私は、彼女を見つめている。
「あなたがする選択を、私はただ見ます」
「そこに、私からの干渉はありません」
私は、彼女の背中に白い羽を幻視した。
求めるべき愛するつがいは眼の前に存在するが、私はそれを手にすることは出来ないと分かっている。
私はそれを愛していても、それは私を愛さない。
それでは意味はない。
舵に手をかける。
海の荒れが強くなった。
打ち付ける波が、私の顔に僅かな飛沫を浴びせる。
塩の味がする。
私がこの船で目覚めて、数か月が過ぎた。
船の中には数年暮らすのに十分な食料があった。世界の海図があった。
私はこの船で暮らし、何処へ行くこともできると分かった。
しかし、私は一人だ。
船の中には私とこの奇妙な人間以外の生命は存在していないと分かったのは目覚めてひと月のことだった。
それは、赤褐色の髪の女だった。
腰まで届くほどの長髪で、ピンと張った背中。
翠玉色の目、金の瞳孔を携えて、妙な黒色の外套に身を包んでいた。
一目見て、こいつは人ではないと直感した。
船の中で目覚めた私が甲板に出ると、それはいた。
その日は嵐だった。荒波が打ち付けて揺れる船の中、それは少したりともよろめくことなく海を見つめていた。
それは私が声を掛けるとじっとこちらを見てきた。
「はじめまして。私はあなたを見届けるものです。そうあれとして生まれました」
ゾッとするような美貌だった。
この世のものとは思えない美しさをしたそれは、見届けるものと名乗り、私の船の中での唯一の他者となった。
私がこの船から降りることは出来ないと知ったのがそれから程なくしての事。
昼でも夜でも、この船はいつも洪水のような荒波に見舞われている。
見渡しても陸地などはほとんど見えず。僅かに見える陸地に向かおうとすれば、着くころにはそこは洪水に侵されて水の下に沈んでいる。
私はこの世界で彼女を除いて誰とも会うことが出来ないのだ。
そして、陸に降りることも出来ない。
世界は洪水で崩れてゆく。
ある時食事をしていると、彼女が甲板から降りてきた。
彼女にも何か食べ物をと差し出そうと机の上に置くが、それに見向きもしなかった。
居心地が悪い。
「貴方は、なぜ……この船にいる?」
「あなたを見届けるためです」
「それが分からない」
そう、これだ。
彼女は話をしてくれない。
いつもここに帰結してしまう。
「私は……大地に戻れるのか?」
「それに対する回答を持ちません」
怒鳴ってしまいたかった。
感情のまま怒り、全てをぶつけたかった。
それをする気力すらもが失われてしまっていた。
「私は……家族を持つことはもうできないのか」
「それを答えることはできません」
いつもそれだ。
この船で何か私が求めるものは、いつだって得られない。
私は人並みの幸せを得られさえすればいいと思って生きてきた。
高望みなどしない。
愛する人と二人で暮らし、子を持ち、田畑を耕し、親を看取る。
そして、愛する人とその子に看取られて死んでいく。
そのような、平凡な暮らし。
「ただ、それだけがあればよかったのに……それすらも得られないのか?」
「私はあなたを見届けるもの。それに対する答えを持ちませんが、一つだけあなたに伝えましょう」
「……何を?」
「主はあなたの選択を見ています。あなたが何をして、何を選ぶのか」
私はだんだん、何が自分の身に起こっているのかに気づいてきた。
認めなければならなかった。
彼女は私の理想の姿形を取っていることに。
世界で最上の美貌というには事足りない。
それは、私という人間が心の中で抱いていた、こうあってほしいというような異性の理想形なのだ。
認めなければならなかった。
それを認識してしまったということが、決して幸福ではないということに。
それを認識した時、少し波が弱まったように思えた。
しかしなお海は荒れ狂う。
陸地にはまだ着かない。
白い羽根の幻視を気のせいだと片づけることは難しかった。
「貴方は、私が求めているものにとうに気づいているのでしょう」
「はい」
「しかし、それならばなぜ……なぜ、貴方は」
「私はあなたの問に答えを持ちますが、応えることはありません」
彼女の後ろ、水平線の向こうに僅かに陸が見える。
煙が立ち上り、そこには生活の痕跡がある。
「まだ、あなたは進むのですか?」
五月蠅い。
脳をよぎる選択を無視する。
それでも、私は進むのだ。
どこかに人間がいるはずだから。
私が愛する人が。
私を、愛してくれる人が。
彼女の無機質な微笑みが、どうしようもなく私を傷つけるのだから。
船がひっくり返りそうな勢いで荒れる波。その先を見つめた。
陸地は何処にいるのだろうか。