こりゃあダメだな。
半ば以上諦めながら、自分の右手を見つめていた。
周囲に広がるのは、瓦礫と炎と怪物の死骸。
茫然と首を振り続ける母親。震える手で拳銃を強く握りしめる治安官。
数刻前、零号ホロウの異常挙動とエーテリアスの大量発生が報じられた。エリー都は瞬く間にで地獄と化し、俺は母さんを庇って怪物を素手で殴り殺した。
当然ながら、代償は大きかった。裂けた拳の傷から侵入したエーテル物質。それが俺を怪物に変えてしまうのも、もう時間の問題だろう。
毒々しい色彩に蝕まれていく右手を握りしめ、最期の言葉を遺す。
「治安官さん、母さんを頼みます」
「っだ、だめだ、まだ何とか――」
「無理ですよ。右手だけじゃない、もう首まで来てる。……ごめん、母さん。親より早く死ぬなんて、親孝行じゃないよな」
「……ぁ、あ、あああぁぁ、ちが、ちがう、わたし、わたしのせいで!」
エーテルに侵蝕された人間は、エーテリアスになる。
心も意志も消え去り、人を襲うだけの害獣に成り果てる。
治療法はない。人としての尊厳を保ったまま介錯されるのが、唯一の救いだ。
だが、誰が俺を殺す? 母さんは論外だ。治安官は銃を持っているが、これ以上彼にトラウマを植え付けたくはない。
……自分でやるか。
「今までありがとう。俺、最期まで幸せな人生だった」
「……ぁ」
抱擁どころか、手を握ることすらできない。
拒絶される前に、引き止められる前に、ホロウの方角へ向けて地を蹴った。
背後で俺を呼ぶ絶叫が響く。しかし振り返らない。完全に理性を失う前に、できるだけ彼らから離れて、この命を絶たなければならない。
走る。走る。走る。
肉体から人間としての特徴が削ぎ落とされていく。それに比例して、身体能力だけが跳ね上がっていく。皮肉なものだ。
俺は、なるべくエーテリアスが多い地帯を選んで突っ込んで暴れ回った。
襲われて死ぬ人間が一人でも減るように。
この命が、一刻も早く途絶えるように。一石二鳥というやつだ。
そうしてただただ走って、暴れて、走って、暴れて。
やがて、強烈な眠気が津波のように押し寄せ、俺は意識を失った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
深い闇の底から、意識が浮上する。
ひどく息苦しい。全身をガチガチに固める「殻」のようなものに閉じ込められていた。
妙だった。
あれほど激痛にのたうち回っていたはずの右手が、首が、全身が、今は驚くほど軽い。それどころか、皮膚の奥から底知れないエネルギーがマグマのように湧き上がってくるのを感じる。
いや、そもそも、
―――どうして、俺の意識は未だに連続しているんだ?
パキ、と頭上で硬質な音が響いた。水の中で関節を鳴らしたような、くぐもった音。
狭苦しい。早く外へ出たい。その本能的な欲求に突き動かされ、力を込める。
――バリィィィン!
強固な大岩を内側から爆破したかのような轟音。俺を包んでいた漆黒の『蛹』が、文字通り木っ端微塵に弾け飛んだ。
「――っ、ぁぁあああ!」
毒々しい怪光が立ち込めるホロウの空気を、肺いっぱいに吸い込む。
自分の手を見た。そこにあったのは、かつてエーテル物質に蝕まれていた醜い爛れではない。まるで黒曜石のように鋭く、洗練された、人間のそれよりも一回り大きな「異形の腕」だった。
『蛹化』『新生』
脳裏に直接、その言葉が刻まれる。
俺の肉体は死に、弱点を克服した『新たなエーテリアス』として新生したのだ。首の傷も、引き裂かれた拳も、もうどこにもない。
それから、どれほどの時間を彷徨っただろう。
自分がもう人間ではないことは、嫌というほど理解できた。
道中、ガラスに映った自分の姿を見た。
人間としての面影をほんの僅かに残しながらも、完全にホロウの怪物のそれだった。だが、不思議と絶望はなかった。頭の芯は驚くほど冷徹で、人間としての記憶も、あのとき母さんを守り抜いたという意志も、確かにこの胸に残っている。
エリー都の治安官たちが使う、ハザードランプのような警戒音が遠くから鳴り響いている。
俺はもう、あそこには戻れない。
灰色に煙るホロウの荒野を、俺はただ一人、あてもなく歩き続けた。
――グルル、と。 前方の瓦礫の影から、不快な威嚇音が這い出てくる。
エーテリアスだ。それも、中型の個体が三匹。かつての俺なら、素手で一匹殺すだけで命を削るしかなかった、ホロウの脅威。
怪物がこちらを捉える。
奴らは俺を同類とは見なさなかった。いや、俺の肉体が放つエネルギーが上質すぎて、格好の餌に見えているのかもしれない。エーテリアスに共食いの習性はあるのだろうか? よくわからない。
明確な敵意を剥き出しにして、同時に飛びかかってきた。迫る怪物の爪が、スローモーションのように見えた。 動体視力が、反射速度が、人間の領域を遥かに超越している。
半歩、後ろへ下がる。紙一枚の隙間を隔てて空ぶった鉤爪が、虚しく宙を掻いた。
「オラァ!」
がら空きの顔面目掛けて、黒い拳をぶち込んだ。
手応えすら弱かった。パキャン、と卵が割れるような軽い音を立てて、中型エーテリアスの頭部が粉々に吹き飛ぶ。一撃。即死だ。
「ガァッ!?」
仲間を一瞬で失い、残る二匹が怯んだ。だが、もう遅い。
背後から迫る二匹目の爪を、俺は避けることすらしなかった。ガァン! と、硬質な音がホロウに響き渡る。
怪物の鋭利な一撃は、俺の皮膚に一本の傷すらつけることができず、火花を散らして弾かれた。蛹化前の肉体にあった『脆さ』という弱点は、すでに補強されているようだ。
「……このくらいの攻撃なら、もう痛くも痒くもないらしいな」
呆然とする怪物のコアを、片手で掴み取る。そのまま握力だけで、卵のように容易く握りつぶした。
残るは一匹。
完全に不利を悟った最後の怪物が、尻尾を巻いて逃げようと背を向ける。
「逃がすかよ」
足元に転がっていた瓦礫の破片を、ただの石ころのように拾い上げ、スナップを利かせて投げつける。 放たれた瓦礫は砲弾のように空気を裂いて飛翔し、怪物の体を粉微塵にした。
静寂が戻る。
足元には、黒い霧となって消え去っていくエーテリアスの残骸。
俺は自分の両手を見つめ、静かに拳を握りしめた。この力があれば、少なくとも生き残れるかもしれない。だが、その先は?
エーテリアスに変生してなお自我を保つ個体など、自分の知る限りでは前例がない。人類の未来のために解剖室への直行便が手配されるだろう。
それに、この能力。まだまだ検証が必要だが、理論上は無限に強くなりうるかもしれない『蛹化』と『新生』。時間をかければかけるほど強くなるエーテリアスなど、防衛軍から矛先を向けられるには十分すぎる脅威だ。
ヤンキー座りで頭を抱える。掌には毛髪ではなく甲殻の感触が当たった。
「……どーしましょ。ホントに」