憎悪は、連鎖するものです。
誰かに傷つけられた人間は、その痛みを忘れません。
忘れられないからこそ、傷つけた相手を憎みます。
そして、いつかその相手に報いることを望むようになります。
奪われたものを取り戻すために。
受けた屈辱を晴らすために。
自分が味わった苦しみを、相手にも味わせるために。
それは、決して特別なことではありません。
家庭であれ、学校であれ、国家であれ。
虐げられた人間が、必ずしも他者の痛みに理解を示すとは限らないのです。
むしろ、自分が受けた仕打ちを当然のものとして受け入れ、やがて、それを他者にも強いるようになることさえあります。
「次の患者をこっちに! いや、そっちじゃない、奥の寝台はもう埋まっている!」
この日、フラメールの野戦病院は朝からずっと騒がしいものでした。
運び込まれてくるのは、目の痛みや咳、呼吸の苦しさを訴える兵士たちです。
自分の足で歩いてくる者もいれば、仲間に肩を貸されてようやく入口をくぐる者もいます。
つまり、この病院に運び込まれた兵士たちは毒ガスの被害者です。
一人一人を見れば、決して全員が重篤というわけではありません。
けれど、彼らは途切れることなく運ばれてきます。
空いた寝台はすぐに埋まり、医師の指示は怒号に変わり、衛生兵たちは休む間もなく次の患者を迎え入れます。
自分は、これほど多くの兵士が、同じ原因で一度に運び込まれる光景を知りませんでした。
ですが、運ばれてくる患者は皆生きていました。
だからこそ、自分は考えてしまったのです。
ここに運ばれてこなかった者たちは、どうなったのだろう、と。
人間は自分が受けた苦痛を、他人に与えることがあります。
自分が殴られて育ったから、子供を殴る。
自分が踏みにじられてきたから、弱い者を踏みにじる。
自分が奪われてきたから、今度は奪う側に回る。
そうすることで、自分がかつて弱者だったという事実から逃れようとするのかもしれません。
あるいは、自分が受けた苦痛に意味を与えようとしているのかもしれません。
あれほど苦しんだのだから。
あれほど耐えてきたのだから。
自分が誰かを傷つけることくらい、許されてもいいはずだと。
「目が痛いんだ! 頼む、どうにかしてくれ!」
誰かが目の痛みに耐え、誰かが喉を押さえ、誰かが助けを求めていました。
ここには、かつての敵兵が運び込まれます。
ですが、少なくとも傷を負った人間を前にすれば、その区別に意味を見いだせなくなることがあります。
そして、どちらの兵士も、戦場へ戻れば再び誰かを殺すかもしれません。
憎悪は、人間を変えるのでしょうか。
それとも、憎悪を抱くことで、人間は自分が変わってしまったことを認めずに済むのでしょうか。
オースティンは、かつて追い詰められていました。
敵に包囲され、国土を脅かされ、国民の命を危険にさらされていました。
少なくとも、自分はそう信じていました。
だからこそ、自分は衛生兵をしていました。
戦場で傷つく戦友を救うために。
サバトが降伏を拒絶したと聞いたとき、自分はその判断を憎みました。
これ以上、何を奪えば気が済むのかと。
これ以上、誰を殺せば戦争を終えられるのかと。
──けれど今、
勝利を得るために、新たな手段を選びました。
その手段がどれほど有効なのか、前世の歴史を知る自分には理解できます。
どれほど多くの敵兵を無力化できるのか。
どれほど少ない損害で戦況を覆せるのか。
どれほど戦争を有利に進められるのか。
理解できてしまうのです。
だからこそ、わからなくなりました。
かつて
かつて奪われたことは、今、他者から奪う権利になるのでしょうか。
その記憶を、いつまで戦争を続けるための理由にするつもりなのでしょうか。
「誰か! 誰か来てくれ!」
また、誰かの切迫した叫びが聞こえて、自分は顔を上げました。
オースティンの兵士たちは、皆、戦争の被害者なのかもしれません。
けれど、彼らが被害者であることと、彼らが誰かを傷つけてきたことは、両立するのです。
被害者であることは、加害者にならないという保証にはなりません。
そして、加害者になったこともまた、その人間がかつて受けた苦痛をなかったことにはしません。
人間は、そんなに単純ではないのでしょう。
善良な被害者と、邪悪な加害者。
正義を求める者と、悪をなす者。
そのように分けられれば、どれほど楽だったでしょう。
けれど、
その二つは、矛盾しないのです。
自分は、
ただ、かつて傷つけられたという事実だけで、これから誰かを傷つけることまで正当化できるはずがないのです。
そう考えたとき、自分は初めて、
敵を倒すことが目的だったはずの戦争は、いつから、敵を倒し続けることそのものを目的にしてしまったのでしょうか。
勝利すれば、終わるのでしょうか。
敵がいなくなれば、憎悪も消えるのでしょうか。
答えは、まだわかりません。
ただ一つ、わかっていることがあります。
このままでは、戦争が終わったとしても、自分たちは、何も終わらせられないのかもしれません。
この日のフラメール軍は大損害を受けました。
新兵器である毒ガスによって、多くの兵士が犠牲になったからです。
また、毒ガスの治療法が分からないのも災いしました。
そのせいで軽傷者であっても、野戦病院が逼迫してしまって治療を受けられずに亡くなることも少なくありませんでした。
深夜。どうしても寝ることができなかった自分は、木の下で夜風に当たってました。
初夏の夜は昼間の体にまとわりつく暑さと異なり、体の心を冷ましてくれる気がしました。
「……こんな所にいたら風邪引くぞ」
夜風が木々の葉を揺らす音が聞こえてくる中、自分はいつの間にか隣に居たシルフと並んで座っていました。
どちらからともなく話し始めることもなく、ただ、しばらく同じ方向を眺めていました。
昼間の喧騒が嘘のようです。
それでも、あの病院に運び込まれた兵士たちの声は、まだ耳の奥に残っていました。
「……シルフは、憎しみをどうすれば終わらせられると思いますか?」
どこからともなく自分の口が勝手に動き始めました。
「自分が傷つけられたからといって、他人を傷つけていい理由にはなりませんよね」
溢れる濁流のように、自分の口から止まらずに溢れてきてしまったのです。
そんな自分と対照的に、シルフはすぐには答えませんでした。
「さあな。私に聞かれても困る」
「随分とあっさりしていますね」
少しだけ夜風が強くなって何枚かの落ち葉が足元に舞って、落ちました。
「自分は、オースティンを守りたかったんです」
「知っている」
「あの国が受けた仕打ちも、そこで暮らす人々の苦しみも、決して嘘ではなかったと思います」
「そうだろうな」
一度溢れ出した感情は、言葉は、止まることを知りませんでした。
「だから、自分は戦いました。あの国の人々を守るために」
自分は膝の上に置いた手を見つめていました。
「でも、今のオースティンは、別の誰かを苦しめています」
「そうだな」
「かつて自分たちが傷つけられたからといって、今度は自分たちが誰かを傷つけていい理由にはならないはずです」
「そう思うのか。なら、それでいいんじゃないか」
シルフの素っ気ない返事を聞いて、少し恨めしげな表情で見上げました。
「簡単に言いますね」
「私に何を期待していた?」
「もう少し、まともな答えです」
「残念だが、持ち合わせていない」
自分は感情を落ち着けるために小さく息を吐きました。
たったこれだけの事で取り乱すなんてらしくありません。
「自分は、どうすればいいのでしょう」
「それを私に聞くのか?」
「シルフなら、何か答えを持っていると思っていました」
「買い被りだ。私は戦争の終わらせ方など知らない。ただ、目の前の敵を倒す方法を考えているだけだ」
シルフは笑みを繕っていましたが、その拳は強く握られていました。
「それにお前が何を信じるかまで、私が決めることではない」
夜空を見上げるシルフに釣られて自分も見上げてみると、皮肉にも満点の星々が広がっていました。
「オースティンに戻るというなら、それもお前の選択だ。ここに残るというなら、それも同じだ」
「自分が、貴女の敵に戻るとしても?」
「そのときは、敵として相手をする」
あまりにも平然とした返答だったので、思わず彼女の横顔を見ました。
「……容赦がありませんね」
「戦場だからな」
「そういうところですよ」
「何だ、それは」
自分は再び前を向きました。
しばらく、二人の間に沈黙が戻りました。
けれど、先ほどまでの沈黙とは、少し違っていました。
翌朝。シルフは突撃部隊の小隊長格を集めてブリーフィングを行いました。
「先日の新兵器である毒ガスよって、新たなる同胞のフラメール軍は大打撃を受けた。低地の塹壕に籠っていた部隊は全滅したそうだ」
──全滅。その単語が出た途端、小隊長たちの間に緊張が走りました。
塹壕に籠っている敵兵を全滅させるのにどれだけの日数がかかるのか、歴戦の兵士である彼らは身をもって知っていたからです。
「だが案ずるな。我らは既に一度、あの兵器相手に勝利している」
ですが、シルフはゴルスキィさんの前に立つと。
「ゴルスキィ。今回も貴様らの小隊には勝利の立役者になってもらう」
不敵な笑みを浮かべてそう宣言しました。
「作戦を説明する」
シルフは地図の上に手を置きました。
「オースが使用した毒ガスには、地形による制約がある。こちらはそれを逆手に取る」
そう言ってシルフは風銃の配置を示して、小隊長たちを見定めました。
「風銃でガスを押し返す。同時に、舞い上がった土煙を利用して敵の視界を奪う」
シルフの指が、地図上の防衛線をなぞりました。
「混乱した敵の前線を崩し、その隙に突撃部隊を送り込む。目標は後方司令部だ」
そこで、彼女は一度言葉を切りました。
「その突撃部隊を担当するのはゴルスキィ小隊だ。だが、作戦の都合上もう一つの小隊が必要になる」
そう言ってシルフは自分たち一人一人を見渡しました。
「今回の作戦は、突撃部隊の働きに大きく左右される。危険も相応に大きい。志願者を募る」
作戦説明が終わっても、すぐに声を上げる者はいませんでした。
誰もが地図を見つめています。
突撃部隊に求められる役割は明白でした。成功すれば敵の指揮系統を崩せる。
しかし、失敗すれば部隊そのものが帰還できない可能性もある。
そんな中、自分は隣に立つシルフ見てみると、彼女は何も言いませんでした。
作戦の危険性を隠すことも、兵士たちを鼓舞するために都合のいい言葉を並べることもありません。
ただ、地図を見つめ、全員の返答を待っていました。
自分は、ふと考えました。
自分は、いつから
かつては、
そこに暮らす人々を守るためなら、どれほどの苦労も厭わないと思っていました。
けれど、今の自分には、もうその言葉を信じることができません。
では、誰を信じればいいのでしょうか。
答えは、案外簡単でした。
今、自分の隣にいる人です。
「自分が行きます」
静まり返った作戦室に、自分の声が響きました。
シルフが面を食らったような顔をこちらに向けます。
「お前が?……危険な任務だぞ」
「承知しています」
「本当に理解しているのか?」
「ええ。理解してるからこそ、自分が行くのです」
自分は地図から目を離し、隣に立つシルフの顔を見ました。
「自分は、シルフの作戦を信じます」
それは、
国旗でも、標語でも、誰かが掲げた大義でもありません。
ただ、目の前にいる一人の人間が下した判断を信じる。
今の自分にとって、それで十分でした。
「私を信じるのか?私が間違っている可能性もある」
「それは貴女に限った話ではありません」
自分が守るべきものは、もう
ですが、戦う理由までなくなったわけではありません。
隣には、まだ信じられる人がいます。だから、自分は彼女とともに戦うことを選びます。
「自分はシルフの判断に従います」
───今度の敵は、