異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
大妖精は、氷の湖のほとりで足を止めた。
チルノがいた。
それ自体は珍しくない。チルノはだいたい湖のほとりにいる。氷を作ったり、蛙を凍らせたり、強い自分について考えたりしている。
ただ、その日のチルノは地面に枝で何かを書いていた。
数字だった。しかも、妙に多い。
数日前、湖の近くで外の世界の数学書を一冊拾ったらしい。どういう経緯で幻想入りしたのかは分からない。最初から最後まで読んだわけでもない。連続だの極限だのと書いてある辺りは「ぐにゃぐにゃしていて分かりにくい」と早々に投げた。
ただ、整数の章だけは妙に気に入った。
数が一つずつ、きっちり分かれているからだという。
「チルノちゃん?」
大妖精が声をかけても、チルノは振り向かなかった。
「待って。今、いいところ」
チルノは真剣な顔で、地面にこう書いた。
5,13,17,29,37,41……
それから、少し離れた場所に別の列を書く。
3,7,11,19,23,31,43,47……
大妖精は首をかしげた。
「えっと……数を数えてるの?」
「違うよ。素数を、四で割った余りで分けてる」
「よんでわったあまり」
「そう」
チルノは枝の先で、最初の列を指した。
「素数って、1と自分でしか割れない数でしょ。2、3、5、7、11、13、17……」
「う、うん。そこまでは、なんとなく」
「で、奇数の素数は、四で割ると必ず余りが1か3になる。だって偶数じゃないから」
「うん?」
「5は4で割ると1余る。7は3余る。11も3余る。13は1余る」
「うん……?」
「ここまでは簡単」
大妖精には、すでに少し簡単ではなかった。
チルノはさらに地面へ大きく書いた。
5=1²+2²
13=2²+3²
17=1²+4²
29=2²+5²
37=1²+6²
41=4²+5²
「見て」
「見てるよ」
「四で割って1余る素数は、二つの平方数の和で表せる」
「へいほうすう」
「同じ数を二回かけたやつ。1、4、9、16、25、36。氷の四角みたいな数」
チルノは得意げに胸を張った。
「たとえば13は、4+9。つまり2²+3²。17は1+16。つまり1²+4²」
「へえ……」
「でも7はできない。7=1+6だけど6は平方数じゃない。4+3でもだめ。11もだめ。19もだめ」
チルノは最初に書いた、もう一方の列を指した。
3,7,11,19,23,31,43,47……
「こっちは四で割って3余る素数。こいつらは、二つの平方数の和にできない」
大妖精は、じわじわ不安になってきた。
これはチルノだろうか。
見た目はチルノだ。羽もある。青い。偉そう。地面に座っている。間違いなくチルノだ。
でも、言っていることがチルノではない。
「チルノちゃん」
「なに?」
「おかしくなっちゃったの?」
「なってないよ」
「巫女に相談しなくちゃ」
「なんで霊夢が出てくるのさ」
「だって、異変かもしれない」
「異変じゃないよ。数論だよ」
「すうろん」
「整数の話」
チルノは地面の数字を指でなぞった。
「解析より分かりやすいよ。数が一個ずつカチッとしてる。凍ってるみたいでしょ」
「解析ってなに?」
「連続とか極限とか測度とか」
「そくど」
「あのルベーグとかいうやつの話は、よく分からない」
チルノは心底嫌そうな顔をした。
「区間を切ったり、変な集合を測ったり、ほとんど至る所とか言い出したりする。何なの、ほとんどって。全部じゃないなら全部じゃないって言えばいいのに」
「チルノちゃん、なんにも分からないよ」
「あたいもルベーグはよく分からない」
「そこじゃないよ」
「あたいは連続じゃないと嫌だ。いや、連続も嫌だ。整数がいい。整数は途中で溶けない」
大妖精は両手を胸の前で握った。
「でも、チルノちゃんが難しいこと言ってる」
「難しくないよ。たとえば、こう」
チルノは地面に円を描いた。いや、円というより、氷の輪のようなものだった。その中に点をいくつか打つ。
「平方数の和って、こういうこと。5=1²+2²なら、横に1、縦に2進んだ点までの距離の二乗が5」
「距離?」
「ほら、三角形。横1、縦2。斜めの長さの二乗が1²+2²で5」
「斜めの長さは?」
「√5」
「るーと」
「そこは気にしない。大事なのは、整数の格子点で考えること」
チルノはまた枝を動かした。
「で、四で割って3余る素数が、もし二つの平方数の和になったとする」
7=a²+b²
「平方数を4で割った余りは、0か1しかない」
「どうして?」
「偶数なら、二乗しても4で割り切れる。たとえば2²=4、4²=16。余り0。奇数なら、二乗すると4で割って1余る。1²=1、3²=9、5²=25」
大妖精は指を折って数えた。
「ほんとだ。9は4で割ると1余る」
「でしょ。だから、二つの平方数の和を4で割ると、余りは0、1、2のどれかにしかならない。0+0、0+1、1+1」
「3にならない」
「そう!」
チルノはぱっと顔を輝かせた。
「だから、4で割って3余る数は、二つの平方数の和にはならない。7も11も19も23もだめ」
「それは……分かったかも」
「でしょ!」
大妖精は少し安心した。
チルノがおかしいことはおかしい。でも、言っていることの一部は、確かに分かる。少なくとも、完全に異変という感じではない。
「じゃあ、4で割って1余る素数は、全部そうなるの?」
「そう」
「ほんとに?」
「ほんと。フェルマーの二平方和定理」
「ふぇるまー」
「外の世界の強いやつ」
「妖精?」
「たぶん人間」
「人間なのに強いんだ」
「数では強い」
チルノは自信満々に言った。
「ただし、証明はちょっと難しい」
「チルノちゃんでも?」
「あたいでも」
「じゃあ難しいね」
「でも、雰囲気は分かる」
チルノは枝で新しい式を書いた。
(a²+b²)(c²+d²)=(ac−bd)²+(ad+bc)²
「見て。二つの平方数の和どうしをかけると、また二つの平方数の和になる」
大妖精は式を見た瞬間、目が泳いだ。
「チルノちゃん、なんにも分からないよ」
「大ちゃん、逃げないで。ここ大事」
「逃げてないよ。心が少し遠くに行っただけ」
「戻ってきて」
チルノは式の横に具体例を書いた。
5=1²+2²
13=2²+3²
5×13=65
そして、
65=1²+8²
65=4²+7²
「「ほら。今の式に1、2、2、3を入れると、65=4²+7²になる」
「ほんとだ。16+49で65」
「そう。で、足すところと引くところを反対にすると、今度は65=1²+8²にもなる」
「1と8でも65……ほんとだ」
「同じ5と13なのに、二つあるんだよ」
「二つあるんだ」
「そう。ここが面白い。表し方が増える」
チルノは楽しそうだった。
大妖精は、その顔を見て、少しだけ安心した。
難しいことを言っているけれど、チルノはチルノだった。自分が強いと思ったものを見つけて、得意げにしている。蛙を凍らせる代わりに、今は数字を凍らせて並べているだけだ。
「でも、どうして急にそんなことを?」
大妖精が聞くと、チルノは胸を張った。
「あたいは気づいたんだよ」
「何に?」
「⑨って言われるけど、9は平方数なんだよ」
「うん」
「しかも、9=3²。強い」
「強いの?」
「強い。しかも9=0²+3²でもある」
「ゼロも使うの?」
「使っていいでしょ。ゼロだって整数だよ」
「そうだね」
「それに、9は4で割ると1余る」
「それもそうだね」
「平方数で、二つの平方数の和にもなって、4で割ると1余る」
チルノは真剣な顔で言った。
「つまり⑨は強い側」
「何の側?」
「強い側」
「そっか」
大妖精はもう、深く考えるのをやめた。
その時、湖の向こうから霊夢が歩いてきた。手には新聞を持っている。どうやら文々。新聞の記事に何か余計なことが書かれていたらしい。
「何してるの?」
霊夢が聞いた。
大妖精はぱっと立ち上がった。
「霊夢さん! チルノちゃんが!」
「また何か凍らせたの?」
「数論を!」
「数論を凍らせたの?」
「違うよ!」
チルノは不満そうに頬を膨らませた。
「二平方和定理を考えてたの!」
霊夢は地面の式を見た。
しばらく黙った。
そして、ゆっくり大妖精の方を見た。
「異変?」
「やっぱり異変ですか?」
「いや……」
霊夢は難しい顔をした。
「異変というには、被害がないわね」
「大ちゃんが混乱してる」
「それはいつものことじゃない?」
「いつもじゃないよ!」
大妖精は抗議した。
霊夢はチルノの書いた数字をもう一度眺めた。
「で、あんたは何をしたいの?」
「素数の性質を調べる」
「蛙は?」
「今はいい」
「氷は?」
「あとでやる」
「なら、まあ、放っておいていいんじゃない?」
大妖精は驚いた。
「いいんですか?」
「本人が楽しそうだし。神社に被害がないし。賽銭箱も壊してないし」
「でもチルノちゃんが賢そうです」
「賢そうなだけなら、異変じゃないわ」
チルノがむっとした。
「賢そうじゃなくて賢いの!」
「はいはい」
「霊夢も聞く? 平方数を4で割った余りは0か1しかないんだよ」
「それは分かるわ」
「じゃあ、4で割って3余る素数は二つの平方数の和にならない」
「それもまあ、分かる」
「でも4で割って1余る素数は全部なる」
「そこは急に分からないわね」
「でしょ!」
チルノは嬉しそうに笑った。
「そこが強いんだよ!」
霊夢はため息をついた。
「強いの基準が分からないけど、まあいいわ」
大妖精はまだ心配そうにチルノを見ていた。
「チルノちゃん、本当に大丈夫?」
「大丈夫。あたいは最強だから」
「いつものチルノちゃんだ」
「ただし、今日は数論でも最強」
「それはいつもじゃない」
霊夢は新聞を畳み、湖の方へ歩き出した。
「異変じゃないなら帰るわ。数で神社を壊さないでよ」
「壊さないよ。整数は壊れない」
「そういう問題じゃないわ」
霊夢が去ったあと、チルノはまた地面に向かった。
大妖精は隣に座った。
「ねえ、チルノちゃん」
「なに?」
「私にも、もう一回だけ教えて」
「いいよ」
チルノは枝で、ゆっくり書いた。
平方数を4で割ると、余りは0か1。
だから二つ足しても、余りは0、1、2。
だから4で割って3余る数は、二つの平方数の和になれない。
大妖精は、今度は少しだけ分かった。
「じゃあ、7はだめ」
「そう」
「11もだめ」
「そう」
「13は、4と9だからできる」
「そう!」
チルノは嬉しそうに笑った。
「大ちゃん、分かってきた!」
「うん。少しだけ」
「じゃあ次は、ガウス整数」
「霊夢さん!」
「待って! まだ異変じゃない!」