居間でスバルの話を聞いた士郎、イリヤ、ベアトリスは顔を見合わせ、スバルへ向き直った。
「つまりスバルはこう言ってるのか。柳洞寺にはキャスターがいて、一成はキャスターに魔術で支配されてる。一成はキャスターについて探りを入れると殺しに来る」
「それなら直接本拠地へ向かおうと柳洞寺へ行くと、キャスターが召喚したサムライのアサシンが門番にいて殺しに来る」
「さらにさらに実は柳洞寺に住んでいた教師を懐柔しようとすると、暗殺拳の使い手で、素手で全員殺しに来る。そういうことなのよ?」
「パーフェクトだ皆。そういうことなんだよ」
「……シロウ、あなたのセイバーやっぱり変よ」
「いや、スバルがこういう時する話は信じていいぞ。変な奴では……あるけど」
「マスターとして変な奴って発言も否定して欲しかったかな、俺!」
「イリヤ、スバルがこんな嘘つく理由がないかしら。皆で対策を考えるのよ」
「もう、ベアトリスはセイバーにべったりなんだから。──セイバー、それ本当なの?」
……一成、アサシン、葛木。その障害に阻まれ出口の見えないスバルは、仲間たちに知恵を借りることにしたのだった。
想定はしていたが、他二人はともかくイリヤはやはり半信半疑だ。けれど、信じてもらわないことには話が進まない。
「ああ、本当だ。正直俺一人じゃお手上げなんだ、助けてやってくれ」
そう精一杯の誠意で頼み込む。
イリヤは暫しの沈黙の後、大きく嘆息すると、
「そのクズキって教師が恐らくキャスターのマスターよ。わたしの使い魔で、大人の男の非魔術師をマスターにしていることまでは突き止めていたの」
「おお、サンキューイリヤ! じゃあクズキは、キャスターに支配の魔術で無理矢理マスターをやらされてるのか?」
「わたしも今セイバーの話を聞くまでは操り人形なんだと思っていたんだけど。でも数人を素手で殴り殺すなんて命令、支配の魔術じゃ下せないわ。クズキは自身の意思でマスターをやっているか、或いは脅されてる可能性もあるかもしれないわね」
「脅されて仕方なく、なんて手際じゃなかったけどな……!」
一瞬で士郎とベアトリスの頭が吹き飛ぶ光景がフラッシュバックする。あれが果たして、魔女に脅されて怯える者の攻撃だろうか──。
「というか、セイバーはマスターを気にしているようだけど、真に脅威なのはキャスターよ。──あいつはギリシャ神話の裏切りの魔女。ヘカテの魔術に長けた正真正銘神話の──」
「いや、そっちはどうにかなる」
スバルは、ぴしゃりと。イリヤの口上を一言で打ち切った。
「問題はクズキだ。アサシンは場合によっては無視できるかもだけど、クズキは交戦必至だろ。あいつのスピードには多分俺たちの誰も──」
「ち、ちょっと待ってセイバー。聞いていた? あのキャスターは神話の大魔女で──!」
慌てた様子でスバルに食い下がるイリヤ。その年相応な姿を微笑ましく思いながら、
「大丈夫、難敵はクズキとアサシンだけだ。──魔術で戦う、魔術に頼った魔術師が相手なら、俺たちは絶対勝てる」
「勝てるかしら」
そう、スバルはベアトリスと仲良くサムズアップで答えるのだった。
日が沈み暗くなった頃。葛木の退勤に合わせて作戦は決行された。
スバル、ベアトリス、士郎の三人は、物陰から街灯が照らす夜道を見張る。
学校から柳洞寺までの帰路。
そこを張っていると──目的の人物、葛木宗一郎が現れた。
「イリヤの話じゃあいつがマスターだってことだったな。そうなると、やっぱり──」
「洗脳されていようがいまいが、マスターである以上は『邪剣』が有効なのよ。斬る隙が無ければベティーが作るかしら」
キャスターの魂喰いを止めたければ、マスターと思しきクズキとの対話か無力化は絶対条件だ。『邪剣』により、そのいずれかを引き寄せる。
葛木が通り過ぎ、背を向けたところでベアトリスは身を乗り出し叫んだ。
「──エル・シャマク!」
──瞬間、葛木の意識は闇に包まれた。
陰魔法により精神を隔離された葛木は、自身の体へ命令を与えられず身じろぎ一つできないでいる。
これこそがベアトリスの提案した策。シャマクによる葛木の行動不能化だ。
そしてここからが本命。すかさず、
「シロウ!」
「ああ。──
身動きの取れない葛木を斬りつける為の『邪剣』を投影する。これでキャスターとの契約を断つことができ、もし支配の呪縛を受けているならその『芯』も切断可能だ。この剣の投影さえ、完了すれば──、
「────"
女の声が夜闇に響いた。瞬間、葛木を覆っていた闇が晴れる。
それだけではない。いつそこへ出現したのか、葛木の隣には一人の人影が並び立っていた。
作戦の失敗。目に見えて分かるそれは、ベアトリスの呟きで確定的となる。
「シャマクが、打ち消されたのよ……! 術式が、ほどかれた、かしら……!」
「な──、それって……」
「ベティーたちの
対魔術のカウンターを持っているのはスバルたちばかりではなかったというのか。スバルは息を呑み、眼前の人物を睨む。
──それは刀身が歪に歪んだ短剣を握る、黒いローブの女だった。
「──キャスター……!」
「初めて見る魔術体系だわ。ここが戦地でなければじっくり観察したいところだったけれど」
キャスターは名残惜しそうにマナの散ったシャマクの跡を眺めると、短剣を懐へ仕舞い、葛木へ声をかける。
「忠告した筈ですよ宗一郎。このような事になるから、あなたは柳洞寺に留まるべきだと」
「そうでもない。実際に獲物が釣れた」
シャマクによって精神を闇に囚われていたというのに、葛木は何事も無かったかのように揺らいでいなかった。それは血の通った人とは思えない程に非人間的で──。
士郎は葛木へ問いかける。
「葛木。アンタ、キャスターに操られてるのか」
「…………」
投げかけられた葛木は、黙り込む。
そして真っ直ぐ士郎を見据えると質問を返した。
「その質問の
「……キャスターは街中の人間から魔力を集めてる。ここ数日の昏睡事件は全部そいつの仕業だ。このままじゃ死人だって出るかもしれない。──アンタはそれを知ってて見過ごしてるのか?」
「…………」
「もしそれを知っていて放っておいてるなら、俺も容赦しない。けどアンタが操られてるんなら別だ。俺たちはキャスターだけを倒す」
葛木はキャスターの被害者か、倒すべき敵か。それは士郎にとって確認しなければならない事だった。
スバルも同意だ。ベアトリスや士郎が殺された周回もあったが、誰も死んでいない今なら、まだスバルは葛木を許す事ができる。
そして、葛木の返答は……、
「いや。今の話は初耳だ」
そうはっきりと口にした。キャスターの暗躍など知らない、と。
ばつが悪そうに俯くキャスター。
対する士郎は、顔を上げて、
「じゃあ、アンタはキャスターの味方って訳じゃな──」
「だが衛宮。キャスターの行いは、そう悪いものなのか」
「──なん、だって……?」
士郎は己が耳を疑った。今この男は何と言ったのか──。
絶句する士郎へ、葛木は続ける。
「他人が何人死のうが私には関わりの無い事だ。……キャスター、命を取っていないとは随分と半端な事をするのだな。それならば一息に根こそぎ奪った方が良いだろうに」
「な──」
その悪し様な台詞は、決定的な敵対の合図だった。
葛木宗一郎は、キャスターの悪行を知ってなお容認している……!
「ああ、クソ。お似合いのカップルだよあんたら……! 火遊びは家の中で収めておいて欲しいもんだな……!」
スバルは悪態をつきギルティウィップを構える。
葛木が悪質なマスターと判明した以上、いつあの蛇拳による殴殺が起きてもおかしくないのだ。
体を緊張させ、一度、瞬きをする。その瞼の裏の暗闇の中で、
「──っ! ミーニャ!」
咄嗟に唱えるベアトリス。魔法は紫紺の結晶として打ち出され、葛木の手前の地面で炸裂する。それは──走り出そうとした葛木、その踏み込みを妨害していた。
「…………」
その魔法が撃ち込まれた痕を見下ろす葛木。
彼は次いで両手を向けるベアトリス、鞭を構えるスバルを見ると──構えを解いた。
「ふむ、退くぞキャスター」
「マスター……!? いいえ、あなたであれば彼らなど物の数では──」
「いや、どうも相手の手の内を探っていたのはお前ばかりではないようだ。見ろ、私の踏み込みを事前に警戒している。──マスターである私の踏み込みを、だ」
「────!」
「伊達にお前の恐れた
葛木は、スバルたちに自身の戦闘技術が露見している、とキャスターに告げた。
その推測は正しい。スバルは当然、葛木の戦闘能力を士郎とベアトリスに共有していた。瞬きの間に仲間を殺害される、あんな地獄絵図は二度と御免だ。
「厳格そうな先生と思ってた奴に仲間を一瞬で殴り殺されてみろ。マジトラウマになるからな……?」
「ふん。種は割れているのよニンゲン。決して近付けさせはしないかしら」
ベアトリスはそう強気で言って見せるが……正直、スバルは葛木にこの三人で対処できると自信を持って言えはしない。それほどまでの速度、重さを持った殺人術だった。
だがその不安を悟らせてはいけない。「お前の手の内など見えている」と虚勢を張っていることが、この場からの生還に繋がるのだ。
「さぁ、どうするよキャスター。俺はあんたのマスターの蛇拳を相手取っても構わないんだけどな?」
「……いいわ。マスターの指示ですもの、ここで事を構えるのは控えます。──ただ、それなら話をさせてもらいましょう」
「話……?」
「ねえ、あなたたち。野蛮な殺し合いはもう止めて、私たちと手を組まない?」
「──え」
キャスターは構えを解いて、されどぴったりと葛木の背後についたまま、そんなことを口にしたのだった。
当然の提案に言葉を失うスバルたちへキャスターは続ける。
「あなたたちの目的も聖杯を手に入れることでしょう? なら戦う必要はないわ。殺し合わずとも聖杯は召喚できるのよ」
「「……なんだって?」」
スバルと士郎の驚嘆の台詞が重なる。
聖杯戦争。仕組みこそ全く理解していないが、勝ち残った最後の一組にのみ聖杯が与えられる儀式であるという話だった筈だ。
その前提を壊せると、この魔女は言っているのだ。
「私はもう聖杯の仕組みを把握しているの。協力するならあなたたちにも聖杯の恩恵を分けてあげてもいいわ。──この土地は聖杯を下ろすに足る霊脈を備えている。あとは聖杯を維持する大量の魔力と、聖杯召喚の核となるものさえあれば聖杯の力は手に入るのよ」
「…………!」
半信半疑にキャスターの演説を聞いていたスバルだが、大量の魔力という単語に眉を
「そいつは魅力的な提案だな。……ちなみに、その聖杯を維持する大量の魔力ってのは都合がついてんのか? サーヴァントって融資受けられんの?」
「そうね、聖杯を呼ぶだけならこの街の人間全て使えば足りるでしょうけど、充分に動かし続けるには不足ね。──でも安心なさい。幸い現世にはうんざりする程の人間で溢れている。火にくべる薪はいくらでもあるわ」
キャスターは事も無げに言った。今後も冬木市全域を超え被害を拡大させる、と。
……スバルの隣で、固く拳を握る音が聞こえる。
「火にくべる薪、だと……!?」
「……シロウ」
「……悪い、大丈夫だ」
大丈夫な筈はない。キャスターの発言は的確に士郎の地雷を踏み抜くものだった。前回の聖杯戦争で家庭を、多くの人を目の前で失い、それを背負った士郎だ。その再演のような発言をされては黙っていられないだろう。
けれど、今この場でキャスターをどうこうはできない。先述の通り、身体能力が人並であるこの場の三人では、どうあっても葛木を相手取るのが厳しいのだ。
故に、士郎の激情が分かっていながら、スバルは努めて冷静にキャスターから情報を聞き出す。
「……それで? 大量な魔力の抽出元は分かった。もう一つの、聖杯召喚の核ってのは?」
「魔力を発火させる装置として充分な魔術回路を持った存在──言ってしまえば、魔術師が必要ね」
「魔術師が核、ね。すげぇ嫌な予感するんだけど、聖杯降ろしたらそいつ自身がどうなるかって聞いた方がいいか?」
「聖杯を降ろした瞬間火力に耐え切れず燃え尽きてしまうわね。けれど聖杯という奇跡の前にはあまりにも僅かな犠牲だと思わない?」
「…………」
「どうかしら、セイバーのマスター。あなた、聖杯の核にならないかしら? 私は既にかなりの魔力を蓄えているの、敵対しても無駄死にするだけよ。それなら、その身を犠牲にしてセイバーの願いを叶えてあげるべきだと思わないかしら」
「────」
士郎は───黙り込んだ。
すかさずスバルが身を乗り出す。
「いや思わねぇよ!? すげぇなキャスター、本当に俺たちを懐柔する気あるか? 俺の知ってる魔女でももうちょっと交渉が上手かったぞ」
墓所のエキドナでさえ相手に寄り添う素振りは出来ていた。それをこのキャスターは悪びれることもなく多数の犠牲の上の奇跡を謳う。いや、むしろ過剰に悪ぶっているようにすら見える程だが……。
ともかく、スバルは強くNOを突き付けてやるのだった。
「というか、シロウもシロウだ。あそこはビシッと否定してくれないと不安になるぜ、俺」
「勿論沢山の人の犠牲の上の聖杯なんて間違ってる。……でも、そういえば俺、スバルの願いを聞いたことなかったなって。聞かずに否定するのも違うかと思って」
「律儀か! 俺が何願っててもお前の命と引き換えになんざ叶えたくねぇよ!」
士郎の自分を二の次にする悪癖に慄くスバルと、とぼけた返事をする士郎。
敵前で言葉を交わす二人へベアトリスが臨戦態勢のまま苦言を呈した。
「二人とも後にするのよ! ──わかったかしらキャスター。交渉は決裂なのよ」
「そのようね、残念。……まぁいいわ。柳洞寺に帰れば、あなたたちなど一瞬で消し炭にできることだし──」
キャスターはそう言うが、言葉に反して微塵も未練を感じさせない。
その自信は、確かに柳洞寺という自身のホームでは無敵だという確かな自負を匂わせていた。
そんなキャスターは続けて、こう告げる。
「──それに、そこの坊や以外にも、聖杯の核に相応しい魔術師は見つけているもの」
「相応しい魔術師……?」
オウム返しされたその言葉に答えることなく、キャスターはローブを翻す。──瞬きの間に、ローブの影に隠れたキャスターと葛木はその場から消失していた。
夜道に三人だけが残される。
しかし息をつく暇などない。キャスターの捨て台詞、それを戯言と聞き捨てることなどできなかった。
「……今のって、これから生贄にする魔術師を攫いますって犯行声明だよな? 士郎以外の魔術師って──」
スバルと士郎は顔を合わせ……青ざめる。
「遠坂と──」「イリヤだ! マズい、帰るぞ!」
三人は踵を返し、街灯が照らす闇の中を駆け出した。
「シロウ、セイバー、ベアトリスまで。どうしたの。そんなに慌てて」
「急いで駆けつけてやったのになんたる物言いかしら」
「はぁ──はぁ──、いや、それは、理不尽な難癖、だけどな? はぁ──」
急いで帰った衛宮邸では、イリヤと大河が何事もなくくつろいでいた。
二人して仲良く煎餅をお茶で流し込む光景には、確かに若干の徒労感を感じないでもない。
遅れて士郎も居間へ入ってくる。
「美綴──知り合いに確認してもらったけど、遠坂も連絡がついたらしい」
「え、そうなのか。じゃあ、キャスターが言ってたのはイリヤでもトーサカちゃんでも無かったのか……?」
懸念していた、凜とイリヤの拉致は行われていなかった。キャスターは聖杯の生贄になるのは『魔術回路を持った魔術師』だと言っていたから慎二も該当しない。スバルたちの知人は誰も狙われていなかったということだ。
「ん、フジムラ先生。サクラはもう帰ったのか?」
「あー桜ちゃんはお兄さんのお見舞いだよー」
「へぇ、兄さんが入院してるのか。入院してる兄さんは気の毒だが、あんな甲斐甲斐しい妹がいるってのは一人っ子として羨ましくはあるな!」
世間話を交えて落ち着きを取り戻すスバル。キャスターがこれから何をしでかすかは分からないが、ひとまずは身内の無事が嬉しかった。
そうして安堵するスバルと士郎へ、イリヤが声をかける。
「それで、何をそんなに慌てていたの?」
「ああ、実はキャスターと会ってたんだ。あいつが聖杯を降ろす為に魔術師を生贄にするって言ったから、トーサカちゃんやイリヤが危ないんじゃないかと思ってさ」
「──そう。間が悪かったわね。……いえ、だからこそキャスターに目をつけられたのね」
「…………?」
スバルが彼女の呟きに首を傾げるのにも構わず、イリヤは士郎の手を取る。
「? イリヤ……?」
「シロウ、よく思い出して。この街にはもう一人だけ、魔術師の血を引く存在がいた筈よ」
イリヤは士郎の目を覗き込んだ。イリヤでなく、士郎がそれに気付かなければならないとでも言うように。
そして、士郎は。
「────桜……?」
スバルも良く知る名前を、口にした。
「桜だ……! 桜がキャスターに攫われたかもしれない!」
「え──」
顔色を変える士郎、しかしスバルは食い下がる。
「な、何言ってんだシロウ。サクラは魔術師じゃないだろ。キャスターは口だけだった、魔術師は誰も襲われてない。そうだろ……?」
口ではそう言いながらも、スバルの中で情報が線となって繋がっていく。
彼と彼女があまりに似ていないものだから気にしなかった、その苗字の一致も。
桜の兄が入院している、という大河の言も。つまりは。
しかしスバルは非合理的ながら、その真実を聞きたくないと、そう思った。
「桜も魔術師の家系だ。桜は──慎二の妹、間桐の人間なんだから……!」
……聞けば最後。
あの健気な少女がキャスターの手にかかったと、認めなければならないから。
「兄さん。藤村先生から果物を頂きましたよ」
「……もう来るなって言ったよな、桜」
病室。
両腕を骨折しギプスを巻いた間桐慎二が既に数日過ごしたそこへ、桜が果物の入ったバスケットを持って訪れていた。
妹である桜が甲斐甲斐しく見舞いに来てくれたのだ、一般的には微笑ましい光景なのだろうが……慎二にとってはその限りでは無かった。
──桜の存在の全てが慎二の感情を逆撫でするのだ。
しつこく見舞いに来る事に腹が立つ。確かに両手は使えないが、世話など看護師がする。それを他でもないこの妹の世話にかかるなど、屈辱以外の何物でもなかった。
果物を剥くナイフ捌きに腹が立つ。桜はもっと不器用で愚鈍な奴だった筈だ。衛宮士郎の元で習ったのか。兄である自分を差し置いて、衛宮士郎が桜を自分の色に染めているというのか。
……そして、なによりも。
「兄さん。もう無茶をするのは──」
「──っ! その目で僕を見るんじゃない──!」
桜は、怪我人の慎二に慈愛の目を向けてくる。
あの目だ。
間桐の後継者だと優越感に浸っていた慎二が真実を知った日に向けられた、あの目。
魔術師に焦がれながらそれが絶対に叶うことのない慎二へと魔術師である桜が向ける、あの目。
惨めな道化を憐れむ、憐憫の目──。
「あああぁぁぁあああ──ッ!」
感情を決壊させた慎二はバスケットを殴り飛ばし吠える。
桜の腹部には、バスケットごと重い果物がぶつけられた。
「うっ──。に、兄さ──」
「お前はいつもそうだ! お前たちはいつもそうだ! そうやっていつもいつも僕の事を見下しやがって!」
誰も彼も何様のつもりで慎二を軽んじるのか。慎二は魔術師の家系の末裔だ、選ばれし存在だ、特別な人間だ。──そう思い込んで育ってしまったのだから、その自尊心に縋っていないと立ち方すらも分からないのだ。だというのに、桜も遠坂凛も衛宮士郎も当然のように慎二が持ち合わせないものを持ち、慎二に出来ないことをやってのける。
慎二には、選ばれし魔術師であるという、その肩書きしか寄りかかるものが無いというのに。
「はは、さぞ気分が良いだろうなぁ桜!? 哀れな兄は、お前がご執心の衛宮にやられてこのザマだ! 笑えよ! はは! はははははははは──!」
「兄さん……」
自棄になり笑う慎二を、桜は黙って見守る。
……じきに落ち着いた慎二は、大きく溜息を吐いて、
「……桜。もう一度
そう桜へ、ギプスで固められた手のひらを向けた。
その言葉の意味を理解した桜は、焦りながら言葉を返す。
「え……、でも兄さん、その体じゃ──」
「チッ──、いいから寄越せ! おとなしく僕の言う事を聞けよ!」
唾液を飛ばし、桜を恐喝する。その二人の空間に、
「あら、誰かと思えば……ライダーで遊んでいた、出涸らしの坊やじゃない」
黒いローブの女が現れたことは、兄妹にとって全くの理外の出来事だった。
「──は」「──え」
ローブの女は突如虚空から出現した。
そのまま二人が状況を理解するよりも早く、女は桜の顔へ手を
「お、おま、お前、さ、さ、サーヴァントっ……!?」
慎二の問いに答えることなく、そのサーヴァントと思しき女は、意思を感じない桜の頬を指でなぞる。
……と、サーヴァントは何かに気付くと桜の手を取って呟いた。
「──そう、
女の懐から短剣が取り出される。
刀身がジグザグに曲がった歪な形状の短剣。それを──無抵抗の桜の手の甲へ突き立てた。
「なっ──!?」
「────"
一体何が起こったのか、慎二には分からない。ただ目の前で異常が発揮された事は分かった。
──サーヴァントが掲げた手の甲に、在り得ざる聖痕が浮かび上がったのだから。
「な、なん、で。令呪、が……」
「これでライダーは私の使い魔となったのよ。ライダーの事は、坊やよりよほど有効に運用してあげるわ」
言って桜の肩を抱いた女は、ベッドの上の慎二を見下ろして告げる。
「あなたの妹も頂いていくけれど、構わないわね?」
女は慎二に問うた。桜を連れ去るが抵抗しないな、と。
もしそれに抵抗したらどうなるかなど、想像するまでもない。相手はサーヴァントで、ライダーを手中に収めたとまで豪語した女だ。赤子の手を捻るより容易に慎二を始末するのだろう。
それを肌で理解した慎二は、文章にならない嗚咽を漏らす事しかできない。
「──い、い、一体、何、を──」
「まぁ、坊やの許可などいらないけれどね。魔術師でないどころか魔術回路すら無いあなたになんて、微塵も興味が無いもの」
「────っ!!」
その女は慎二が最も言われたくない事を言った。
魔術回路が無い。それは慎二が抱える全ての劣等感の根源だ。
魔術回路が無いから慎二は魔術師になれないのだ。
魔術回路が無いから桜なんぞに後継者の座を奪われるのだ。
魔術回路が無いから士郎にも凜にも軽んじられるのだ。
その逆鱗を、無神経に抉られた。間桐慎二を否定された。
その言葉に間桐慎二は。
自身のプライドを守る為に、間桐慎二は。
「────っ」
──何も、できない。
コンプレックスを揶揄されたのに、妹を連れ去られようとしているのに。
それでも間桐慎二は何もできない。
意地、妹、──そんなものより己の命が一番惜しいから。
「……ふん、本当につまらない坊や。私としては楽に済んで助かったけれど」
女はそう言い捨てると桜と共にローブに隠れ、そのまま二人して虚空へと消える。
……病室には、慎二一人が残された。
「──クソ、あいつも桜か! 桜、桜、桜! もっと僕を見ろよ、認めろよ! 僕は──僕は間桐の魔術師なんだぞ!?」
激情に任せて飾られている花瓶を叩き割る。
その言葉をぶつけるべき魔女がもういない病室にて、慎二は己の安いプライドを再燃させた。
割れた花瓶から流れ出た水面には、醜く歪んだ慎二の鏡像が映っていた。