1話
凍死者が雪だるまの横に積み上げられているヨゼグラード市街地とは対照的に、ここの独房は暖かさに満ち足りています。
そんなぬくぬくとした部屋で自分は日課である身体トレーニングを終え、タオルで体の汗を拭いながらベッドに寝転んでくつろいでいました。
そのまま押し寄せて来る睡魔に身を委ねて意識を手放そうとした際に、ある少女の存在が脳裏をよぎりました。
───シルフ・ノーヴァ。
以前までの自分とってシルフとは、彼女の策略によって自分の故郷が焼かれ。
誰よりも大切であった戦友のロドリー君や、兄貴分のアレンさんが犠牲になる原因を作った憎き仇でした。
しかし運命とは数奇なもので革命下のサバトで、副官としてそんな彼女の指揮下で戦場を駆け巡り。
あまつさえ共にチェス盤を囲んで、互いに心の内を通わせることにもなりました。
………無論、シルフはロドリー君を殺した張本人であって、今尚そのことを認識する度に臓腑が煮えくりそうな憎悪が沸き上がってくるのも事実です。
ですがそれと同じくらい、戦いの中で兵士や市民が犠牲になるたびに心を摩耗させていた彼女にどこか共感を抱いてしまったのも事実です。
「シルフは今頃何をしているのでしょうか」
あの日からずっと、監獄生活でシルフは一度も顔を見せに来てません。
彼女のことですから市民を守るべく様々な保護政策に東奔西走していることでしょう。
ですが、既にシルフはヨゼグラード攻略戦の最中で何度も精神的に深く傷ついてます。
心優しい彼女のことです。守るべき市民からの怨嗟にも心を摩耗させていることでしょう。
「戦争が終わったら、チェスでも指しながらヴォック酒の一本でも付き合いましょうか」
そんなことを考えつつ、眠気の濁流にそのまま意識を手放しました。
眠りの底を漂っていた意識が、不意に水面へ押し上げられました。
──カチャ。
「……む?」
まだ頭は眠ったままで、布団の温もりに引き戻されそうになりました。
ですが、鍵が解錠される音を聞いた瞬間、眠気は一気に吹き飛びました。
食事の配給には少しばかり早いと首を傾げつつも、扉へ向ったところ。
「……鍵が、開いてますね」
明け方。何故か、自分を閉じ込めていた独房の鍵が開け放たれていました。
扉を開けると辺りには人っ子一人も見当たらず、もぬけの殻でした。
───何かがおかしいと直感が告げています。
自身の直感に急き立てられるようにして廊下を渡り歩いていると、ある一室から怒鳴り声が聞こえてきました。
気になって覗き込んでみると、そこには。
「………今下がれば、これまで死んだ部下は何のために死んだ!」
「だから下がる」
顔を赤くし、シルフを睨みつけるゴルスキィさんと、顔色が悪く、疲れた目をしているシルフが机を挟んで対峙していました。
「…え?」
ゴルスキィさんはシルフを睨みつけているのに対し、シルフは虚ろな瞳で地図を見ているばかりでした。
「吾には理解できん」
「理解する必要はない」
ゴルスキィさんは怒り狂って机へ拳を叩きつけましたが。
「吾にはある!」
「吾は部下を前へ送る責任がある!!」
「……ああ、貴様はその責任を果たした」
「これからは私が果たす」
そうシルフは威厳のある声で取り繕ったまま一枚の書類を取り出しました。
その通信書の一部をシルフは無言で指で指し示しました。
『────外交官、グレザナード追ワズ、東方司令部ニ逃ガスベシ』
「……これは」
それを見たゴルスキィさんは表情が一変して続きを食いるように見ようとしましたが。
「続きを読むな」
「だが──」
「読めば、貴様は命令を下せなくなる」
そう、間髪入れずにシルフは据わった目付きで断じました。
「……あ」
自分はその通信文の署名欄に書かれている名前に目を奪われました。
『──ベルン・ヴァロウ』
南部戦線を非人道的な手腕で突破し、北部決戦においてもその手腕を遺憾無く発揮した『オースティンの悪魔』こと快楽殺人鬼。
この革命にあの男が、関与していたとしたら?
「ゴルスキィ。貴様は優秀な軍人だ」
「だから前だけ見ていろ」
自分達が地獄のような冬季攻勢に出た事も。
今こうして、市街地戦に持ち込まれて多くのサバト国民が亡くなり続けているのも。
………まさか。
「頼むゴルスキィ」
「サバトを残してくれ」
「……了解した」
オースティンの参謀本部にいるであろうベルンの醜悪で無機質な笑みを想像した途端、自分の心臓が大きく跳ねました。
呼吸が乱れ、肺が勝手に空気を求めてしまい、必死に押し殺したはずの息が、喉の奥から小さく漏れてしまい。
「……何者だ?」
「確認しろゴルスキィ。」
シルフの言葉が終わるよりも早く、ゴルスキィさんの拳銃の安全装置が外れました。
「自分です。トウリです」
一度深く深呼吸をした後に、敵意がないことを示すために両手を上げたまま、姿を現しました。
「……トウリだと?」
「なぜ貴様がここにいる。」
シルフは二週間前に自分へ向けていた視線とは打って変わって。
「いえ、鍵が施錠されていない事を不審に思って報告しようと扉を開けたら怒鳴り声が聞こえてきたもので……」
「盗み聞きしようとしていた訳ではありません。申し訳ございません。」
「……そうか」
どこか『疑念』を感じさせるものでした。
誠心誠意、深くお辞儀をして謝罪をしたらシルフは合点がいった顔をした瞬間、目元を押さえて難しそうな表情を浮かべました。
やはり勝手に扉を開けて外に出たのは不味かったでしょうか。
「……はぁ、ゴルスキィ。席を外してくれ」
「トウリと二人で話がしたい」
「む、承知した」
ゴルスキィさんは拳銃の安全装置を取り付けた後に部屋から出ていきました。
室内に沈黙が落ちました。
改めてシルフの状態を見てみると酷い有様です。
腰まで届く金色に輝いていた髪もくしゃくしゃで、雪のように白かった目元には隈や泣き腫らした跡で染まっています。
「……トウリ。聞きたいことがある」
開口一番シルフは何度も確かめることを躊躇うような吐息を漏らしつつ、自分に問いかけました。
「──お前は、ベルン・ヴァロウの手先じゃないよな?」
「お前は、私が見込んだから、部下にスカウトしたからここにいるんだよな。そうだろう?」
「シルフ…?」
シルフは畳み掛けるようにして言葉を紡ぎながら、どこか懇願するかのような表情で、自分の肩を掴んで揺すり続けました。
……自分があの、ベルン・ヴァロウの手先?
「お、落ち着いてくださいシルフ。なぜそのような考えに…?」
「あの悪魔の思惑通りに戦況が進んで行ったからだ!!」
「……私は悪魔の誘導にこの上なく乗せられていた、とんだ大馬鹿者だ」
「だが、私一人ではここまで来れなかった」
シルフは深く息を吐いて、自分の瞳を覗き込みました。
「お前なんだよ。トウリ」
「そんな私とここまで噛み合ったのはお前しかいないんだよ」
そこで初めてシルフの瞳が揺れていることに気づきました。
「政府軍が負けそうになった時に、強引に戦線を動かしたのは誰だ?」
「……」
「市街地戦で戦線が膠着した時に、より戦争が長引くような助言をしたのは誰だ?」
自分を見つめる瞳には疑念が渦巻いていましたが。
「……頼む。答えてくれ」
自分の肩をきつく掴む手にはどこか、縋るような祈りが込められていました。
「自分は…」
答えを待つ瞳は、一瞬たりとも逸れることはなかったので。
「────自分はベルンの手先ではありません」
そう、はっきりと断じました。
「仮に手先だったとして、本国からの支援もなしでどうやって生き残るのでしょうか?」
現在、オースティンとサバトの国境であるタール川付近は封鎖されています。
「それに加えて、敵対国民から信頼を得て、貴方の懐に入り込み、無茶な強行軍を生き残り、政府軍が負けそうな時は最前線で革命軍が敷いた防衛網をこじ開けなければなりません」
いくら何でも机上の空論と言う他ありません。
「第一、自分を無理矢理にでも副官にしたのは貴方でしょう?」
「……ああ」
そう言われてシルフの瞳に徐々にいつもの冷静さが宿ってきました。
「それは、そうだな。だが、ベルン・ヴァロウならもしかしたらと」
「ベルン・ヴァロウがいかなる天才だろうと、高度な通信魔法や転移魔法でも持っていない限り無理でしょうね」
自分はそう言って、肩に置かれているシルフの両手を優しく握りしめて見詰めました。
「信じてくれましたか?」
彼女は気まずそうに視線を逸らし、頬をわずかに染めながら、申し訳なさと安堵が入り混じった笑みを浮かべて。
「……ああ、疑ってすまなかった」
年相応の少女のように呟いたのでした。
その後、自分はベルンの策略の全貌をシルフに聞かされました。
わざと戦況を泥沼化させることで、一人でも多くのサバト人が殺し合うように仕向けていたこと。
最終的にサバトを再起不能なまで弱らせた上で、オースティンの植民地とし、その国民を人手不足の我が国へ奴隷として連れ去ること。
自分の想像以上に、サバトはどうしようもなく詰んでいました。
そんな中、目の前の少女が下した決断は。
「サバトを残すために国外に逃げる。そこで亡命政府を樹立する」
あまりに合理的なもので。
「そのために、フラメール・エイリス連合軍に合流を打診するんだ」
同時に、これ以上なく修羅の道でした。
そして、その選択がどのような意味を持つのかと言えば。
「自分に戦友を撃てと命じるのですか」
明確にシルフが、自分がオースティンの敵になるということです。
冗談ではありません。ヴェルディさんやアリア大尉を、この手で?
「違う。オースティンと戦いに行くのに、お前を連れて行けるがないだろう」
「では、自分をどうするのですか?」
「一度、東方司令部に戻って、今までの働いた分の給料を支払う」
シルフは苦いものを噛み締めるような表情で、何度も小さく息を吐き。
「……契約終了だ」
そう、小さく告げました。
その日の正午。
ヨゼグラードから砲声が消えた。
労働者議会が率いる革命軍は誰も前へ出ようとはせず。
誰もが罠だと考えた。
三十分後。
偵察班がサバト政府軍陣地へ入ったところ。
「どういうことだ」
冷たいコーヒーだけが机に残っていた。
通信機は壊され、地図は燃やされていて。
司令部は、つい数分前まで人がいた気配だけを残して空になっていた。
輸送車の荷台。
ヨゼグラードから撤退した自分は、シルフと向かい合って座っていました。
車輪が瓦礫を踏むたび、荷台が大きく揺れます。
普段ならシルフは地図を広げている頃ですが、今日はそれもありませんでした。
膝の上に置いた地図は閉じたまま。ただ、どこか上の空でした。
次の策でも考えているのでしょうか。
そんなことを考えているうちに、しばらく沈黙が続きました。
やがて、シルフがぽつりと言います。
「……一つ、訂正する」
「……?」
顔を上げると、シルフはこちらを見てました。
「私は、お前を疑った」
自分はすぐに首を振りました。
「あの状況では当然の判断です」
ベルンのあの悪意を直接受けたのです。
自分だって、冷静でいられる自信はありません。
ですが、シルフは視線を落としたままでした。
「あれは戦略としては正しかった」
「だが、参謀としての正しい判断と、私個人としての感情は一致していなかった」
「……どういう意味でしょうか?」
「……私にも、よく分からん」
珍しい返事でした。
シルフがこういう曖昧なことを言うのは、あまり記憶にありません。
疲れているのでしょう。
自分は少し考えてから、口を開きました。
「でしたら、考えなくてもよろしいのではありませんか?」
シルフがこちらを見て、ほんの少し眉を寄せました。
「自分も戦場では、説明できない勘に何度も助けられてきました」
「……勘?」
「はい。あの第六感のようなものです」
あれがなければ、とっくに野垂れ死んでいたでしょう。
「ですから、貴方にもそういうものが一つくらいあっても、不思議ではありません」
「お前らしい理屈だな」
シルフの口元が、ほんの少しだけ緩みました。
「理屈でしょうか?」
「経験則です」
「なるほどな」
それだけ言って、自分も黙りました。
しばらくして、輸送車が大きく揺れました。
身体が傾きます。
いつもなら何事もなく体勢を立て直すところですが、今日は少し疲れていたようです。
「シルフ?」
肩に手が添えられていました。
シルフが支えてくれたようです。
「……失礼した」
すぐに手が離れます。
「ありがとうございます、シルフ」
「……」
返事はありませんでした。
シルフはそのまま荷台に背を預けています。
自分も向かいの座席に戻りました。
それきり、会話はありませんでした。
まあ、疲れていたのでしょう。助かりましたね。
それだけ考えて、自分は目を閉じました。
車輪が瓦礫を踏む音だけが、規則正しく響いています。
先ほどまで耳障りだったその音も、いつしか静かなものに変わっていました。