とある科学の擬似発現   作:ついついつい

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第八十八話:特命と残されたハッカー(ディプロマット・アンド・ハッカー)

十月中旬。

学園都市の気温はぐっと下がり、アスファルトの上を吹き抜ける風が、吐く息を白く染め始める季節となっていた。

物理的な窓も出入り口も存在しない、学園都市の最深部『窓のないビル』。

一切の光と音が遮断されたその静寂に包まれた広大な空間で、瀬川空は極甘の缶コーヒーを弄りながら、赤い培養液の満たされた巨大な試験管を、冷めきった瞳で見上げていた。

『――イギリスへ向かえ、第8位』

機械的で、人間の感情の周波数を一切持たない合成音声が、虚空に反響する。

学園都市の絶対的支配者であり、この街の光と闇を盤上の駒として弄ぶ男。統括理事長、アレイスター=クロウリーだ。

「……イギリス?」

空は、プルタブをパキリと開けながら、呆れたようにボサボサの頭を掻いた。

「先月の『C文書』騒動の時のフランス出張に続いて、また俺を街の外に放り出すのか?出張はあまり好きじゃないんだがな」

『知っているとは思うが、世界中で魔術サイドと科学サイドの摩擦が限界点に達しつつある』

アレイスターの合成音声は、空の悪態など意にも介さず、淡々と世界の命運を語り始める。

『ローマ正教、そしてそれに同調するロシア成教。彼らの策動により、極東から東欧に至る軍事的緊張は臨界点を突破した。……来たるべき世界規模の動乱——第三次世界大戦の勃発は、もはや避けられない。世界は必ず、燃える』

培養液の中の逆さ吊りの男が、心なしかいつもよりも、酷薄で歓喜に満ちた笑みを浮かべているように見えた。

『この避けられぬ戦争において、対魔術師に特化した国である「イギリス」の動向が盤面を左右する重要なファクターとなる。……君には、来る戦争におけるイギリスの協力の確約をとってきてもらいたい』

「……俺は暗部の『掃除屋』だぞ」

空は缶コーヒーを煽り、虚ろな目を細めた。

「街の裏側で、血反吐吐いて死体や瓦礫を片付けるのが本職だ。スーツを着て、紅茶を飲みながら外交官の真似事なんて、どう考えても人選ミスだろ。交渉をしたいなら統括理事の親船最中の方がいいだろうし、脅迫するなら第一位の方がもっと直接的じゃないか?」

『親船最中は他にやるべきことがある。第一位は現状では「矛」でしかない。政治の場には不向きだ』

アレイスターの周囲に浮かぶホログラムモニタに、イギリスの政治中枢、清教派、騎士派、王室派といった複雑な権力構造のデータが次々と展開される。

『君の表向きの身分は、学園都市と英国間の友好関係維持のための「非公式外交特使」だ。……だが、裏の目的は別にある』

ホログラムが、一人の初老の男の顔を映し出した。

『君には、魔術大国イギリスの政治中枢に特使として潜り込み、彼らの動向を監視してもらう。そして、もし彼らが学園都市に対して敵対行動、あるいは裏切りの素振りを見せた場合は……内部からの物理的な「牽制」を行ってもらいたい』

「……要するに」

空は、空になったアルミ缶をギリッと握り潰した。

「魔術の本場のド真ん中に単身で乗り込んで、裏切りの火種がないか探ってこい。もし火種があったら、相手が国家の要人だろうが魔術師だろうが、俺の手で握り潰せってことか。無茶苦茶言い上がって」

空は忌々しげに舌打ちをした。

だが、アレイスターの口から出た『世界大戦』という言葉の響きは、空の空洞化された胸の奥に、冷たく、巨大な重圧をのしかからせていた。

もし本当に戦争が起きれば、この学園都市も間違いなく戦火の最前線に巻き込まれる。自分が命を削り、泥を被ってまで守り抜いた、五人の妹達のいる『日常』が、根こそぎ奪われるのだ。

「……分かったよ。貧乏くじには慣れてる」

空は、握り潰したアルミ缶をポケットに突っ込み、背を向けた。

「その代わり、俺が留守の間の学園都市の維持は、アンタの責任でしっかりやれよ」

『努力はしよう』

アレイスターが平淡に答えた。

 

♢

 

翌日。ロンドンへの出発前。

第七学区、空と妹達の『家』である多層階の廃研究所。

広いリビングでは、珍しくネクタイを締め、黒いスーツ姿に着替えた空を、五人の妹達が心配そうに取り囲んでいた。

「ソラ、イギリスは現在、学園都市と比較して気温がかなり低いと予測されます。防寒対策は万全ですか? とイチは、スーツの上から羽織るコートの襟を直しつつ、厳しく確認します」

「マスター、時差ボケと疲労回復用のサプリメントを荷物の底に大量に忍ばせましたからね。用法用量を守って、死なない程度に使ってください、とニナは怪しく光る小瓶を無理やりポケットに押し付けます」

「ボスのスーツの裏地は、防刃・防弾仕様の最新版ケブラー素材にアップデートしておきました。触媒のトランプやビー玉を瞬時に引き出せるホルスターのギミックも完璧です、とシノは腕組みをして胸を張ります」

「ソラさん、向こうの食事が合わない時のために、ドライフルーツをたくさん作っておきましたよ、とミトは小袋を渡します」

次々と押し付けられる愛情の数々に、空は苦笑いしながらも、丁寧にそれらを受け取っていった。

「お前ら、修学旅行の準備じゃないんだからな……。ありがとう、助かるよ」

空は、妹達の頭を順番に優しく撫でた。

その手の中で、空はふと表情を引き締め、末っ子のイツキを振り返った。

「イツキ。お前に一つ、大事な頼みがある」

「何ですか、お兄ちゃん? とイツキは小首を傾げます」

「俺がいない間、お前に俺の暗部端末の『管理者アクセス権限』を一部渡しておく」

空のその言葉に、他の四人の妹達も息を呑んだ。それは、統括理事会直属の暗部としての、極めて高度な機密情報に触れることを意味する。

「……ここ数日、一方通行たち『グループ』の連中が、統括理事会内部の不穏分子や、『迎電部隊(スパークシグナル)』って暗部崩れのテロリスト集団を追って、かなりキナ臭い動きをしてるんだ」

空は自身の漆黒の端末と、イツキが愛用している分厚い軍用ノートパソコンをケーブルで物理的に同期させた。

「俺がイギリスで動けなくても、この学園都市の異常にはすぐに対応できるようにしておきたい。……俺がいない間、お前が『グループ』の裏の目になれ」

空は、イツキの目を真っ直ぐに見据えた。

「もしあいつらが厄介事に巻き込まれたり、街に被害が出そうになったり、あるいは統括理事会の連中が妙な動きを見せたら……お前のその天才的なハッキング技術で、遠隔から支援して、事態をコントロールしてやってくれ」

「……お兄ちゃんの代わりの、裏方のお仕事ですね」

イツキは、普段の甘えん坊な態度から一変し、瞳を真剣なものに変え、力強く頷いた。

「任せてください! この廃研究所の絶対防衛システムごと、学園都市のセキュリティネットワークは、ミサカが完璧に掌握してみせます、とイツキは自身の腕前に絶対の自信を見せます!」

「頼もしいな」

空は、ハッカーとして頼もしく成長した妹の頭を撫でた。

「……絶対、無事に帰ってくるから。戸締まりだけはしっかりな」

「はい! いってらっしゃい、お兄ちゃん!」

家族の温もりと祈りを背に受けながら、空はタクシーに乗り込み、第二十三学区の国際空港へと向かった。

 

♢

 

十月十七日。イギリス、ロンドン。

鉛色の厚い雲が空を覆い、今にも冷たい雨が降り出しそうなどんよりとした空の下。

空は、イギリス政府が用意した黒塗りの防弾公用車に揺られ、ダウニング街10番地——イギリス首相官邸へと到着していた。

厳重なセキュリティチェックを抜け、重厚なマホガニーの扉の奥、執務室に通された空を待っていたのは。

初老ながらも、隙のない仕立ての良いスーツを着こなし、猛禽類のような鋭い眼光を放つ男だった。

イギリス連合党の党首であり、現在のイギリス首相、エドワード・ウィンスレット。

「遠路はるばるようこそ、学園都市の特使殿。……いや、『第8位』の瀬川空君と呼んだ方がいいかな?」

ウィンスレットは、アンティークのソファに深く腰掛け、上品なティーカップを傾けながら、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべて空を出迎えた。

彼は生粋の現実主義者であり、イギリス清教という強大な魔術サイドの存在を認知し、利用しながらも、国家の利益のためならば学園都市の科学力をも取り込もうとする、底知れぬ野心家だ。

「俺はただの高校生ですよ、首相閣下。……それに、俺の能力は『疑似発現』なんていう、研究価値のないハズレのレベル5だって、そちらの諜報部のデータにも書かれてるはずですが?」

空は出された最高級のダージリンティーには口をつけず、不作法にソファに寄りかかり、飄々とした態度で言い返した。

「謙遜は不要だ。あの狡猾な統括理事長が、来たる世界大戦を見据えたこの極めて重要な局面で、ただの無力な学生を特使としてよこすはずがない」

ウィンスレットの双眸が、空を値踏みするように細められる。

「……君が学園都市の『暗部』において、魔術と科学の狭間でどのように血の海を掃除してきたか。我々イギリスの諜報網も、多少は把握しているのだよ。君は、汚れ仕事の専門家だろう?」

ウィンスレットの言葉には、明確な鎌掛けと、自分たちの情報網の優秀さを誇示する牽制が含まれていた。

ただの高校生として振る舞おうとする空の仮面を剥ぎ取り、政治の泥沼のテーブルへと引きずり込もうとする、海千山千の政治家の話術。

「……さて。学園都市と我がイギリスの、友好関係の再確認が、君の『表向きの』目的だったかな?」

ウィンスレットは、ティーカップをソーサーに置いた。

「私としては、できれば現状の有益な関係は維持したいところだがね。ただ、おそらく君が、いや統括理事長が『真に求めている件』については、国家元首たる女王陛下にお任せしている事案なのでな。私の一存では決めかねる。……これで、満足かね?」

のらりくらりと躱しつつ、暗に「お前のようなガキにくれてやる言質はない」と告げるウィンスレット。

だが。

「俺は政治家じゃない。そんな腹の探り合いや、難しい交渉の話は管轄外です」

空は、ふっと息を吐くと、スーツのポケットから極甘の缶コーヒーを取り出し、プルタブをパキリと開けて一口飲んだ。

最高級の紅茶が用意された首相の執務室で、120円の安っぽい缶コーヒーを煽るという、明確な侮蔑と挑発。

「……ほう?」

ウィンスレットの眉がピクリと動く。

「俺がここに来た理由は、交渉じゃない。ただの『確認』と『通達』です」

空は、虚無を孕んだ、底知れぬ空洞のような瞳でウィンスレットを見据えた。

その視線には、先ほどまでの飄々とした高校生の面影は微塵もなく、数多の化け物を葬ってきた冷酷な『掃除屋』の狂気が、静かに、しかし確かな質量を持って渦巻いていた。

「一つだけ、言っておきます。……もし、イギリスが学園都市を裏切り、俺の『日常』に火の粉を降らせる気なら」

空の声の温度が、絶対零度まで下がる。

「相手がどこの国だろうが、誰が責任者であろうが、王族だろうが首相だろうが関係ない。俺は容赦なく、その裏切りの火種を『根元から』握り潰す。……それだけです」

大英帝国の中核に対する、明確な殺害予告。

ウィンスレットは、その空の瞳の奥に広がる狂気と殺意に触れ、一瞬、呼吸を忘れて息を呑んだ。

政治的な駆け引きなど通用しない。こいつは、理由さえあれば一瞬で自分の首を刎ねる。その絶対的な暴力の予感が、老練な政治家の背筋に冷たい汗を流させた。

ウィンスレットが、その圧力に抗うように再び口を開こうとした、その瞬間だった。

血相を変えた秘書が、ノックもそこそこに執務室に飛び込んできた。

「しゅ、首相! 大変です! 第二王女キャーリサ殿下が、近衛兵である『騎士派』を率いて武装蜂起しました! 現在、ロンドン市内の主要機関や通信施設が、次々と制圧されています!!」

「……クーデターだと……!?」

ウィンスレットが驚愕に目を見開く。

「よりによって、世界大戦への対応を迫られているこのタイミングで!……いや、今だからこそか…!」

ウィンスレットが狼狽し、秘書がパニックに陥る中。

空は、一人だけ極めて冷静に缶コーヒーを飲み干し、空になったアルミ缶を片手でベキッと握り潰した。

「……どうやら、退屈な政治の時間は終わりのようですね、首相閣下」

空は立ち上がり、スーツの裏地から、シノが調整した特殊コーティングのトランプを数枚、指の間にスッと挟み込んだ。

窓の外からは、甲冑を着込んだ武装した騎士たちや、魔術師たちが、首相官邸を物理的に包囲し、制圧しようと雪崩れ込んでくるのが見えた。

バリケードが破壊され、警備隊の悲鳴と銃声が響き始める。

「ここからは、俺の『本職』の時間だ」

空の瞳から、外交特使としての僅かな愛想すら完全に消え去り、極寒の冷徹さを湛えた『掃除屋』の貌へと切り替わった。

指の間のトランプが、微かに振動し始める。

「閣下、ここは女王陛下と合流して指揮系統を統合すべきかと。護衛いたしますよ」

空は先ほどの態度とは異なり、皮肉げに恭しい態度をとってウィンスレットに向き合う。

「…そうだな。客人にこのようなことを頼むのは心苦しいが、『要人警護』をしていただこう」

ウィンスレットは先ほどの予告もあり、警戒の様子を見せたが、提案を受け入れた方が吉だと判断したようだ。

世界大戦の引き金となる、英国全土を巻き込む巨大な動乱——『英国クーデター』が、今まさに、空の目の前で血生臭い幕を開けようとしていた。

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