第二十二学区。
人工の星空が輝くその巨大なドーム空間で、後方のアックアと『聖人』神裂火織、天草式十字凄教、そして瀬川空の死闘は、いよいよ極限の領域に達していた。
「シィッ!」
神裂が七天七刀を振るい、不可視の斬撃である『唯閃』を連続で放つ。同時に彼女は、空の空間移動による足止め支援と連携し、アックアの周囲の鉄柱や瓦礫を利用して強靭なワイヤーを三次元的に張り巡らせ、彼の超絶的な機動力を物理的に封じ込めようと試みていた。
「そろそろ……できます!」
後方で術式の構築を進めていた五和が、悲痛な叫び声を上げた。
天草式の面々が円陣を組み、聖人を自壊させる特効術式『聖人崩し』の準備が、ついに最終段階へと入ったのだ。
その異常な魔力の高まりに、明確な危機感を覚えたのか。
アックアは、神裂のワイヤーの包囲網を力任せに蹴り破り、常識外れの跳躍力で、一気にドーム階層の『天井』——逆さまの人工星空が投影されている巨大なコンクリートのアーチへと飛び移り、重力を無視して逆さに直立したのだ。
「……○×△……」
突如として、アックアの口から、空には全く理解できない異国の言葉、あるいは神の言語が呟かれ始めた。
(……詠唱かッ!)
空の顔が強張る。今まで大覇星祭やその他の事件で重ねてきた魔術師との戦闘の中で、あのように空気を震わせ、世界そのものを書き換えようとする決定的な詠唱は、何度も聞いてきた。
聖人の膂力だけでなく、一流の魔術師としての巨大な魔術がついに放たれようとしている。
アックアは短い詠唱を終えると同時に、逆さまの状態で五メートルの巨大なメイスを下段に構え、天井を蹴って、凄まじい勢いで地面へと一直線に落下してきた。
隕石の墜落。それは、神裂が緻密に張り巡らせたワイヤーを、まるで蜘蛛の糸のように容易く引き千切り、圧倒的な質量の暴力によって、天草式が組み上げようとしている『盤面』を全て根こそぎリセットしようとする、絶対的な破壊の一撃だった。
(クソッ……! 今までの準備が全部台無しになるが、ここは俺が前に出て防ぐ他あるまい……!)
空の肉体は、すでに限界のさらに向こう側まで酷使されていた。
鼻からは出血が止まらず、視界は自らの血で真っ赤に染まっている。脳の演算領域も、聖人の力を強引にエミュレートした代償で、焼き切れる寸前だった。
それでも、空は勝利の可能性をギリギリで繋ぐためだけに、最後の気力を振り絞り、チタンのペンを構えてアックアの落下軌道へ飛び出そうと足に力を込めた。
——だが。
その直前、一人の少年の背中が、空の血塗られた視界に飛び込んできた。
「……なっ」
空は、息を呑んで動きを止めた。
病院の薄緑色の手術着を着たまま、未だ足元がおぼつかない状況でありながら。全身包帯だらけで、先ほどアックアに全身の骨を砕かれたはずの少年が。
再び、この地獄のような戦地に舞い戻ってきていたのだ。
「上条……ッ!」
上条当麻は、上空から隕石のように降ってくるアックアのメイスから目を逸らさず、ボロボロの右手を天に向かって真っ直ぐに突き上げた。
上条のの右手が、アックアのメイスに触れた瞬間。
アックアが魔術を用いて落下速度と破壊力を何百倍にも増幅させていたその一撃は、まるで風船が割れるように魔術的要素を完全に打ち消された。
周囲に何の被害も出すことなく、上条はその最後の一撃を完全に食い止めてみせたのだ。
「バカな……ッ!」
アックアの顔に、今日初めての明確な驚愕が浮かぶ。
神裂は、上条が再び死地に現れたことに一瞬だけ激しく動揺を見せたが、彼女はプロの魔術師だった。親友が命を懸けて作ってくれたこの最大の好機を、決して逃しはしなかった。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!」
神裂は音速の踏み込みでアックアの懐に潜り込み、その超人的な身体能力を全開にして、アックアの巨体を関節技とワイヤーで強引に拘束した。
「五和ッ!!」
「『聖人崩し』ッ!!!」
神裂の叫びと完璧なタイミングで、準備を完了させた五和が、十字教の槍を構えてアックアの胸元へと突進し、その術式を完全に叩き込んだ。
ゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!
天敵とも言える『聖人崩し』の術式をその身に直接受けたアックアの肉体で、未知の爆発が起きた。
聖人、神の右席、そして聖母崇拝。本来であれば両立し得ない三つの巨大な力を、奇跡的なバランスで一つの身に宿していたことが、逆に致命的な大爆発の連鎖を引き起こしたのだ。
目を開けていられないほどの、神々しくも破壊的な白い閃光が、地下空間全体を飲み込んだ。
「……ッ!」
空は腕で顔を覆い、爆風に耐えながら目を細めた。
数秒後。
強烈な爆発と土煙が収まった後、そこに立っていたのは、肩で息をする神裂と五和、そして、全ての力を使い果たし、再び気を失って倒れ込んだ上条だけであった。
後方のアックアの姿は、どこにもなかった。
(……爆発で、死体ごと完全に消し飛んだのか……? いや、あの怪物に限ってそんな間抜けな最期はあるまい。おそらく、爆風に紛れて撤退したんだろうな)
空は、冷徹なエミュレーターの頭脳で状況の分析を終えると、プツリと緊張の糸が切れ、コンクリートの地面に大の字になって寝転がった。
「ハァッ……ハァッ……。今回は、本当に死ぬかと思ったぜ……」
血まみれの視界で人工の星空を見上げながら、空はポツリと呟いた。
「……そういや、今回は十月九日の時よりも、体のダメージはまだマシだな。内臓はあんまり破裂してないし」
何気なしに呟いたその一言。
だが、その言葉を自分の耳で聞いた瞬間、強烈な『違和感』と『悪寒』が、空の背筋を氷のように駆け上がった。
アックアは圧倒的に強かった。
空は、あの化け物と断続的にではあるが数時間戦い続けたのだ。しかも、聖人の力を強引にエミュレートするという、脳と肉体への禁忌まで犯した。
それなのに、十月九日の時よりも「体のダメージがマシ」になるはずが、絶対にない。
どこかで、演算のリソースを『節約』していたことになる。
その時、空は思い出した。
そして、ゆっくりと首だけを動かして、周りの景色を見渡した。
「あ…………」
地面のコンクリートは、クレーターのようにボコボコに抉れ、鉄骨が剥き出しになっている。
巨大な橋の支柱は粉砕され、レジャー施設のプールは決壊して水浸し。
さらに、天井のアーチは一部スクリーンが剥がれ落ち、夜空の中に無骨な鉄骨がのぞき見えるどころか、上の階層まで貫通する、直径数十メートルの巨大な大穴が空いていたのだ。
地下水脈や配管が破裂し、滝のように水が流れ落ちている。
「……被害を、周りへの被害を抑える結界を張るの、完全に忘れてたな……」
アックアのあまりにも理不尽な暴力を前にして、空は「自分が生き残ること」と「足止めすること」に演算の100%を使い切ってしまっていたのだ。
結果として、表の一般人たちが利用するこの巨大なレジャー施設は、大規模な復旧工事が必要なほどの、文字通りの『スクラップ』と化していた。
「終わった……。統括理事会から、どんだけ損害賠償と始末書を請求されるか分かったもんじゃない……」
空は、勝利の余韻を味わう間もなく、自身の暗部としての致命的な大失態に気づき、地面に寝転がったまま絶望に打ちひしがれるのであった。
♢
数十分後。
気絶した上条が、神裂たちの手によって再び救急車で病院へと運ばれ、天草式の面々が撤収していく中。
空は一人、破壊された地下施設の残骸の中で、孤独な『清掃作業』を行っていた。
アックアの水魔術で抉り取られたアスファルトや、空自身が放ったタングステンのビー玉の破片、トランプの残骸。そして、激戦を物語る夥しい量の血痕を、『念動力』と『流体制御』で下水の奥深くへと洗い流していく。
明日、この街の一般人たちが目を覚ましてニュースを見た時、ここが能力者と魔術師の戦場ではなく、ただの『地下施設のガス爆発事故現場』に見えるように、徹底的に偽装工作を施すのだ。
「……ふぅ。とはいえ、『ただの事故現場』にはしようがないわな、これだけド派手な被害が出ると。上の階層まで穴空いてるし」
空はため息をつきながら、瓦礫の山を念動力で不自然にならないように崩し直した。
自分がなぜ周囲への被害について忘れてしまったのか。
いくらアックアが規格外だったとはいえ、プロの掃除屋としてあるまじき失態だと自問自答したが、今回ばかりは相手の『聖人』という存在そのものが悪かったと、半ば無理やりに諦めをつけるしかなかった。
「……帰ろう」
空は、ポケットから最後の極甘の缶コーヒーを取り出して一気に煽り、空き缶をゴミ袋に放り込むと、ふらつく足取りで帰路についた。
深夜、あるいは明け方に近い時間帯。
第七学区、廃研究所。
ボロボロになった空が、重い鉄扉の電子ロックを解除して中に入ると。
真っ暗なはずの広大なリビングの電気が点いており、そこには、心配で一睡もせずに起きていた五人の家族たちが待っていた。
「お兄ちゃん! またボロボロになって……っ! 血が出てるよぉ! とイツキは涙ぐんで駆け寄ります!」
イツキが空の学ランにすがりつき、顔を押し当てて泣きじゃくる。
「ソラ、すぐに治療を! 今回の損傷レベルは過去ワーストスリーに入ります! とイチが救急箱を開きながらパニック気味に指示を出します!」
「マスター、安静に! 今すぐこの青色サプリを致死量まで……」
「ボス、よく生きて帰ってきてくれました。……本当に、よく……とシノは安堵で膝から崩れ落ちます」
彼女たちのパニックと、温かい体温に触れて。
空は、血まみれでボロボロの顔に、心底幸せそうな、少しだらしない笑顔を浮かべた。
「……ただいま。ちょっと、デカい水たまりで派手に転んだだけだ。心配かけてごめんな」
表の英雄が、その右拳で理不尽な幻想を打ち砕き。
裏の掃除屋が、その血みどろの舞台を修復し、後始末をつける。
瀬川空が命を削って守るべき『日常』は、今日もこうして、完璧に守り抜かれたのだ。
♢
翌朝。
第二十二学区の救命救急病院から、いつもの第七学区のカエル顔の医師がいる大型病院へと移送された上条の元へ、空は見舞いに向かっていた。
(……上条の野郎、俺があそこにいたこと、都合よく忘れててくれないかな……)
空は、病院の廊下を重い足取りで歩きながら、深いため息をついた。
そうだ。今日はただの親友としての看病ではない。
なぜ、ただの補習仲間の悪友である『瀬川空』が、あんな魔術師たちの血生臭い戦闘の最前線に、チタンのペンやビー玉を武器にして立っていたのか。その釈明と、言い訳をしに行かなければならないのだ。
(とはいえ、暗部の機密事項を全部ペラペラ喋るわけにはいかないし……適当に『能力の暴走を止める裏バイトしてる』くらいで誤魔化すか)
上条の病室まで間もなくといったところで。
ガラッ! と、上条の病室のドアが勢いよく開き、中から何やら奇妙な格好をした長身の人物が、真っ赤な顔をして焦った様子で飛び出してきたのだ。
「は?」
空は思わず、間の抜けた声を漏らした。
そこにいたのは。
長身にスタイルの良いプロポーション、見慣れた長い黒髪。だが、その服装はいつものTシャツとジーンズではなく。
肩や胸元、そして太ももが極限まで露出され、黒い羽のような飾りがついた、ひどく扇情的でマニアックな『堕天使エロメイド服』らしきものを身に纏った、『聖人』神裂火織だったのだ。
「か、神裂……さん?」
「なッ!? せ、瀬川空!? 違います、これは誤解です、私は断じてこのようなふしだらな趣味を持っているわけではなく、これは土御門という男の策略で……っ!!」
空に気づいた神裂は、頭から湯気が出そうなほど顔を真っ赤にさせ、涙目で早口に弁明したかと思うと、次の瞬間。
音速を超える『聖人』の機動力で、空の目の前から文字通り「消えた」。
「えっ……?」
その直後。
ドンッ!! という見えない衝撃が空の顎を正確に打ち抜き、空の意識はそこでプツリと途絶えた。
……数十分後。
「うぅ……」
空が意識を取り戻した時、なぜか彼は病院の廊下の床に仰向けに倒れていた。そして、首の裏と顎が強烈に痛い。
「……俺、何してたんだっけ?」
何が起きたのかと記憶を探ろうとも思ったが、脳の防衛本能が「これ以上あの光景を思い出すと、聖人の恥じらいによる理不尽な暴力で本当に殺されるぞ」と激しい警鐘を鳴らしたため、空は何か嫌な予感がして、その件については永遠に忘れることにした。
気を取り直し、空はコンコンとノックをして、上条の病室へと入った。
「よお上条。生きてるか? 今度は俺が見舞いに来てやったぞ」
空は、できるだけいつもの『バカカルテットの瀬川空』の様子を装って、軽口を叩きながら病室に足を踏み入れた。
「ッ! 瀬川……」
だが、ベッドの上で上体だけを起こしていた上条の様子は、明らかにおかしかった。
いつものように「不幸だー!」と嘆くわけでもなく、青髪ピアスの話で盛り上がるわけでもなく。真剣で、どこか探るような、警戒の混じった瞳で空を見つめてきたのだ。
どうやら、空の淡い希望は叶わず、上条は昨夜の激戦の最中に空が乱入してきたことを、しっかりと鮮明に覚えているようだった。
「……はあ。仕方ないか。俺の負けだ」
空は、隠し通すのは無理だと悟り、両手をヒラヒラとお手上げのポーズをしながら、ベッドの横にある丸椅子に腰掛けた。
「そんなに警戒するなよ。少なくとも、俺はお前の敵ではない。……昨日の夜、お前を風でぶっ飛ばして助けたのも、俺だ」
空のその言葉に、上条の肩からわずかに力が抜けた。
そこから、空は上条に『最低限のこと』だけを話した。
統括理事長の手駒として、学園都市にとって不都合なものを裏で片付ける『
夏休み初日、上条とインデックスの一件が原因で、空も裏の仕事の過程で『魔術』の存在について知ってしまったこと。
そして、最近になって、その片付けの対象に、学園都市の能力者だけでなく『魔術的な外敵』も加わってしまったこと。
妹達のことや、木原一族とのこと、自分が「空っぽの器」であることなどの深い闇については伏せたまま、事実の表面だけを切り取って伝えた。
諸々の事情を聞き終えた後。
上条は、少し驚いたように目を丸くし、それから何度か瞬きをした。
そして、いつもの、空が命を懸けてでも守りたかった、あの優しくて底抜けにお人好しな笑顔を浮かべながら、空に向かって告げた。
「……そうか。お前も、見えないところで色々と苦労して、誰かを守るために傷ついてるんだな」
上条の言葉には、同情や憐憫ではなく、ただ純粋な『共感』と『労い』だけが込められていた。
自分が裏の汚れ仕事をしている人間だと知っても、彼は空を軽蔑するどころか、「同じように誰かのために戦っている仲間」として受け入れてくれたのだ。
「……バカ野郎。俺はただの掃除屋だ。お前みたいに、真正面から英雄ぶるつもりはねぇよ」
空は、照れ隠しのように顔を背け、ボサボサの頭を掻いた。
だが、空の胸の奥底は、上条のその一言によって、どこまでも深く救われたような気がしていた。
表の英雄と、裏の掃除屋。
立ち位置は違えど、互いに背中を預け合えるかもしれない。
秋の冷たい日差しが差し込む病室で、二人の間に、新たな形の奇妙で確かな絆が結ばれた瞬間だった。