シルフ視点
サバト政府軍がピュエリ鉱山付近の野営地に到着した頃。
私は先遣偵察班を出して、鉱山の地形を調べさせようと画策していた。
そんな中、私の天幕で相変わらず書類仕事をしているトウリに命令したところ。
「トウリ。お前も同行してくれ」
「承知しました」
トウリはいつも通り、私の命令に何も疑念も抱いている様子はなかった。
不思議そうな表情を浮かべるトウリを流し見ながら私はカップを撫でた。
小首を傾げている様子はさながら小動物とも言えるような無防備さだった。
……表情筋死んでる割には案外感情表現の仕方が豊かだな。
最近分かったことがあるのだが、トウリの感情は意外と分かりやすい。
この少女は基本的に人形のように無表情なのだが、嬉しいと声が少し高くなる。
雑にあしらわれた時には唇を尖らせ、図星を突かれると早口で捲し立てる。
「そんなに見つめてどうしましたか?」
私の目の前にいるのは猛将ではあるが、それ以上に年相応の少女であるという事実。
「いや、大したことではない」
彼女のそのような仕草を見る度に、私はその事実をひしひしと強く認識させられていたのだった。
翌朝。トウリは装備を整え、先遣隊と共に出発しようとしていた。
副官を見送るべきだと考えた私は、なんとなく彼女の隣を歩いていた。
何故だか私はこの状況が気に入らなかった、理由は特にない。
トウリは私のそんな気持ちを知ってか知らずか、いつも通りの淡々とした態度だった。
「シルフ。朝食は済ませましたか?」
「……パンを食べた」
「それだけですか?」
「うっさい。早く行けトウリ」
半ば当てつけのようにトウリの背中を押して、先遣隊の方へ歩かせた。
彼女は少し困ったような顔をして振り返ったが、その後は振り返らずに先遣隊に合流していた。
トウリが偵察に出てから、三時間ほど経っていた。
別に何も問題はなく、私は機械的に仕事を片付けていた。
偵察任務など珍しいものではないし、トウリに任せたのも特別な理由があったからではない。
ピュエリ鉱山へ向かう道中には、まだ把握できていない地形が多い。
ならば、現場を見ることのできる人間に確認させる。それだけの話だ。
私は天幕の中で地図を広げ、鉛筆を走らせた。
「……ここから北へ回るか」
現在地から目的地までの経路を確認する。
問題はない。少なくとも、今のところは。
「失礼します」
通信兵が入ってきた。
「先ほどの報告です」
「そこに置いておけ」
「はい」
通信兵がいなくなったことを確認して書類を受け取り、目を通す。
街道の状態、周辺の集落、兵站、敵影、どれも特に異常はない。
私は一枚目の報告書を机の端へ置いた。
「……」
そして、二枚目に手を伸ばしたが、そこでふと手が止まった。
この道については、トウリに聞けば早い。
昨日、あいつはこの辺りの地形について何か言っていたはずだ。
「トウリ。お前なら──」
私は顔を上げたが、当然そこには誰もいない。
そうだった、トウリは偵察に出ている。
「馬鹿馬鹿しい」
私は再び書類へ目を落として作業に戻った。
トウリが戻るまで待つ必要などないし、私は自分で判断できる。
そもそも、私はそのためにここにいるのだからな。
そう思いながら、私はもう一度地図を眺めた。
────それでも、無意識に時計の針へと視線は動いていた。
仕事を捌く速さが目に見えて落ちてきた頃、ようやく私は昼食を取ることを決めた。
机の上の書類を片隅に退けて、レーションと水筒を余ったスペースに置いた。
「……げっ、パプリカが入ってるじゃないか」
思わず顔を顰めてしまった、私の大っ嫌いなパプリカがあったからだ。
しかしながら今は戦時中、食糧があるだけで有難い事など言われずとも分かってる。
「……パプリカ以外は普通だな」
パプリカを端の方に寄せながら、容器の中を突っついて食べ進めた。
だが、食べる手が止まってしまった。
別にパプリカ以外の料理はまずいわけではない、昨日や一昨日食べたものと然程違いはない。
ただ、なんとなく味気がない。
私は結局、三分の一を残して食事を終えてしまった。
「あいつがいたら『駄目ですよシルフ。好き嫌いしたり、食事を残したりするのはよくありません』とか言ってくるんだろうな」
……いや。
「私は一体何を考えているんだ?」
変な想像を働かせていた自分に呆れつつ、私は書類の束を片付け始めた。
書類を片付けると言っても、ここ最近はトウリがかなり未来の仕事まで片付けてしまっていた。
やるべき事はピュエリ鉱山の地形に関するものくらいだが、それは偵察班の報告待ちだ。
「チェックか」
そんなこんなで私はチェス盤を取り出して、一人でチェスを指し始めていた。
チェスは良い、これをやっている間だけは余計な事を考えなくて済む。
それに最近はトウリのチェスの実力も着実に付き始めている。
あいつに対する対抗心も湧いてきて、やる気も確かにあったはずだった。
「……つまらないな」
しかし今日は何故だか、やる気も何も湧かなかった。
ポーンを進めても、ルークで切り込みをかけても変わらない。
どれだけ駒を動かしても、私の心は動かなかった。
「ああもう、やめだ」
なんとなく気分が乗らなかった私は、遂にはチェス盤を片付けてしまった。
「……以上の理由から先に予定されていた東の大通りを使うよりも北西の迂回路を使用するべきかと」
「そうか」
午後。先遣隊からの定期報告書を持った通信兵が再び私の天幕に現れていた。
受け取った報告書を確認しながら同時に、周辺の地図も確認する。
迂回路は大通りよりも道幅が狭く、伏兵を警戒しないといけない。
だが、今のフラメールやオースティンの戦力的にこんな辺鄙な場所に戦力配置するのは愚策。
「……よし。それでいい」
通信兵が退室した後、またしても私は一人になった。
今の判断は間違ってなかったはずだ、合理的に考えてオースにそこまで余力があるわけがない。
だが。魚の小骨が喉につっかえているような不快感があって、どこか釈然としなかった。
「トウリなら、どう言っただろうな」
そんな事を考えつつも、私の視線は自然と時計に向いていた。
夕刻。日が沈み始めて夕焼けが見えてきてもトウリは帰ってこなかった。
「……遅い」
予定では夕方までには帰還する手筈だったが、トウリが現れる気配はまったくない。
「おい、偵察班から連絡は?」
「まだありません」
「そうか」
少しばかりの苛立ちを感じながら通信兵に尋ねてみたが使えない奴だった。
私は腹に渦巻くその感情を紛らわせるために書類の整理を始めた。
その間に何度も時計に視線を移した。
何度も、何度も。
だが、時計の針は私を焦らすような素振りで針を動かすだけだった。
トウリは現在偵察兵と同行しているため、この程度の遅延は然程珍しくもない。
偵察には想定外がつきものだ。
例えば橋が崩落していたり、川が増水してしたりと、地図にない溝や障害物があることもある。
そういった場合は地形の誤認だけで任務が破綻することもあり、少なくない時間がかかる。
だから別に偵察班に何かが起こった訳ではないだろう。
仮に何かが起こったとしても精々隊員が負傷したり、発病したりが関の山だ。
しかし、その程度ならば衛生兵としての経験があるトウリがいるから問題ない。
トウリは優秀な兵士だ。
彼女がオースティン軍に所属していた頃は何度も私の策略を破ってみせた。
サバト政府軍に所属してからも大概おかしい戦果を挙げている。
初めての任務では私の意図を想像以上に汲み取って、賊アジトをゴルスキィと電撃的に攻略してしまった。
ヨゼグラード攻略戦でも彼女たちが戦場を掻き乱した結果、サバト政府軍は首の皮一枚繋がった。
だから仮に何かあったとしても、彼女自身で対処できる。
「────なら、なぜ私は時計を見ている?」
輸送車の車窓を眺めながら、マグカップの取っ手を丁寧に指先でなぞった。
既に外の景色は暗闇に飲まれてしまっていた。
「トウリがまだ戻らないのは、この暗闇で視界不良で足止めを食らっているからに決まっている」
怒気を孕んだその声は、自分自身を納得させるための呪文のようだった。
だが、そう考えれば、胸の奥で燻る冷たい疼き──帰らない彼女を待ち続けているという事実さえ、ただの『よくある遅れ』に変換できた。
言葉は途切れた。
ポケットの中で、自分の手が無意識に拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んで痛むほど緊張していることに気づいたからだ。
焦っているのか?心配しているのか?私が?
「私は、何を心配している?」
その言葉が外の暗闇に溶けていくように消えていった気がした。
「……副官だからか」
そう結論付けて、それ以降は何も考えないようにした。
「ただいま帰還しました」
私の胸に燻るこの感情を鎮めたのは、天幕の前に立ついつも通りのトウリの声だった。
夜もふけて月明かりが池の水面をキラキラと照らすようになった頃の話だった。
私は手の中の懐中時計から視線を離して、顔を上げるとそこにはトウリが立っていた。
「シルフ?」
気づけば私はどうやらトウリの前に駆け寄っていたようだった。
泥に汚れた軍服や靴、少しばかり湿っている髪の毛先や頬。
一つ一つ、まるで虫眼鏡で覗き込むかのようにトウリの状態を確認した。
出発前と比べたら多少荒れてはいたが、特に異常はなかった。
「……遅かったな。死んだかと思ったぞ」
「申し訳ございません。地形の確認に時間が掛かりまして」
少しばかり一息ついて、安堵した私を見たトウリは少し固まって。
「心配してくださったのですか?」
「してない」
心配などはしていないと心の中で反論していたが、出てきた言葉は。
「……次から報告を早くしてくれ」
「承知しました」
まるで心配しているかのような言葉だった。
泥がついている、と気づいたのは、報告書を読み終えたあとだった。
トウリはいつものように、何事もなかったかのような顔で椅子に座っていた。
任務から戻ったばかりだというのに、報告の内容は簡潔で、態度にも乱れがない。
頬に薄い擦り傷があることを除けば、普段と大差ない。
ただ、後頭部の髪に乾いた泥がこびりついていた。
「トウリ。少しじっとしてろ」
「はい?」
「髪に泥がついている」
私は机の引き出しから櫛を取り出した。
自分で取らせてもよかったが、どうせ本人は適当に払って終わらせるだろう。
そうなれば泥が残る。残った泥は髪に絡まり、後から落とすのに余計な手間がかかる。
つまり、今ここで処理してしまうのが最も合理的だった。
そこまで考えてから、私は自分がわざわざ櫛を取り出したことに気づいた。
……別に、構わないだろう。時間の無駄にはならない。
「少し、頭をこっちに」
トウリが素直に顔を伏せたから、私はその髪に手を伸ばした。
指先が髪に触れた瞬間、トウリの肩が跳ねた。
ほんの一瞬だった。反射的に身体が強張り、呼吸が止まる。
彼女自身も自分の反応に驚いたのか、すぐに姿勢を正そうとして、しかし途中で動きを止めた。
つい私の手も止まってしまった、敵の気配を察知したときの反応に似ていたからだ。
もっとも、今のトウリは武器を持っていないし、ここは戦場でもない。背後にいるのは自分だけだ。
「……痛かったか?」
「いえ。何も」
返答はいつもどおりだった。いつもどおりすぎて、かえって不自然なくらいに。
私はトウリの髪から手を離さなかった。代わりに、先ほどよりもゆっくりと指を動かした。
「なら、動くな。余計に絡まる」
「承知しました」
トウリはそれ以上、何も言わなかった。
私は櫛を髪の先に当て、絡まった部分を少しずつ解いていく。
泥のこびりついた箇所は無理に引かず、指先で固まりを崩してから、慎重に櫛を通した。
不思議なほど、トウリは静かだった。
戦場ではあれほど周囲に気を配り、わずかな物音にも反応するくせに、今は背後にいる自分の動きに何も言わない。
いや、正確には、最初の一度を除いて、反応しなくなったのだ。
私は視線を上げ、鏡越しにトウリの顔を見てみると、目が少し細くなっていた。
眠いのだろうか。任務帰りなのだから疲れていてもおかしくはない。
そもそも、頭を動かさずにいるためには目を閉じていた方が都合がいい。そういうことなのだろう。
……おそらく。
櫛を通すたび、トウリの肩からわずかに力が抜けていく。
最初は背筋を伸ばしていたのに、いつの間にか、椅子の背もたれに身体を預けていた。
そんな様子に私は髪を梳く手を少しだけ緩めた、別に、急ぐ必要はない。
「……ずいぶんと大人しいな」
口にしてから、わざわざ尋ねる必要もなかったと思った。
トウリが普段から大人しいのは今に始まったことではない。
「そうでしょうか」
「ああ。お前なら、自分でやると言い出すと思っていた」
「最初は、そうしようと思っていました」
「じゃあ、何でだ?」
トウリは少し考えるように黙って、少し目を伏せると。
「……お任せした方が、早く終わりそうでしたので」
「合理的な判断だな」
「シルフほどではありません」
いつもの調子で返してくる。けれど、声の響きがわずかに柔らかい。
その理由を考えかけて、やめた。
櫛の歯が、髪の根元近くを通る。トウリのまぶたが、ゆっくりと下りた。
完全に閉じたわけではない。何かあればすぐに開くだろう。
それでも、先ほどまでの警戒を思えば、随分な変化だった。
人に頭を触られて、こういう顔をするものなのだろうか。
私にはわからなかった。少なくとも、自分は誰かに髪を梳かしてもらった経験などない。
必要がなかったし、必要だと思ったこともない。
だから、これは単にTが疲れているだけなのかもしれないと結論づけて、再び櫛を動かした。
「トウリ。寝るな、まだ終わっていない」
「……寝ていません」
「目を閉じているでしょう」
「少し、気持ちがよかっただけです」
その言葉を聞いて手が止まった。
トウリは目を開けて、鏡越しにこちらを見た。
言ってしまってから、自分でも少し意外だったらしい。
いつもの無表情に戻ろうとしているが、間に合っていない。
私は、何も言わなかった。いや、言えなかった。
気持ちがよかった、たったそれだけの言葉が妙に扱いづらかった。
「……髪を梳かすのは、絡まりを解くためだ。気持ちよさを提供するためではない」
「承知しています」
「なら、妙なことを言わないでくれ」
「申し訳ありません」
謝る必要はない、と言いかけて、私は口を閉じた。
代わりに、櫛を髪に戻す。
先ほどと同じように、引っかからないように、痛くないように、ゆっくりと。
トウリはもう身を固くしなかった。
目を細めたまま、静かに座っている。
その様子を見ていると、私はなぜだか、ここで手を止めるのが惜しいような気がした。
もちろん、まだ泥が完全に落ちていないのだ。そうでなければ、こんなに時間をかける理由はない。
私は櫛を持ち直し、念入りに髪を梳いたが、泥はもうほとんど残っていなかった。
長らく更新できず申し訳ございません。
プライベートが忙しくて執筆する時間を確保できませんでした。
それでもここまで読んでくださってありがとうございます。