ロンドンの空を分厚く覆っていた鉛色の雲が、重苦しい冬の到来を告げるような冷たい風を運んでくる。
その身を切るような突風が、血と埃、そして硝煙に塗れた瀬川空の黒いロングコートを容赦なく揺らしていた。
右方のフィアンマ。
「神の右席」のさらに奥に潜んでいた、絶対的な理不尽の体現者。
彼の放った「不要だ」というただ一振りの暴力によって、空の全身の骨は砕け散り、肉体は文字通りボロ雑巾のように破壊されていた。空のあらゆる多重演算、空間断裂、見えない弾丸。そのすべてが、相殺されることすらなく『世界から削り取られた』という事実が、空の空洞化された自我に深い絶望を刻み込んでいる。
「ガハッ……ゴホッ……!」
肺の奥底から込み上げてくる血の塊を吐き出しながら、空は瓦礫の陰に背中を預けた。
折れた肋骨が内臓に突き刺さり、呼吸をするだけで意識が白濁しそうになる。『痛覚遮断』の演算をフル稼働させ、バックグラウンドで『肉体再生』を常軌を逸した速度で回すことで、空は強引に自らの肉体を人間の形に繋ぎ止めていた。
親友である上条当麻は、フィアンマに連れ去られたインデックスを救うため、誰にも何も告げず、単身でロシアへと向かってしまった。
そして、今やロシア成教の宣戦布告により、世界中の魔術サイドと科学サイドが正面から激突する『第三次世界大戦』の火蓋が切って落とされている。
「……ッ、俺も……行かなきゃ……」
空が、ミシミシと音を立てる両足で立ち上がろうとした、その時だった。
ブルルルルッ、ブルルルルッ。
ポケットの奥底で、死んだように沈黙していた空の暗部専用端末が、短い電子音と共に震え始めた。
「……!」
空は血に濡れた手で端末を引きずり出した。画面には、圏外の表示が消え、暗号化通信の緑色のバーが点灯している。
それは、学園都市の最深部で未知の存在が顕現したことによって、概念的・物理的に完全にシャットダウンされていたはずのネットワークが、復旧したことを意味していた。
空は即座に通話ボタンをスワイプし、端末を耳に押し当てた。
「……繋がったか。俺だ」
『お、お兄ちゃん……! よかった、通信が戻った……っ!』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、学園都市で留守を預かる妹、イツキの、安堵のあまり今にも泣き出しそうな声だった。
彼女の声を聞いた瞬間。極度の緊張と絶望で張り詰めていた空の肩から、無意識に入っていた力がスッと抜け、白く濁った息を長く吐き出した。
エイワスという未知の化け物が出現した学園都市で、彼女たちが無事に生き延びていた。その事実だけで、空の擦り切れた精神はどれほど救われたか分からなかった。
「……ああ、なんとか生きてるよ。そっちの状況はどうなってる。俺の通信が切れた後、学園都市はどうなった?」
『……ミサカのハッキング能力でも、全く分からないです。記録映像すら、概念的に塗り潰されていて……』
イツキの声には、未知の存在にシステムを紙屑のように突破されたハッカーとしての恐怖が滲んでいた。
『ただ、復旧した統括理事会のログを洗って、いくつかの事実が判明しました』
イツキは、端末のログを高速で読み上げながら報告を続ける。
『通信が回復した直後……第一位は、
「第一位が、打ち止めを連れてロシアへ……?」
空は眉をひそめた。あのバケモノが、わざわざ重荷になるであろう少女を連れて戦地へ赴く理由。それは一つしかない。彼女の身に、学園都市の医療では治せない致命的な何かが起きており、それを救う手段がロシアにあるということだ。
『そして、もう一つ』
イツキがタイピングの音を響かせながら、さらに信じられない報告を口にした。
『「グループ」の動向とは別に……新生暗部に追われていた浜面仕上ですが。お兄ちゃんの指示通りにミサカが逃走ルートを確保した結果、彼は無事に滝壺理后のもとに辿り着いたみたいです。……その後、この二人を追って、今度は第四位が単独で襲撃をかけたようですが……』
イツキが息を呑む音が聞こえた。
『……浜面仕上が、第四位を「再び」撃破しました。そして彼らも、学園都市の厳重な防衛網と警戒網を突破して、外部へと逃走したみたいです。行き先は、同じくロシア方面の雪原です』
「…………」
空は、ロンドンの鉛色の曇天を見上げながら、信じられないような、それでいてどこか心の底から誇らしいような、静かな笑みをこぼした。
「……あの
奇跡などではない。あれは、理不尽な暴力と絶望を前にしても決して諦めない、泥臭いまでの『生への執着』と『誰かを守るという意地』が為せる業だ。
上条当麻といい。
第一位といい。
そして、無能力者の浜面仕上といい。
この世界には、どいつもこいつも、自分の命を天秤にかけてでも、守りたいもののために地獄へ飛び込んでいく大馬鹿野郎がいる。
「上条も、第一位も、浜面も……。みんなどこかで、同じ星の下に生まれた連中なのかもしれないな。守りたいもののために、ロシアへ向かったってわけか」
空は端末を握り直し、少しだけ声のトーンを優しくした。
自分の周りの人間たちが、己の全てを懸けて世界大戦という未曾有の嵐に立ち向かおうとしている。ならば、裏方の掃除屋である自分が、ここで立ち止まっている理由など何もない。
「イツキ。スピーカーにして、みんなを呼んでくれ」
『……はい!』
数秒後。端末の向こうから、寝巻き姿のまま慌ててリビングに集まってきたであろう四人の妹達の、バタバタとした足音が聞こえてきた。
『ソラ!? ご無事ですか! イギリスで騎士派による巨大なクーデターが起きたとニュースで流れていて、私たちは生きた心地がしませんでした……! とイチは、安堵と同時に極度のストレスで血圧を上昇させます!』
真っ先にスピーカーに近づいてきたのは、リーダーであるイチの、張り詰めた声だった。
「ああ、無事だ。ちょっと派手な家族喧嘩に巻き込まれて、すっ転んだだけだ。……夜遅くに起こしてすまない。みんなに、伝えておかなきゃならないことがある」
空は、血に濡れたコートの襟を立て、遠く東の空——これから向かうべき極寒の戦場へと視線を向けた。
「悪い。帰りが少し遅くなる。……俺もこれから、ロシアへ行く」
『ロシア!? ダメです! 今ロシアは学園都市に対して正式に宣戦布告を行い、国境付近にはすでに多国籍の軍隊が集結しています。……世界大戦が始まってしまうんですよ!? とイチは、絶望的な予測データを弾き出し、必死に止めようとします!』
イチの理路整然とした反対の声に、他の妹達も動揺の声を上げる。
「分かってる。でも、あっちの雪原には、俺の大切な親友が、理不尽をぶち壊すために一人で乗り込んじまった。あいつは強ぇが、背中の守りはガラ空きだ」
空は、自分自身の空洞化された心に灯った、確かな炎の熱を感じながら言葉を紡いだ。
「それに……この戦争の最大の火種をロシアで完全に握り潰しておかないと、いつか必ず、学園都市のお前たちのところへ、致命的な火の粉が飛んでくる。……俺は、お前たちが笑って生きる『日常』を奪われるのだけは、絶対に御免なんだよ」
端末越しに、妹達の息を呑む音が聞こえた。
彼がどれほどの覚悟で、どれほどの自己犠牲を払って『家族』を守ろうとしているか。彼女たちには痛いほどに分かっていた。だからこそ、止める言葉が見つからなかった。
『……マスター。あなたの身体の生体データは、こちらでも大体予測がついています。もうボロボロのはずです』
スピーカーの向こうから、ニナが鼻をすする音が聞こえた。
『私がシノと一緒に、隠し持っているドローンを使って、学園都市の裏の密輸ルートから、ありったけの青色回復サプリと止血剤を送りますから! 痛い時は無理せず、致死量ギリギリまで飲んでください! とニナは涙声で叫びます』
『ボス……! 私の作ったコートや触媒の耐久限界は、設計者である私が一番分かっています! 無茶な演算の重ね掛けや、物理限界を超えた防御は絶対にダメだぞ! とシノは、工具を握りしめながら鼻をすする音を誤魔化します』
『ソラさん。……待ってる間、菜園でたくさん野菜を育てて用意しておきますので。帰った暁には、また一緒に美味しい料理を教えてくださいね……とミトは、画面の向こうのソラさんへ向けて優しく微笑みかけます』
彼女たちの不器用な、しかし痛いほどの愛情が、空の冷え切った身体に染み渡っていく。
そして、最後にイツキがマイクに近づいた。
『……お兄ちゃん。帰ってきたら、この前セーブした新しいゲームの続き、一緒にやるって約束したでしょ。私のハッキングで、隠しキャラも出しておいてあげるから。だから……』
イツキの声が、震えながらも強い意志を持って響いた。
『絶対に、絶対に死んじゃダメだからね!』
空の空っぽな胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように、泣きたくなるほど温かくなった。
世界中が殺し合いを始めようとしている、この狂った夜に。自分には、絶対に帰るべき場所があり、待っていてくれる家族がいる。
ただの道具として育てられ、パーソナルリアリティを空洞化させて生きてきた空にとって、これ以上の幸福はなかった。そして、これ以上の「戦う理由」は、裏方の掃除屋には必要なかった。
「ああ、約束する。……あっちのゴミ掃除を終わらせたら、すぐに帰るよ」
通信を切り、空は端末をコートの奥深くへとしまった。
向かった先は、ロンドン郊外にあるイギリス軍の軍用飛行場だ。
クーデターが鎮圧された直後とはいえ、ロシアとの開戦に伴い、イギリス軍も急ピッチで東ヨーロッパ方面の同盟国へ向けて、物資や人員を輸送するための大型機を慌ただしく離陸の準備を進めていた。
滑走路には、冷戦時代を思わせる張り詰めた空気が漂い、サーチライトが夜空を切り裂いている。
空は、残された僅かな演算リソースを絞り出し、空間断裂と空力使いのベクトル操作を組み合わせて光の屈折を歪め、自身の姿を景色に溶け込ませる『光学迷彩』をエミュレートした。
そして、厳重な警備の目を掻い潜り、ロシアの最前線近くへと向かう大型輸送機の貨物室へと、音もなく滑り込んだ。
エンジンが咆哮を上げ、機体が重々しく空へと舞い上がる。
暖房の効いていない、暗く冷たい貨物室の片隅で、空はシートベルト代わりに念動力で自らの身体を固定し、ポケットから最後の極甘の缶コーヒーを取り出してプルタブを開けた。
「……待ってろよ、上条。すぐに行く」
窓の外には、イギリスの海を越え、ユーラシア大陸の広大な闇が広がっている。
世界大戦という、人類史上未曾有の地獄へ。
瀬川空の、愛する日常を守るための、最後の戦いが始まろうとしていた。
◇
同時刻。
空がイギリスから飛び立った頃。
学園都市第七学区、地下深くにある、とうの昔に廃棄されたはずの暗部の研究施設。
無数の大型モニターが壁一面に並ぶ薄暗い部屋で、一人の男が、ひどく歓喜に満ちた様子で肩を震わせていた。
「素晴らしい……。実に、素晴らしいよ」
白衣を着た痩身の男、木原虚。
かつて空の能力開発に関わり、彼のパーソナルリアリティを空洞化させた狂気の科学者。
彼の目の前に並ぶモニターには、ロシア成教による宣戦布告と、第三次世界大戦勃発のニュース、そして学園都市軍のロシアへの派兵状況が絶え間なく映し出されている。
「世界大戦。これ以上ない、究極の『ストレス環境』だ。極寒の地獄、飛び交う銃弾と魔術、そして……彼が愛してやまない守るべき親友たちの、理不尽な死の危機」
虚は、手元のタブレット端末に映る『瀬川空』の生体データと、イギリスからの不自然な軍用機のフライトログを見つめながら、恍惚とした表情で嗤った。
「君はロシアへ向かうのだろう? そのガラス細工のような『偽物の日常』とやらを、自分だけの力で守り抜くために。血反吐を吐き、脳髄を焼き切り、キャパシティの限界を自ら超えて……」
虚にとって、空が妹達や親友を愛し、人間らしい感情を取り戻している現状は、彼が創り上げた完璧な
だが、そのエラーが極限の重圧に耐えきれず、絶望の中で完全に崩壊し、再び空っぽの化け物へと還る瞬間こそが、虚の追い求める至高の芸術なのだ。
虚は白衣を翻し、傍らのテーブルに置かれていた、厳重なロックの施された銀色のジュラルミンケースを手に取った。
「ならば、私も行こう。君という最高傑作が、絶望の中で人間らしさを完全に失い、再び『美しい空洞』へと壊れゆくその瞬間を……。この特等席で、一番近くで見届けてあげるためにね」
狂気の追跡者は、歪な愛情と悪意を胸に抱き、自身もまたロシアの雪原へと向けて歩き出した。
表の英雄たちが、世界を救うために理不尽と戦うその裏側で。
空っぽの少年と、彼を創り出した狂った科学者による、因縁の死闘の幕が上がろうとしていた。第三次世界大戦の舞台に、すべての役者が揃ったのである。