46章 異変の境界
翌朝ギルドの前で準備が始まった。
セレナが腰の袋からいくつかの器具を取り出し点検している。掌サイズの透明な結晶、表面に目盛りの刻まれた円盤、それに採取瓶が数本。
ゴードンが俺たちの前に立った。
「今日の目的は環境測定だけだ。原因を突き止めに行くんじゃねえ。ダンたちが倒れた地点より奥には行かない。セレナか俺が戻れと言ったら即座に従え」
アレンが頷く。
「はい」
「今回はお前らの実力を見るための依頼じゃねえ。分かってるな」
「分かってます」
アレンの声に迷いはなかった。ダンが倒れた森へ再び入るというのに気負っている様子はない。
(前ならもう少し食い下がってたかもしれんな)
俺はアレンの足元で尻尾を巻いた。
セレナ、ゴードン、ゼド、黒猫団の三人、それにベテランの冒険者が一人。
* * *
北東の森の入口。
朝の光が木々の間へ届いている。鳥が鳴いている。虫の音もする。苔の生えた地面に小動物の足跡が残っていた。
セレナが最初の測定を行う。透明な結晶を掌に乗せしばらく目を閉じる。
「特に異常はない。通常範囲ですね」
俺も鼻を動かした。土と草と苔の匂い。あの甘ったるい鉄錆の匂いはしない。
(ここまでは大丈夫だ)
セレナが地図へ最初の記録を書き込んだ。
* * *
奥へ進むにつれて少しずつ変わっていった。
最初に鳥の声が減った。
次に虫の音が途絶えた。
アレンたちも気づいている。エマが周囲を見回す回数が増えた。
さらに進むと小動物の痕跡が消えた。糞もない。足跡もない。草が踏み倒された跡すらない。
そして植物に僅かな変色が見え始めた。苔が薄くなり、木の葉の端が黄色っぽくなっている。
(……来た)
鼻の奥に触れた。あの甘ったるい鉄錆の匂い。まだ非常に薄い。だが確かにそこにある。
俺は思わず立ち止まった。
「クロ?」
アレンがすぐに気づいた。
セレナも俺を見る。
「何か感じた?」
「にゃあ」
セレナはその場で結晶を取り出し測定した。円盤型の器具も地面に置く。
しばらくしてセレナが眉を寄せた。
「異常なし。通常範囲」
(やっぱり出ねえのか)
セレナは地図へ場所を記録した。だがその顔には少し引っかかるものがあった。
* * *
そこからさらに数十メートル進んだ地点。
今度はセレナの足が止まった。
結晶の色が変わっていた。ほんのわずかに透明から薄い紫色へ。
「ここからです」
セレナが円盤型の器具を見る。針が普段とは違う方向へ小さく振れている。
「魔力そのものが多いわけじゃない。でも測定が安定しない。同じ場所で数値が揺れる」
セレナは地面に円盤を置き直した。針が右へ振れ、次は左へ、また右へ。一定しない。
「普通の魔力異常とは少し違いますね」
セレナはそう言っただけで何が起きているのかまでは語らなかった。
ゼドが全員の体調を確認する。
「息苦しさは? 頭痛は? 手足の痺れは?」
「ないです」
アレンたちが答える。俺にも今のところ身体の異常はない。
セレナが地図へ二つ目の記録を書き込んだ。
そして俺を見る。
「あなたが最初に反応した地点とここは違うのね」
「にゃあ」
セレナは地図上の二つの地点を見比べた。数十メートルのズレがある。
「あなたの方が先に気づいた」
セレナはそう言っただけで騒ぎもしなければ褒めもしない。ただ記録した。
* * *
セレナは採取を始めた。
変色しかけた葉正常に見える葉土苔。それぞれを別の瓶へ入れていく。
レオが聞いた。
「異常な方だけじゃ駄目なんですか?」
「比べるものがなければ何が違うのか分からないから」
セレナは短く答えて手を動かし続けた。
(研究ってのはそういうもんか)
俺は変色した木の幹を眺めた。薄く黒ずんでいる。何か引っかかるものがあった。
(なんだ?)
一瞬だけ頭の奥が反応した。だがそれ以上は分からない。見間違いかもしれないし、ただの木の変色かもしれない。
俺は鼻を振って先へ進んだ。
* * *
さらに奥へ進んだ地点。
鼻の奥に痺れを感じた。あの時ほど強くない。だが確かにある。足元がふらつくような感覚がした。
(ここから先は嫌だな)
俺はそれ以上進みたくなかった。
アレンがすぐ気づいた。
「クロ?」
セレナが俺を見てそれから測定器具を確認した。結晶の紫色が濃くなっている。針の振れも大きい。
「戻りましょう」
セレナが言った。
ゴードンより先にセレナ自身が撤退判断を出したのだ。
「もう少し測るか?」
ゴードンが聞く。
「これ以上は私の道具でも保証できない。人を助けに来たんじゃなくて測りに来たんです。十分です」
俺は安堵して踵を返した。
* * *
帰りながらセレナが記録を確認していた。
クロが最初に反応した地点。
測定器具が反応した地点。
植物の異常が明確になった地点。
そして以前に人間が倒れた地点。
それぞれが完全には同じではない。少しずつズレながら奥へ強くなっている。
「何かがあるとすれば、森全体ではないでしょうね」
ゴードンが腕を組む。
「奥か」
「可能性は高いです。でもまだそれだけです」
セレナはそう言って地図を閉じた。
* * *
ギルドへ戻りセレナは採取物と記録の整理を始めた。
「今日はここまで」
エマが少し拍子抜けた顔をした。
「もう終わり?」
「十分な情報は取れたんじゃないですか」
レオが言う。
(前ならもっと奥まで行ってたかもしれんな)
俺はアレンの足元で丸くなった。引くことも冒険者の仕事だ。あの森でそれを身をもって知った。
セレナが記録を整理し終えもう一度俺へ視線を向けた。
「あなたが最初に反応した場所では私の道具には何も出なかった」
「にゃあ」
「でもその先では確かに異常が出た」
セレナは俺の顔を覗き込む。
「あなたは何を感じているの?」
(俺が聞きてえよ)
「にゃあ」
セレナは少しの間俺を見ていたがやがて視線を記録へ戻した。
* * *
夜。
アレンの家。
俺は窓辺に座っていた。
今日の森を思い返す。
セレナの道具では何も出なかった場所で自分には確かに匂いが分かった。
(やっぱり普通の匂いじゃねえのか?)
猫だから鼻がいい。そうだと思っていた。だがセレナの道具すら反応しない地点で俺だけが何かを感じている。
(俺は一体何を嗅いでるんだ?)
俺は鼻先を前足に埋めた。
その疑問だけがいつまでも頭の中に残っていた。