――聖園ミカにとって、先生は光だった。
自分が過ちを犯し、暗闇の底で「魔女」として絶望していた時、泥だらけになって手を伸ばしてくれた唯一の存在。
どんなに自分が自分を嫌いになっても、先生だけは『ミカは大切な私の生徒だ』と肯定してくれた。
あのおとぎ話のような救済があったからこそ、ミカは今日まで正気を保ち、息をしてこられたのだ。
「先生っ! 遊びに来ちゃった☆」
シャーレのオフィス。
夕暮れ時の赤々とした光が差し込む部屋に、ミカはいつものように明るい声を響かせて飛び込んだ。
ここ数日、トリニティの中でも「先生の様子がおかしい」という噂は流れていた。けれど、ミカは心のどこかで高を括っていた。
だって、先生は私をお姫様(プリンセス)扱いしてくれる、たった1人の王子様だから。
会いに行けば、きっといつものように優しく笑ってくれるはずだ。そう信じて疑わなかった。
「……」
部屋の隅、窓際のソファに先生は座っていた。
部屋の電気もつけず、ただ茜色の空をぼんやりと眺めている。ミカが声をかけても、振り返る気配すらない。
「あはは、先生ったらまたお仕事サボり? ユウカちゃんに怒られちゃうよ? ……って、あれ?」
ミカが隣に座り込んでも、先生の瞳は窓の外から微動だにしなかった。
その横顔は、ミカの知っている「大人」の顔ではなかった。
まるで、魂だけがどこか遠くへ行ってしまったかのような、ひどく虚ろな無表情。
「……先生? どうしたの、具合悪いの?」
ミカの声に僅かな焦りが混じる。
肩を揺さぶられて、ようやく先生はゆっくりとミカの方へ首を向けた。
「……ああ、ミカ。来てたんだ」
「もう、ずっと前からいたよ! 先生、最近全然連絡くれないから、私すっごく寂しかったんだからね?」
わざとらしく頬を膨らませて、ミカは先生の腕にすがりつく。
いつもなら「ごめんごめん、忙しくて」と苦笑いしながら頭を撫でてくれるはずだ。あるいは「ミカも勝手に抜け出してきちゃダメだろ」と、優しいお説教をしてくれるはず。
だが、先生はミカの腕を振り払うことすらせず、ただ平坦な声で呟いた。
「そっか。ごめんね」
それだけだった。
謝罪の言葉なのに、そこに『感情』が一切乗っていない。
AIに喋らせた方がまだマシなほど、無機質で、空っぽな声。
「……ぇ?」
「用がないなら、静かにしてて。……ちょっと、頭痛いから」
再び窓の外へと視線を戻してしまう大人。
ミカの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
違う。こんなの、私の知っている先生じゃない。私を救ってくれた、あの熱くて優しい先生じゃない。
得体の知れない恐怖が、ミカの背筋を這い上がっていく。
このままでは、先生がどこか遠くへ行ってしまう。自分を置いて、手の届かない場所へ消えてしまう。
気づけば、ミカの口は、かつてよく使っていた『悪い癖』を紡ぎ出していた。
「……ねえ、先生。私、また悪いことしちゃおうかな」
「……」
「最近ね、トリニティのみんなが私のことヒソヒソ言うんだ。だからさ、また壁を壊して、暴れちゃおうかな。どうせ私、魔女だしさ。誰も私のことなんて――」
それは、ミカなりの不器用で自傷的なSOS(試し行為)だった。
自分が悪ぶれば。自虐して、堕ちようとすれば。
先生は必ず血相を変えて『そんなこと言わないでくれ、ミカ!』と抱きしめてくれる。自分を止めて、正しい道へと導いてくれる。
その愛情を確かめたくて、わざと歪んだ言葉を口にしたのだ。
しかし。
先生の反応は、ミカの予想を、最も残酷な形で裏切った。
「――うん。いいんじゃない」
「……え?」
先生は、一切の感情を揺らさず、ただ静かに言ったのだ。
「ミカがそうしたいなら、そうすればいいよ。……暴れてもいいし、また誰かを傷つけても」
「な、なに……言ってるの、先生……?」
ドクン、ドクン、と。
ミカの耳の奥で、心拍の音がうるさく鳴り響く。
違う。言ってほしいのはそんな言葉じゃない。「いいよ」なんて、肯定してほしくない。
ダメだって叱って。あなたは大切な生徒なんだって、私を魔女になんてさせないって、あの時みたいに言ってよ。
「せん、せい……冗談、だよね……? 私がまた暴れたら、先生、悲しいでしょ……? 止めて、くれるよね……?」
すがりつくように問いかけるミカの震える声。
それに対し、大人はただ、不思議そうな、それでいて心の底から『どうでもよさそう』な顔をして首を傾げた。
「悲しい? ……どうして?」
「ぇ……」
「ミカがやりたいことなら、僕はなんだって肯定するよ。君が魔女になって、全部壊したいって言うなら、それも君の自由だ。好きにしていいんだよ」
「あ、ぁ……っ」
「誰も君を止めない。僕も怒らないから……安心して、君のやりたいようにやりなよ」
それは、究極の全肯定。
絶対に怒らない、絶対に否定しない、都合のいい優しい大人。
けれどその正体は、ミカという生徒の未来を完全に放棄し、見放した『絶対的な無関心』だった。
パリリン、と。
ミカの心の中で、大切に守ってきたガラスの城が粉々に砕け散る音がした。
「嘘……嘘だ、嘘だ嘘だっ……!」
ミカはパニックに陥り、先生の肩を激しく揺さぶった。
信じられない。信じたくない。
あの時、泥まみれになりながら私を光の下へ引っ張り上げてくれたあの人が、今、自分の口で『魔女になってもいい』と突き放したのだ。愛情という名目で。
「先生っ! 私だよ、ミカだよ!? あなたのお姫様でしょ!? ねぇ、私を見てよ! ダメだって言ってよ! 私を叱ってよぉっ!!」
大粒の涙をボロボロと流し、子供のように泣き叫ぶミカ。
だが、いくら揺さぶろうと、服を引っ張ろうと、先生は抵抗すらしない。
ただ、操り人形のように力なく揺れるだけで、その瞳にミカの姿が映ることは二度となかった。
「……疲れた。僕、寝るね」
泣き叫ぶミカを完全に無視して、先生はそのままソファにごろりと横たわり、背中を向けて目を閉じてしまった。
「あ、あぁ……ぁあああっ……!」
シャーレのオフィスに、ミカの悲痛な絶叫が響き渡る。
彼女はソファの前に崩れ落ち、もうピクリとも動かない大人の背中にすがりついて、咽び泣くことしかできなかった。
魔法は解けた。
王子様は死んだ。
救済の物語は終わり、あとにはただ、全肯定という名の拒絶を突きつけられ、二度と救われることのない魔女だけが残されたのだった。
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