「『
ロンドン郊外の荒野。
イギリス女王エリザード、第一王女リメエア、そしてイギリス清教最大主教ローラ=スチュアートの決断を聞き届けた瀬川空は、黒いスーツの裏地からチタン合金のペンを引き抜きながら、静かに、だが確かな覚悟を持って言った。
「……私はここに残り、陛下たちの護衛と、英国軍の正規部隊への政治的な根回しを行ってみよう」
エドワード・ウィンスレット首相が、泥にまみれたスーツの埃を払いながら、険しい顔つきで空を見た。
「まあ、この様子じゃ軍のほぼ全権がキャーリサ殿下の騎士派の手中にあると思って良さそうだがね。足止めと時間稼ぎ……頼めるか、特使殿」
「……まあ、行ってくるよ」
空は、チタンのペンを指の間でクルリと回した。
「あのアホみたいなツンツン頭のバカが、状況も分からずに先に首を突っ込んで、死にそうになってるかもしれないんでね。俺が後ろから『クッション』を敷いてやらないと」
空は軽く手を振ると、エリザードたちに背を向けた。
そして、ペンの触媒を通して『
シュンッ! シュンッ!
夜風を切り裂き、ロンドン市街の歴史ある石造りのビル群の屋上を連続で駆け抜けている最中。
ブルルルルッ!!
空の懐で、学園都市の暗部専用端末が、けたたましく振動した。
『——お兄ちゃん! ミサカです! とイツキは、最高速度でキーボードを叩く音を響かせながら報告します!』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、遠く離れた学園都市の廃研究所で留守とバックアップを預かる天才ハッカーの妹、イツキからの通信だ。
「どうした、イツキ。そっちの第一位たち『グループ』の状況は?」
空は、足場の悪い屋上を走りながら、冷徹な声で状況の確認を求めた。
『はい! 「グループ」は現在、統括理事の一人である潮岸の隠しシェルターへの潜入を開始しました! 潮岸の護衛部隊と激しく交戦中ですが、ミサカが裏からシェルターの物理的・電子的セキュリティを解除して、彼らの侵入ルートを確保しています!』
イツキのタイピング音が、まるでマシンガンのように絶え間なく鳴り響いている。
『防壁をハックして無効化し、第一位たちが暴れやすいように完全に舞台を整えています!』
「よくやった。そのまま『グループ』の目を担え」
空は、異国の夜空を睨みながら指示を飛ばす。
「第一位たちが潮岸の懐に飛び込めるように、あらゆる防犯扉をハッキングして開け放つんだ。暗部大戦の残った火種と、『ドラゴン』の情報へのアクセス権。それを抑えれば、学園都市の盤面はひとまず安定するはずだ」
『了解です! お兄ちゃんも、イギリスのクーデターに気をつけて……』
イツキが、通信越しに明るく答えようとした、その時だった。
『——え?』
通信の向こう側で、イツキの声色が、唐突に凍りついた。
凄まじい速度で鳴り響いていたタイピングの音が、ピタリと止まる。
「どうした、イツキ? セキュリティの逆探知でも食らったか?」
空が足を止め、端末に耳を押し当てて怪訝な声を上げる。イツキのハッキング技術なら、通常のアイスウォールなど瞬時に突破・偽装できるはずだ。
『違います……』
イツキの声が、微かに震えていた。
『データが、読めない……。これ、プログラミング言語じゃない……。デジタルな信号の配列じゃないです……。空間の法則そのものが、まるで、別次元の……』
イツキの、恐怖に震える息を呑む音が、ノイズ越しに鮮明に伝わってくる。
『お兄ちゃん、これ、科学の演算でも、魔術の術式でもない……! ミサカたちの理解できない、化け物が……』
「イツキ!?」
突如として、イツキの声が入らなくなった。
その直後。
ギィィィィィィィィィィィィィィィィィィィンッ!!!!
「ガ、アァァァッ!?」
空の鼓膜を劈くような、物理的な痛みを伴う凄まじい高周波のノイズが走り、空は思わず端末を耳から離した。
そのノイズは、単なる通信障害ではない。学園都市とイギリスを結ぶ暗号化された暗部回線の通信が、物理的・概念的に完全に『シャットダウン』され、破壊された音だった。
「クソッ!! 通信が切られた!?」
空は、端末の画面に表示された『圏外』の文字を見て、全身の血の気が引くのを感じた。
科学の最先端であり、世界一のセキュリティを誇る学園都市の暗号化通信が、外部からのハッキングで強制切断されるなど、絶対にあり得ない。
先ほどまで繋がっていたはずの妹の温もりが、冷たく、底知れぬ巨大な闇の前に断ち切られた。
イツキが最後に言った、「科学でも魔術でもない、別次元の化け物」。
(『ドラゴン』……!)
『ドラゴン』の真の正体——天使エイワスの顕現。
空は今、イギリスにいるため、その全貌も、学園都市で何が起きているのかも知る由はなかった。だが、学園都市という箱庭の中に、人間の理解を完全に超絶した、絶対的な『未知の法則』が降臨したことだけは、空っぽのエミュレーターの本能が明確に悟り、恐怖の警鐘を鳴らしていた。
「イツキ……ッ! イチ、ニナ、ミト、シノ……ッ!」
空の心が、激しく揺さぶられる。今すぐ、空間移動の限界を超えてでも学園都市に戻って、正体不明の化け物から妹達を自分の身を盾にしてでも守りたい。
だが、ここはユーラシア大陸の西の果て、ロンドンだ。どんなに足掻いても、物理的に戻る手段はない。
(クソッ、クソッ、クソッ……!)
空は、血が出るほど唇を強く噛み締めた。
妹達は、第七学区の廃研究所の、強固なセキュリティの中にいる。イツキがネットワークから切り離されたということは、物理的な接触はまだないはずだ。
今は、現場にいる第一位たち『グループ』の連中が、あのバケモノをどうにか食い止めてくれると信じるしかなかった。
「……耐えろよ、お前ら。俺はここで、俺の仕事を終わらせる」
空は、ギリッと奥歯が砕けそうなほど噛み締め、胸の内で暴れ回る焦燥感と恐怖を、無理やり腹の底に封じ込めた。
今は、目の前の盤面——イギリスの動乱に集中しなければならない。
空は、バッキンガム宮殿へ向けて、空間跳躍の速度をさらに限界まで引き上げた。
◇
バッキンガム宮殿前広場。
そこはすでに、絶望的な死闘の舞台と化していた。
「ハァッ……! ハァッ……!」
肩で激しく息を切らす上条当麻。その身体はすでに数え切れないほどの切り傷と打撲に覆われ、制服はボロボロになっていた。
彼の周囲には、建宮斎字をはじめとする『天草式十字凄教』の面々や、イギリス清教『
彼らの視線の先。
宮殿の正面階段の上に悠然と立つのは、クーデターの首謀者、第二王女キャーリサ。
彼女の右手には、長大な剣が握られていた。刃の先端がない、定規のような無骨な剣。
イギリス全土の騎士の力を束ね、振るうだけで空間の『全次元』を切り裂く究極の霊装——『カーテナ=オリジナル』。
そして彼女の左手には、前線の軍に直接命令を下すための軍用の通信無線機が握られていた。
「——ドーヴァー海峡にて哨戒中の駆逐艦、ウィンブルドンに告ぐ」
キャーリサが、冷酷な声で無線機に告げる。
「バンカークラスター搭載の巡航ミサイルを発射するの。……照準は、このバッキンガム宮殿前広場」
その命令を聞いた瞬間、天草式や清教の魔術師たちの顔が、一斉に恐怖に引き攣った。
バンカークラスター。広範囲の建造物や人間を完全に焦土と化す、純粋な大量破壊兵器。それを、自分が立っている宮殿に向けて撃てと命じたのだ。
「させません……!」
傷だらけの『聖人』神裂火織が、力を振り絞って立ち上がり、七天七刀を振るって空中に幾重にも重なる強固な防護結界を張った。
だが。
「無駄な努力をするの」
キャーリサが、右手にある『カーテナ=オリジナル』を軽く振るう。
それだけで、神裂が張った強固な魔術結界は、まるで空間という『紙』そのものをハサミで切り取られたかのように、内側からあっけなく真っ二つに切断され、破壊された。
全次元切断。三次元の物質であろうと、魔術的な結界であろうと、カーテナの前では無意味。
そして、上空から、死を運ぶ巡航ミサイルの飛翔音が迫ってくる。
バンカークラスターの弾頭が分離し、無数の子爆弾となって、バッキンガム宮殿前広場へと降り注ぐ。
「しまっ……!」
上条が、絶望に目を見開いた。幻想殺しの右手では、広範囲に降り注ぐ物理的な爆発の雨は防ぎきれない。
誰もが死を覚悟した、その瞬間。
『エミュレート——
夜空から、無数のトランプが雨のように降り注ぎ、上条たちをすっぽりと覆い隠す巨大な不可視のドームを形成した。
ガギィィィィィィンッ!!!!
バンカークラスターの無数の爆発が、空の構築した分厚い『空間固定』の壁に次々と激突した。
純粋な科学のベクトルによる物理結界。
無数の爆発の衝撃波と熱量が、空の防壁を何層も何層も切り裂き、削っていく。
だが、結界は完全に砕け散る寸前で、なんとかその威力を相殺し、炎と爆風を外側へと弾き飛ばして霧散させた。
「……ハァッ。遅れて悪いな、上条」
炎の雨が止むと同時。
空中からの着地とともに、黒いスーツ姿にコートを羽織った瀬川空が、上条の横へと静かに並び立った。
防壁を極限まで削られた反動で、空の鼻と目からはツーッと赤い血が流れ落ちている。だが、その虚ろな瞳には、一切の揺らぎも、恐怖もなかった。
「瀬川……! お前、オッサンの護衛はどうしたんだよ!」
上条が、信じられないものを見たように叫ぶ。
「安全な場所に置いてきた。女王陛下にも会ってきたぞ」
空は血を袖で拭い、口角を少しだけ上げた。
「……あっちの『反撃の準備』が終わるまで、俺たちがここで、この物騒なお姫様の足止めをするんだよ」
空はコートの裏地からチタン合金のペンを引き抜き、逆手に構えた。
「ほう。学園都市の小僧か。……面白い奇術を使う。あのバンカークラスターの物理的質量を、ただの結界で防ぐとはな」
宮殿の階段の上で、キャーリサが興味深そうに目を細めた。
しかし、彼女の冷酷な瞳の奥にある絶対的な自信は、微塵も揺らいでいない。彼女は再び無線機を口元へ運んだ。
「ウィンブルドンに告ぐ。二発目を発射せよ。目標地点は同じだ」
命令を終えたキャーリサは、カーテナを下げたまま、空と上条を見下ろした。
「だがな、小僧。見たところ、先ほどの巡航ミサイル一発の防衛で、かなり消耗したと見える。……さて、何発まで耐えられるかしら?」
キャーリサが不敵に笑みを浮かべる。
「クソッ……!」
上条は歯を噛み締めた。空の顔色が蒼白であり、鼻血が止まっていないのを見れば、あれと同じ規模の防壁を連続で張ることがどれほどの自殺行為か、痛いほどにわかる。
上空から、再び巡航ミサイル特有の煌めきと飛翔音が迫ってくる。
(やるしかねぇ……! 脳みそが焼け焦げようが、俺がここで防がなきゃ、こいつらが……!)
空がペンの触媒を強く握りしめ、極限の多重演算によって再び絶対防壁の準備をし始めようと、歯を食い縛った、その時だった。
『ゼロにする』
何者かの、静かで、しかし絶対的な重圧を持った声が響いた。
その直後。
空の防壁が展開されるよりも早く、上空から迫っていたはずの巡航ミサイルが、まるで重力が何十倍にも跳ね上がったかのように、突然軌道を急直下させ、宮殿の遥か手前の誰もいない広場に真っ逆さまに落下した。
ズスゥン……!
そして、地面に突き刺さったミサイルは、なんの爆発も、炎も引き起こすことなく、完全に沈黙したのだ。
「なっ……!?」
空は目を見開いた。兵器としての爆発力そのものを、完全に「ゼロ」にするという、未知の理不尽な法則。
「……このクーデターが終わったら、私の首は刎ねてもらって結構。ですが、その下準備は、我らの手で」
闇の中から、足音が響いてきた。
「願わくば、再びあなたたちが力を合わせ、フランスやローマ正教と正しく向き合ってくれることを」
現れた男は、長身で、長い剣を右手に携えていた。
その歩みは静かだが、一歩ごとに周囲の空間が震えるほどの圧倒的な存在感を放っている。
「……すまない。我が国と王女の行末を、君たちに預けっぱなしにしてしまったな」
男は、上条と空に向かって短く謝罪の言葉を述べた。
キャーリサは、その男の姿を見て、初めて表情を歪めた。
「……
英国騎士派のトップであり、キャーリサの腹心でもあった男。
彼もまた、己の信じる英国の未来のため、キャーリサの暴走を止めるべく、この絶望的な死地に駆けつけてきたのだ。騎士派トップの、明確なる反逆。
「……ウィンブルドンのみならず、待機中の駆逐艦全艦に告ぐ。巡航ミサイルを、全発発射せよ」
キャーリサは、騎士団長の力への対策のため、飽和攻撃という暴挙に出ようと無線機に向かって言う。
しかし。
その直後、バッキンガム宮殿の屋上から、巨大な軍事通信用のパラボラアンテナが、轟音とともにキャーリサの背後へと落下し、粉々に砕け散った。
「なッ!?」
キャーリサが驚愕して振り返る。
宮殿の屋上には、青いゴルフウェアのような服を着た、大男——後方のアックアの姿があった。
彼は、学園都市での深傷が癒えていない身体でありながら、キャーリサが軍を統率するための通信ネットワーク設備を、その規格外の武力で全て破壊し、彼女の指示を完全に途絶えさせたのだ。
「……ウィリアム! 貴様まで!」
アックアは、屋上から広場へと飛び降り、メイスを構えてキャーリサへと対峙した。
さらに、満身創痍の神裂火織が、七天七刀を抜き放ち、騎士団長とアックアの横へと並び立つ。
「なんなの、これは……ッ!」
キャーリサの顔が、怒りと焦燥に歪む。
騎士団長に、アックア、さらには神裂。
世界でも数えるほどしかいない、常識を超えた化け物たちが、たった一人の王女を止めるために集結したのだ。
「すごい……」
空は、ペンを下ろし、その神話のような光景に息を呑んだ。
王室派、騎士派、清教派、そして元神の右席。
普段はいがみ合い、敵対していたはずの者たちが、祖国の未来を守るために徒党を組み、全次元を切り裂く『カーテナ=オリジナル』を有する第二王女キャーリサへ向かって、同時に剣を突きつけた。
「……これなら、いけるかもな」
空は、血に濡れた口元を歪め、上条の背中をポンと叩いた。
「行け、上条。俺の裏方の出番はここまでだ。……後は、お前がその右手で、あのお姫様の幻想をぶち壊してこい」
英雄の背中を押し、空は一歩後ろへと下がった。
英国の歴史に刻まれる最大の決戦——全勢力が激突する常識を超えた剣戟が、今、ついに始まったのである。