初から吸血鬼になりたかったわけじゃないもの。気づいたら吸血鬼だった」
美鈴は何か言いかけて、やめた。
お燐が代わりに言った。
「猫もそうだね。気づいたら猫だった」
「お燐は最初から猫でしょ」
「たぶんね。でも、火車になろうと思って生まれたわけじゃないよ」
「そっかあ」
こいしはまた納得した。
若木の葉が、風に揺れた。
美鈴はしゃがみ込み、土を見た。
「水は足りていますか?」
「足りてるよ。最近はこまめに見に来てるから」
「肥料は?」
「それはちょっと悩んでる」
お燐が真面目な顔をした。
「桃に何を食べさせればいいのか、よく分からなくて」
美鈴は嫌な予感がした。
「あの、お燐さん。念のため確認しますが」
「うん?」
「変なものは埋めていませんよね?」
「変なものって?」
「具体的には、死体とか」
「埋めてないよ」
美鈴はほっとした。
「それはよかったです」
「桃の木に死体は強すぎると思うんだよね。もっと大きくなってからじゃないと」
「今後も埋めないでください」
「冗談だよ」
お燐は笑った。
美鈴には、半分くらい本気に聞こえた。
フランドールが若木に顔を近づけた。日傘も一緒に動く。美鈴が慌てて影を調整する。
「ねえ、この木、実がなったら食べてもいいの?」
「霊夢さんに聞いた方がいいね」
「霊夢はくれるかな」
「お賽銭を入れたらくれるんじゃない?」
「お金は持ってないわ」
美鈴が小さく咳払いした。
「妹様、そこは紅魔館で用意しますので」
「じゃあ買えるのね」
「実がなれば、ですが」
「実がならなかったら?」
こいしが言った。
「その時は、桃じゃなくて木だったってことだね」
「それはそれでいいの?」
「木は木で、木だよ」
お燐がうなずいた。
「日陰も作るしね。霊夢さんの神社には、日陰があると助かる客も多いし」
フランドールは日傘の内側から空を見た。
「それはいいわね。私のための木になるかもしれない」
「妹様のため、というより皆様のためですが」
「私も皆様の中に入っているからいいの」
美鈴は少し笑った。
「それは、その通りですね」
こいしが突然、若木の前で手を合わせた。
「大きくなりますように」
お燐も真似をした。
「枯れませんように」
美鈴も少し迷ってから、手を合わせた。
「無事に育ちますように」
フランドールは手を合わせなかった。
代わりに、若木に向かって小さく言った。
「壊れないでね」
それは祈りというより、約束のようだった。
風が吹き、桃の葉がまた揺れた。
境内の方から、霊夢の声が飛んできた。
「ちょっと、そこ! 変なもの埋めてないでしょうね!」
お燐が大きな声で返した。
「まだ埋めてないよー!」
「まだって何よ!」
美鈴が慌てて手を振った。
「埋めてません! 何も埋めてません!」
こいしは笑っていた。
フランドールも笑った。
日傘の下で、ほんの少しだけ陽の匂いがした。
桃の木はまだ小さい。
けれど、まだ枯れてはいなかった。