異変未満の午後 ~ Tea, Cola, Math and a Little Practice   作:折無堂

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8. 数論、幾何、解析

 チルノは、湖のほとりに新しい式を書いていた。

 大妖精は、もう半分泣きそうだった。

 

「チルノちゃん、さっきから数字が増えてるよ」

「数論だからね」

「数論って、数が増えるものなの?」

「増える。強いから」

 

 チルノは地面に枝で大きく書いた。

 3+2i

 大妖精は、その文字を見て固まった。

 

「チルノちゃん」

「なに?」

「数に変な棒が生えてる」

「これはiだよ」

「い?」

「二乗するとマイナス一になるやつ」

「そんな数ないよ」

「ある」

「ないよ。だって、何を二回かけてもマイナスにならないよ」

「普通の数ならね。でも、あることにすると便利」

 チルノは堂々と言った。

 

 大妖精は震えた。

「やっぱり異変だよ。ないものをあるって言ってる」

「幻想郷っぽいでしょ」

「そういう問題じゃないよ」

 

 そのとき、空間に細い裂け目が開いた。

 紫色の隙間から、扇が出てきた。次に、八雲紫の顔が出てきた。

「ないものをあることにする。なかなか幻想郷らしい話をしているわね」

 

 大妖精はぱっと顔を上げた。

「紫さん!」

「こんにちは。大妖精。チルノも」

「ゆかりだ」

 

 チルノは枝を持ったまま、少し得意げに言った。

「今、ガウス整数をやってる」

「へえ」

 

 紫は隙間から半身を出し、地面の式を眺めた。

 2+i

 3+2i

 (2+i)(2−i)=5

 (3+2i)(3−2i)=13

 

「なるほど。二平方和の話から来たのね」

「分かるの?」

 チルノが目を丸くした。

 

「私は幻想郷の賢者よ。このくらいは分かるわ」

「じゃあ、あたいと同じくらい強い?」

「その結論には境界があるわね」

 紫は扇で口元を隠した。

 

「でも、正直に言うと、私は数論より解析や幾何の方が好みね。連続、極限、境界、曲面、位相。そういうものの方が、私には馴染む」

 チルノは露骨に嫌そうな顔をした。

「解析は嫌い。あのルベーグとかいうやつ、よく分からない。ほとんど至る所って何? 全部じゃないなら全部じゃないでしょ」

「そこが面白いのよ」

「面白くない。ぐにゃぐにゃしてる」

「世界はぐにゃぐにゃしているものよ」

「整数は凍ってる」

「凍った世界だけでは、境界は動かせないわ」

「動かなくていい。凍ってる方が強い」

 

 紫は楽しそうに笑った。

「あなた、本当に氷の妖精ね」

 

 大妖精は紫に駆け寄った。

「あの、紫さん。チルノちゃんは大丈夫なんですか?」

「大丈夫でしょう」

「本当に?」

「少なくとも、異変ではないわ。少しだけ、世界の見え方が整数寄りになっているだけ」

「それは大丈夫なんですか?」

「幻想郷では、よくあることよ」

「よくあるんですか?」

「たぶん」

 

 大妖精は、あまり安心できなかった。

 そのとき、紫の隙間の奥から、別の声がした。

 

「紫様。そこは少し説明を補った方がよろしいかと」

 八雲藍が、隙間から静かに現れた。

 紫は少しだけ肩をすくめた。

 

「藍。あなたの領域かしら」

「どちらかといえば」

 

 藍は地面に書かれた式を見て、すぐに状況を理解したようだった。

「ガウス整数ですね」

「らんしゃま!」

 チルノがなぜか嬉しそうに叫んだ。

 

「狐は数字が得意そう!」

「狐だからではありませんが」

 藍は苦笑しながら、チルノの横にしゃがんだ。

「つまり、普通の整数ではなく、a+biという形の数を考えているのですね。ここでaとbは整数、iは二乗すると−1になるものです」

 

 大妖精は小さく手を上げた。

「あの、二乗するとマイナス一になるものは、本当にあるんですか?」

 藍は少し考えた。

「数直線の上にはありません」

「やっぱりないんですね」

「ですが、平面まで広げると、あると考えられます。横方向が普通の数、縦方向がiの方向です」

 

 藍は地面に十字を書いた。

「たとえば、3+2iは、横に3、縦に2進んだ点だと思えばよい」

「点なんですか?」

「点でもあり、数でもあります」

 

 大妖精はまた混乱した。

 紫が横から言った。

「ほら、幾何になったでしょう?」

 

 チルノが頬を膨らませた。

「数論だよ」

「平面に点を置いているなら幾何でもあるわ」

「整数の点だけだから数論!」

「境界が曖昧ねえ」

「曖昧にしないで!」

 

 藍は慣れた様子で二人を流し、説明を続けた。

「ガウス整数では、普通の整数が因数分解できることがあります。たとえば5」

 

 藍は書いた。

 5=(2+i)(2−i)

「計算すると、4−2i+2i−i²。i²は−1なので、4+1で5です」

 

 大妖精は目を瞬かせた。

「本当だ。変なところが消えて、5になった」

「そうです。同じように」

 

 藍はさらに書く。

 13=(3+2i)(3−2i)

「9−6i+6i−4i²。つまり9+4で13」

 

 チルノが胸を張った。

「だから13は3²+2²!」

「その通りです」

 

 藍がうなずくと、チルノはとても嬉しそうに笑った。

 紫は扇で口元を隠したまま、少し面白そうに見ていた。

 

「なるほどね。四で割って一余る素数は、ガウス整数の世界では割れる。四で割って三余る素数は、そのまま素数らしく残る。整数の世界だけでは見えない分かれ目が、少し広い世界に行くと見える」

「そう!」

 チルノが枝を振った。

「広い世界に行くと、素数が割れる!」

 

 大妖精は不安そうに言った。

「素数が割れたら、素数じゃなくなっちゃうんじゃないの?」

「普通の整数では素数。でもガウス整数では割れることがある」

 

 藍は丁寧に言った。

「どの世界で見ているかによって、割れるか割れないかが変わるのです」

 

 紫が微笑んだ。

「境界の話ね」

「紫様は何でも境界の話にしすぎです」

「実際そうでしょう。整数とガウス整数の境界。実数と複素数の境界。離散と連続の境界」

「今はチルノさんに分かるように話しています」

「私にも分かるわよ」

「紫様にではありません」

 

 紫は少し不満そうに扇を閉じた。

 チルノは地面に、また大きく式を書いた。

 N(a+bi)=a²+b²

 

「ノルム!」

 藍が少し驚いた顔をした。

「そこまで知っているのですか」

「知ってる。強さを測るやつ」

「まあ、大きくは間違っていません」

「3+2iの強さは13!」

「ノルムは13ですね」

「2+iの強さは5!」

「ノルムは5です」

「やっぱり数論は分かりやすい。強さが数字で出る」

 

 大妖精はようやく少し笑った。

「チルノちゃんらしいね」

 

 紫は、地面に書かれたノルムの式を見つめた。

「でも、ノルムというのは面白いわね。複素数を、普通の整数へ戻す。広げた世界から、測れる量だけをこちらへ持ってくる」

「紫様、好みの話になってきましたね」

「だって境界をまたいでいるもの」

「はいはい」

 

 チルノは紫を見た。

「ゆかりは、ガウス整数好きじゃないの?」

「嫌いではないわ。ただ、私ならその平面を連続にしたくなる。点だけでなく、線も面も考えたい。どこで切れるか、どこが繋がっているか、どこからどこまでが内側か外側か」

「ぐにゃぐにゃしてる」

「ええ。ぐにゃぐにゃしているものを、ぐにゃぐにゃしたまま扱うのが好きなの」

「凍らせればいいのに」

「凍らせたら、動かなくなるでしょう」

「動かなくていいよ。分かりやすい」

「動くから面白いのよ」

「凍るから強い」

 

 二人はしばらく見つめ合った。

 藍が小さくため息をついた。

 

「紫様とチルノさんは、数学の趣味が正反対ですね」

「私は大人だから、連続の曖昧さを受け入れられるのよ」

「あたいは最強だから、整数をそのまま持てる!」

「会話が成立しているようで、成立していませんね」

 

 大妖精はぽつりと言った。

「でも、チルノちゃん、楽しそう」

 

 藍は少し柔らかい顔になった。

「ええ。理解の仕方は独特ですが、筋は悪くありません」

「本当ですか?」

「本当です。少なくとも、平方数を四で割った余りや、ガウス整数での因数分解を、具体例で追えている。これは立派です」

 

 チルノは得意げに胸を張った。

「ほら! あたいは最強!」

 

 紫が扇を開いた。

「ただし、解析は苦手」

「ルベーグは嫌い」

「もったいないわね。測度論は、境界の妖怪としてはなかなか面白いのに」

「測るなら凍らせてから測る」

「凍らせると失われる情報もあるわ」

「溶ける方が悪い」

 

 藍はそこで、ふと思いついたように言った。

「では、チルノさん。次は整数を少し違う形で凍らせてみますか」

「違う形?」

「合同式です。たとえば、数を四で割った余りだけで見る。これは数を余りごとの箱に入れるようなものです」

 

 チルノの目が輝いた。

「箱に入れて凍らせる!」

「そうです」

 

 紫が横から口を挟んだ。

「それも一種の商空間ね」

「紫様」

「何?」

「この場合は商環と言った方がよろしいかと」

「細かいわねえ」

 

 チルノはすでに地面に新しい表を書き始めていた。

 0,1,2,3

 0²=0

 1²=1

 2²=0

 3²=1

「見て、大ちゃん! 四の世界では、平方数は0か1!」

「それはさっきより少し分かる!」

「でしょ!」

 

 大妖精はほっとした。

 チルノはおかしくなったのではない。

 

 たぶん、異変でもない。

 ただ、氷の妖精が、いつもとは違うものを凍らせ始めただけだ。

 蛙ではなく、数を。

 湖ではなく、余りを。

 弾幕ではなく、素数を。

 

 紫はその様子を見ながら、楽しげに目を細めた。

「六枚羽根の氷の妖精が、整数を凍らせる。なかなか幻想郷らしいわね」

「紫様」

 

 藍が小声で言った。

「何?」

「気に入りましたね」

「ええ」

 

 紫は微笑んだ。

「こういう小さな異変未満が、幻想郷を面白くするのよ」

 

 チルノが振り向いた。

「異変じゃないってば!」

「ええ。異変ではないわ」

 

 紫は扇で地面の式を指した。

「ただの最強の寄り道ね」

 

 チルノは満足そうに笑った。

「そう! あたいは最強だから、寄り道も強い!」

 

 大妖精は、もう巫女を呼びに行くのをやめた。

 その代わり、チルノの隣に座って、四で割った余りの表を一緒に眺めることにした。

 

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