異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice 作:折無堂
チルノは、湖のほとりに新しい式を書いていた。
大妖精は、もう半分泣きそうだった。
「チルノちゃん、さっきから数字が増えてるよ」
「数論だからね」
「数論って、数が増えるものなの?」
「増える。強いから」
チルノは地面に枝で大きく書いた。
3+2i
大妖精は、その文字を見て固まった。
「チルノちゃん」
「なに?」
「数に変な棒が生えてる」
「これはiだよ」
「い?」
「二乗するとマイナス一になるやつ」
「そんな数ないよ」
「ある」
「ないよ。だって、何を二回かけてもマイナスにならないよ」
「普通の数ならね。でも、あることにすると便利」
チルノは堂々と言った。
大妖精は震えた。
「やっぱり異変だよ。ないものをあるって言ってる」
「幻想郷っぽいでしょ」
「そういう問題じゃないよ」
そのとき、空間に細い裂け目が開いた。
紫色の隙間から、扇が出てきた。次に、八雲紫の顔が出てきた。
「ないものをあることにする。なかなか幻想郷らしい話をしているわね」
大妖精はぱっと顔を上げた。
「紫さん!」
「こんにちは。大妖精。チルノも」
「ゆかりだ」
チルノは枝を持ったまま、少し得意げに言った。
「今、ガウス整数をやってる」
「へえ」
紫は隙間から半身を出し、地面の式を眺めた。
2+i
3+2i
(2+i)(2−i)=5
(3+2i)(3−2i)=13
「なるほど。二平方和の話から来たのね」
「分かるの?」
チルノが目を丸くした。
「私は幻想郷の賢者よ。このくらいは分かるわ」
「じゃあ、あたいと同じくらい強い?」
「その結論には境界があるわね」
紫は扇で口元を隠した。
「でも、正直に言うと、私は数論より解析や幾何の方が好みね。連続、極限、境界、曲面、位相。そういうものの方が、私には馴染む」
チルノは露骨に嫌そうな顔をした。
「解析は嫌い。あのルベーグとかいうやつ、よく分からない。ほとんど至る所って何? 全部じゃないなら全部じゃないでしょ」
「そこが面白いのよ」
「面白くない。ぐにゃぐにゃしてる」
「世界はぐにゃぐにゃしているものよ」
「整数は凍ってる」
「凍った世界だけでは、境界は動かせないわ」
「動かなくていい。凍ってる方が強い」
紫は楽しそうに笑った。
「あなた、本当に氷の妖精ね」
大妖精は紫に駆け寄った。
「あの、紫さん。チルノちゃんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫でしょう」
「本当に?」
「少なくとも、異変ではないわ。少しだけ、世界の見え方が整数寄りになっているだけ」
「それは大丈夫なんですか?」
「幻想郷では、よくあることよ」
「よくあるんですか?」
「たぶん」
大妖精は、あまり安心できなかった。
そのとき、紫の隙間の奥から、別の声がした。
「紫様。そこは少し説明を補った方がよろしいかと」
八雲藍が、隙間から静かに現れた。
紫は少しだけ肩をすくめた。
「藍。あなたの領域かしら」
「どちらかといえば」
藍は地面に書かれた式を見て、すぐに状況を理解したようだった。
「ガウス整数ですね」
「らんしゃま!」
チルノがなぜか嬉しそうに叫んだ。
「狐は数字が得意そう!」
「狐だからではありませんが」
藍は苦笑しながら、チルノの横にしゃがんだ。
「つまり、普通の整数ではなく、a+biという形の数を考えているのですね。ここでaとbは整数、iは二乗すると−1になるものです」
大妖精は小さく手を上げた。
「あの、二乗するとマイナス一になるものは、本当にあるんですか?」
藍は少し考えた。
「数直線の上にはありません」
「やっぱりないんですね」
「ですが、平面まで広げると、あると考えられます。横方向が普通の数、縦方向がiの方向です」
藍は地面に十字を書いた。
「たとえば、3+2iは、横に3、縦に2進んだ点だと思えばよい」
「点なんですか?」
「点でもあり、数でもあります」
大妖精はまた混乱した。
紫が横から言った。
「ほら、幾何になったでしょう?」
チルノが頬を膨らませた。
「数論だよ」
「平面に点を置いているなら幾何でもあるわ」
「整数の点だけだから数論!」
「境界が曖昧ねえ」
「曖昧にしないで!」
藍は慣れた様子で二人を流し、説明を続けた。
「ガウス整数では、普通の整数が因数分解できることがあります。たとえば5」
藍は書いた。
5=(2+i)(2−i)
「計算すると、4−2i+2i−i²。i²は−1なので、4+1で5です」
大妖精は目を瞬かせた。
「本当だ。変なところが消えて、5になった」
「そうです。同じように」
藍はさらに書く。
13=(3+2i)(3−2i)
「9−6i+6i−4i²。つまり9+4で13」
チルノが胸を張った。
「だから13は3²+2²!」
「その通りです」
藍がうなずくと、チルノはとても嬉しそうに笑った。
紫は扇で口元を隠したまま、少し面白そうに見ていた。
「なるほどね。四で割って一余る素数は、ガウス整数の世界では割れる。四で割って三余る素数は、そのまま素数らしく残る。整数の世界だけでは見えない分かれ目が、少し広い世界に行くと見える」
「そう!」
チルノが枝を振った。
「広い世界に行くと、素数が割れる!」
大妖精は不安そうに言った。
「素数が割れたら、素数じゃなくなっちゃうんじゃないの?」
「普通の整数では素数。でもガウス整数では割れることがある」
藍は丁寧に言った。
「どの世界で見ているかによって、割れるか割れないかが変わるのです」
紫が微笑んだ。
「境界の話ね」
「紫様は何でも境界の話にしすぎです」
「実際そうでしょう。整数とガウス整数の境界。実数と複素数の境界。離散と連続の境界」
「今はチルノさんに分かるように話しています」
「私にも分かるわよ」
「紫様にではありません」
紫は少し不満そうに扇を閉じた。
チルノは地面に、また大きく式を書いた。
N(a+bi)=a²+b²
「ノルム!」
藍が少し驚いた顔をした。
「そこまで知っているのですか」
「知ってる。強さを測るやつ」
「まあ、大きくは間違っていません」
「3+2iの強さは13!」
「ノルムは13ですね」
「2+iの強さは5!」
「ノルムは5です」
「やっぱり数論は分かりやすい。強さが数字で出る」
大妖精はようやく少し笑った。
「チルノちゃんらしいね」
紫は、地面に書かれたノルムの式を見つめた。
「でも、ノルムというのは面白いわね。複素数を、普通の整数へ戻す。広げた世界から、測れる量だけをこちらへ持ってくる」
「紫様、好みの話になってきましたね」
「だって境界をまたいでいるもの」
「はいはい」
チルノは紫を見た。
「ゆかりは、ガウス整数好きじゃないの?」
「嫌いではないわ。ただ、私ならその平面を連続にしたくなる。点だけでなく、線も面も考えたい。どこで切れるか、どこが繋がっているか、どこからどこまでが内側か外側か」
「ぐにゃぐにゃしてる」
「ええ。ぐにゃぐにゃしているものを、ぐにゃぐにゃしたまま扱うのが好きなの」
「凍らせればいいのに」
「凍らせたら、動かなくなるでしょう」
「動かなくていいよ。分かりやすい」
「動くから面白いのよ」
「凍るから強い」
二人はしばらく見つめ合った。
藍が小さくため息をついた。
「紫様とチルノさんは、数学の趣味が正反対ですね」
「私は大人だから、連続の曖昧さを受け入れられるのよ」
「あたいは最強だから、整数をそのまま持てる!」
「会話が成立しているようで、成立していませんね」
大妖精はぽつりと言った。
「でも、チルノちゃん、楽しそう」
藍は少し柔らかい顔になった。
「ええ。理解の仕方は独特ですが、筋は悪くありません」
「本当ですか?」
「本当です。少なくとも、平方数を四で割った余りや、ガウス整数での因数分解を、具体例で追えている。これは立派です」
チルノは得意げに胸を張った。
「ほら! あたいは最強!」
紫が扇を開いた。
「ただし、解析は苦手」
「ルベーグは嫌い」
「もったいないわね。測度論は、境界の妖怪としてはなかなか面白いのに」
「測るなら凍らせてから測る」
「凍らせると失われる情報もあるわ」
「溶ける方が悪い」
藍はそこで、ふと思いついたように言った。
「では、チルノさん。次は整数を少し違う形で凍らせてみますか」
「違う形?」
「合同式です。たとえば、数を四で割った余りだけで見る。これは数を余りごとの箱に入れるようなものです」
チルノの目が輝いた。
「箱に入れて凍らせる!」
「そうです」
紫が横から口を挟んだ。
「それも一種の商空間ね」
「紫様」
「何?」
「この場合は商環と言った方がよろしいかと」
「細かいわねえ」
チルノはすでに地面に新しい表を書き始めていた。
0,1,2,3
0²=0
1²=1
2²=0
3²=1
「見て、大ちゃん! 四の世界では、平方数は0か1!」
「それはさっきより少し分かる!」
「でしょ!」
大妖精はほっとした。
チルノはおかしくなったのではない。
たぶん、異変でもない。
ただ、氷の妖精が、いつもとは違うものを凍らせ始めただけだ。
蛙ではなく、数を。
湖ではなく、余りを。
弾幕ではなく、素数を。
紫はその様子を見ながら、楽しげに目を細めた。
「六枚羽根の氷の妖精が、整数を凍らせる。なかなか幻想郷らしいわね」
「紫様」
藍が小声で言った。
「何?」
「気に入りましたね」
「ええ」
紫は微笑んだ。
「こういう小さな異変未満が、幻想郷を面白くするのよ」
チルノが振り向いた。
「異変じゃないってば!」
「ええ。異変ではないわ」
紫は扇で地面の式を指した。
「ただの最強の寄り道ね」
チルノは満足そうに笑った。
「そう! あたいは最強だから、寄り道も強い!」
大妖精は、もう巫女を呼びに行くのをやめた。
その代わり、チルノの隣に座って、四で割った余りの表を一緒に眺めることにした。