ヨゼグラードを発ってから一ヶ月。
旧政府軍はルソヴェツ要塞、プーツゥ砦を経由して再び東方司令部へと向かってました。
行きほどの無茶な強行軍ではありませんでしたが、それでも少なくない数の脱落者を出してしまいました。
ですが、自分はシルフと共に暖かな輸送車に揺られている訳です。
ゴルスキィさんや小隊の戦友達に申し訳が立ちません。
「さあ、トウリ。この局面ではどう動く?」
そんな中、現在自分はシルフのチェス講義に参加させられています。シルフが白で、自分が黒です。
やはりシルフはチェスが大変好きなようで、この瞬間だけは時々はにかんだ笑みを浮かべる事さえありました。
そんな彼女の顔を見て、少しばかり自分の心の奥底にある感情が氷解していくのを感じつつも、次なる一手を指し示しました。
「ではこれを」
自分はシルフのポーンによってビショップが追い払われたので、そのまま後退することでナイトをピン──いわゆる固定することを選びました。
ですが、底意地の悪そうな笑みを浮かべながら。
「ならば私はこうしよう」
ピンされたナイトを動かして、クイーンを自分のビショップの射線に入れたのでした。
「え?」
これは明らかな悪手でした。何故ならば、ビショップでクイーンを取れれば駒得となってしまうからです。
僅かに警鐘を鳴らしている直感を無視して、自分は当然のように機械的にビショップでクイーンを取りました。
不利な状況に陥ったはずのシルフは笑みを絶やさずに。
──ビショップで自分のキングをチェックしました。
その後自分はキングを動かしてチェックを外すも。
「チェックメイトだ」
シルフがもう一つのナイトを動かした結果、ナイト二つとビショップの斜線に退路を阻まれてチェックメイトされてしまいました。
「……罠ということですか」
「正解だ」
シルフは駒を運んで、盤面を少し前に戻しました。
「ではトウリ。このクイーンを取ることが罠だとしたらどうすれば良い?」
「むむ」
自分は頭の中でいくつかのルートを探ってみましたが、殆どがチェックメイトとなるルートばかりでした。
……いえ。
「クイーンを取らずに、ナイトでこのビショップを取るのですか?」
「おお!大正解だ」
シルフは自分が言った通りの盤面へとしながら解説を始めました。
「ビショップが取られた私がクイーンを動かしてチェックすると、ナイトとキングにフォークをかけられる」
フォークとは確か、一つの駒で、二つ以上の駒を攻撃することでしたね。
「この後、黒であるお前はポーンを動かしてキングの斜線を切る。そして私はナイトを取るから結果的に私が一ポーン得となるな」
シルフは駒を片付け、命令書を書きながら目を擦りました。
「トウリ。お前はチェス盤上の定石に愚直過ぎる」
「お前が戦場で見せる猛犬のような非常に攻撃的かつ効果的な策を見せてみろ」
そのように言われても自分はやっとチェスの小技を身に付けてきたばかりです。
「だが、思考の回し方は悪くない。後は戦場での鋭さがあればとても歯応えのある対局になるだろう」
やはりチェスでも自分の直感に従った方が良いのでしょうか。
ですがチェス盤上での直感はあまり気付きにくいものですから、それに気が付けるかが今後の課題ですかね。
自分がそんなことを考えている内に、シルフはいつの間にか来ていた通信兵に何やら命令書を差し出していました。
通信兵は命令書を受け取るや否や輸送車を飛び出していきました。
「シルフ。何かありましたか?」
「ん?ああ、大したことはない。東方司令部内の物資を確保せよという命令だ」
現在自分とシルフがいるのは、軍のほぼ最後尾にあたる場所でした。
どうやら先遣隊は既に難民キャンプを経由して東方司令部に向かっているみたいでした。
セドル君は元気でしょうか。サバトの冬は地獄でしたから、疫病でも罹ってないか心配です。
イリゴルさんが主導して作った塹壕で、ある程度の寒さは軽減されていると思います。
ですが、それでもまだ子供であるセドル君には厳しいことは間違いないでしょう。
アニータさんにセドル君のお世話をして頂いているので大丈夫だと信じたいです。
この時の自分はとことん考えが甘かったのでしょう。
ヨゼグラードで政府軍が何をしていたのか、兵士達がどんな心情だったかなんて知っているつもりでした。
ですが、暖かな独房や暖かい輸送車の中にしばらく居た結果、前線の兵士としての気持ちを鈍らせてしまいました。
この時の後悔は今でもずっと引きずっています。
もし、あの時シルフと通信兵の会話を聞いていれば。
もし、シルフに命令の内容を問い詰めていれば。
もし、シルフに前線の兵士の荒んだ心を伝えていれば。
こんなにも悲劇的な『誤解』は起こらなかったかもしれません。
「参謀大尉殿」
通信兵が新しい電文を持ってきました。
『物資確保完了。輸送開始』
シルフは満足そうに頷き、ホッと一安心していたのが目に見てわかるようでした。
「予定より早いですね」
「ああ。これで後続部隊も飢えずに済む」
この時点では誰も疑問を抱きませんでした。
“物資”とは東方司令部の備蓄を意味する。
それは司令部では説明するまでもない共通認識だったからです。
だから、確認する者はいませんでした。
事態が急変したのは夕刻の頃でした。
別経路から到着した衛生部隊に居たエライアさんが、息を切らせて輸送車へ駆け込んで来ました。
「シルフ様ッ!」
「難民キャンプが……」
シルフは顔を上げてただならぬ様子であるエライアさんに問いかけました。
「どうした?」
「我が軍が難民キャンプを襲撃しています!」
瞬間、部屋の空気が凍りました。
自分は数秒間、言葉の意味を理解できませんでした。
「……何を言っている」
「難民キャンプです! 配給物資を奪い、抵抗した住民に発砲したとの報告です!」
その言葉の意味を理解した途端、自分の頭は真っ白になりました。
キャンプ。抵抗。発砲。
「……あ、あ」
自分はフラリと眩暈を起こしそうになりつつも、机上の通信文を見つめると。
『──物資確保完了』
その六文字が、急に別の意味を持って目に映ったのです。
「……誰が」
真っ青な顔のシルフから低く漏れた声には怒気よりも困惑が滲んでいました。
「誰が、その命令を出した。」
彼女達が輸送車でチェスを指していた頃。既に先遣隊は既に難民キャンプに到着していた。
そこで兵士達は通信兵から『東方司令部で物資を確保し、後続部隊の補給を維持せよ』という内容が書かれた命令書を受け取った。
彼らは東方司令部内の倉庫から多くの物資、食糧や弾薬などを持ち出して任務を遂行した。
だが、彼らはヨゼグラードの市街地戦を経て、略奪や残虐行為に対する心理的障壁が著しく低下しており……。
──風に揺れる白い天幕が見えた。
「難民キャンプだ」
先遣隊長が双眼鏡を下ろす。
柵の内側には数百人。奥には配給用と思われる倉庫が並び、その脇には燃料ドラムや医療物資の木箱まで積まれている。
兵士の一人が乾いた唇を舐めた。
「……食料があります」
誰も返事をしない。
腹の虫だけが、不快なほど大きく鳴った。
ヨゼグラードでの市街地戦が脳裏をよぎる。
泥水をすすり、乾パン一枚を三人で割り、ようやく見つけた商店から缶詰を運び出した日々。
あの時は誰も止めなかった。
止められる者もいなかった。
先遣隊長は通信文をもう一度読み返す。
『東方司令部で物資を確保し、後続部隊の補給を維持せよ』
彼は倉庫へ視線を向けた。
「……物資を確保する」
そう呟くと、小さく顎をしゃくる。
「倉庫を押さえろ。」
「軍だ!」
難民の誰かが安堵した声を上げ、子どもたちが笑顔で駆け寄る。
だが、兵士たちは歩みを止めず、一人が安全装置を外した。
乾いた金属音に、笑い声が止まった。
「全員、その場を動くな」
キャンプ内に怒号が飛ぶ。
難民たちは戸惑いながら両手を上げる。
「配給倉庫の鍵を開けろ」
管理責任者が震えながら答えた。
「これは難民用です……」
「命令だ」
「ですが——」
銃床が男の肩を打ち据え、扉が蹴破られる。
木箱が運び出される。
誰かが叫ぶ。
「缶詰だ!」
「水もある!」
歓声にも似た声が上がる。
その瞬間、略奪は「命令の遂行」から「生き残るための行為」へと変質した。
後から到着した部隊は、その光景を見る。
「もう物資確保は始まっている」
そう判断し、何の疑問も抱かず荷運びに加わった。
それから先の記憶は曖昧でした。
記憶が曖昧というより、自ら封じ込めてしまったのかもしれません。
その後シルフは即刻、兵士達に略奪行為の停止を伝令したみたいです。
自分はふらふらとした足取りで難民キャンプへ向かってました。
その間にもシルフは激怒なんて言葉では生ぬるいくらいの勢いで部下を叱責していたみたいです。
ですが、自分にはそんな罵声も水中にいるようにどこか遠くに感じていました。
自分はただ、茫然自失していました。
────黒ずみ始めた血が滴る、裂けた革のコート。
────獣のような咆哮の残響と、地面に伏した肉体。
────数えることすら躊躇うほどの、まだ温もりを失っていない死体。
荒れ果てた難民キャンプを見つめて。
「遺体が、なんで、あるのですか」
眉間に風穴が空いた老人の遺体。
子供を守るように果てていた母親の遺体。
首の骨が折られた幼い子供の遺体。
死体の多くはまだ生温かく、確かに生きていた事が感じられました。
ゆらゆらと自分は、オセロ村に割り当てられた難民キャンプ区域に向かって歩きました。
「……セ、セドル君、は」
その道中で子供の遺体をいくつも見つけました。
自分はそっと、それらから目を離しました。
彼を『それら』の中から見つけてしまわないように。
……。
いえ。自分が、他でもない自分が見つけなければなりません。
他でもないセドル君の家族である自分が。
「例え───死んでしまっていても」
「……いない」
イリゴルさんの案によって作られた塹壕に、自分は吐き気や目眩に襲われながらも入りました。
そこには遺体は一つも無く、家具が荒らされていたり、ゴミが散乱していました。
「あぁ、セドル君。……セドル君ッ!」
自分は半狂乱しながらも塹壕の隅から隅までを探し尽くしました。
壊れた椅子を退かし、ゴミ箱を蹴り飛ばしたりした後に座り込んでしまいました。
「……あはは」
どこを探しても見つかりませんでした。
ならば生きているのでしょう。
オセロ村の住民は既に避難していてセドル君も生きている。
そして今尚、自分の帰りを待っている。
……そんな甘すぎる夢物語を夢想しました。
「あの中に居るのですか」
自分は先程の『それら』の所まで戻って、遺体を一つずつ確認していきました。
「……違う」
次へ進む。
「違う」
また次へ。
「……違う」
名前を呼ぶことはしませんでした。
呼んでしまえば、本当に返事がないことを認めることになる気がしたからです。
だから、ただ一つずつ顔を確認しました。
違う。
違う。
違う。
知らない子供。
知らない子供。
見覚えのない服。
潰れた顔。
血に濡れた手。
それでも、彼はいませんでした。
「……次」
声が掠れてきました。
瓦礫を退かします。
何もありません。
「次……」
もう一度、別の死体へ向かいます。
違う。
また違う。
そして、最後の一体を確認しました。
「…………」
いません。
どこにも、いません。
安堵しました。
──いや。
違う。
安堵してはいけません。
見つからなかっただけです。
生きているとは限りません。
それでも、死んでいるとも限りません。
「……そうですよね」
誰に言ったのか、自分でも分かりませんでした。
「いないですよね」
膝をつきました。
その瞬間、張り詰めていたものが切れてしまい。
「……よかった」
涙が落ちました。
一滴。
また一滴。
「よかった……」
違う。
よくない。
何も分かっていないです。
生きている証拠なんて、どこにもないというのに。
それでも涙は止まりませんでした。
声を押し殺そうとして、何度も口元を手で覆いました。
けれど、嗚咽は止まらないのです。
「……どこにいるのですか」
返事はありませんでした。
軍靴が地面を踏みしめる音だけが、遠くで鳴っていました。
「ねえ……」
もう一度だけ、呼びかけました。
「……どこにいるの」
どれくらい経ったでしょうか。
気がつけば、空はいつの間にか茜色に染まってました。
それでも自分は、同じ場所を見つめたまま動けませんでした。
その時。背後から軍靴の音が近づいてきました。
「……トウリ・ロウ」
その声の主はエライアさんでした。
彼女は自分の全身の様子を確認するや否や。
「日が暮れる。これ以上の個人行動は看過できない」
自分が立ち尽くしていると、エライアさんが自分を抱え込みました。
そして半ば無理やりに、
「……君の家族の件は謝っても謝りきれない」
「どんな罵詈雑言を甘んじて受け入れよう」
肩が震えている自分を拉致し、そこから遠ざけたのでした。
泣き腫らした自分の目から涙など出る訳がなく。
「……あぁ、ぁぁぁ……」
自分からただ漏れ出たのは、低く渇いた呻き声だけでした。
シルフは言ったじゃないですか。『セドル君と安全な場所で幸せに暮らせ』と、言ってくれたじゃないですか。
嘘だと言ってよ。