10話
オースティンの首都ウィン。参謀本部の会議室には、ピュエリ鉱山周辺の地図が広げられていた。
赤い駒が山の南側を囲み、青い駒が鉱山の出入口と尾根筋を押さえている。
地図の端には、鉄鉱石の採掘量と輸送経路が記された資料が積まれていた。
「ピュエリ鉱山はフラメールの鉄資源供給を支える要地です。ここを制圧できれば敵の継戦能力を大きく削げる見込みがあります」
「しかし、ヴェルディ少佐。正面から攻めれば、こちらにも相応の損害が出るでしょう。その点についてはどうするおつもりで?」
ヴェルディの主張に疑問を呈したのはアンリ派筆頭の救国の英雄──ベルン・ヴァロウだった。
この作戦はレンヴェル派主導のものとはいえ、彼の持つ影響力は軽く流せるものではない。
「確かに、正面から攻めれば、こちらの損害も相当なものになります。ですが、敵を坑道と塹壕に集めてしまえば、話は変わります」
ヴェルディはそう前置きしてから、地図の一点を指で叩いた。
「敵が鉱山に兵力を集中させたところで、毒ガスを使用します。坑道と低地に籠もった敵兵は、これで大部分が無力化できるでしょう」
「具体的にはどのように敵兵を集めるのですか?」
「敢えて攻撃計画を漏洩させて敵を誘き寄せるのですよ」
会議室の何人かの参謀将校が顔を見合わせる中、ベルンは資料を一枚めくった。
採掘量、輸送量、敵の予想兵力、ガスの有効範囲、必要な弾薬数。
どれも重要な数字だった。だが、彼が最初に気になったのは、ヴェルディの説明に一度も登場しなかった数字である。
「なるほど。敵がこちらの望む場所に集まり、こちらの望むように動いてくれるなら、実に結構な作戦ですね」
「……何か問題でも?」
「敵が、こちらの期待どおりに動かなかった場合の見積もりは?」
だが、ヴェルディはあくどい表情のまま忍び笑いをした。
「そのために、敵の計画を漏らすのですよ。連中が鉱山を捨てられないことは分かっています」
「ええ。鉱山を捨てられないことと、こちらの望む場所に兵を集めることは、少し違いますが」
ベルンはいつも通りの穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「まあ、敵にも親切な案内人が必要ということでしょうか。こちらの計画を読んで、わざわざ正解を選んでくれるような」
会議室の誰かが小さく笑ったが、ヴェルディは笑わなかった。
ベルンは気にした様子もなく、資料を元の位置に戻した。
「俺は反対ですね。民間人にまで被害が及ぶ可能性のある兵器を、安易に採用すべきではありません」
「敵は我々より多い。こちらが同じ方法で戦っていては、いずれ数で押し潰されます」
ベルンの今の発言は、聞く人によっては椅子から転げ落ちるかもしれない。
彼は人道上の問題として毒ガス採用に対して難色を示したが、これはあくまでも建前だった。
「その点は否定しませんよ。ですが、敵が対策を講じた後も、同じだけ殺せるのですか?」
彼は内心では毒ガスを『一発ネタの欠陥兵器』と評価していた。
「初撃で敵の戦力を削げれば十分でしょう」
「ええ。初撃で終わる戦争なら、それで十分でしょうね」
ガスマスクを配備されたり、風銃でガスを押し返される。風向きを読まれたり、敵が塹壕から高所へ移る。
それだけで、毒ガスの殺傷効率は大きく変わる。
さらに、毒ガスを使う側も風向きや二次被害を無視できない。
敵を効率よく殺せることと、戦場を自由に支配できることは別問題だ。
「仮にフラメールの連中がサバト経由で風銃を入手して、風銃で毒ガスを逆噴射してきた際にはどうするおつもりで?」
「敵と同じようにガスを撃ち返せば良いでしょう。こちらにはガスマスクもあるので優位は揺らぎません」
ベルンはそれ以上、声を荒らげることはできなかった。
これ以上、他派閥の作戦内容にケチを付けるのは流石の彼でも厳しかったからだ。
それに、ヴェルディを愚かだと思っているわけではない。
ヴェルディの計算は、今回の作戦だけを見れば成立している。
だからこそ、ベルンはその計算の外側を考え始めていた。
「ベルン少佐。貴様の懸念も分かるが、安価で強力な新兵器で敵の重要拠点を短期間で制圧できる可能性があるなら十分だろう」
この平行線の議論に一石を投じたのはレンヴェル中佐の発言だった。
「まあ、効率的に殺傷できるなら試す価値はあるだろう」
「仮に失敗したとしても安上がりだからな」
レンヴェル中佐の肩を持つ参謀将校が多くなりつつあった。
「それにアンリの懐刀があまり口を出すんじゃない。これは俺ら主導の作戦だ」
そもそもベルンはアンリ派に属しており、レンヴェル派のヴェルディが主導する作戦を、個人の判断だけで中止させられる立場ではない。
ベルンは別の攻略案を提示することも考えたが、黙り込んだ。
ここで毒ガス作戦を全面的に覆せば、軍閥間の対立が作戦そのものを停滞させかねないからだ。
(……仮にこの毒ガスを用いて失敗した場合、どんなリスクを被る?)
ベルンは反対記録を記録帳に記したうえで、作戦が実行される前提で検討を続けていた。
(いや、そもそも毒ガスが失敗する場合だけでなく、どのような攻撃でも司令部を一度に破壊されたらこの作戦全体が崩壊するな)
この会議室ではほとんどの将校が毒ガス使用に無条件で賛成していた。
(……北部決戦では
ただ一人、ベルンが一人黙り込んで思案していることにヴェルディは気がついた。
「……ベルン少佐。何か気になることでもありましたか?」
「昼食です」
「昼食?」
「ええ。会議が長引きそうなので、今のうちに注文を決めておこうかと」
ベルンはこやかに答えたが、その手は所在なさげに組まれていた。
(……毒ガスの使用計画には、いくつもの条件がある。敵が情報を信じること。敵が鉱山に兵力を集めること。ガスが十分な効果を発揮すること。敵が有効な対策を持っていないこと。そして、敵がこちらの予想を超える行動を取らないこと)
ベルン指先で机を軽く叩いた。
(一つ目は、工作次第でどうにでもなる。二つ目も、鉱山の重要性を考えれば、十分に期待できる。三つ目は、実戦で試す価値がある。四つ目は、敵が学習するまでの話だ)
(……さて。最後のひとつだけは、どうにもならない。敵が愚かであることを前提にした作戦は、敵が愚かである間にしか通用しない。)
ベルンはいつも通りの柔和な笑みを浮かべていたが、その視線はどこか冷ややかだった。
「ベルン少佐は、毒ガスがお嫌いですかな?」
会議の休憩中、ヴェルディが尋ねた。
「嫌いというほどでも。兵器に好き嫌いを持ち込む趣味はありませんので」
「では、なぜ反対するのです?」
ベルンは相変わらず蒲公英茶の入ったマグカップを口元に運んでいた。
「使いどころを選ぶべきだと申し上げているのです。初見の敵にはよく効くでしょう。ですが、一度見せれば、次からは話が変わる」
「防毒装備を用意する。風向きを読む。高所に陣取る。そういうことですか」
「ご理解が早くて助かります」
ベルン嬉しそうに微笑み、ヴェルディもまた、笑みを浮かべていた。
「それでも、初戦で敵の兵力を削げるなら十分でしょう。こちらは敵ほど兵を持っていないのですから」
「ええ。そこは否定しません」
ベルンはその部分においては否定する気はなかったらしい。
「通常戦闘で兵士を失い続けるよりもガスで敵を無力化した方が安上がり。今すぐ勝つという話なら、貴方の案は理に適っています」
「では──」
「ただ、今すぐ勝った後の話もしておきたいのですよ」
ベルンが地図の端を指でなぞると、少しばかりの砂粒が拭き取れた。
「次の戦争でも、その次の戦争でも、同じ手が通用するとは限らない。敵が対策を覚えたとき、我々には何が残るのか。そこまで考えておきたいのです」
指の腹に付いた砂粒に息を吹きかけると、砂粒は虚空へと散っていった。
「その頃には、戦争が終わっているでしょう」
「そうだといいですねえ」
ベルンは心底そう願っているような顔で答えた。
「俺も、いつまでも軍服を着ていたいわけではありませんので」
「ご冗談を」
「さあ。どうでしょう」
ヴェルディは返事をしなかった、というより少し意外だったのだろう。
二人の間に、険悪さはなかった。少なくとも、表面上は。
それから会議は再開されると、それからしばらくは毒ガスの具体的な運用についてなどだった。
こうなってしまってはベルンが口出しできることは限られていたためあることを思案していた。
(……ピュエリ鉱山の地形、通信の有効範囲、ガスによる視界不良、前線と後方の距離を整理するか)
レンヴェル派の参謀将校たちの話し声を聞きつつも、思考に集中する。
(まず、地形に関しては攻撃側が圧倒的に不利だな。あれは天然の要塞になっていて、どう攻めようが損害は大きい。仮に毒ガスを用いても、風上にいる敵を撃破するには至らない)
ベルンは蒲公英茶の香りを嗜んで一口含む。
(そして通信の有効範囲としては精々二キロが限度だな。毒ガスという新兵器を用いたドクトリンにする以上、あまり距離を取ればデータも取れないし、万が一の際の収集がつけられない)
足を組み直して、頬杖をつく。
(また、鉱山のように複雑な地形では、司令部が前線の状況を把握するまでに時間がかかる可能性もある)
ふと、ベルンはとある二つの報告書の存在が脳裏に過ぎった。
(……レミからの情報によれば、サバト旧政府軍には誰よりも楽しそうに敵を撃つ『戦場の銃姫』と呼ばれる少女兵がいたな。彼女と
カップを傾けたが、蒲公英茶はほとんど残ってなかった。
(そしてシュテイン村の報告書では、風銃を用いて毒ガスを蹴散らした少女兵もいたな。その兵士もサバト旧政府軍に属していたはずだ)
その二つの報告書にはどちらも共通する点がいくつもあった。
サバト旧政府軍に属していて、銀髪の髪を持つ小柄で華奢な少女兵。
その条件に該当する兵士をベルンは一人しか知らなかった。
(……トウリ・ノエルか?いや、今はトウリ・ロウだったか。アイツなら辻褄が合うか。……だが、ありえないな。彼女は北部決戦で囮部隊に志願して死んだとヴェルディのヤツが言っていたな)
死者が指揮を執るなどふざけた話だった。
報告書の少女兵が本当にトウリだったのか、今も生きているのか、敵側にいるのか、何ひとつ確信していない。
そもそも報告書の少女兵とトウリは別人物かもしれない。
だが、仮に『戦場の銃姫』が敵軍にいたならば、正面から大軍を動かすよりも、指揮系統の隙を突く方が彼女らしい。
「まあ、憶測の域を出ないけどな」
ただし、ベルンはトウリの生存を前提にした作戦を立てない。
そもそも憶測の域を出ない理論を作戦に入れ込む方が馬鹿げた話だった。
「それから、もう一つ」
突如、ベルンは会議の終わり際に、別の資料を机上に置いた。
「現地司令部の配置について、少し変更を提案したいのですが」
ヴェルディが資料に目を落とした。
「司令部を増やすのですか?」
「正確には、指揮機能を分散させます。現在の司令部はそのまま置き、別に移動可能な指揮所を設ける。通信設備と作戦資料の一部をそちらにも持たせるのです」
「敵に司令部を襲撃された場合の備えですか」
「それもありますね」
ベルンは微笑みを返しながら頷いた。
「戦場では、予想外のことが起きます。通信が途絶える。指揮官が負傷する。前線が予定より早く崩れる。ひとつの場所にすべてを集めておくと、ひとつの失敗で全部が止まってしまう」
「その分、連絡に手間がかかりますな」
「ええ。ですから、普段から二つの指揮所を完全に並立させる必要はありません。片方が機能しなくなったとき、もう片方が引き継げるようにしておけばいい」
ヴェルディは苦虫を噛み潰したような表情でしばらく黙っていた。
「……あなたは、今回の作戦が失敗するとお考えですか?」
「まさか」
だが、ベルンはヴェルディの反応を気にもとめずに飄々とした態度で笑った。
「成功すると思っていますよ。成功すると思っているからこそ、失敗したときのことも考えているのです」
それは、あまりにも当たり前のことを述べているように聞こえた。
だからこそ、反論しづらかった。
ベルンは資料をヴェルディの前に押し出した。
「司令部をもう一つ置くだけです。勝利の邪魔をするつもりはありません。万が一のときに、勝利を台無しにしないための保険ですよ」
ヴェルディはしばらく下を向いて黙っていると、顔を上げながら立ち上がった。
その彼の様子にただらなぬ雰囲気を感じたのか、何人かの将校が姿勢を正した。
「毒ガスは単なる新兵器ではありません。兵力差を埋め、部下を無益な正面攻撃から救うための手段でもあります」
ヴェルディはどこか遠くの景色に思いを馳せているようだった。
「もちろん、毒ガスによる死者が出ることは理解しています。しかし、何もしなければ、より多くの兵士を通常の戦闘で失う可能性があります」
ヴェルディの主張はこの会議で何度も聞いた話だったが、誰もそれを茶化せるような雰囲気ではなかった。
「ベルン少佐の懸念も理解しています。だからこそ、私が全ての責任を負います。勝つために必要な判断ならば、後からどれだけ非難されようと構いません」
「責任を負う、ですか」
だが、ベルンはどこまでも冷めた視線でヴェルディを見ていた。
立ち上がっているのはヴェルディにも関わらず、まるで見下ろされているかのような錯覚を覚えた。
「……責任を負うことと、失敗を防ぐことは別ですけどね」
会議が終わると、ベルンは提出資料をまとめた。
毒ガスの有効性、敵の予想兵力、鉱山周辺の地形、いずれも検討する価値のある項目だった。
その中に、ひとつだけ記載されていない事項があった。
先日、シュテイン村付近で見かけた少女兵のことだ。
似ていただけかもしれない。人違いであっても、何の不思議もない。
ベルンはその報告書を、ほかの資料と一緒に引き出しへしまった。
「さて。今回は、どこまで予定どおりに進むかな」
誰に聞かせるでもなく呟いて、彼は昼食の注文を思い出した。
お気に入りや高評価、感想など本当にありがとうございます。
反応の一つ一つが嬉しくてこの小説を執筆し始めて良かったと思えます。
今後は不定期で12時投稿を目安にしていきますので、何卒よろしくお願いいたします。