十月十七日。
昨日まで、歴史と伝統の香りが漂っていた英国の首都ロンドンは、一夜にして凄惨な戦場へと変貌を遂げていた。
第二王女キャーリサが率いる騎士団——『騎士派』による、王室と清教派に対する大規模なクーデター。
首都の主要機関は次々と武装した甲冑の騎士たちに制圧され、灰色の空の下、街のあちこちで魔術的な爆発の閃光と、鋼がぶつかり合う重たい剣戟の音が絶え間なく響き渡っていた。
ダウニング街10番地、イギリス首相官邸。
その堅牢な防壁すらも、内側からの裏切りと圧倒的な武力の前に、もはや意味を成していなかった。
ガシャン!!!
首相執務室の重厚なマホガニーのドアが、外側から力任せに蹴破られた。
木っ端微塵に砕け散るドアの残骸を踏み越え、全身を分厚い甲冑に身を包んだ数名の騎士たちが、血塗られた長剣を振りかざして雪崩れ込んでくる。
「ひっ……!」
先ほどまで、クーデターの第一報を伝えて走り回っていた秘書が、その剥き出しの暴力と殺意を前にして完全に腰を抜かし、絨毯の上にへたり込んでしまった。
「……抵抗しなければ、これ以上余計な傷を負わせることはありません。おとなしく投降し、我々『騎士派』の管理下に入ってください。さもなくば……容赦は致しません」
先頭に立つ騎士が、剣先を下げたまま、兜の奥から冷酷な声で宣告した。
その絶望的な状況下で。
執務室の奥、マントルピースの前に立っていた首相エドワード・ウィンスレットは、先ほどクーデターの報を聞いた時の狼狽が嘘のように、堂々とした態度で騎士たちを睨み据えた。
「悪いが、私はエリザード女王陛下に絶対の忠誠を誓っている身なのでな。国を力で奪おうとする君たちに頭を下げるなど、どう考えても難しい話だ」
ウィンスレットの言葉には、大英帝国を牽引する政治家としての揺るぎない矜持と、生粋の現実主義者としての計算高い冷徹さが同居していた。
「そうですか。それは、大変残念です」
騎士が短く吐き捨て、長剣を振り上げようと踏み込んだ。
——そう言うや否や。
シュッ!
風を切り裂くような、極めて小さな異音が執務室に響いた。
「……え?」
先頭の騎士が、間抜けな声を漏らした。
彼らの視界の端で、何枚かの『ただのトランプ』が、あり得ない速度で空宙を乱舞したかと思うと、甲冑の隙間——首筋や関節の極小の死角を正確に打ち抜いたのだ。
ドサッ、ドササッ……。
まるで操り人形の糸が切れたかのように、突入してきた騎士たちが、次々と白目を剥いて意識を刈り取られ、重い音を立てて絨毯の上に倒れ伏した。
「……閣下。道は開けました。さあ、安全な場所まで先を急ぎましょう」
倒れた騎士たちの間をすり抜け、床に落ちたトランプを一枚ずつ丁寧に拾い上げながら。
黒いスーツを着た学園都市の特使——瀬川空が、冷徹な『掃除屋』の貌のまま、ウィンスレットを促した。
♢
「走れ! 立ち止まるな、首相閣下!」
「言われずとも……ッ! ハァッ、ハァッ!」
入り組んだ石畳の路地裏。
空は、息を切らすウィンスレットの背中を押し、弾かれたようにロンドン市街の暗がりを駆け抜けていた。
普段はリムジンで移動する一国のトップが、自らの足で泥にまみれて逃走劇を繰り広げている。クーデターの混乱とはいえ、異常な事態だった。
だが、空の研ぎ澄まされたエミュレーターの感覚は、背後から迫る複数の殺気を正確に捉えていた。
「あっちだ! ウィンスレットだ! 絶対に逃がすな! 護衛もまとめて斬り捨てて構わん!」
背後から、完全武装した騎士派の追手たちが怒号を上げながら迫ってくる。
「——逃がすかッ!」
追手の内の一人が叫び、巨大な長剣を石畳の地面に深く突き立てた。
ズガガガガッ! と、石畳が不気味な魔力の光を放ち、空たちの逃げ道を塞ぐように、前方の地面から不可視の壁のようなものが隆起しようとする。
「させねぇよ。……『エミュレート——空間断裂、及び念動力』!」
空は走りながら、スーツの裏地に仕込んだ触媒ホルスターから数枚のトランプとビー玉を引き抜き、振り返ることもなく後方へと投擲した。
走るという肉体動作をトリガーにして演算の余剰をバックグラウンドへ逃がし、脳への負荷を極限まで抑え込む、空特有の高度な並列処理。
シュパァァァンッ!!
風を切り裂き、空間そのものを薄く削り取るトランプが、行く手を阻む魔術的隆起の起点を寸分違わず切断し、無効化する。
さらに、空の指先から弾き出されたタングステン内蔵のビー玉が、『摩擦ゼロ』の理を乗せて、追ってくる騎士たちの足元の石畳をピンポイントで粉砕した。
「ぐわぁッ!?」
「な、何だ!? この見えない攻撃は……!?」
足場を失い、さらに摩擦がゼロになった空間に踏み込んだ騎士たちが、次々と派手に転倒し、互いに折り重なって地に伏していく。
「よし。こっちだ、閣下」
追手たちの足が止まったその隙に、空とウィンスレットは路地を抜け、一時的に身を隠せる、クーデターの影響で放棄されたビルの陰へと滑り込んだ。
「……ハァ、ハァ……。大した手際だな、第8位」
ウィンスレットは、乱れたネクタイを直し、荒い息を整えながらも、その鋭い眼光で空の横顔を見つめた。
「我々イギリスの諜報部が入手していた事前のデータだと、君の能力は『他人の能力の劣化コピー』であり、単独での戦闘力はもう少し非力だと思っていたのだが……。あの数の完全武装した騎士を、殺すこともなく、瞬時に、しかも走りながら無力化するとは」
ウィンスレットの目に、空という存在に対する明確な再評価と、警戒の色が浮かぶ。
「学園都市の『暗部』というのは、そしてアレイスターが直々に送り込んできたエラーチェッカーというのは……これほどまでに洗練されたバケモノなのか」
「買い被りだ。俺はただの掃除屋だよ」
空は、周囲に警戒の視線を配りながら、スーツのポケットから極甘の缶コーヒーを取り出し、プルタブを開けて一気に煽った。脳の急速な演算消費を補うための、暴力的な糖分補給。
「アンタを無事に、エリザード女王や清教派のトップの元へ合流させる。それが今の俺に課せられた、臨時の『外交任務』だ」
「頼もしいことだ。女王陛下がたと合流できれば、このクーデターを盤面ごとひっくり返す手立てもある。……だが」
ウィンスレットは、窓の外で燃え上がるロンドン市街を一瞥した。
「街中が、我々を殺そうとする騎士派で溢れ返っているこの最悪の状況で、どうやって突破口を開くつもりだ?」
ウィンスレットの問いに、空が「アンタは俺の後ろを走ってればいい」と口を開きかけた、その時だった。
「——っ! 伏せろ!」
空がウィンスレットの胸ぐらを掴み、強引に床へ引き倒した。
ドゴォォォォォォォォォォォォンッ!!!
空たちが隠れていた廃ビルの外壁が、外側からの凄まじい衝撃——攻城兵器のような巨大な魔力の一撃によって、まるで紙屑のように粉々に吹き飛ばされた。
舞い上がる土煙とコンクリートの破片。
その破壊の跡から、巨大な両手剣を構え、全身から濃密な魔力を立ち昇らせる、騎士派の精鋭部隊が数名、重い足取りで姿を現した。
「見つけたぞ! 逃げ鼠め! 首相の首をいただ——」
精鋭騎士が勝利を確信し、剣を振り上げようとした、その瞬間。
「ひぃっ!! せっかく隠れてたって言うのに、なんで壁が吹き飛ぶんだよォォォッ!!」
英語の怒号が飛び交う緊迫した戦場の中で。
突如として、空の耳にとってあまりにも聴き馴染みのある、そして、この異国の地で最も聞くはずのない『日本語の叫び声』が飛び込んできたのだ。
「……なっ?!」
空は、土煙の向こう側を見て、思わず素っ頓狂な声を上げた。
吹き飛ばされた壁の向こう側。
騎士たちの背後の路地に、頭を抱えてしゃがみ込んでいる、ツンツン頭の少年の姿があった。
「上条!? お前、なんでこんなイギリスのド真ん中に……!」
空は、目を丸くして親友の名前を叫んだ。
「せ、瀬川……!?」
上条当麻もまた、瓦礫の中から現れた、見慣れた黒いスーツ姿の悪友を見て、信じられないものを見たように目を剥いた。
「お前こそ、なんでこんなクーデターのど真ん中にいんだよ!?」
互いに、全く想像だにしなかった、異国の戦場での奇跡的で絶望的な邂逅であった。
「な、なんだお前はっ!? いきなり割り込んできたかと思えば、我々の攻撃を素手で防いだとでも言うのか……!」
精鋭騎士の一人が、上条の姿を見て激しく動揺している。どうやら、彼らが首相を狙って放った魔術的爆撃の余波を、たまたまそこに隠れていた上条が右手で無意識に打ち消してしまったらしい。
(……待てよ。こいつら騎士派の連中は、魔術的な身体強化こそあれど、持ってる得物自体は純粋な物理的質量だ。だとすれば、上条の右手じゃ防ぎきれない……不得手な相手か)
空は、ひとまず上条がなぜかロンドンにいるという異常事態を無理やり呑み込み、戦術的な思考をフル回転させた。
直後、手に持ったトランプを構え、大声を張り上げた。
「上条! 一旦そこにいる首相と一緒に、俺の後ろに隠れていろ!」
「そこにいる首相? えっ、しゅしょう!?」
上条が混乱の極みといった顔で悲鳴を上げる。
空は、その悲鳴を合図に、騎士たちの首元目掛けてトランプを一斉に投擲した。
シュパッ! と空気を切り裂く刃。
だが、さすがはクーデターを牽引する精鋭騎士といったところか。彼らはその大剣の質量からは想像できないほどの細やかで超人的な剣捌きを見せ、空のトランプをガキィッ! と次々に弾き落としてみせた。
「無駄だ! 貴様の小細工はすでに見切って——」
「小細工で結構だ」
空の冷たい声が響く。
彼の狙いは、トランプによる直接攻撃ではなかった。
トランプと同時に、空が少し遅れて足元に投擲していたチタン合金のペンが、地面に突き刺さっていた。
『エミュレート——空間断裂、ピンポイント拡張!』
ズボォッ!
騎士たちが踏み込んでいた足元の石畳が、半径一メートル、深さ数センチにわたって『空間ごと』切り取られ、一瞬にして消失した。
突如として、今まで立っていた強固な地面が消え失せた騎士たちは、その巨大な剣の重量と遠心力に振り回され、無惨に体勢を崩してつまずいた。
「なっ……!?」
「隙ありだ」
空は、体勢を崩した騎士たちの懐に音もなく滑り込むと、容赦のない手刀と、摩擦ゼロを利用した足払いを連続で叩き込み、精鋭たちの意識を次々と確実に刈り取っていった。
バタバタと騎士たちが倒れ伏し、路地に再び静寂が戻る。
「……さて。上条、なんでお前がここにいる?」
空は一通り騎士たちを片付けた後、再び安全な別の路地の奥へとウィンスレットと上条たちを誘導してから、呆れたように問いかけた。
「あ、ああ。ユーロトンネル爆破事故の調査のために、イギリス清教からインデックスと一緒にこっちに呼ばれてたんだよ」
上条は、ようやく緊張感を取り戻し、真剣な顔で応えた。
「で、なんだかんだあってクーデターに巻き込まれて、今はフォークストーンってところにいるインデックスと合流するためにユーロスターに忍び込もうとしてたところだ」
「なるほどな。相変わらず、世界を巻き込む不幸体質だな、お前は」
空はため息をついた。
「瀬川はどうしたんだよ。それに、このおじさんのこと『首相』って言ってたけど、本当に本物のイギリス首相なのか!? 仮に本物だとして、なんでお前が一緒にいたんだ!?」
上条は、疑問は尽きないと言った様子で、立て続けに質問を返す。ウィンスレットの顔をまじまじと見つめる上条。
「手短に言う。俺は学校から頼まれた『特使』としての出張中。この人は本物のウィンスレット首相。さっきまで官邸で会談してた」
空は、事実だけをチャチャッと回答する。
上条は「会談? 瀬川が、イギリスの首相と?」と、目を白黒させて混乱気味であった。
空は知らない話ではあるが、上条は今日の昼間、バッキンガム宮殿でイギリス女王と三人の王女に直接謁見しており、そのことと比べると、学園都市のトップに君臨する空とイギリスの首相とが会談する方が理解に易いのだが。
「ユーロスターに忍び込んでフォークストーンに行くと言ったな。あそこの大通りから駅に向かった方がいいだろう。俺は首相の護衛をして、女王たちと合流しなきゃならんから、お前にはついていけないが——」
空がそこまで口に出した、その時だった。
ピリリリリッ!
空のコートの奥深くにしまっていた、漆黒の暗部専用端末が、緊急のコール音を鳴らした。
空は表情を引き締め、「……すまん、ちょっと待ってろ」と一言告げると、ウィンスレットと上条から少し離れた路地の奥へと歩み寄り、通話ボタンを押した。
『——お兄ちゃん! 繋がった! とイツキは、通信回線の回復に安堵の息を漏らします!』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、学園都市の廃研究所で留守を預かる妹・イツキの、焦ったような、緊迫した声だった。
「イツキか。どうした、学園都市で何かあったのか?」
空の声のトーンが、冷徹なエラーチェッカーのそれへと切り替わる。
『はい! さっき、元
「テロリストが占拠? 警備員は……いや、一方通行たち『グループ』は動いてないのか?」
『それが、第一位が単独で突入して、すでに物理的な鎮圧は完了したみたいです。でも、ただのテロじゃありません』
イツキの声が、天才ハッカーとしての真剣な分析の響きを帯びる。
『彼ら、占拠した施設から「ドラゴン」っていう謎のキーワードに関する、最深部の機密情報を探っていた形跡があります。とミサカは、暗部回線へのハッキングで得た断片的なデータを報告します』
「『ドラゴン』……。土御門が病室で言っていたやつか」
空の瞳が、剣呑な光を帯びた。
イギリスで、魔術サイドの権力構造を根底から覆す巨大なクーデターが起きている、まさにこの最悪のタイミングで。
学園都市の内部でも、暗部組織が『ドラゴン』という巨大な闇の正体を巡って、本格的に動き出している。
二つの戦場が、魔術と科学の全く別の場所で、同時に臨界点に向かって加速しているのだ。
「分かった、よく報告してくれた。イツキ、引き続き『グループ』の動向と暗部回線を監視してくれ。何かあれば、お前のハッキングで第一位や土御門を裏からサポートしてやるんだ」
『了解です! お兄ちゃんも、異国の地で絶対に気をつけてね! とイツキは、家族としての心配を強く念を押します!』
通信が切れ、空は小さく、長く息を吐いた。
学園都市には、妹達がいる。そして、一方通行や土御門をはじめとした、不器用ながらも大切なものを守ろうとする暗部の者たちがいる。彼らなら、表の日常が完全に壊れる前に、あの泥沼の中でなんとか食い止めてくれるはずだ。
今は、目の前の盤面に集中するしかない。
「瀬川? どうかしたのか? 怖い顔してるぞ」
上条が、電話を終えた空に心配そうに声をかけてくる。
「いや、こっちの留守番を頼んでる妹から、ちょっとした報告があっただけだ。……それで続きだが」
空は、いつもの飄々とした笑顔を作り、上条に向き直った。
「上条なら、さっきの戦闘で薄々察しているかもしれないが。騎士派の連中は、あの分厚い甲冑のせいで物理的に視野が狭い。それを利用して死角を突いていけば、お前らなら簡単にユーロスターの駅まで辿り着けるだろう」
空は上条に的確な助言を与え、彼が路地の奥へと駆け出していくのを、静かに見送った。
「さて」
上条の姿が見えなくなった後、空はウィンスレットに向き直り、首をゴキリと鳴らした。
「こちらで少々無駄な時間を使ってしまいましたが、移動を再開しましょう、首相閣下。安心してください」
空は、スーツの裏地でトランプを切り混ぜながら、冷酷な掃除屋の笑みを浮かべた。
「今ロンドンを走り回っているあの程度の手勢が相手なら、俺一人で片手間で倒せますので」
燃え上がるロンドンの街。
科学と魔術の交差点で、瀬川空は、迫り来る第三次世界大戦の火種を一つずつ握り潰すべく、大英帝国の泥沼へと深く足を踏み入れていった。