春。オースティン軍のとある野営地は戦場とは思えないほど穏やかな春風が吹いていた。
そんな中、司令部のテントでベルン・ヴァロウは蒲公英茶を飲みながら書類仕事に勤しんでいた。
「ベルン少佐。予定していた二つの村ですが、避難が完了しました」
「そうか」
部下に話しかけられようとも彼は書類から目を背けず、顔すら上げなかった。
「これで民間人への被害も最小限になります」
「そうだな」
彼は少しだけ笑った後に言葉を続けた。
「実験開始時刻は?」
「十五時です」
「風向き」
「予定通りです」
「それは結構」
蒲公英茶を一口飲んだ後に告げた。
「じゃあ、手筈通り始めろ」
シルフは地図の一点を見つめたまま、しばらく黙っていました。
「ここだな」
彼女はチェスでも指すかのように地図に大きく丸印を付けました。
その場所には『シュテイン村』と書かれていました。
「次の実験場、なのでしょうか?」
「ああ。風向き、街道、撤退経路……。これ以上の場所は無いな」
その声色には迷いがなく、まるで天気予報を読み上げるかのように淡々としていました。
シルフは、連合軍に対して大々的な援軍を求めるのではなく、少人数で先行して実験場を制圧することを選びました。
彼女らしく効果的かつ迅速な作戦内容でした。
そしてサバト旧政府軍の作戦目的は二つです。
一つはフラメールの民間人を救出すること。
もう一つはオースティン軍に対する局地的勝利を挙げ、連合軍内で自分達の価値を示すこと。
「以上が作戦内容だ。貴様らにはオースティン軍を蹴散らして、民間人を救出するのが大きな仕事だ」
「あくまでも救出が主軸だ。オースを深追いしないで構わん」
現在自分は小隊長格が集まるブリーフィングに参加していました。
「ゴルスキィ。貴様には存分に暴れて、敵の注意を引きつけて貰う」
「承知したシルフよ」
「……それでトウリ。貴様には」
シルフは少し不安そうな顔をしながら自分を見つめていました。
それは親しい間柄でなくては見抜けないほど些細なものでした。
「衛生兵としてエライアと共に民間人の応急処置をして貰いたい。頼めるか?」
「了解しました」
結局のところ自分は、オースティン軍に帰還するかどうかは遂には決められませんでした。
今のオースティン軍に帰ることが少し恐ろしくなってしまったのです。
あまつさえ民間の村落を毒ガスの実験場にしてしまった事が。
しかもそれを主導しているのがヴェルディさんなどの、かつての戦友なのだと認めなくなかったのです。
別にシルフから言われた言葉が関係している訳ではありません。
この日、シュテイン村は地獄だった。
村の入口から黄緑色の煙が湧き上がって、流れ込んでから全てが一変したのだ。
最初は、何が起こっていたのか大多数の村人は理解できていなかった。
「ん?煙だ」
「綺麗な色だな」
この時点では不思議なものでも見たかのような反応だった。
ある村人はその鮮やかな色に感嘆した。
ある村人は山火事でも起こったのかもしれないと考えた。
いずれの村人も危機感というものがまるで無かったと言える。
「ゲホッ、ゲッホ!」
「うおぇ!この煙臭すぎる!」
しかし、その黄緑色の煙は見た目の鮮やかさに反して地獄のような刺激臭を放っており。
吸い込んだ者にとてつもない吐き気を催した。
そこで初めて村人達は異変を感じ取って、そこからたちまち逃げ出した。
だが、非情な事にその煙の速度は速かった。
煙に呑み込まれた村人達は口を押さえて呼吸すること僅か数回、たったそれだけで咳と吐き気が襲いかかって立つことすらままならなかった。
ある男性は地面に倒れてのたうち回り、ある女性は中腰で咳き込み続けた。
その時点でこの村から会話が消え、どこの家からも咳き込む音しか聞こえなくなった。
それでも逃げようとした者たちが居た。
彼らは煙から逃れるように、風下にある村の出口へと移動した。
出口の門にはオースティン軍の兵士が待ち構えていた。
「オェッ、助けてくれ!」
村人達は助けを懇願した。それはただただ死にたくない、生きたいという生存本能だった。
しかしその直後、銃声が響いた。
その村人達の肩に激痛が走り、その場に蹲ってしまった。
撃たれた。そう認識するや否や村人達は自分達を撃ったオースティン兵を見上げた。
そのオースティン兵は不気味なマスクを着用しており、どこまでも不気味であった。
その後も区域内から逃げ出そうとした民間人は、残らずその場で射殺された。
そこには人道という言葉なんて存在せず、村人達はモルモットであった。
既にガスは、村全体を包むように覆っていた。
薄暗く濁った視界の中、村には悲鳴と怨嗟だけが木霊し続けていた。
誰もがここが墓場だと、もう終わりなんだと理解させられた。
──パァン。
村の外から乾いた銃声がした。また村人が射殺されたのだと誰もが思った。
だが。
続いて爆音。さらに、雷鳴のような音が鳴り響いた。
「何だ!」
「敵襲か!?」
村人達が『何が起きている?』と困惑していたが、それはオースティン兵も同じだった。
しかし村全体を覆った黄緑色の煙のせいで、彼らはどこから敵が来たのか分からなかった。
────瞬間。突風が巻き起こった。
それによって煙が裂けて、黄緑色の壁が左右へ押し広げられた。
まるで見えない刃で切り裂かれたように、強烈な風が村中を吹き抜け続けた。
煙の向こうから、風銃を持った銀髪の少女が歩いてきた。
煙が晴れると、そこには日差しが差し込んだ。
その中心に立っていたのは金髪の少女であり、日差しが反射したその姿はまるで。
「我が名はシルフ・ノーヴァ!そして我ら、サバト政府軍!」
「オースティンからフラメールを救うため、義により参戦する!」
救いの女神のようであった。
現在自分はシルフの指示によって、風銃を用いて毒ガスを薙ぎ払ってました。
「黄緑色のガスに注意せよ! 風銃で吹き飛ばし、速やかに離脱しろ!」
毒ガスによって視界が遮られた状況下において、風銃は戦場の形そのものを変えられる武器となります。
そして、その一瞬ごとに開かれた視界をシルフが見る事によって。
「一番、右側へ」
「救助班は北側へ」
彼女は指揮を随時更新し続けていました。
「その女、呼吸がまずい!エライア、優先して治療しろ!」
「はい、シルフ様」
「トウリ、お前はその男の肩を治療しろ!」
「了解です」
自分は風銃をしまって、すぐさまその男性のもとに駆けつけました。
「……■■■?」
「大丈夫です。すぐに治しますから」
その男性の肩の傷は少し深かったですが、銃弾が貫通していたお陰で縫合と【癒】で事足りました。
「風銃で煙を吹き飛ばせ、民間人の保護を優先しろ!」
「倒れている夫婦がいるぞ、救助せよ!」
「偵察兵!ガスに注意しつつ、その発生源を特定しろ!」
シルフが怒涛の命令を下している中、自分はただ無心で目の前で苦しんでいる人を助け続けました。
その村人は自分に泣きながら何かを訴えようと、自分のことを見上げてました。
「■■■■■……っ」
フラメール語は自分にはよく分かりません。何を言ってるのか、さっぱり理解できません。
ですが、一つだけ伝わる事があります。それは。
「……
その目に浮かんだ、溢れんばかりの感謝と安堵でした。
自分は従軍して以来ずっと衛生兵でした。
オースティン軍では、西部戦線から始まって北部決戦まで。
サバトに流れ着いてからはアニータさんの診療所を手伝ったり、ゴルスキィ小隊の衛生兵として。
自分は本当に色々な経験をしてきました。
その中で自分は患者さんから早く治療しろと脅されたり、あまつさえ罵倒された事も珍しくありませんでした。
ですがちょろいもんで、治療後に『ありがとう』と言ってもらえるとそれだけで許しちゃったりします。
逆に亡くなると、そんな人でもかなり心が痛みます。
目の前にいるのは祖国の敵。オースティンに火事場泥棒のように侵攻してきた国の村人です。
ですが、自分はその村人から『ありがとう』と言われただけで。
「……どういたしまして」
もう、敵とは見做せなくなってしまったのです。
「見ろ、オースティン軍は逃げて行った」
「不甲斐ない奴等だ」
自分が民間人を治療している中、既に戦いの決着は付いていました。
オースティン軍は少人数だったようで、敵わないと悟るとすぐ逃げていったそうです。
その後、シルフは民間人の保護と負傷者の搬送を命じていました。
「この方を先に」
「こちらは軽症です。動けますか?」
「目を擦らないでください。流水でしっかりと洗ってください」
自分も患者さんの搬送を手伝って、一通りの作業が終わったら一息つきました。
束の間の平穏がこの村に訪れました。
ふと、自分は地面に落ちている物に目を奪われました。
「……これは」
自分は逃げたオースティン兵が置いていった小銃を拾い上げると。
土に半ば埋もれていたその小銃は、泥と煤に汚れていました。
それでも、その木製銃床の傷も
────OST-3小銃。
かつて、自分が幾度となく手にした銃でした。
自分はほんの一瞬、北部決戦よりも前のことを思い出しかけました。
ザーフクァさんや防衛部隊との訓練。
アルノマさん達と受けたレイリィさんの教育塾。
アリアさんによる訪問と愚痴話。
ロドリー君とアレンさんが来た雪中の行軍訓練。
「……懐かしいですね。もう随分と昔のことのように感じます」
自分が踵を返して、シルフの下に向かおうとしたその瞬間───。
『ガシッ』と何かを乱暴に掴む音が聞こえて、自分は反射的に振り向いてしまいました。
そこには、瓦礫の陰に倒れていたはずの兵士が、ふらつきながら立ち上がっていたのです。
片腕は血まみれで、息も荒いままの状態で。
そして、その腕には────『幼い子供』が抱え込まれていました。
その兵士は子供を自分の胸へ引き寄せ、震える手で小銃をこめかみに押し当てました。
「来るなッ!!」
さっきまで村に満ちていた話し声が嘘のように止みました。
「来るな……来るなぁ!」
その兵士は半ば恐慌状態に陥っていて、会話ができる状態では無さそうでした。
その様子を見ていた全員の動きがピタッと止まり、誰かが息を呑んだ音が聞こえるほどに。
村全体の空気が、一瞬で凍り付いてしまいました。
「……全員、その場で停止」
シルフが低い声でそう、
その兵士に引き寄せられた子供は、必死にもがいていました。
小さな両手で兵士の腕を頑張って押し返そうとしていたのです。
泥に汚れた指先が震え、爪の間には土が入り込んでいました。
押し返す力など、あるはずもありません。それでも、その小さな手は必死でした。
自分の呼吸が、止まりました。
あの日も、あんなふうに。小さな手を────
「……トウリ?」
「ち、近づくんじゃねぇッ!このガキ殺すぞ!!」
シルフやその兵士が何か言った気がしました。
ですが、自分は、目の前で必死にもがき続ける子供の小さな手に目を奪われていました。
小さな手、また奪われる。────今度こそ。
……違います。あの子じゃないです。
分かってるのに。
あの日、届かなかった距離が、目の前にもう一度現れてたと思ってしまったのです。
────パンッ。
気づいた頃には引き金は引かれていて、乾いた銃声が、一度だけ響きました。
その兵士の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちて、腕の中から子供が転がり出ました。
……助かった。そう、判断したはずでした。
自分はゆっくりと倒れた兵士へ視線を向けました。
泥に汚れた軍服や肩章。足元へ転がった木製銃床の小銃。
見覚えがあったのです。あまりにも。
それは、つい先ほどまで懐かしいと感じていた銃でした。
────OST-3小銃。
「……あ」
何かがおかしいです。何が。分からないです。
ただ胸の奥だけが、ひどく冷えていきました。
そんなわけないと何度も何度も、その兵士の袖を見ました。
袖章は見覚えのあるものでした。何度も縫い直したり、何度も洗いました。何度も着ました。
それは間違いなく
「……自分が、撃ったのは」
ふと、肩から伝わる温もりによって、意識が現実に引き戻されました。
気が付けばシルフが近くに来ていて、自分の肩に静かに手を置いていたみたいです。
「……ぐずっ、……っ……」
その子供の泣き声だけが、その場を満たしていました。
いつまでも自分の手は、引き金を引いた形のままでした。
戦闘終了後。自分やシルフ達サバト旧政府軍は村人達から英雄として持て囃されました。
ですがシルフはそんな評価を鼻にもかけず、オースティン軍への局地的勝利として連合軍に報告したそうです。
フラメール司令部はこの報告に度肝を抜かれて、サバト旧政府軍の参戦を許したみたいです。
サバト兵達は村人達と共に祝杯を上げていました。
中にはサバト兵に飲み勝負を挑んだ村人がいましたが、尽く敗北していました。
ヴォック酒を常飲する国民に勝てる筈などありませんのに。
「ここにいたのか。トウリ」
自分がそんな酒の席を木の下から遠巻きに眺めていたら、いつの間にかシルフが帰ってきていました。
「シルフですか。……思ったより帰ってくるの早かったですね」
「まあ、色々あってな。手早く終わらせてきた」
シルフが自分の隣に座り込んで、木に寄りかかっていました。
それからしばらくの間、会話が途切れました。
その沈黙が、少し気まずくなってきたなと思ったタイミングでシルフは自分に向き直りました。
「後悔、しているか?」
「……分かりません」
自分は遠巻きに先程まで泣き続けていた子供が、友達らしき子供と遊んでいる風景を眺めました。
「ただ、自分は……。あの子を死なせたくありませんでした」
その姿は先程の悲痛な表情から考えられない程に、輝いて見えました。
「報告します」
ベルン・ヴァロウは書類仕事を終えて、一休みと言わんばかりに蒲公英茶を嗜んでいた。
「どうぞー」
「……実験は失敗しました」
彼はそんな報告を聞いても怒らず、椅子の背もたれに深く腰掛けた、
「んー、そっか」
「サバト旧政府軍の介入です」
「そう」
彼の部下は少しの間困った表情を浮かべて逡巡をしていた。
「それと……。少し気になることがありました」
「何かあったの?」
「妙な少女兵がおりました」
「妙?」
そこで部下は一息ついて、決心して言い放った。
「……風銃や回復魔法を使っていた衛生兵です」
彼は蒲公英茶の入ったカップを机の上に置いて、部下を見定めた。
部下は続けて。
「こちらの兵士を撃ったのも、その少女です」
テントに暫しの間沈黙が落ちた。
「名前は」
「不明です」
「顔は」
「……あの、
また沈黙。今度はさらに深かった。
そして彼がテントの外の景気を眺めると、春風で木々が揺れている。
「……ふーん」
次回から隔日12時投稿になります。
ここまで読んで下さってありがとうございます。