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なろうカクヨム諸々マルチ
◆
どん、どんという音。
ごぼりごぼりという音。
──音が違う。
そう、違うのだ。
加奈子の
彼女はもっと控えめにノックをするし、話す合間合間にあんな風に水っぽいゴボゴボとした音をたてたりはしない。
「加奈子はもっと上品なんだよ。良いところの出のお嬢さんでさ」
僕はそんな事を呟きながら温くなったビールを喉に流し込んだ。ここ最近はろくにものも食べていないが、不思議とビールはするすると飲める。加奈子が好きだったというのもあるのだろう。僕は一気に飲み下し、テーブルの向かい側を見つめた。
どれだけ時間が経っただろうか、ふと時計を見ると、もう三十分もぼうっとしていたみたいだ。
僕は再度室インターホンまで歩いて行って、受話器を取った。あいにくディスプレイはついていない為、外を見る事は出来ない。
受話器に耳を当ててみる。
すると──。
ゆ、うま
ゆうゥゥまあァァ
ああ、まだいるみたいだ。
でも加奈子じゃない。
彼女は僕を、悠馬さんとよぶ。
◆
僕──三枝悠馬が妻である斎藤加奈子と知り合ったのは数年前の事だった。
陳腐に過ぎるが、きっかけは合コンだ。新宿の居酒屋で四対四。大学の同期が「いい子がいるんだけど」と言うので顔を出したら、端の席でビールのグラスを両手で持ってちびちびやっている子がいた。それが加奈子だった。
話してみると品がいい。自分のことをあまり語らず、こちらの話を静かに聞く。笑い方が控えめで口元を手で隠す。育ちの良さが所作の端々に滲んでいて、こんな安い居酒屋に座らせているのが申し訳なくなった。
そんな加奈子は読書が趣味で、宮内みゆきが好きとの事。宮内みゆきといえば社会派ミステリーの重鎮で、怪談も書く。
そして僕はといえば東極春彦が好きで、この辺で話があったのだ。というのも、東極春彦と宮内みゆき、そして大村成正の三人はそれぞれが共同出資して会社を設立するほどに親しい。作家が会社を作って何をするのかといえば、まあタレントや俳優が所属する「芸能事務所」の作家版のような位置づけだ。
「東極先生と宮内先生って同じ事務所ですよね」と加奈子が言った。
「そうそう。大村先生も入れて三人で」
「知ってます。あの三人、大好きです」
加奈子はそこで初めて口元の手を下ろして笑った。控えめな子が好きなものの話になると声が大きくなる。そこがなんだか素敵だった。何がどう、とは言えない。何となくとても素敵だなと思ったのだ。
それからはとんとん拍子と言っていいだろう。僕らしくもなく、猛アタックをしてデートにこぎつけて、二度目のデートで本屋を三軒はしごして、三度目で手を繋いで、二年後に籍を入れた。
相性が良かったのだと思う。
加奈子が死んだのは結婚して二年目の秋だ。
夕方の交差点で信号待ちの列にトラックが突っ込んで、四人が撥ねられ、二人が亡くなった。その片方が加奈子だった。
葬儀のことはよく覚えていない。
ただ、決めていた事が一つあった。いつだったか加奈子が、死んだら海に流してほしいと言っていたのだ。冗談めかしてはいたけれど、あれは本気の目だった。
調べてみると海洋散骨は案外安い。家族貸切で船を一艘出して、二十五万円ちょっと。
遺骨は専用の機械でパウダー状に挽かれ、三割ほどの嵩になって戻ってきた。あんなに骨壺いっぱいにあったのに。それを水に溶ける紙の袋に小分けして、空になった骨壺と木箱はお焚き上げに出した。
秋の東京湾に船を出した。乗ったのは僕と加奈子の両親、それに妹さんの四人。港を出て一時間ばかり走った沖で船が停まり、僕らは順番に袋を海へ落としていった。袋はしばらく波間に白く揺れて、ふっと見えなくなった。
献花をして、加奈子の好きだったビールを海に注いで、黙祷をする。汽笛が長く鳴る。
帰りの船で義母が「あの子らしいお式ね」と泣いた。僕は泣かなかった。実感がまだなかったのだ。そして、実感がなかったことにほっとしたのを今でも覚えている。
だって実感なんか──したくない。
実感なんてしたら、
◆
「ねえ、悠馬さん……。その、最近ちゃんと食べてる……?」
遺品やらなにやらの話の関係でとある喫茶店で顔を合わせた日、義母がそんな事を言ってきた。どうやら義母の目からみて、僕は余り良くない生活を送っているらしい。
僕は「ええ、まあ」と当たり障りのない返答をしたものの、その気の無さに義母も思う所があったらしく、家をみせてくれなどと言ってくる。
数日後、義母がやってきた。
部屋に上がった義母は「まあ」と言ったきり黙った。
その声で初めて僕は意識して自分の部屋を見た。ビールの空き缶が流しの横に山を作っている。コンビニ弁当の容器が袋に詰められたまま三つ四つ転がっていて、カーテンは閉めっぱなし。ソファの端には畳んでいない服の山。いつからこうなのか、正直思い出せない。
その中で、加奈子の本棚だけが綺麗だった。
宮内みゆきの文庫が刊行順に並んでいる。埃ひとつない。僕は毎日あそこだけ拭いていた。
義母は空き缶の山を一瞥して、それから本棚を見て、何かを察したような顔になった。
「悠馬さん。怒ってるんじゃないのよ」
座る場所を作ろうとする僕を手で制して、義母は言った。
「あの子のこと、そんなに想ってくれて、私は嬉しいの。本当よ? でもね、あの子が今のあなたを見たら、きっと悲しむと思うのよ」
「……そうですね」
「ちゃんと食べて、ちゃんと寝て。ね? 体調はどうなの? どこか具合悪い所はない?」
「ちゃんとします。体調は……普通ですね」
嘘ではない。
ただここ最近、耳元で音が聞こえる事がある。
カツ、カツというような硬質な音だ。
爪でテーブルを軽くたたく様な──いずれにせよ、頻繁に聞こえるわけでもなく、ストレスかなにかが影響しているのだとおもう。もう少し酷くなり、日常生活に支障をきたすようなら医者にかかってもよいかもしれないが、今は様子見といった所だ。
義母は僕の顔をしばらく見て、それから困ったように眉を下げた。多分、伝わっていないことが伝わったのだろう。
それから、少し黙った。言葉を選んでいるようで、視線が一度加奈子の本棚へ流れて戻ってくる。
「ねえ悠馬さん。この前、お葬式をしたでしょう」
「ええ」
「お葬式っていうのはね、遺された人の気持ちの割り切りのためにやるものなの。読書家の悠馬さんなら知ってると思うけど」
「はあ」
「でもね、本当はもう一つ理由があるのよ」
「理由、ですか?」
義母は頷いた。
「遺された人の想いはね、時々、死んだ人の安らかな眠りを妨げてしまうことがあるの。遺された人がしっかりと送ってあげないと、死んだ人──加奈子も安心して眠れないのよ? それどころか……」
義母がそこまで言った所で、僕はああ、と頷いた。神道で言う祓えの思想だ。
身近な人の死による深い悲しみは、人間の生命力や生きる気力を極限まで衰退させる。これを「気が枯れる=気枯れ(けがれ)」と呼ぶ。 そして神道では、気が枯れてエネルギーが落ちた場所や人間には、邪悪な悪霊や災いをもたらす神である「禍津日神(まがつひのかみ)」や「妖邪(ようじゃ)」が自然と引き寄せられて憑りつくと考えるのだ。そのため、一定の喪に服した後は、無理にでも日常に戻り、場を清め、生命力を取り戻さなければならないという教えがある。
この辺は僕が東極本を読んでいって自然と覚え、それを先生の受け売りだといって加奈子に話した事がある。きっと加奈子は、それを義母に話したのだろう。
だが、祓え?
そんなものは所詮宗教用語だろう。
もちろんそういう考えで救われる人もいるかもしれないが、少なくとも僕は違う。
帰り際、義母は玄関で振り返って言った。
「今度の夏、初盆でしょう。ちゃんと迎えてあげてね」
「……ええ」
僕は力なく返事を返すばかりだった。
◆
冬が過ぎて、春が過ぎた。
僕の生活は変わらなかった。相変わらずろくに食べず、ビールばかり飲んで、本棚だけを拭いた。会社には行った。仕事は手につかないなりにこなせてしまうのが、事務仕事のいいところだ。
七月に入った頃、少しだけ胸が騒ぎだした。
お盆には、加奈子が帰ってくる──。
そんなわけがない、とは思う。僕は幽霊を信じていない。幽霊なんてものがいるなら、この世界は幽霊だらけだ。今生きている人間よりも遥かにこれまで死んだ人間のほうが多いのだから。それでも──いつだったか僕は加奈子に、お盆の魂は海を伝って還るのだと話したことがある。あの世は海の彼方にあるのだと。あれは話の流れで話しただけではあるが──。
僕は加奈子を海に流している。
もしかしたら、という想い。
どうか、という想い。
どうせ、という想い。
その他諸々──。
色んな想いが僕の中で交錯していた。
そして八月十三日──つまりは、お盆。
帰ってきたのだ。
ただ、加奈子かどうかは分からなかった。
◆
午後八時を回った頃だろうか。何の気もなしにニュースを見ていると、急に気温が下がったように感じられた。ふと腕を見れば、サブイボが気持ち悪いくらいに出来ている。
ホラー映画のテンプレじゃあるまいし、とは思ったが、それでも嬉しかった。
加奈子にまた逢えると思って狂喜した。
でも、そんな喜びもチャイムが鳴らされるまでである。
時間も時間だし、郵便物という事はないだろう。ならば宅配か。何かを頼んだ覚えはないが、義母が食料なりを送ってくれたのかもしれない。
失望しつつも立ち上がり、インターホンを手に取って「はい」と短く答える。
しかし──。
返事がない。
いたずらかと思って受話器を置きかけた時、微かに聞こえた。
すう……すう……
呼吸の音だ。スピーカーの砂嵐みたいなノイズの奥で、誰かが息を吸っている。
「……どちらさまですか」
尋ねたが答えはない。呼吸音が続くばかりだ。
僕は受話器を置いた。それから玄関へ行ってドアスコープを覗いたが、魚眼の向こうには外廊下の緑色の床が広がっているだけだった。
チャイムは、それきり鳴らなかった。
近所の子供のいたずらか酔っ払いだろう。そう思うことにして、でも、と僕は考えている。
加奈子なら名乗るだろう、きっと。
育ちがいいのだ。
実際、彼女の実家はそこそこ大きい会社を経営している。
お嬢様というわけだ。
そもそもだ、ここは僕の家だが彼女の家でもあるはずだ。なぜ自分の家に入るのにインターホンを鳴らす?おかしいだろう。
だからあれは、加奈子じゃない。
◆
翌十四日の夜。
今度はノックだった。
どんどんどんどん、と拳の腹で叩くような連打。時計を見れば午後十一時を回っている。腕を見れば昨日と同じくらいサブイボがたっていた。
何か尋常ではないモノが来ている。
ドアの向こうにいる──それはあるいは、彼岸よりやってきた加奈子なのかもしれない、が。
反射的に思った。音が違う、と。
例えば僕の部屋のドアをノックする時、加奈子のそれは、こつ、こつ、と二回だ。爪の先で遠慮がちに叩くのだ。そんな弱いノックじゃ気づかないだろうに、加奈子ときたら『失礼な気がして』なんて言っていたっけな。
でも今聞こえている音はどうだろう。
どんどんどんどん。
連打は続いている。
僕はそれを無視した。あんな音をたてているのが加奈子のわけがないからだ。僕は大きくため息をつき、空になったグラスを見遣る。たしか冷蔵庫にはまだビールがあったはずだ。
「余り呑むと加奈子に叱られちゃうな」
加奈子は普段は温厚だが、怒ると怖い。叫び散らすとかそういう感じじゃなくて、むしろ真逆だ。ぐっと黙り込んで、その沈黙に色々と詰め込んだ何かを叩き込んでくるのだ。
そういえば付き合っている時、ホテルデートをした事がある。何日かまとまった休みをとって、都内のホテルを拠点にして色々と遊びにいったりするやつだ。その時、僕は浮かれて最初の晩にお酒を飲み過ぎて、結構早い時間に寝入ってしまった事がある。翌日、加奈子は怒っていた。せっかくのホテルデート、夜はまさにこれからというときに僕が酔っぱらって眠り込んでしまったんだから怒るのも無理はないだろう。
「あの時は許してもらうのに苦労したなあ」
どんどんどんどん。
音はまだ続いているが関係ない。僕は冷蔵庫からビールを取ろうと立ち上がった。昔の事を思い出して、少し気分が滅入ってしまった。しこたま酔っ払いでもしないと眠れないだろう。
足を踏み出すと、どうにもふらつく。酔いのせいではない。随分体力が落ちているみたいだった。何かしら食べなければ、とは思うのだがどうにもそんな気分になれない。
それにしても、ああ、加奈子は今日も帰ってこなかった。
◆
結局お盆はそんな調子で過ぎていった。あれからも何度か訪問を受けたが、どれもこれもが加奈子ではない。期待していた分、失望が大きく、僕はもうそれはごっそりとやる気を喪ってしまった。
耳元で聞こえるあの音は頻度を増し、神経を逆なでしてくる。ストレスも極限まで溜まってしまったという所だろうか? ただもう医者にいくのも億劫だった。
そんな風にして生産性のない日々が過ぎていく中、色々な事があった。
例えば仕事をやめたり、例えばやたらと五月蝿いスマホを放り捨てたり。
あらゆる意欲を失くしてしまったように見えるかもしれないがしかし、僕は自ら命を断とうとだけはしなかった。
仮に死後の世界が存在したとしても、果たして加奈子がいる場所へいけるのだろうかという疑問があったからだ。諸々の宗教では自殺した者はやれ地獄にいくだとかなんだとか、そんな事ばかり書かれているではないか。地獄に加奈子がいるならば良いが、加奈子が行く場所は間違いなく天国だろう。
かといって何かを始めようとする気にもならない。
食べる気も、飲む気も出てこない。
暗い、昏い部屋の中、ただただ思うのは
加奈子、加奈子、加奈子──。
そればかりだ。
もしあの日あの時、加奈子が買い物に行くというのを止めていればどうなっていただろうか。僕が買いに行くから君はまっててよ、と言っていたら。あるいは二人で一緒に行こうと言っていたら。
ああ、それにしても暗い。
電気をつけているはずなのに。電気を止められてしまったのだろうか、いや口座引き落としになっているはずだし、たくわえも少しはあるはずだ。
ブレーカーが落ちたのかな、と思い、僕は立ち上がろうとしたが。
なんだか体が動かない。
ふ、と見れば枯れ木のように細くなった自分の腕が目に入った。
啞然としていると──。
がちゃり
玄関から鍵を開ける、音がした。
(了)